1、始まりの経緯
時代は石器を握る頃から大きく進歩し、大陸全土に人類による文明圏が確立され、人が定めた暦から早1500余の年月が経つ。
藁を纏めた粗末な小屋が、レンガを組み上げた見上げる程の屋敷へと変わり、荒削りされた石が洗練された鉄の刃となって人の牙となる。
数十の集落が集まり、その周りに城壁を築き始めるようになるとそれは街となり人々の生活圏構築を進めていった。
群れの長が王と呼ばれ、その取り巻きが忠実なる臣民へと変貌する様に、人は統べる者と従う者の二通りの存在を生み出した。
新たなる知識、文化、そして戦争が幾百と繰り広げられ、しかし人類はその数を大きく減らす事もなく、一定のサイクルを形成した繁栄はそれなりの平穏を保ちながら続いていた。
諸侯が覇を唱えんと割拠し、いつ終わるとも知れぬ小競り合いを繰り広げる中、権力と暴力が渦巻くこの時代にその身一つで世界を渡り歩く者達がいた。
文武を極め、富を求むも彼ら次第。
善悪を己で定め、己の為だけにただ進み続ける者達。
人は彼等を、『冒険者』という。
国家の狗となる事を良しとしない冒険者の目指す先にあるのは目的の成就か、もしくはその身の破滅か。
様々な結末を司る運命は歯車の形に例えられ、そしてそれはゆっくりと、今まさに動き始めたばかりである。
1(始まりの経緯)
大陸中央部、大都市『ガルバディ』
その本拠であるガルバディ城の景観はまさに圧巻の一言で説明がつく。
街全体を包む巨大な城壁が大交易都市とまで言われたガルバディの財力を誇示する物だとしたら、中央大陸の三分の一の金貨がこの都市に眠るとされる噂もまた、決して眉唾な物ではないだろう。
タイタン平原と名付けられた比較的温和なこの地域に築かれたガルバディの人々は外界からの脅威に怯えるという事も理解せず、ただ目の前の平和を謳歌しながら過ごしている。
その証拠として、街の防衛戦力である筈の衛兵団の縮小が進み全体の防備が疎かになる事に対して、彼等が関心を抱く事がなかったのだから。
「平和ボケだな、腑抜けている」
城壁から見渡せる穏やかな街の光景に顔を顰めてしまう。
青いプレートメイルを纏う壮年の男の声が颯爽とした風の中に雑音を残した。
誰もが笑い、誰もが酔い、誰もが貪るこの街の中で唯一場違いな男はこんな僻地に異動を命じられた己の不幸をただただ呪うしかない。
「……体の良い厄介払いかもしれぬか。俺は少しばかり、力を付け過ぎたのかもしれん」
褐色の肌に刻まれた額の傷を撫でながら、これまでの事を思い返す。
そこに在るのはただ戦の中で、殺す事だけを求めた男の末路。
確かに強くなったのだろう、確かに結果を残すには至った。
そして富を得た、名声を得た。
決して望んだ訳ではなかったが、貰えると言うのならあらゆるモノを手にした。
百人の兵を殺せば、それ以上の女が彼を求めた。
その富、名声、または鍛え抜かれた雄としての肉体を。
悪い気はしなかった。
男は無意識に欲の中で溺れていたのかもしれない。
そして用意された運命がこれだ。
その先に待っていたのが今の自分自身なら?
男は誰よりも強く誰よりも殺したが、結局それだけだったとしたら?
あるのはただの過信ではないか?みっともない自惚れと傲慢ではないか?
