プロローグ、森の中で
「―――終章まとめ、終わり」
「……あ?」
靄掛かった視界へ入って来たのは黒い空だった。
森のざわめきにも慣れた物で、草地のひんやりとした冷たさが妙に心地いい。
木々に隔てられた領域の中、ぽっかりと開けられた空き地から小さな明かりが灯り、か細い煙が空高くまで昇っていく。
「……寝てたのか」
永遠と感じていた少女の朗読がやっと終わった。
後には焚き火が木片を燃やす音だけが耳に残り、焦げ臭さがこの場にいる彼等の鼻孔を刺激する。
ふと見上げてみれば、一面に広がる星々が黒一色の天井と化した空を薄い星光で彩っている。
散らばったその輝きは規則性もなくあちこちに点在し、まるでそれは……それは、例えようのない程に綺麗なのだと理解した。
ただ、理解したのだ。
特に感慨に耽る必要もない、それだけで十分だった。
「……」
燃料となる枯れ木のストック、その一束を炎の中に放り投げる。
炭と化した木片に代わり投入された後に勢いを増す炎の様を視線の端へと入れつつ、少年はその意識を空に向ける事以外に現在の意義を見出せずにいた。
「……つまんねー空」
どれだけ綺麗でも新鮮味のないそれは道端の小石にも劣る事がある。
今の彼の心境も実際はそんな所なのかもしれない。
然して変化のない今日も変わらぬ夜空に、毎日の営みを気にかけてばかりである筈もない。
きっといつもどおりの数百回目か、数千回目となる光景なのだろう。
世界がどれだけ巡っても、これだけは変わりようがない。
「っ!さむ……」
夜風が吹き、その肌寒さに身を縮める思いをしながら纏う外套で体を包む。
一つ小さな欠伸をしながら、時間の進行をだらしなく待ち続ける。
この時間が凄まじく退屈に思えてならない。
たまに空を見上げる、その行為にも何ら理由はない。
「……」
そんな、仰向けに地面に伏した若き冒険者――アルフレド・マーティン――の呟きは焚き火の音の中に何の違和感もなく溶け込んでいく。
依頼を受けてから二週間が経つのだ。
今日が恐らく、この森で野宿をする最後の日。
思いに耽る時間もこれで最後だと思えば、僅かな物足りなさも感じてしまう。
「まあ、さてと」
焚き火を背に、アルフレドは体を起こした。
この場にいるもう一人に声を掛ける。
焚き火の炎に遮られるだけの些細な声、ちゃんと聞こえていただろうか?
「……何?」
どうやら聞こえていたらしい。
同じく消え入りそうな細い声、しかしその呟きははっきりと聴き取れた。
「……寒い?」
「ああ。今日はまた一段と冷え込むようだ」
少女はアルフレドの隣に腰掛けている。
夜遅い森の中、ただでさえ冷え込む体温を抑える為だ。
少女の片手には茶色いカバーの分厚い本を抱きしめている。
先程まで彼女が朗読していた本だが、アルフレドに関心はない。
「……」
ただ、その本に心当たりはある。
最初は『勢いと技術があれば人を殴り殺せる』という話からだった。
『賢人と愚人、無知と世界』と表紙に記されたそれは原文を現代語で訳された数百年の歴史がある埃臭い内容の代物だ。
曰く歴史の重みを体現した素晴らしい書物らしく、しかしアルフレドからすれば、その重みが重量とイコールする物なのかと疑問に思う所ではある。
本にあるまじき分厚さを誇る。
アルフレドの目の前にいる少女が持つ本とはまさにそれであった。
歴史に疎い彼は当然、そんな本にありがたみを感じる訳もなかったが、その分厚さは荷物になるかもしれないという思いはあった。
その為、依頼に支障が出る様な代物にならないのか?と一度彼女に聞いた事がある。
依頼遂行、初日目の事だ。
『これに興味が、あるの?』
『いんや。まあ精々銀貨が2、3枚って所だな、その本は』
『え?』
『しかし廉価版の割に高い。それだけの内容なのか……それとも材料費か?まあ良質の羊皮紙は結構高いからな』
『それは……つまり価値の有無にしか、興味がない…?』
『ああ。冒険者たるもの、儲けを決めるのは自身の目利きの程度による』
『………………つまり売るの?所持してたら、ただ売るの?』
『読みもしない本に埃被せるよりかは、よっぽど建設的だろうが』
『……むう』
価値観の違いか、否か。
思えばこれが二人にとってのファーストコンタクトだ。
あれからもう、既に二週間が経っている。
流石に多少は打ち解けたのかもしれない。
しかしまともな会話は、片手で数えても指を全て使うまでもない。
意思疎通に卒がないのは仕事中のみ。
依頼遂行中の効率のみが改善されていくばかりだった。
仕事に関しては少女曰く、相性がいいらしい。
ただ一言、そう言われた。
アルフレドにとってはこれが最初で最後の彼女から振られた会話である。
当然そこから話が続く訳もなかったが、ただ
「少し、聞いてくれる?」
「……ああ、いいけど」
依頼中話しかけられたのはこれが二度目、という事になるのだろうか?
