表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨上がりのメロディ  作者: 沖川英子
1/2

雨の中

 ひんやりと冷たい風が顔にあたり、正弘まさひろは目を開けた。

 あれ、何で目の前にテレビがあるんだろう……とほんの一瞬考え、ああ、そうだった、と思い出す。ここは寝室ではなく、リビングだ。彼はソファの上で寝転がって本を読んでいたのだ。どうやらそのままうたた寝してしまったらしい。読みかけの文庫本は床に落ちてしまっている。

 寝転がったまま、正弘はうんと大きく伸びをし、少しこわばっている体をゆっくりとほぐす。

 それにしても、家の中がいやに暗い。

 そう思った直後、冷たい風がさっとリビングを吹き抜けた。レースのカーテンがぱたぱたと静かにはためき、湿った土のにおいが微かに香る。

 どうやら、ベランダの窓も開けっ放しにしていたようだ。体を起こし網戸越しに外を見ると、コンクリートの床にぽつ、ぽつ、と黒い点が次々に現れる。おっ、と思う間にそれはいくつも増え広がり、見る見るうちに全体が濡れた黒に染まっていく。

 大粒の雨が風景を煙らせる。

 正弘はソファから立ち上がり網戸を開けた。低い屋根や高いマンションから成るでこぼこの稜線の上には、ダークグレーの空を背景にいくつもの黒雲が乱れ飛んでいた。

「さっきは、あんなにいい天気だったのになあ……」

すいぶん急だなあ、と呟くと同時に大きなあくびが口から飛び出す。涙に滲む目をこすりながら、正弘はベランダの向こうににじむ景色をぼんやりと眺めた。

 ほんの一時間くらい前、彼が起きていた時は素晴らしい上天気だった。瞳の奥まで染まりそうな深い青空に、まじりっけのない白に輝く雲。正に「五月晴れ」と呼ぶに相応しい、胸の中までも晴らすような、すきっとした空が広がっていたのだ。日差しは強く、動き回れば汗ばみそうだったが、家の中にいる分にはその爽やかな暑さが心地よかった。ベランダ越しに訪れる新緑の香の風に吹かれながら、正弘は本を片手にソファに転がり、のんびり、だらだら、極楽気分で過ごしていたのだ。

 最も、これは妻の朋美ともみが、ここ数週間の残業と休日出勤でくたくたの正弘を慮ってくれたからこその「極楽」だった。身も心もすっかり疲れきった夫に必要なのは、一人で静かに過ごす時間。そう考えたのだろう。遊びたい盛りの一人息子の相手を買って出てくれたのだ。

「今日はゆっくりしてね。それじゃ、行ってきます」

まだベッドに潜りこんでいた正弘の耳に優しい響きを残し、彼女は将太しょうたと出かけていった。確か、映画を見るとか何とか言っていたような気がする。

 それは午前中の出来事だったのだろう。眠りの海に浸りながら正弘は「うー」だか「あー」だか、とにかく承知した旨を朋美に伝えた。遠のく意識の中、何やら元気一杯にはしゃいでいる将太の声を聞いた。

 彼がやっと眠るのに満足し(と言うより飽き)、もそもそと掛け布団から這い出たのは昼をとうに過ぎた頃だ。とりあえず着替え、その辺にあったパンやら煎餅やらをかじりながら新聞に目を通した。どうせどこにも出かけないからと、歯磨き・洗顔・髭剃りは省略。窓を開けて風を通すついでに洗濯物を取り込み、おお、今日はからっとしているからタオルがぱりぱりだ、などと感心しながら畳んで各自の物に振り分けた。

 それから長らく放っておいた本の事を思い出し、折角だから今日読んでしまおうと思い立ったのだ。が、ソファに転がって本を開いたのも束の間、心地よい薫風に吹かれながらページをめくるうち、彼の意識は途切れた。

 今日、今まで、正弘が起きていたのはせいぜい二時間程度だろう。したことといえば、着替え、食事、新聞チェック、洗濯物の片付け、ほんのわずかな読書。これだけだ。壁の時計は既に四時を回っている。働くどころか大して動きもしないまま、土曜日が過ぎていく。

 目の奥がじんじんと痛み、体が軋む。昨夜からの長時間睡眠と先ほどまでのお昼寝で体も頭も疲れていて、何だか動くのも億劫だ。ああ、だらけてる、と思いながらも、彼はただフローリングに座って、暗く雨の底に沈んだ景色を眺めていた。

(ずいぶん降ってるなあ……)

これでは、晩酌のビールを買いにちょっとコンビニにでも、というわけにもいくまい。大人しく、家でじっとしている方が良さそうだ。

 何をするでもなくぼんやりと雨を見つめていると、不意に埃と湿気の混じったカーペットのにおいがした。

いや、においを思い出した。

(高二の文化祭……)