所詮は権力に跪くしかない己の力の矮小さが、何よりも歯痒かった。
ガルバディの領主に任命された時、僅かでもその先に金と女を見てしまった己を憎み、そして羞恥に涙した。
最後には悟ったのだ。
このまま、つまらぬ領主として一生を終える事になるのだと。
そう悟ってしまう度に、戦いの中で生きてきた男はみっともなく泣きじゃくっては枕を濡らしていた。
「……ああ、あの頃が懐かしい。血肉が踊るあの戦場が、今は凄まじく遠い。もう、触れる事さえ出来ぬ程に……」
風がまた一つ吹き抜けた。
男は目の前の空に剣を幻視し、握ろうと手を伸ばす。
ただやはり、持ち慣れた感触が手の中に伝わる筈もない。
「……何と、俺は……」
空へと拳を伸ばした姿がただただ空しい。
力なく手は開かれた。
「…………ああ」
男は腕を下ろそうとしたが、その瞬間に静止する。
小さな囀りが聞こえた。
掌を見ると、そこには一羽の青い小鳥が止まっている。
毛並みが綺麗な、スカイピッチュと呼ばれる小鳥だ。
小柄でありながら常に城壁よりも高い空を飛び回る珍しい鳥である。
こうやって手に止まった事は滅多にない偶然だろう。
「……綺麗だ」
優しげな笑みを浮かべ、男は魅入った。
その純色の青い毛色に物珍しさもあったのかもしれない。
掌の上から、小鳥は首を傾げながら男を見つめている。
「……だが、すまぬな」
柔らかい声で、男は悲しげに呟く。
その手は鳥を包み込む様にゆっくりと閉じられていく。
「私はやはり……あの生臭い赤が恋しい」
憂鬱な表情で、再び城下を見渡す。
今度こそ、空へと伸ばしていた腕を下ろした。
「……はぁ」
剣は握れない。
いや、握る事は可能でも、一生振るう事はない。
少なくとも、今のまま怠惰な日々を過ごし続けると言うのなら。
「……この匂い、この感触はやはり人でなければ意味がないのだ……すまぬ、すまぬ」
それは一体誰へと向けた懺悔なのだろうか?
握られた拳の隙間からは赤い血が何時までも流れ、指を伝っている。
青い小鳥の囀りは、もう聞こえてこない。
礼を持って礼に返す、そんな当たり前の事を願って何が悪いのだろうか?
故に黒髪の少女は内心呆れていた。
「よく来た、結界は機能していた様だな。まあ上がってくれ……それとコーヒーも淹れて欲しい。どうも我は飲めるものが作れなくてな…ああすまない、では始めようか」
「……ええ、そうね」
ガルバディから遠く離れ森の奥深くに建てられた古びた屋敷にて、キサラギ・サクヤはある一人の女性と対面していた。
妙にすわり心地の悪いソファに腰を下ろす。
同じく目の前でソファに座る女性の分まで用意された二杯のコーヒーが豆特有の芳しい香りを漂わせている。
(何故、来客である筈の私が…こんな事を?)
とはいえ、目の前の相手が格上である事は確かであるが。
頭を抱えたくなる衝動を抑えながら、彼女の声に耳を傾けた。
用件は実に短く締め括られる。
「ガルバディ城の調査?」
「うむ」
「それが呼び出した理由……」
「そうだ。今動ける者は汝しかいない」
ソファに腰掛けた彼女は白いローブを纏った、ただそれだけの格好だ。
サクヤからは『賢者』と呼ばれている金髪の小柄な女性はその外見に似合わぬ尊大な口調で、サクヤを呼び出した理由を簡潔に述べた。
「……他に適役がいない?」
「であるな。だから汝に動いてもらうと言っている」
「そうですか……」
面倒だ、と内心思わずにいられない。
特に考えず顔を明後日の方へと逸らした。
(……改めて見ると本ばかり、散乱してるけど)
確かにここは談話室として案内されたが、その割には本棚の数が異様に多くも感じていた。
(…どうでもいいかな)
湿気で曇った窓からは外の様子を窺えない。
生憎の雨である、屋敷を訪ねた頃はまだ降っていなかったが……。
やはり雨具を持ってくるべきだった、とサクヤは少なからず後悔する。
「どうしたのだ?」
「いえ、断る理由はないものかな、と」
「……私を前にして良くも言えたものだな、それを」
「私は魔術少将だから、軍務に忙しい……で?」
「なればこそだ、汝も魔術師の端くれならば何が重要で何を優先すべきかは分かっていよう」
「……」
サクヤは顔を逸らしたままだった。
魔術少将、それがただの名目の上に成り立ったモノである事は理解していたが、僅かに視線を賢者へと戻した。
それで何?と言わんばかりに細めた目付きでサクヤは話の続きをする様に促す。
賢者は肩をすくめながら苦笑いを浮かべる。
