大人の時間
仕事終わりの一杯は旨い。これがわかるようになったのはいつ頃からだろうか。初めてビールを飲んだときなんて、苦くて一杯飲みきるのが苦痛だった。
それが今はこうして脂ぎった中華をつまみながら、泡ごと飲み干すのが金曜日の恒例になっている。アラサーの独身女らしく、色気の無い習慣だ。
この店に通いつめるのもこれで一年程になる。元々常連だった場所が潰れたか移転したかで、繁華街を練り歩いて見つけた店だ。メニューが多様で飽きずに食事ができる。しかも外れはない。
すっかり見慣れた店であるのは良いのだが、ひとつ気になることがある。店員さんの入れ替わりが少しばかり激しい。2、3ヵ月でやめてしまうから新人さんが仕事を覚えるまでの覚束なさを毎度我慢しなくてはいけない。
そしてどうやら、前までいた大学生風の男の子は先週あたりに辞めてしまったようで、またもや新人さんを迎えることとなった。
自分は悠々と食事をとりながら全く気にしてない風を装いつつ、新しく来た女の子を眺める。
見る限りずいぶんと若い。目の前の仕事を覚えることに一生懸命になっている様子が見受けられる。そんな姿に私は勝手に新鮮さを感じていた。
ただ彼女を見て最初に浮かぶ感想はこっちかもしれない。
(めっちゃ綺麗……)
整った顔の造形と、背を伸ばして立ったときに映える肢体のライン。仕事のために髪を縛っているが、それで見えるうなじにも目が止まってしまう。一目見て敗けを認めたくなる。そういう雰囲気をまとっていた。
目につく動きのぎこちなさも、この顔でやられるとむしろ初々しさというチャームポイントとして映るのだから、美人は得だ。
新人さんがあっちへいったりこっちへいったりしているのを、ぼんやりと眺めて頭のなかを空っぽにしていると、ジョッキも空っぽになっていることに気づく。もう一杯頼もうとして、手を挙げると新人さんがこちらに振り向いた。何を焦ったのか他のテーブルに置くはずの水を持ったままメニューを取りに来る。
おいおい、と店員のちょっとしたミスに苦笑する。テーブル近くまで来た彼女を迎えると、自分が持っているボトルの存在に気づいたらしく急ブレーキをかけようとした。ふらり、と体幹が揺れる。
「ひゃっ」
「うおっ」
次の瞬間には私のスーツはびしょびしょになって、さっきまでガン見してたうなじがまた視界に入ってきた。
(こけやがった……)
「す、すみません!」
明らかにテンパりながらスーツを拭こうとする。
「ちょっとそれ、雑巾!」
「う、うわ。すみません!」
自分のカバンからハンドタオルを出して水滴を拭う。明日から休みで良かった。
「すみません! すみません!」
さっきからかわいそうなくらい謝り倒しているが、私に構ってる暇があるのだろうか。その予想を裏切らず、反対側の席の客から怒声が飛ぶ。
「おい! 姉ちゃん、注文!」
「は、はい! すみません!」
そうしてまた一心不乱にかけていく。まーだテンパってるね……。
取り合えず、気にならない程度に綺麗にして、後で乾かすことにした。
こんなことがあっても麻婆豆腐は美味しかったです。
帰り際、レジからさっきの娘が声をかけてくる。
「先程はすみませんでした!」
「ああ、まあ構わないけど」
「いえ、本当に申し訳ないと……」
あまりに熱心に謝るものだから少しいたずら心がうずく。一目見た時から胸のなかでちりついた欲望に従ってみることにした。
「じゃあ一個お願いを聞いてよ」
「はい、何でもします」
少し食い気味に即答する。しかし何でもとか言っちゃう辺り腋が甘い。美人なんだからもっと堂々としてれば良いのに。
「私の絵のモデルになってよ」
「へ?」
「絵のモデル。来週の日曜、空いてる?」
「うぃー。金倉、昼飯食いに行こうぜ」
いつも通りの業務をそこそこにこなして昼休みに入る。そしてこの馴れ馴れしい男、鎌田に絡まれるところまでがテンプレートだ。
