第十二話 圭介
探偵、谷口純也から圭介に連絡があったのは二人が最後に会ってから一週間後のことだった。
「あなたに頂いた犯人の似顔絵に関して、気になる人物が一人、浮かび上がってきたようです」
谷口純也は圭介に告げた。圭介の心を驚きと戸惑いが交錯する。そんな圭介の心を見透かしたように、谷口純也は続ける。
「なぜ入院中の私にそんなことが分かるのか、不思議ですか?探偵には探偵同士のネットワークのようなものがあります。彼らは商売敵ではありますが、我々の一番のライバルは警察でね。警察よりも早く、事件を解決するためには横の繋がりを強くするしかないですから。今回も、その男を見つけてくれたのは黒木という別の探偵です」
圭介は谷口純也に報酬の約束をし、その男の住所や、名前を聞き出した。電話を切ろうとしたとき、谷口が言った。
「伊原さん…あ、いや失礼。あなたはその男に復讐をするつもりですか?」
圭介の無言を肯定と受け取り、谷口は続けた。
「でしたらやめておきなさい…などとは言いません。残りの人生と秤にかけて、そうされると言うのだったら。ただ、十分にお気を付けなさい」
圭介はありがとうございます、とだけ言って電話を切った。優花が殺され、美咲が自殺をした瞬間から、残りの人生など考えたこともなかった。あの男が見つかった。鼓動が速くなる。気づけば家を飛び出していた。
タクシーに乗り、三十分ほどで目的地についた。ここに、あの男が──。アパートの一室に掲げられた表札を見る。伊武隆司…谷口から聞いた男の名だった。面識はない、はずだ。どうしてこの男が、優花を。圭介はそこで、自分が武器になるものを持っていないことを思い出した。あの男がいても、これでは何もできない。名前と住所を聞いた瞬間、冷静な判断力を失っていた。一刻も早く見つけ出したいという思いに駆られていた。
この手で、奴が優花にしたように、その首を絞めあげてやろうか。しかし、どうやって?呼び鈴を押すか、今、奴はここにいるのか?様々な思いが圭介の頭を駆け巡る。そして圭介は、視界の端でその男を捉えた。ちょうど、アパートに帰ってくるところだったのだろう。服装は違っているが、あの顔、額の傷は忘れようもない。男が顔を上げた瞬間、圭介と目があった
。
二人はほぼ同時にお互いに気付いた。圭介は伊武の目を、瞬間身構えた伊武を見て、やはりこの男が優花を殺したのだ、と確信した。
睨み合いが続く。ふと、伊武が口を開いた。口角を上げ、ニヤニヤとした口調で言った。
「だから言ったでしょう。あの人工樹林は危険だって」
次の瞬間、圭介は伊武に飛びかかっていた。二人の距離が一気に縮まる。圭介が右手を振り上げ、伊武の顔をめがけて振り下ろす。しかし、わずかに届かない。圭介は膝から地面に崩れる。
伊武の右手が圭介の脇腹を先に捉えていた。膝を地面につけ、俯いた圭介の顔面に、伊武の膝が入る。はじけるような痛みが、圭介の脳を揺さぶる。二発目の蹴りを入れようと、伊武が足を振り上げる。しかし、次に倒れたのは伊武自身だった。圭介は更にしゃがみ込み、伊武の脚をつかんで後ろに倒していた。
激痛は収まらない。右目が腫れているのか、視界も狭い。口の中は鉄の味が充満していて息苦しい。しかし圭介の頭は、目の前のこの男、娘の命を奪った伊武に対する怒りでいっぱいだった。その他のことなど、今は考えることができない。
圭介は倒れた伊武に馬乗りになる。上から、拳を振り下ろす。伊武は呻き声を上げるが、表情には変わらずニヤニヤとした笑みが張り付いている。
「お前は、どうして……優花を!」
圭介は叫ぶ。伊武は面倒臭そうに返した。
「お前ら幸せな人間を見ていると、壊したくなるんだよ。幸せの絶頂から、どん底に突き落とされた時の顔が見たくてな。誰でも良かったんだよ。ただ、俺の目に止まった、それだけだ」
「そんなことで、優花を……!」
圭介は更に拳を振り下ろす。右手についている血は、すでに圭介のものか、伊武のものか分からない。何発目かの拳を振る。しかし、伊武は頭を捻り、拳を避けた。圭介の右手はそのまま地面のコンクリートを叩いた。鋭い痛みが走り、右手を抑えて呻く。条件反射だった。
その瞬間、伊武は大きく身体を振り、圭介の拘束から脱した。同時に、圭介の顔に回し蹴りを叩き込む。圭介は頭からコンクリートの地面に倒れた。先ほど繋ぎ留めた意識が、再び遠のいていく。頭上から伊武の声が降ってくる。
「お前が今持っている、怒りや悲しみという感情が俺には無い。昔からだ。お前が娘に持っていた、愛情や喜びも」
何を──。こいつは──。圭介は薄れゆく意識の端を必死に掴んでいた。
「だから、ちょっと実験をしてみたくなった。大切だと思っているものがなくなった時の焦りや、それが死んだと分かった時の悲しみや怒りをこの目で見てみたくなった。しかし、まったく理解はできなかった。ただ単純に──」
少し間を置き、吐き出すように伊武は言った。
「面白かっただけだ」
圭介は伊武の脚をつかもうと手を伸ばした。しかし、その腕はすぐにかわされる。
「おっと、痛いのはやめてくれよ。感情はなくても感覚はあるんだ。こんな風に──」
つかもうと伸ばした腕を上から強く踏まれる。骨がミシリ、と嫌な音を立てる。
「面白かったが、これで終わりだな。実験に付き合ってくれてありがとう」
伊武の足音が遠ざかっていく。これで、終わりなのか。こんなところで。圭介は、意識をかろうじて繋ぎ留め、痛む腕を前に出す。匍匐前進のような鈍い動きで、少しずつ前へ。少しでも、あの男の方へ。追いかける、という気持ちだけが圭介の意識を保たせていた。まだ……このままでは……俺は……何も──。
ものすごい勢いで車のエンジン音が近づいてくる。前方からあの男、伊武のワゴン車が猛烈なスピードを上げて走ってくるのが見える。圭介は察した。あの男は終わらせようとしている。実験、と名付けられたこの惨劇を。子供が飽きてしまった玩具を片付けるように。いや、そんな感慨すら持たずに。
もう視界には車のヘッドライトしか入っていない。圭介は、静かに目を閉じた。暗闇の中、まぶた越しにヘッドライトの光が広がっていく。衝撃を感じることもなく、圭介は意識を閉じた。