第十一話 「探偵」
伊原が再び訪ねてきたのは一週間後だった。
「何か、分かったことはありますか」
伊原はそう聞いてきた。私が首を横に振ると伊原は残念そうな顔をした。すみません、と私は口にしたが、本心では致し方ないと思っている。何しろ与えられたものは伊原の書いた事件に関するノートのみ。警察が持っているような情報もなければ、自分の足で調査をすることもできない。もっとも、怪我がなかったとしても、記憶を失った私では調査の方法自体わからないわけだが。
伊原は無言のまま、ベッド脇のパイプ椅子に座っている。帽子を深くかぶり、俯いているせいで表情を窺い知ることはできない。私は、居たたまれなくなって声をかけた。
「どうして私のところに。私のことをどこで知られたのですか?」
伊原は顔を上げた。憮然として入るが、目には活力があるように見えた。
「知り合いの、大神という女性から聞きました。あなたがとても優秀に探偵である…と。優花の、娘を殺害した犯人を見つけ出してくれるだろう、と」
大神──。その名前を聞いたとき、なにか頭の中に引っかかりを覚えた。顔すらまったく思い浮かばないが、失ってしまった記憶の中に、その人物が存在するということなのだろうか。私はこの引っ掛かりを手繰り寄せようと、更に質問を重ねる。
「その方は、どういった人なんですか?」
「私が以前住んでいたマンションにいる方で、いつもほうきを持ってマンションの周りを掃除している…ちょっと変わった人なんですが、私や美咲、妻のことをよく気にかけてくれまして」
「奥さんは、確か…」
自殺…という言葉をどう表現していいか分からず、私は言い澱んだ。伊原の妻のことは、手記に書かれていた。涙の染みが一番多かったページだった。私が言葉を詰まらせたのを察して、伊原が続きを引き継いだ。
「妻は、自殺しました。たった一人残された愛する者まで、私は失ってしまった」
伊原の手に目をやる。左手の薬指には指輪が嵌められていた。再び、頭に引っかかりを覚える。知り合ったばかりの男のしている指輪に、私は何故──。
私の視線に気づいて、伊原は言った。
「まだ、妻がいないという現実を受け入れられなくて、指輪をはずせずにいます。妻が死んでもう二週間が経ちますが…」
「気持ちの整理がつくのには時間がかかります。伊原さんの場合は立て続けに、ですし」
記憶のない私にとっては、あくまで想像でしかないのだが、その気持ちを理解しようとした。手記によれば、伊原の妻が自殺したのは事件から二週間後、ということは伊原優花が殺された事件からまだ一ヶ月しか経過していないことになる。
そして私は気づいた。私は、事件のあった日さえ、把握していなかった。依頼を受けると口にしたものの、実際は事件のことを、軽い気持ちで考えていたのではないだろうか。記憶が無いことを言い訳にしながら、藁にも縋るつもりで私を頼ってきた人間の悲しみを軽視していたのではないだろうか。
伊原が帰ったあと、私はもう一度手記を開いた。伊原が書いた事件の概要と、被害少女の遺体写真。何か少しでもわかることはないだろうか。何か少しでも、あの男の希望になるような。何か──。
遺体写真を見る。少女に性的暴行の形跡は無かったということだ。衣服の乱れもない。その分、首筋のロープ痕が生々しい。半袖のワンピースを着た少女の首から上と下。アンバランスなその二つが、私の脳内で結合する。痛い。頭が割れるようだ。何が──こんなにも──私は──。
「谷口さん!谷口さん!しっかりしてください!」
気づくと、医師が目の前にいた。かなり激しく暴れていたようで、私のシャツにも、医師の白衣にも、幾筋かのシワができていた。
「谷口さん、大丈夫ですか。今日が何月何日かわかりますか?」
意識をしっかり保っているかの確認だ。私はカレンダーを見て答えた。
「大丈夫です。今日は一月十八日。意識は、しっかりして──」
頭の中の違和感が、引っ掛かりの一つ一つが、今はっきりと線で結ばれ、その実体を浮かびあげようとしていた。