「もう。お祖父ちゃんたら。先週食べたでしょ」
「毎日食わせろ……。じゃなくて、いいだろ別に。またうまいところ見つけたからさ」
私の行きつけの店には、半分ちょっとこいつに教えられたものがある。飯を食うことに関しては趣味が合うし、ありがたい気持ちはあるのだが。
「まあ……行くか」
「おう。行こう行こう」
ビルの乱立する中央通りから少し外れたところに、建物の地下に店舗を構えるパスタの店があった。薄暗さのもたらす落ち着いた雰囲気が私の好みに合っていた。まあ、店が静かなのはいいとして。
「だからさー。あんな過去をもつキャラがそんなこと言うと思う? あり得ないっしょ?」
「ああ、そうね」
因みに今の私の聴覚は遮断されていて、味覚が非常に鋭敏になっている。このミートソーススパゲッテイまじうめぇ。酸味のあるソースと滑らかなパスタがよく絡んでいる。
「あのシーンはさぁ、この二人の関係性が一番よく描かれてる場面な訳。だからこそあんな友達の延長線みたいな台詞が出るわけ無いのよ。聞いてる?」
「キイテルキイテル」
セットで付いてるスープも旨いな。この香りはなんだろう? バジルじゃないな。普通にセロリ? 詳しくないから分からない。
先ほど言った通り鎌田との食事に関しての趣味は合う。値段には拘らない。油もニンニクも何でもござれ。店はできる限り人が少ない方が良し。
しかし実のところこいつの目的は、オタク趣味を話しても良さそうな人に対して、日頃の鬱憤を吐き出すことである。だから食事中に喋る喋る。おかげでこっちにストレスがたまる。慣れたけど。
ただ、長身でラグビーでもやってるのかというほどがっしりした体つきでアニメキャラの何処が可憐だの、繊細な心理描写だの言われるとかなりシュールだ。
「そういや、お前、休日中に彼氏でもできたのか?」
「は?」
唐突な話題転換に脊髄で反応する。
「突然なによ。そんなもの急にできるわけないじゃない」
直近の週末にあったことと言えば、彼の美人さん、紗季ちゃんとお知り合いになった出来事だろう。あのとき、さっと電話番号を渡し、そこからLINEで繋がった。今日までの間に二言三言会話もしている。
その結果、私がだまくらかした純朴な少女は都市圏の高校に通う一般人だとわかった。読者モデルとか言われても驚きがないくらいの見た目だったから、事務所を通せとか言われないか戦々恐々としてたので、その点はホッとしている。
そんな幾日かを過ごして、ちょっとワクワクしていたのは事実だ。
「なんかちょっと様子が違うから、なんかあるのかと思ってさ」
「あっそう」
しかし面に出すほど浮き足立っていただろうか。確かに女子高生をナンパしたというのは非日常的な出来事だ。しかし平時なら、一度平日に戻れば自分の脳みそはいつも通りスイッチされていた。もしかしたら、思っているよりあの娘との出会いは大きいのかもしれない。その変化を悟られるのがこの男というのが腹立つけど。
「別に何もないわよ」
「そうかねえ。いつもお前はもっと余裕の無さそうな表情してるよ」
含みをいれた視線を向けられ、苛立ちを感じながら食事を続ける。しかし、省みてみれば確かに赤の他人に話しかけて、モデルになってもらうなんてしたことはない。案外鎌田の言う通り、今の私は、なにか他のものに目を向ける余裕ができているのかもしれない。
そろそろ太陽が頂点に上ろうかという頃。私は他人が家に来るという事態に、多少落ち着かない気分になっていた。ただでさえ鎌田に浮わついていると指摘されたので、年甲斐もなくこんなことで心を乱されたくはないのだが。こういうとき、大学生活を実家暮らしで送っていたことが悔やまれる。一人暮らしの人はきっと、ジューシーポーリーイェーとかなんとかでこういうのに馴れているんだろう。偏見か。
せこせこと細かいところを掃除していると、インターホンが鳴った。
