ひどいひとのお話
貴方が、あの子を愛しているのだと、すぐにわかったわ。
だって私、見ていたんだもの。
ずっと貴方を、見ていたんだもの。
幼い頃からずっと、貴方だけを見ていた。
貴方に相応しい妻になる事だけが、私の生きがい。
きっと私、貴方のためならなんだって出来るわ。
人は私を悪女のようだと言ったけれど。
それもまた必要な事だと、貴方のお母様は仰ったから。
この生き方に悔いなど、ないの。
「レオンパルト様に思わせぶりな事をなさるの、やめてくださらないかしら?」
目の前には茶色いゆるやかな髪の少女。
大きな、まあるい目をこちらに向けてカタカタと震えている。
「あ、あの、なんの事だか……私……」
「貴女に自覚がないだろう事はわかっているの。けれど貴女、好きな殿方がいらっしゃるのでしょう? それなのにレオンパルト様に不用意に触れるのはいかがなものかしら。よからぬ誤解を生んでしまうわ」
少女は戸惑ったような顔から一変、顔を真っ赤に染めた。
「す、すすす、好きな殿方……って」
そう、この少女には好きな男性がいる。
そして、その相手は私の婚約者レオンパルト様ではないのだ。
「レオンパルト様に近寄るなとは言わないけれど、節度のある振る舞いをお願いしたいの」
「あ、あのっ、私とレオンパルト様は全然そういう関係ではなくてですね……っ」
「事実がどうという話ではないわ。現に誤解を生んでしまって貴女、嫌な思いをなさったんじゃない?」
そっと、少女の足に目をやる。
そこには裸の小さな小さな足。
少女はひっ、と息をのんで、なにか恐ろしいものを見たかのような目で私を見る。
私の家と繋がるために、私に好かれようと、少女に嫌がらせをしている者たちがいるという話は聞いている。
余計な事を、と思う一方で止める気のない自分に思わず笑った。
ああ、私はなんて汚い人間なのだろう。
必死に蓋をしているだけで心の中にはいつだって、どろどろと醜い嫉妬が蠢いているのだ。
本当に、汚い。
笑みをこぼした私を見てどう思ったのか、少女は震える足で後ずさってから地面にへたり込んだ。
「大丈夫?」
私が手を差し伸べると、背後から大きな声。
「エリーゼ!」
レオンパルト様は走ってきて少女、エリーゼを庇うように目の前に立った。
鋭い目で私を睨みつける。
私は、動くことができない。
睨みつけられても、その眼に私をうつしてもらえるだけで、こんなにも嬉しくて、泣きたい気持ちになるのは、きっと私がもうどこかおかしくなってしまっているからなのだろう。
「なにをしていた……」
聞いている者が凍てつくような声だった。
ひゅっと息をのむ。
どうして。
心の奥底で、誰かが泣いた。
どうして、そんな目で私を見るの?
どうして、名前を呼んでくれないの?
どうして、笑いかけてくれないの?
どうして、その子ばっかり、
昔のように、名前を呼んでよ。
ねえ。ねえ、レオ様。
ずっと一緒にいてくれるって、言ったじゃない。
ずっと守ってくれるって、言ったじゃない。
嘘つき、
唇をきゅっと噛む。
涙は出なかった。
ただ、必死に、溢れそうになる想いに蓋をした。
「なにも答えられないのか?」
レオンパルト様は怖い顔をしてゆっくりと息を吐き、どこか決意を込めた目をして口を開いた。
耳を、塞いでしまいたかった。
「婚約を破棄させてほしい」
目の前が真っ白になった。
足の先から頭の先まで、一瞬で温度を失ってしまったかのようだった。
自分がちゃんと立てているのかも、わからない。
けれど、けれど。
縋るわけにはいかなかった。
重荷になるわけにはいかなかった。
背筋を伸ばし、顎を引く。
笑え、
笑え!!
口元がゆっくりと弧を描く。
「はい、レオンパルト様」
それからの事は、よく覚えていない。
レオンパルト様がエリーゼの肩を優しく抱いた姿を見たような気もするし、2人が去る間際、まるで釘を刺すかのようにレオンパルト様が私を強く睨みつけたような気もする。
よく覚えてはいないけれど、きっと私は最後まで笑えていた。
きっと、きっと。
気付いたら私は自室にいて、目からは止まる気配もなく涙がぽろぽろと零れ落ちて。
それでも、なんで、どうして、と叫ぶ心に蓋をした。
もう、ただの意地だった。
誰かのせいに、したくはなかった。
レオンパルト様を好きなのは、他の誰でもない、私なのだ。
誰かのせいにしたって、レオンパルト様が私を好きになる事はない。
だったらもう、どうでもいい。
どうでもいいのだ。
翌日、大粒の雨が窓を叩いた。
自室の外がざわざわと騒がしく、私はベッドの上からぼんやりと扉を眺めていた。
突然扉が開いて、ふらふらと入ってきたのはずぶ濡れのレオンパルト様。
頭がなにかを理解する前に、体が勝手に動き出す。
私がベットから飛び降りて駆け寄ると、レオンパルト様は、まるで糸が切れたかのように崩れ落ちた。
後ろから入ってきたメイド達が慌ててレオンパルト様を着替えさせ、ベッドに横たえ、バタバタと部屋を出て行く。
ひどい熱だった。きゅっと、レオンパルト様の熱い手を握る。
レオンパルト様の虚ろな目が私を捉えて、ふわりと笑った。
まるで、あの少女に向けるような、あたたかい、あたたかい笑み。
「エリー、ゼ……」
ひどい、ひと。
「エリー……ゼ……私は……きみが、本当に好きだった……」
ひどい、ひと。
「こんな、気持ちになったのは…初めてだった」
ひどい……ひと。
頬を涙が滑り落ちた。
ぽたり、
ぽたり、
「きみのためなら……なんでも出来ると思っていた……。でも…きみが、ジョルジュを好きだと言ったのを聞いて……私は……」
レオンパルト様の声が震えた。
熱に浮かされたように私の手を痛いほど握り締め、レオンパルト様の目の縁から涙が一筋こぼれ落ちた。
弱い方だ。
本当は、とても。
とても弱くて、優しい方だ。
「……私が、そばにおります。ずっと、一生、貴方が許す限り、貴方のそばにおりますから」
レオンパルト様の手を両手で包み込む。
「ほん、とう……に……?」
「っ、はい」
どこか安心したように、ゆっくりと瞼が閉じられていく。
「ありが、とう……」
レオンパルト様は、本当に幸せそうに笑った。
心の奥でまた、誰かが泣いた。
「っ、お慕いしております……レオ、様」
「あ、りが、と…う………ノ、ア……」
ぱたり、とレオンパルト様の手がベッドに落ちる。
「っ、ぁ……っ」
急いで、口もとを押さえつける。
溢れ出てしまいそうな、なにかを必死で抑えつけた。
ひどい人だ、本当に。