正弘の脳裏に、薄暗く埃臭い部屋の光景が広がる。高校の視聴覚室。灰色のカーペットの上にいくつもパイプ椅子が並び、正面にはロールスクリーンが下されている。その脇にはホワイトボードが設置されていて、彼ら「エイケン」こと映画研究会の自主制作短編の上映予定が記されている。暗幕も壁も華やかに飾り付けられているものの、部屋の中に人はほとんどおらず、閑散としていて寒々しい。そもそも、呼んでもいない秋雨前線のせいで、文化祭自体に人があまり来ていないのだ。どの教室も閑散としていて、退屈そうな生徒たちのおしゃべりが薄暗い廊下に低く響いている。受付の椅子に座りながら正弘はあくびをかみ殺していた。半袖の制服では少し寒い。むき出しの腕は、雨で冷えた空気に粟立っていた――

 何かを思い出す時、その時の情景だけでなく、においや音、光、触感等も思い出してしまう事が、正弘には度々あった。

 例えば、旅先の風景を不意に思い出すとき。彼の頭の中には陽光に輝く海や、風立つ草原や、人でごったがえす街が見える。それと同時に、潮風の生ぬるいにおい、乾いた風に吹かれてひりつく喉の渇き、冷え切った髪と体の冷たさ、絶え間ないおしゃべりとクラクション、淀んだ空気のにおいといった、その時五感で経験したものをも再び感じるのだ。

 ただ、何かを思い出す時はいつもそう、というわけではない。何か、自分でも思いもよらない時に突然ある記憶が呼び起こされ、同時にその時に感じたありとあらゆるものが頭の中で甦るのだ。

 以前、妻の朋美にこの事を話した時、彼女は

「なんだか、頭の中だけがワープして、その瞬間をもう一度体験しているみたいな感じね」

と、笑いながらも感心していた。

 彼女にはそういう事はほとんどないらしい。たまに潮風のにおいを嗅ぐと子供の頃を思い出すとは言っていたが、細かい情景などはほとんど忘れてしまっていて、ただ懐かしさに胸が締め付けられるのだそうだ。

「人は経験したことを完全に忘れちゃうわけじゃないっていうから、多分、私の頭の中にも色んな事が取って置いてあるんだろうけど。でも、それを取り出すには、あなたみたいに何かが必要なんでしょうね」

「何か?」

「うん。きっかけになる何か。その瞬間を思い出すためのスイッチっていうか……鍵、みたいなものかしら」

「鍵……例えば、においとか、音とか?」

「そうそう。他にも、写真とか、文章の一節とか。そういうものが、きっと記憶の扉を開ける鍵になるのよ」

我ながらうまい事を言ったという顔で、彼女はうんうんと頷いた。

 記憶の倉庫を開ける鍵。

 その言葉は、得意げな妻の顔と共に正弘の中に残った。

 確かに、正弘が何かを鮮明に思い出す時にはきっかけとなるものがある。それは街角で不意に嗅ぐ排ガスのにおいや焼き芋屋の呼び声など、ごくごく些細なものだ。しかし、それを体が感じるや否や、まるで頭の中にある小部屋が開きそこにストックしてあったものが一気に流れ出すかのように、思い出が溢れて彼を取り巻くのだ。

 何がどの思い出の鍵なのかは分からない。それを知っているのは、彼の中にいる記憶の倉庫の番人だけなのだろう。

 雨脚はいよいよ激しくなり、風も強くなってきた。ベランダの向こうの木々が、たっぷりの雨を喜ぶかのように枝を伸ばし、ゆらゆらと大きく踊っている。

(……子供の頃)

湿気を含んだ冷たい空気が、倉庫の扉を開ける。

――小学校の帰り、急に空が暗くなって、いきなり夕立に降られたんだった。本当に、見る見るうちにあたりが暗くなって、一粒、また一粒と降り始める雨の、その重さが感じられた。横にあった公園の大きな木の下に慌てて駆け込んで、雨宿りしたんだ――

濃い緑の匂い。むせるような若葉の、命の匂い。記憶から立ち上るその匂いを、正弘は確かに嗅いだ。

――風もすごかった。びゅうびゅうと顔を掠めたり、下から巻き上げるみたいに吹きつけてきたり。雨粒を容赦なく叩きつけられて、結局全身びしょ濡れになった。体が芯から冷えて、腕組みして縮こまってみたけど、それでも全然温まらなかった。秋の終り頃だったから――

肌に直に触れる水滴と違い、服越しに浸みるそれはじんわりと広がり彼の体を冷やす。短い髪を通り、頭から雨が滴る。顔に流れ落ちる水は彼の体温で少しだけ温まっている。それを、彼は感じた。