「はいはーい」
おそらく聞こえていないと思うが返事をする。小走りで玄関に向かい、ドアを開ける。
「こんにちは」
「こんちは。どうぞ、入って」
可愛らしいポニーテールを揺らして挨拶するのは件の少女、紗季である。私服は色合いが明るいものの落ち着いた印象だ。こう言ってはなんだが、大人受けの良さそうな健康的なファッションだ。
部屋に入ってくる姿から、緊張気味なのがよく伝わってくる。それを見て私はなんだか救われた気持ちになった。ここは私がリードしなければならないところだとわかり、自分のプレッシャーを感じるべき所が間違っていたことに気づいた。
「適当にその辺に座ってよ」
独り暮らしの常として部屋は汚い。それが平常運転であり、誰も来ないのにわざわざ掃除する気も起きないのだ。
しかし今回はさすがに女子高生を呼ぶということで多少気合いをいれてしまった感がある。特にいつもベッドがわりに使ってるソファーは目茶苦茶綺麗にした。だらしないと思われたくないという見栄が出てしまった。こういう自意識過剰さが結婚できない理由なのかね……? 理由あって独身。
「生き物とか飼ってないんですね」
キョロキョロと部屋を見回しながら紗季が言う。
「どういう意味? 飼ってそうに見えた?」
「いえ、あの……」
聞き返すと紗季はモゴモゴと言葉にならない声を発する。
「あー、アラサー独身女の家と言ったら猫飼ってるみたいな? そういうイメージあるからね」
図星だったのか、苦笑いして私から目を背ける。そういう反応が一番傷つくんだっつーの……。
ため息が出そうになるのをこらえる。
実は今日早く来てもらったのはせめてもの償いとして、料理をふるまうためだった。ある程度の下ごしらえはしてある。というわけでその仕上げに取り掛かることにした。
「これでどうよ」
そんな大したものは作れないとはいえ、こうして客人がいると気合いが入る。結果出来上がったのはカルボナーラだ。凝った作り方はしていないから、店のものには遠く及ばないだろうが。
「うわ、美味しい……」
「お。そう?」
紗季が本気のトーンで感動を漏らすので、ちょっと舞い上がった。
「手作りの料理なんて滅多に食べる機会がなかったから、新鮮です」
私も自分の料理を誰かに食べてもらう機会なんてほとんどない。それもこんなに素直に喜んでもらえるなんて、なおさら何物にも換えがたいものだが……。この娘にそういう機微がわかるのは何年も後のことだろう。
紗季の学校の話を聞くなどして腹ごなしをしていると、だんだんと何かを気にしているように紗季がソワソワとし始めた。
私は首をかしげてそれを眺めていると、おずおずと口を開いた。
「そろそろ……絵、描くんですよね」
「お? まあその気になってからでいいけど……」
「いえ、そのために来たわけですし」
そう言って上着を脱ぎ始める。私がクエスチョンマークを浮かべている間に次々と剥けていって下着に手が掛かった所で私の意識が反応する。
「ちょ、ちょっと待って! 何してるの!?」
必死の制止に目をまるくする紗季。
「あれ。ヌードモデルじゃないんですか」
「ち、ちが……。そんなこと一言も言って無いでしょ。ほら、服着て」
なかば無理矢理フローリングに落ちたセーターを着直す。
「普通に座ってくれるだけでいいから」
紗季の頭をポンと撫でて、落ち着かせる。サラサラの髪が手のひらに触れた。
「よ、よかったあ」
紗季がカーペットにへたりこんだ。突然のことに少し驚く。
「私、なんか変なことされるかもって、ずっと不安だったんです。自分が悪いからしょうがないって思ってたけど……」
それであんなに緊張していたのか、とやや納得する。確かに部屋に行ってみたら怖いお兄さんがいっぱいだった、という可能性もあるわけだし。
「一応安心して。私、めちゃくちゃ善良な市民だから。運転免許証もゴールド免許だし」
