最終話 圭介
伊武は正式に逮捕された。伊原優花殺害事件及び死体遺棄、谷口圭介に対する殺害未遂の容疑がかけられている。これから、伊武は法の裁きを受ける。圭介にとって、それは望んでいた結末ではない。
失ったものはあまりに大きすぎる。娘を、妻を。自分自身も、こうして下半身麻痺という重症を負っている。怪我については、徐々に回復している、と医師は言う。しかし、歩けるようになったところでそれが何だというのだ。自分を支えてくれるものはもう何も無い。居場所も足場も未来も、圭介には何も残されていない。
扉をノックする音がした。音の主は返事を待たずに、部屋に入ってくる。大神婦人が、大きめの袋を持って入ってきた。
「お久しぶりね、伊原さん。あ、今はお名前が違ったのかしら」
婦人はそう言ってベッド脇の椅子に腰掛けた。圭介は、奇妙な来客に驚きつつも
お久しぶりです、とだけ返した。
「犯人、逮捕されたんですってね。ニュースで見たわ。何と言ったらいいのかわからないけれど……」
それは、圭介本人にも分からなかった。この感情を何と表現したらいいのか。どんな言葉であれば、今の自分に相応しいのか。
「ごめんなさい。用件だけ話すわね」
そう言って、婦人は持っていた袋をベッドに置く。
「伊原さん。あのマンションを出ていくとき、家財道具をたくさん出したわよね。ほとんどは収集業者が持っていったんだけど、ひとつだけ、忘れられているものがあって」
婦人はちらりと袋に目をやり、話を続ける。
「それを、カラスたちがつついてたのよ。珍しかったんでしょうね。あの子達、音とか光に敏感だから」
まさか、と圭介は思った。この袋の中身は……。
「私はいつもみたいにカラスを追い払ったんだけど、そのときにこれを見つけて。最近のおもちゃはすごいわね。声が録音できるなんて」
やはり──これは──。
「最初は何て言ってるかわからなかったんだけど、何度も聞いて……。これは、伊原さんに……お返ししなきゃと思ったの」
これは──優花の──。
「それじゃ、私はこれで。これから、なにか困ったことがあったら、いつでも言ってね」
そう言って、婦人は部屋を出ていった。
圭介は目の前に置かれた紙袋に手を伸ばす。中から出てきたのは、少し汚れたぬいぐるみ。あの日、優花の誕生日にプレゼントしたものだ。確か、自分の声を録音して、ぬいぐるみに喋らせることができるというものだった。
圭介は再生ボタンになっているぬいぐるみの腕を押す。ぬいぐるみは優花よりも少し高い、掠れた声でこう言った。
『パパ、ありがとう』
窓の外には、すっきりと晴れた青空が広がっている。雪解けの水の痕を、暖かな太陽が乾かしていく。真っ白だった街並みが、その色を取り戻していく。季節は、春の訪れを待っていた。
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