スマホはケータイ電話です
SIDE アザとー
残った酒気も温かい湯に溶けるようだ。確かに風呂につかって落ち着くほどに記憶がよみがえる。
(最初に寝てたのは、この近くだった気がする)
ともかく思い出さないことには、カバンの紛失届の出しようがない。中に現金はさほど入っておらず、クレジットカードも入れていなかったことは不幸中の幸いだが、何よりも愛用のノートパソコンが入ったままだったのが痛い。
もちろん、金銭的な価値のあるデータなど何もないが、あの中には、ここ二年ほどの間に書いた文章のデータがごっそりと入っているのだ。
「パソコンだけでも帰ってこないかなあ」
ため息をつきながら湯から上がった私は、おぼろげな記憶の中に一縷の望みを見出した。
「ん? パソコン?」
スマホだけはポケットに入っていて紛失の難を逃れたのだが、それで地図を検索した記憶がある。
「履歴っ!」
最近買い換えたばかりでよくわからないが、パソコンと同じように検索履歴が残っているのではないかと思いついたのだ。
体を拭くのもそこそこにして、浴室を飛び出す。
「あのさ、履歴見ればさ、行ったところが解るかも!」
「よし、見てみよう!」
二人で画面をのぞき込んだはいいが、『ちず』という単語すらまっとうに打ち込めず、『ちつい』と打ち込まれていることに、まず苦笑した。
「相当酔っておるねえ」
しかも、履歴をたどると一番初めに出てきた地名は『人形町』だった。
「ああ、これはだいぶ歩いた後だねえ」
弟の解説によると人形町は馬喰町の先、戻ってくるつもりが、逆に向ってしまったことになる。
「しっかし、歩いとるねえ」
人形町に始まり、宝町、新橋、そして汐留。
「で、ここから昭和通りを通ってきたの?」
「いや、それが新橋あたりで昭和通りを探すのが難しくて、なんか気が付いたらトラノモンってところにいた」
「豪快に迷っとるねえ。虎の門っていったら、霞が関の方だがね」
「うん! あのね、浜離宮っていうのを見てきた!」
「それは汐留だがね。虎の門の方を通ったなら、皇居だて」
「ああ! どうりで大きいと思った!」
かように、救いようのない方向音痴っぷりなのである。思えばなぜ、人に聞くこともせずにやみくもに歩くなどという暴挙にでたのだろう。
「そんでも、こっから渋谷の方に行かんでよかったねえ、渋谷からタクシーでとは、さすがに……」
画面を繰っていた弟の指が止まった。
「ってか、姉ちゃんさあ、電話持っとるなら、なんで俺に電話せんかったの?」
「あ……」
今の今まで気付かなかった! これは携帯電話ではないか!
「これまで無くしたとか、あるの知らんかったとかならともかく、検索までしとるでねえ」
「そんなこと言ったって、お前だって今の今まで気付かんかったじゃないか!」
「えへへ」
「まあ、お互い気が動転していたということにしておこうや」
「そうだな、ともかくカバンだ」
「それなんだがなあ、たぶん、最初に寝たところに置いてきたんだと思う」
おぼろげな記憶の中にあるのは、立派な高層住宅前のちょっとした広場に寝ていたことと、そこから見えた白い駅舎だ。
「見えたってことはさあ、地上駅なんだよ」
「ふん? そんな地上駅はこの辺にないでねえ」
「うう~ん?」
「まあ、この辺で寝とった記憶があるなら、交番に遺失届を出しながら少し歩いてみよまい。なんか思い出すかも知れん」
こうして私は、弟に連れられて浅草の交番へと向かった。
SIDE オトウとー
姉の記憶を頼りに昨夜のラーメン屋から小道に入り、住宅街を歩く。件の『高層住宅』の前にたどり着いた俺の口をついたのは、感嘆の言葉だった。
「確かに、これは寝るわ」
まだ新しい高級マンションの前は、きれいに植栽された広場になっている。そこには黒い石のベンチが整然と置かれ、小汚い安ホテルよりもよっぽどか泊まり心地がよさそうだ。
「でも、ここで起きたときに電話してくれとったらなあ、迎えにこれたのに」
「うう、ごめんなさい」
「まあ、終わったことを言ってもしゃあないでね」
建物の周りをぐるりとしてみるが、カバンはない。代わりに、姉はエントランスの庇を指さした。
「あああ、これ、見た! 駅だと思ったのはこれだ!」
なるほど、洒落たデザインのそれは、ぱっと見、駅に見えないこともない。
「で、歩き出したら、そこにあるはずの駅がないから、駅を探してうろうろしたんだよ」
うろうろで二駅分も歩くとは……
「姉ちゃんってもしかするとさあ、酒飲むとワープでもするんじゃない?」
「それは面白いな~」
笑いごとではない。この後、姉はワープ説を裏付けるようなことを言い出した。
「こっちの細い道を、あっちから歩いてきたような気がする」
それは姉が迷子になった地点からは逆方向へと延びる道だ。
「こっちからあっちへ向かっていったんじゃないの?」
「いや、あっちからこっちに向かって。順番としては、茶色い建物があって、オレンジ色の接骨医があって、なんかの倉庫みたいなものがあって……」
こちらからたどってみると確かに、倉庫、接骨医、茶色いビル、つまり姉の言った逆順である。ということは、姉はここより遠くまで歩いて行ってしまい、ここに戻ってきたということになるのだ。
「本当に、レバニラができるまでの数分の間に、どこまで行っとるの……」
思うに、普通の酔っ払いの様に千鳥足にならないからこその移動速度であろう。右に数歩、左に数歩、揺れながら歩く人間ではこうはいかない。
頭は酔いきって自制を失っているというのに、足取りだけはしっかりとしているから、間違った目的地に向かって一直線に歩いてしまうのだ。
「姉ちゃん、本当にさあ、酒勧められたら『飲みすぎるとワープしちゃうんで』って断った方がいいよ」
「それは逆に、面白がって飲まされるんじゃない」
「ああ、それはあるかもなあ」
馬鹿な会話を交わしながら交番に遺失届を提出し、姉の東京珍道中は幕を閉じた。
今回のことで俺は大きな教訓を得た。
『子供には酒を飲ませるべからず』
普段はそれなりの大人として子供心を押し殺している姉だからこそ、そのタガが外れた時の反動は半端ない。そして驚くことに6時間休みなく歩き続けるという体力も、子供並と言って差し支えないのではないか。
とはいえ、姉には甘い俺のことだ、きっとまた一緒に、酔いの果てまで飲む機会もあることだろう。
そのとき、あの『子供』はどんな騒動を起こすのか、少しばかり期待してしまう気持ちもないわけではないと、内緒で付け加えておこう。