車を持ってないから当たり前だけど。結構、試験とか面倒くさいし取らなきゃよかった。
「……それって人格と関係あるんですか?」
「いいや、ないよ」
紗季はぎこちなくではあるものの笑ってくれた。変なわだかまりが早いうちに無くなってくれたなら良かった。
「じゃあこの椅子に座って」
そう言って用意したのは無愛想なパイプ椅子だ。人を呼んでモデルにするのなんて初めてだし、気の利いたゴシック風のチェアなんてものはない。
でもこんなにいい素材で描かせてもらえるのは初めてだ。せめてもの償いとして、次回からは座り心地の良いものを買ってこようかしら。
「は、はい」
ずいぶんと動きが固くなっている。きっと絵のモデルという仕事に責任感でも感じているんだろう。本当に律儀な娘だ。私がたった一回の粗相に付け込んでいるだけなのに。
「そんなに緊張しなくていいよ。金を渡すわけでもないんだから」
「は、はい」
緊張するなという言葉が、紗季をさらに緊張させてしまったようだ。これ以上何か言うことはやめておこう。取り合えず用意したキャンパスに線を描き始めた。途端に鉛筆がデッサンする音だけが部屋に響くようになる。
「……なんか喋ってよ。寂しいし」
「え、そうなんですか?」
作業中に誰かが会話してくれるだけでそれが捗る。そういうことってあると思います。まあ、物によっては全く進まなくなるけども。
「じ、じゃあ真理子さんってどんな仕事をなさってるんですか」
「えー、普通の仕事よ。一般的なサラリーマン。営業じゃないけどね」
詳しいことはこの娘に言ったところで伝わらないだろう。
「ごく平均的な職場だと思うよ」
「そうですか……てっきり展覧会で日銭を稼ぐ流浪の絵描きさんだと……」
ずいぶんとかわいらしい妄想だなあ。一体道行くお姉さんに何を期待してるんだか。
そんな会話を繰り返しつつ作業を進めると、あっという間に時間がすぎた。そうして今日の集まりを終えた。紗季を見送った後、自分の絵を眺める。もしかしたら、結構いいものができるかも、なんて。
またほかの日。いつもより早く紗季がやってきたことで料理の準備を前倒しすることにした。お話しするのが楽しみで、なんて直球の言葉を投げかけられると男子中学生のようにしどろもどろになってしまう。
「はい。BLTサンドとゆかいな仲間たち」
先ほどの理由からいつもより簡素なものになってしまったが、味には自信がある。ただ、女子高生ってどれぐらい食べるっけ、という疑問に対していまだ手探りの状態なので、足りるかどうかが心配だ。もう自分が女子高生だったころのことなど遠い昔である。
「おいしそうですね。いただきます」
行儀よく食べ始めるのをソファから眺めていると、だんだん紗季が不思議そうな表情になっていく。
「どうかした?」
「いえ……。BLTサンドの具材ってこれで合ってましたっけ?」
唐突な質問に私も一瞬、自信がなくなる。
「え? ベーコン、レタス、トマトでしょ」
「あれ、ベーコン、レタス、たまごじゃありませんでしたっけ?」
紗季の回答に私は絶句して、しばらく無音になる。静寂を私の声でおそるおそる断ち切った。
「……。なんでたまごだけ日本語なの?」
「……あ」
紗季は恥ずかしそうにうつむき、
「すみません。忘れてください……」
とだけ言った。
初めて紗季とあってから一か月強ほどたったころ。昼下がりの芸術の時間を楽しんでいると、絵の具の中身が一色なくなっていることに気づいた。
「あー……」
「どうかしましたか?」
紗季にその旨を説明すると、少し興奮したように言った。
「じゃあ一緒にお買い物しましょう!」
謎のテンションの高さに困惑しながら、おう、とだけ言った。
車を持っていないので移動は必然、電車になる。いくつかの線路が交わる結節点に目的のモールはある。品ぞろえの良い画材屋がその中に入っている。