そして、ローブの懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「……これは」
「依頼概要を書き連ねたボロ紙だよ」。
「……虫食いの痕もある。何故、わざわざこんな古いものを……?」
「雰囲気があるだろ?」
「そうですか」
この人は何を言っているのだろう、などと思っても口には出さない。
手渡されたサクヤは、そこに書かれた内容をざっと流し読んだ。
『ガルバディ城で不穏な動きがあり、早急な調査の為に腕利きの冒険者一人を雇いたい。報酬は金貨2枚と銀貨400枚……』
「これは……」
「それなりに詳しく記してあるが、内容は汝に話した事と変わりない」
「……」
僅かに賢者を一瞥すると、再び羊皮紙に意識を集中させる。
サクヤは一つの単語に眉を顰めていた。
「……依頼」
「そう、これは依頼掲示用だ。これをガルバディのリム・エルムまで持っていけ」
「リム・エルムへ?」
リム・エルムとは大都市ガルバディにある唯一冒険者の為の活動拠点である。
宿屋としても機能し、安い料金の割に美味しい飯と寝心地の良いベッドを提供してくれると言う事でそれなりに評判の良い店だ。
「…そこは」
サクヤにとって一度世話になった、同時に当分は訪れまいと思っていた場所。
「ふふ、我が言いたい事も分かるだろう?」
いつもの無表情が苦虫を噛み締めた様な顰め面へと変わっていた。
しかしこれを気に留めず、愉快げな様子を隠さない賢者は話を続ける。
「リム・エルムは良い宿の様だが、冒険者の質という点では他の街と比べても大きく劣る」
「所詮は平和ボケした街だから」
それに加え冒険者という職業に対しての不信感がある。
下賤の出もまた多い彼等を、国の市民や良家の人間が毛嫌いするのだ。
恐らく何人かの輩は今回の様な弱みを見せる事を認める筈がない。
「そうだな。だが、そんな事はバレなきゃ問題ないんだ」
「……」
「一人だけ、信用の出来る者がいるのだろう?」
幾分印象を幼く見せるにやついた様な笑みのまま、賢者はテーブルの上で頬杖をつく。
面倒臭げな態度も隠さずに指で摘んだコーヒーカップを口まで運ぶサクヤ。
(信用のある存在?)
そう言われて真っ先に思いついたのは、あの目つきが悪い金髪の少年のみだ。
剣の腕も確かであり、決断力、行動力共に悪くない。
冒険者特有の手先の器用さもあって、森の中での長期キャンプも難なくこなして見せてくれた。
あの口調の粗さに目を瞑れば彼ほど頼りに出来る男も中々いないだろう。
少なくともサクヤが面識のある冒険者の中では彼が一番だ。
ただ一つ、問題を挙げるとすれば
「……確かに一人だけ。しかし、冒険者は私の事をあまり快く思っていない」
「それはどうだろう。存外気にしているのは汝だけかもしれない」
「……むぅ」
図星を突かれたのかもしれない。
言い訳がましく一言残すとしたらそれは価値観の違い、なのだろうか。
「……理解してて、それを言うの?」
「当然だ。まあ時は一刻を争うのだから、パートナー探しに時間を掛ける訳にはいかないのも事実だよ」
「……」
「それにだ。あの男なら期待出来ると、我は汝の報告から断言しよう」
唐突にニヤつかせていた表情を崩し、背もたれに大きく寄りかかる。
浮つかせていた声に落ち着きが戻る。
サクヤは訝しげに首を傾げた。
男?私は冒険者としか報告していなかった筈、と。
そう言い切れる判断材料だっただろうか?
「ああ、言っておくが我は何も知らない、知らないからこそ汝の意見に真実を縋らねばならない」
「なら」
サクヤが飲み干したコーヒーカップが、ゆっくりとテーブルの上へ置かれた。
特に気に留めず、賢者は自身の髪先を弄っている。
「だが人は主観的な生き物だ、公正な判断を求めて自身が動いても、そこにあるのはやはり主観でしかない。己という名の第三者の主観しか」
「ならば、なぜ?」
「うむ、何故だろうな?」
冒険者を知らない、見たことさえない。
しかし期待を持って言えると断言した。
それは何故か?
髪を弄っていた指を止める。
「答えは一つ。アルフレド、その名を持つ少年の運命が私には見えているから」
「…え?」
あまりに前振りとは脈絡がない答えだった。
だが同時に、彼女が冒険者の名を知っていた事に少なからず驚く。
「何故、その名を……」
「結構である。その反応は予想済みだ」
「……実は調べてた?」
「いいや、だから言ったろ?我は運命が見えていると」
「……」
「まあ、別に信じろとは言わんがな」
「……むう」
当然、サクヤもそんな事を鵜呑みにはしない。
だが目の前の彼女は何だ?
