第十話 圭介
圭介は病院の廊下を歩いていた。リノリウム匂いがする白い廊下は、どこまでも続いていくような錯覚を、彼に与えた。
患者や医師とすれ違うたび、自分が注視されているようにも思える。自分の居場所が、存在の基盤となるものが、この長い廊下の先にあるのだろうか。
娘が殺された。心無い者たちが、娘の死を、親の悲しみを煽り立て、自らの慰みにしようとしてきた。報道では様々な憶測が飛び交い、ネット上では娘や伊原夫妻の顔や実名が公開されていた。殺されてなお、優花は辱めを受けている。圭介は犯人に対する憎しみと、この事件を煽り立てる者への憤りを感じていた。
妻が自殺した。守ることができなかった。自殺した日の前日発売の週刊誌の特集記事で、美咲がかつて風俗店で勤務していた経歴があったことが明かされていた。圭介にとっては初耳であったが、それを知っても妻に対する愛情は変わらなかった。しかし、美咲は──。美咲は違ったのだろう。美咲の心は拠り所を失い、もうどうにもならないところまできていたのだろう。そして、おそらくコンビニへでも出かけた際に、その週刊誌を目にした。その翌朝、美咲は一人マンションへ帰り、その身を投げた。ホテルに帰り、自殺を決意するまで、自分はずっと美咲のそばにいた。それでも、守れなかった。美咲の異変に気づけなかった自分もまた、やはり壊れていたのだろう。圭介は、自分の無力さを恨んでいた。
この廊下の先に、この思いを払拭してくれる──この事件を解決してくれる存在がいるのだろうか。本当に、そんな希望が自分にまだ残されているのだろうか?しかし、今の圭介はそれに縋るより他はなかった。残された、一縷の望みがどれだけか細いものでも、それを望むより他は──。
病室に辿り着いた。ノックをする。中から、声が聞こえてきた。ゆっくりと、その扉を開く。
「谷口さんですか。電話でお話した伊原です。事件の捜査を、お願いします」
いくつかの会話のあと、探偵「谷口純也」は首を縦に振った。伊原圭介は深々と頭を下げた。
偶然か、必然か──。圭介は、この奇妙な出会いに運命的なものを感じずに入られなかった。それが幸運か、それとも悲運なのか。この時点では誰にも告げられてはいないが。