日曜だから当然だろうが、駅前とモールをつなぐ道は人であふれかえっている。私たちはその波に流されるようにしているだけだ。やがて気の早いことにクリスマスの話を持ち出している空間にたどり着いた。
画材屋はモールの中でも上の階に位置しているので、エスカレーターをひたすら上る。だんだん人気がなくなってゆくことに不思議な爽快感を感じた。
「そんな面白いものはないと思うけど、色々眺めていったら?」
さっさと自分に必要なものを購入してしまおうと考えて、そう言い残す。しかし歩き出すとさながらRPGのように後から紗季がついてくる。
「別に一緒に回っても良いことないよ」
「いえ、真理子さんがどんなものを買うのか気になって」
そんなものだろうか。そういえば、私も美術部時代に絵が上手な先輩の画材巡りに、後ろからついて行ったことがあった。あれは絵を上手くなりたいという野心が故だったけれど、紗季は何のためなのだろう。そんなことを考えると、急に自分が老けた気がした。
私が足りなくなった水彩絵の具をかごに入れていると、紗季はまるで田舎から上京したての生娘のような仕草であたりを見回している。なんだかほほえましい気分になりながら買おう買おうと思って忘れていたものを集めていった。
「ありがとうございましたー」
接客が丁寧な店員に見送られながら画材屋を出る。近所のモールに来ただけあって、日はまだ高い。
「どうしよう。なんか食べる?」
「いや、時間が中途半端ですし……。せっかくなので一緒に来てほしいところがあるんですけど」
「お?」
積極的になにかを提案してくるのは初めてだったろうか。紗季は照れたように目をそらす。私はその様子を見てうずくような、ソワソワとした気分になる。
紗季の後ろにくっつくようにして歩きながら、私はなんだか新鮮な気持ちになっていた。
「ここです」
そう言って連れてこられたのはコスメコーナーだった。
いつも薄化粧で凝ったこともしていない私にはあまり興味の持てない場所だ。安くて自分の肌に合うものを発作的に探したりはするけれど、基本ドラッグストアのものを購入する。
「すみません。試験期間中、我慢してたのでどうしても寄りたくて……」
妙にショッピングに前向きだったのはこういうことだったのか、と納得する。
紗季の言葉から類推するに、きっと紗季はこういった店を回るのが習慣になっているんだろう。なんだかギャップを感じる。偏見かもしれないが、やはり化粧というと綺羅びやかな印象を持つ。それと紗季の真面目な人間性はミスマッチな気もする。
しかし、実際に紗季が化粧品を見て回ってるのを眺めていると、なるほどかなり馴染んでいる。本人が全く気負ってないのがわかる。本当にこういった店を回ることが好きなんだろうと思う。どうやら、香水を重点的にみているようで私はそれに付いて回っている状態だ。先ほどの画材屋での時間とは立場が逆になっている。
「コロンって、どんなのが最近流行ってるの?」
私が声をかけると、紗季は突然目を輝かせてこちらに身を乗り出す。
「最近は匂いがきつくないことを前提にして、甘い香りが人気を呼んでいます! 例えばこれ。イチゴの匂いをもとにしているので、ともすれば個性的になりすぎるところを、酸っぱさを弱めてかなり万人受けするようにしています。他には柑橘系でいうと……あ」
私が困った顔で苦笑いしているのに気づいたようで紗季の頬が真っ赤に染まる。
「すみません……。少し盛り上がってしまって」
「いやいや、さっきの紗季ちゃん可愛かったよ」
「可愛いってどういう意味ですか……?」
複雑そうな表情の紗季を微笑ましく思う。
なんだか、私の知り合いはこんな人ばかりだ。好きなことの話になると饒舌になって周りが見えなくなる。