他でもない、唯一無二の賢者と呼ばれる存在だ。
決して自称ではない、その実力に裏打ちされた本物の称号の持ち主である。
自分達が知らない魔術を彼女が知っていても何らおかしい事ではない。
「……ひゅー?」
(……だけれどあれは、どういうつもり?)
下手糞な口笛を吹きながら賢者はちらちらと相手を見る。
ただ鬱陶しい事この上ない。
「……話、進みそうにないから信じる」
「ほお?」
再び賢者の表情が綻びかける。
単純に反応待ちだったのでは?と思い始めながらサクヤは言葉を続ける。
「だから、一つ聞きたい」
「まあ待て。いいのか?人と言うのは真実を伝える事に並々ならぬ躊躇を抱き、そして己を曝け出す事は」
「以下略」
「えぇ」
「もう、ふざけないで」
睨みつける様にサクヤは目を細める。
賢者はただ肩をすくめ、悪びれているだけだった。
「私は、賢者様の戯言に興味はない」
「戯言?割と真面目な内容だと思っていたんだが」
「関係ない」
「……そうか?」
「そう」
触れたくない話だから、という訳ではないだろう。
元より話を振ってきたのは彼女だ。
ただ理由もなく引っ掻き回す、ただそれだけに違いない。
「……」
「……そうか、そうか」
一時の沈黙が生まれたかと思えばそれも僅か間であった。
剣呑な雰囲気を帯び始めた相手を察したのか、賢者は諦めた様に肩を落とす。
「まあ中々の反応を見せてくれたんだ、それで良しとしようか」
「は?」
「そう睨まないでくれ、つい返り討ちにしてしまいそうだ」
「……もう」
「はは……じゃあ話を続けるとして、だな」
一体どこから脱線したのか、などとぼやきながら再び髪を弄り始める賢者。
(自分のせいだろ)
というサクヤの突っ込みが入るより早く、賢者は懐から袋を取り出すとそれをサクヤに押し付ける様に渡した。
「……これは」
「報酬となる金貨と銀貨だよ。大体音で分かるだろう?」
「……本物、なの?」
それなりに重量がある事を腕と掌で感じながら尋ねるサクヤに割と悠長な様子で賢者は答える。
「うむ、偽金が混じっている事はないから安心しろ。ハイリスクハイリターンが私の用意する依頼のモットーでもある」
「自信満々で言う事でもないけど」
「ともかく、だ。汝にはさっさと向かって貰うとしよう」
「?」
ソファから立ち上がると、賢者は握り拳の親指と人差し指を立てた。
突然の行動をただ眺めるサクヤだったが、違和感を覚えたのは唐突だった。
パチンッ!
と鳴らしたかったのだろう、指で音を立てる事は適わなかったがそれがちょっとしたフェイントになったのかもしれない。
「……え?」
魔法陣、気がつけば足元には五芒星を模した陣が青白い光を放ち描かれていた。
「え?」
発動の為の呪文は?発動の為の動作は?
賢者にそんな素振りは無かった筈、何か見逃してしまった?
……もしくは、これは
「短縮詠唱?」
「うぅむ、「パチン」って音を立てるのも工夫がいるのか?上手くいかないものだな」
「賢者様?」
「ああ、すまないすまない」
光が強まる。
それと同時に室内に小さな旋風が起こり、サクヤと賢者の髪を靡かせる。
その風の中を青白い粒子が舞っては霧消していく。
「これ、は」
大量の魔力消費によって発生する『マナの風』と呼ばれる現象だ。
「言った筈だ。時間がないと……言ったよな?」
「……疑問系?」
「リム・エルム前まで飛ばすぞ。そして、さっさと終わらせてこい」
「あ、ちょっと」
「じゃ、朗報を期待する」
「ちょっと、待っ―――」
甲高い音が一瞬鳴り響いたかと思えば、そこにいるのは賢者ただ一人だった。
目の前に空いた妙なスペースを眺めながら再びソファに腰を下ろしつつ溜め息をつく。
上手くいったと思ったが、失敗してしまったのだ。
「……ソファごと、送ってしまったな」
既に冷え切ったコーヒーを口に含みながら、ただ悔やむ。
あれは高かったのにな、と。