第九話 「探偵」
私は今、伊原という男が持ってきた捜査資料に目を通している。資料といっても警察が作るような本格的なものではない。しかし、これは──。あくまで伊原個人が作ったのものであろうが、その資料に記されている内容からは伊原の憤りや無念さが十分に伝わってきた。
びっしりと書き込まれた事件の概要。伊原本人や殺された優花という少女の担任、その他捜索に参加した教師の動向。近隣に住む者からの不審者の目撃情報。ところどころにある染みは涙の痕だろうか。感情的になっている部分では筆圧が高いのが見て取れる。ペンの芯が折れて出来たような痕からは、悲痛さや憤怒が伝わってくる。あるところには直接『殺してやる』と書いてあった。さらに、どうやって入手したのか、殺された少女の遺体の写真がはさんであった。
あの男は、どのような気持ちでこれを記したのか。そして、それを私に託したのか。
伊原──私を探偵、と呼ぶあの男。手記を読みながら私は必然、伊原が訪ねてきた日のことを思い出した。
黒のコートに濃い色のジーンズを履き、目深に帽子を被った、30台半ばくらいのその男は、私が記憶喪失であることを知っていた。電話をしてきた際に医師から聞いたのだそうだ。それでも、娘を殺した犯人を探し出すよう、私に依頼をしてきた。窓の外では雪が降っていた。伊原の肩に積もっていた雪が、病室の熱で溶けていく。
私には記憶がない。記憶がないことに対する感慨もまた、ない。この男の無念さや悲痛さは伝わってくるが、それがどういった類のものだったかも思い出せない。
しかし、この事件についての手記を見ていると、なにか頭に、あるいは心に、揺さぶられる部分があるような気がする。ひどく不確かで、曖昧な断片ではあるが。ひょっとすると、私は以前この事件のことを知っていたのかもしれない。とすれば、そのときはこの事件をどのように見ていたのだろうか。探偵であるのなら、事件について何らかの推理や調査を行っていたのだろうか。
ふと、窓の外を見る。今日もまた雪が降っている。地面に薄っすらと積もり始めている雪は、それまで地面が持っていた色を消していく。降り続けばやがて、あたりを一面白で埋め尽くす。その状態を想像し、今の自分と重ね合わせた。記憶の中は白で埋め尽くされている。感情も同じだった。そこへ、あの男がこの手記を持ってやってきた。私の記憶を揺する何かは、あの男が持っていた熱なのだろうか。いずれはこの雪を、その熱で溶かしていくのだろうか。私は手記を閉じ、また窓の外を見た。雪は先程よりも強く、降り続けていた。