ただ、こういうことには私も心当たりがないでもなかった。中高の美術部ではアニメっぽい絵ばかりをかいていた私だが、好きな作品のこととなると自制が利かなくなった。喧嘩をすることも一度や二度じゃなかった記憶がある。やはり類は友を呼ぶ、といったところなのだろう。
しかし今となってはサブカルとの関わりが薄れていき、描くのはもっぱら風景画ばかりになった。
「まあ、今度いろいろ探してみようかな」
「ぜひぜひ! 良ければ私も手伝いますよ」
協力を申し出る紗季と目を会わせて、えへへと笑いあった。
化粧品店を後にして、飲み物を買ったところで一度立ち止まる。
「そろそろいい時間だし、帰る?」
「そうですね、そろそろ……」
スマートフォンを取り出して時間を確認する。
「じゃあまた来週。作業も進んできたから、再来週ぐらいには終わると思うよ」
手を振って、駅に向かう紗季を見送る。雑踏の中でただ真っすぐ進んでいるだけのポニーテールの女の子を、簡単に見失った。
自分で言って、ああそうか、と思う。この娘と過ごす時間も、そんなに残っていないということか。別れというほど大げさなものではない。こういう虚しさには慣れたはずなのに、いまだに心が揺れてしまう。いちいち気にしていたら心が擦り切れてしまうのに。
しかし私は人生には予想外の出来事があると、あらためて気づかされることになる。
冬に雨が降るのは、夏の雨とは全く異なる憂鬱さがあるように思う。気力をそぐようなじとじととした雨と違って、肌を凍り付かせて孤独であることを嫌というほど知らせてくる。休日出勤を終えて、そんな空模様から逃げるように家に帰り着いた日のことだった。
温かいお茶をお腹にいれて人心地ついていたら、突然インターホンが鳴った。アマゾンに何か注文したっけな、なんて考えながら扉を開けた。
そこには紗季が濡れねずみになって立っていた。
「……どうしたの?」
驚きのあまり言葉がでない。どこか雰囲気の違う紗季を前にして頭が真っ白になってしまう。
「取り合えず……部屋に入ろうか。寒いし」
脳内で疑問がぐるぐるしながら、ようやく言えたのはその程度のことだった。
それから浴室でシャワーを浴びさせて、自分の部屋着を貸した。紗季は私より少し小さいぐらいなので、ぶかぶかとはいえなんとか着られるぐらいだった。
ついでだと思って、自分もさっと温水を潜ってリビングに戻ってくる。既に紗季はテーブルに覆い被さるように眠ってしまっていた。話を聞いてから風呂に入った方が良かったかな、とも思ったが一日おいた方が彼女も落ち着くだろう。どちらにしろ今から家に帰らせるのは危ないし。
ベッドに運んであげて、自分は床に雑魚寝することにした。カーペットの上にタオルを枕にしてブランケットを被る。暗くした部屋で天井を見つめながら紗季のことに思いを馳せる。
家出少女か……。電話くらいくれればいいのに。それをする余裕すらなかったと言うことだろうか。親と喧嘩したというなら私にも覚えがある。出ていくのは親の方だったが。
どれもこれも、考えたところで私には分からないことだ。
翌日になって、体の痛みに咽びながら起き上がり、朝飯をぱぱっと作る。その途中でベッドの方を見に行くとぐっすりと眠っていた。なぜかその寝顔を見てホッとして、自分自身にも落ち着きが戻ってくるのを感じた。
しばらく経つと、紗季が目を覚ました。一緒にゆったりとした朝食の時間を過ごす。暫くは静謐な時間が続いた。私としては、なぜここに来たのかなんてことは紗季が話したくなったら話せばいい、と思っていた。
「親は、私に教師になってほしいんです」
紗季はポツリポツリと喋り始めた。内容についての正直な感想としては、ありふれた話だ。しかし、それ故に解決は難しい。
両親ともに教師で、いまだに現場で働き続けているという。職場恋愛の末に結婚したらしく、お互い教師という職業に持つ高い誇りが一致したらしい。
そして子供にもそれを求めていた。それを表だって言葉にしなかっただけのことだ。