――葉擦れの音が漣みたいだった。木々の梢が風に軋んで、時々ぎしっと鳴った。折れるんじゃないかってひやひやしながら見上げると、雨粒が一気に顔に降り注いできた――

頭上では梢が風に軋み、揺らぎ、ざあざあと踊り狂っている。絶え間ない潮騒のようなざわめきが身を包む。

 彼は木の下にいる。

 風が彼の耳元を掠め、ひょう、と唸りを上げた――

 

 と、正弘の耳に突然鋭い電子音が響いた。居間のどこかで携帯電話が鳴っている。はっ、と現実に戻り、正弘は慌てて立ち上がる。

 ダイニングテーブルの上で青い光がせかすように瞬いていた。ディスプレイには「朋美」の二文字が浮かんでいる。

「はい、もしもし」

通話ボタンを押した途端、

「あ、お父さん生きてた!」

電話の向こうからいたずらっぽい幼い声、次いでへへへ、という笑いが聞こえた。正弘の顔はふっと緩み、同時に頭のスイッチが「お父さんモード」に切り替わった。

「なんだよ将太、失礼だな。お父さんまだ死んでないぞ」

笑いながら抗議すると、将太もくすくす笑う。

「だって、オレとおかーさんが出かけるとき、ゾンビみたいな声だったじゃんか」

「そうか?」

「そうだよ、オレ、聞いてたもん」

ふふん、と得意げな顔が目に浮かぶような口調だ。ほんの少し前までは保育園にお迎えに行くとぴーぴー泣いて飛びついてきたのに、いつからこんなに生意気になったのか。先日、八歳の誕生日をきっかけに一人称を「ぼく」から「オレ」にこっそり替えた時からからもしれない。将太は「一人称替え宣言」なんてしていないし、正弘や朋美もあえて指摘はしていないけれど。

「お母さんは?」

「横にいる。今フレッシュマートで買い物してんだ」

「ああ、なんだ。もう駅前にいるのか」

「そうだよ」

と、後ろから朋美らしき声が何かを言った。将太は電話を離して何か応えているらしく、ごそごそとノイズが入る。少しして、わかったー、という遠い声の後、将太が電話に戻ってきた。

「あと十分くらいで買い物終わるから、お迎えに来てってさ」

「ん、分かった」

正弘は頷く。昼間のあの上天気だ、二人とも傘の準備などしていなかったに違いない。

「それじゃあ、お母さんに言っておいて。車出すから、ビール買っといてくれって」

「おかーさん、言われなくっても、もうビール買ってるよ!」

少し意地悪な口調で将太は応える。ニヤニヤと笑っている顔が見えるようだ。

「なんか見たこと無いのがあるーって、すっげー買ってるの。あとワインとか、他のも。おかーさんってアルチュウだよねー」

なーにいってんの、と、電話の向こうから朋美の声が聞こえる。その後も何やら話しているようだが、こちらにはよく聞こえない。

「ねえ、おとーさん」

少しして、将太がよく分からないという声で続けた。

「ハクアイシュギ、ってなに?」

正弘は思わず吹き出してしまった。私は博愛主義者なの、お酒の。取り澄ました顔と声でそう言いながら、目だけがいたずらっぽく光っている、そんな妻の姿が目に浮かぶ。そういえば、前にもそんな事を言っていたっけ。

「まあ、簡単に言うと、『みんな大好き』ってことかな。これが一番とか、あれが一番って順位を付けないで、全部好きだから、全部大事にする。全部に優しくするってこと」

「じゃあやっぱりアルチュウだ!」

あんまり大きい声でそんな事言うとお母さんに怒られるぞ、と言おうとした矢先、いたっ! っという悲鳴が聞こえた。

「……おかーさんにデコピンされた」

恨めし気な口調で将太が呟く。

「オレにはいっつも、乱暴しちゃダメ、って言うくせに」

常日頃、叱られている身としては納得がいかないらしい。この機に「理不尽」という言葉を教えようかと一瞬思ったが、それを言えばまた朋美のデコピンが将太の幼いおでこに飛ぶだろう。新たな言葉を教える代わりに、

「痛いよな。お父さんも時々される」

正弘はうんうんと頷いた。

「それじゃ、迎えに行くからお母さんと待っててな」

「うん。じゃあ、後でね」

「あ、あと、お母さんに言っておいて」

電話を切ろうとする将太に、正弘はにやりと笑いながら言った。

「お酒だけじゃなくて人間にも優しくしてくれって」

「うん、オレとおとーさんに優しくしてって言っとく!」

将太も、子鬼のような笑みを浮かべているに違いなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