しかし言葉にしないで放置している間に子供は勝手に自立し、自分の力で夢を見つける。そしてそれと親の夢は見事にぶつかった。
よくある話だ。だが本当の意味でどちらも譲らなければ、紗季が出ていって学費も生活費も全部稼ぐことになる。私には、紗季がその可能性まで見据えた上で迷ってるように見えた。
「夢ってなんなの?」
私の問いに、紗季は静かに目を伏せて照れたように口を開いた。
「コロンデザイナー……です。専門学校に行って勉強したいって思ってたんですけど……」
なるほど。そんな職業があることは初耳ではあるが香水というのはあれだけ並んでいるのだ。専門で製作している人がいるのは自然である。
「教育学部の方はどうなの? 入れそうなの?」
「はい。内申が悪くないので推薦なら問題なく」
両親も娘に過度の期待をかけているわけではないということか。紗季のまじめさが功を奏しているのだろう。
「どうしたらいいんでしょうか。まさか突然こんなことを言われるなんて思ってなくて……」
心底参ってしまっている紗季を見て、あまり思い出したくない記憶が頭をよぎった。
――芸大? あなた一度でも賞とかとったことあるのかしら――
――十分な学力があるのに、なぜそれを棒に振るようなことを言うんだ――
「ご両親の言うとおりにしてみても良いんじゃない? 教師って安定してるし。それに紗季ちゃんなら、いい先生になれると思うよ」
私はすでに知っている。下手に運や実力が強く絡む職業を選ぶより、しっかりと整備された進路を行く方が賢い選択であることを。そして、選択の責任は分散させた方がより楽に生きていけるということを。
「ありがとうございます。考えてみようかな」
しかし、笑顔で言う紗季の表情が私の大学合格の時と良く似ていたのが非常に印象に残った。
「はぁ……」
「……」
仕事場には忙しない空気が流れている。月末なんだから当然だろう。書類整理に追われてあちこち走り回る人が散見される。師走が近いのだからそれもむべなるかな。
しかしそんな一角をおいて、やけに呆けた顔をした人間がいた。まあ、私だけども。ギリギリ与えられた仕事はこなしているから許してくれぃ。
「はぁ……」
「おい、うるさいぞお前」
声の方をばっと振り返ると、そこには鎌田が立っていた。
「驚かせないでよ……」
「知るか。黙って仕事できないのか」
とがめるような口調だがこれで私を気遣っているらしい。
「あー、ごめんごめん。大丈夫だから……」
思えば、『大丈夫』という言葉も口癖のようになってしまったなぁ。現実逃避のような物思いから引き戻すように鎌田の声が私に投げられた。
「もう休憩時間だ。話だけでも聞いてやる」
オフィスビルの最上階、屋上は常時解放されている。いつもはタバコ休憩のおっさんで一杯だと聞くが、何故か今日は誰もいなかった。
「で、何があったんだよ」
他人のプライベートな事を語るのは気が進まない。内容は話したくないという意思を静かに首を振ることで伝える。鎌田には通じたようでなにか言いたげな表情を引っ込めた。
「あんた、若い頃の夢ってなんだった?」
「ん?そりゃ、お前。アニメクリエイターだよ」
「は?その図体で?ぶふっ」
私が噴き出すと、鬱陶しそうに右手を払う。
「ああ、もう……。その下りはごまんとやったわ」
「ごめんごめん。あまりに意外で」
涙目を拭いながら言うと、明後日の方を向きながら鎌田がため息を漏らした。
「中学の頃からそういう仕事に就きたいと思ってたんだ。だから中高の美術部で絵を描きまくったり、部誌の編集やスケジュール調整をしたり」
つまり、高校時代は私とかなり近い状態だったのだろう。上手くなりたい、それだけを考えて絵を描き続けたあの頃と。
「親父も母親もバカだからよ。アニメなんてなにかも知らないのに俺のこと応援してくれて」
それを聞いて心がズキリと痛む。私はそれを聞く自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
「でも、結局夢を裏切ったのは俺だったよ。現実は薄給で本当に好きでないとやっていけないっていう言葉に怖じ気付いて普通に大学に行かせてもらった。親は了承してくれたよ。『あんたの絵、よくわからないけど嫌いじゃなかったよ』とだけ言ってくれたかな。よくわからないなら好きか嫌いかなんて判断できねえだろって」
そう呟くように言う鎌田の瞳は見えない。その言葉に一体、どれ程救われたのだろうか。
「今、こうやってなにも引っ掛かりなくアニメを楽しめてるのは、親父たちが認めてくれたからかもしれねえな」
私は先に道を歩んできた大人として知っているはずだった。自分の選択を後悔しないことほど、難しく、そして大事なことはないと。
だからその言葉を聞いたとたん、スイッチが切り替わってしまったかのように強烈にある衝動に襲われた。
「ごめん。調子悪いから早退するって伝えて」
「え?」
そう言って私は、このビルの最上階から何かを追うように階段を駆け降りた。
目的地は決まっている。その場所を調べながら、自分の乗る電車の遅さにやきもきする。
「紗季ちゃん!」
まるでストーカーのように校門に張り付いて。見つけたとたんに声を張り上げた。紗季の高校は大きくて、傾き駆けた太陽の光を全身に受けていた。
「見せたいものがあるの。来て」
紗季の手を取って真っ直ぐ瞳を見つめる。私の言葉から何かを感じてくれたのか、それとも私の真剣さに押されたのか、紗季は頷いた。
祈るような気持ちで紗季の手を握ったまま、これができるのは今しかないとバカみたいに信じていた。私のアパートにたどり着くまでずっと離さなかった。
自室に入って、取るものも取り合えず、端に寄せてあったキャンパスを引っ張り出す。汚い部屋で埃の被った白い布をひっぺがした。
そこには紗季がいた。少しデフォルメがありながらも、夕日をバックに背筋を真っ直ぐに伸ばして椅子に座り、こちらではないどこかを見つめるその姿は紗季だった。
「一目見た時に私と似てるって思った」
私は語り出す。その声は指向性を持たずに部屋に充満するように響いた。
「全力で夢を追ってて、他になにも見てない感じがそっくりだった」
ただ、紗季はそこにいて、私の言葉を聞いているはずだった。
「だから言うね」
もう一度、紗季を真っ直ぐに見据えて。私も夕日をバックにして。
「それでいいよ」
彼女の息遣いが聞こえるほど静かに。
「それでいいんだよ」
もしかしてあの時こんなふうに、子供であることを祝福してくれる人がいたら。そんな口惜しさはちっぽけなことで。
今は自分のこの気持ちが伝わることだけを願っている。
紗季は私を見つめていた。そして、なにを気負うでも意識するでもなくただこぼした。
「ありがとう」
「なんて、言ってましたよね。真理子さん。懐かしいなあ」
「やめて……。思い出すとゴロゴロ転がりたくなる記憶を掘り返すのやめて……」
あの時より少し広くなった部屋で紗季は目の前のテーブルに並んだ料理を眺める。
あの後、紗季は教育学部に進学し、無事教鞭をとることができるようになった。
しかし、なにも変わらなかったかと言うとそんなことはない。私は少しだけ鎌田の話に耳を傾けるようになったし、二人だけの食事会が三人になった。最近ではこうして男をのけて女子会じみた何かを開催することも増えてきた。こんな風に一緒の時間が過ごせるのも、あのまるで青春かと見紛うほどの唯一の時間があったからかもしれない、とそんな風に思うのだ。
「相変わらず、お料理上手ですよね。真理子さんは」
「相変わらず、部屋は汚いけどね」
一緒に笑いあってから紗季はグラスをもちあげて私に目配せする。その合図を見て、私も紗季と同じ所作をする。
「じゃあ、少しだけ童心に帰る時間を祝って」
乾杯。