常に素っ気無いやり取り、ただそれだけの関係ではあったのも事実。
それも気がつけば、お互いの態度もゆっくりと軟化しつつある。
時間とはそういう関係をも曖昧にしていく物なのだろうか。
アルフレドは分からない。
分からないからこそ、折角話題を提供してくれた彼女の行動を無碍にする訳にはいかなかった。
分からなくても、分からないなりの相槌の打ち方はある。
少女の話はアルフレドにとって難解ではあるが、理解の域を超えたとまではいかなかった。
基本座学とは無縁な幼少時代を送った訳だが、だからと言って思考を放棄した事は一切ない。
「……アルフレド・マーティン?」
「ああ、分かってる……つまりこうだな」
曰く、そこにあるのは歴史という名のロマンと解明しりえないミステリアスな経歴、とのことだろうか。
今は名も失われた過去の偉人、その人物に関しての記録だけが綺麗さっぱり消失し、性別がどうだったかも不明。
その『赤』一色の背格好と数々の偉業のみが後世に伝わっている。
『紅の革命論者』と呼ばれた彼、もしくは彼女は歴史上で最も謎が多い人物だ。
曰く、美麗の男装学士。
曰く、貴族崩れの絶世の美丈夫。
曰く、曰く、曰く……。
総じて言われているのは、彼(彼女)はあまりにも美しかったとか。
ただ所詮は文献上の、しかも信憑性の低い話ばかりである。
これらは彼と同じ時代に生きたとされているその他の人物達の手記からの内容だが、紅の革命論者の生活風景が垣間見える物は一つもなかった。
どこに住み、どういう血縁関係を持っていたのかも不明なまま。
当時の人物達からしても分からない彼は一体何者なのか?
その正体を巡って幾つもの諸説を常に飛び交わす紅の革命論者とは、本当に実在した人物なのか?
謎が謎を呼ぶように、もしかしたらその行為は事実を人目から更に遠ざけていくだけの愚考に過ぎないのかもしれない。
しかし物好きな学者達は、日々これだけの議題で一日の半分以上の時間を浪費しているという事らしい。
「それは、実に馬鹿らしい事」
「馬鹿、らしい?」
平坦な声色でサクヤはそんな事を語った後に、最後に一言呟いた。
肝心の聞き手であるアルフレドの反応をまたずに、更に少女は一呼吸空けて再び口を開く。
「彼等の様な人間は、ナンセンスだと私は思う」
「んと……何故だ?」
「所詮、過去は過去。書物や遺物から歴史を詮索して得た事実に確証を求めても、誰が正解だと言ってくれるの?」
「……そりゃあ」
そりゃあ、誰も正解なんて言える奴はいねえだろ?
もちろん彼女の理屈を通せば、の話だが。
そう言い掛けた所でクスッと、少女は小さく笑みを漏らしていた。
「私もそこまで小難しい事は分からないけれど、醜い事実を掘り起こすよりも綺麗な形なまま、残しておきたいと思うのは……おかしい事だと思う?」
同意の言葉を求める様に少女はアルフレドを見つめた。
目を合わせた瞬間、喉に何かが詰まった様な妙な違和感を抱いてしまう。
アルフレドはそれを誤魔化す様に顔を背け、口元を手で隠していた。
「……ん?」
「いや……なんつうか、考えた事もなかったから、だから、えーと…」
どうしても丁度いい言葉が思いつかない。
アルフレドは、ただ声を濁すばかりだった。
彼女はこの地域でも珍しい黒髪黒目の少女である。
百七十センチ程の長身に、装飾の少ないシンプルな黒い軍服の上からでも見て取れる手足の長い均整の取れたスタイル。
クリッとした愛嬌のある大きな目、黒い瞳、ふっくらとした柔らかそうな唇。
大抵の人間なら彼女とすれ違った瞬間に振り返り、つい二度見してしまう様な可愛らしい顔である事に違いない。
黙っていれば人形の様で、だが口数の少なさの割にコミュニケーションに支障がない程度に豊かな感情表現をする彼女だが、大抵の場合は素っ気無い態度を取るだけだ。
彼女が名を名乗ったのも今から二週間前の自己紹介の時の一度っきり。
それ以来聞く機会は無かったが、その珍しい名前故今でも憶えていたのだった。
キサラギ・サクヤ。
彼女の国では上から姓を読み、下に名が付くという。
姓は『キサラギ』 名前は『サクヤ』
―――名はサクヤ。
彼女のイメージにあった名前だと、アルフレドは何となしに思っていた。
「……はっきりと分かるように、声を出すべき」
「……ああ」
無意識なまま、よほど黙ったままでいたのだろう。
後に残ったのは口を開きかけた彼と、微妙な無言の空気である。
本来無口気味である筈のサクヤは訝しげに首を傾げ、アルフレドをジッと見つめる彼女もまた、今日は妙に口数が多い。
向かい合う相手の顔を映し出す淀みのない綺麗な黒の瞳が、キラリと輝いた気がした。
(…………)
何か一言、そこを意識し過ぎたのかもしれない。
「……さっき、笑ったな」
「…………そう?」
首を傾げ、頬を人差し指で描くサクヤ。
「……私、無自覚?」
「さあ?」
変な感じだった、とアルフレドは思わずにいられない。
かくして、会話はここで終了する。
用件は終わりと言わんばかりに顔を逸らし焚き火の様子を眺め始めるサクヤ。
妙な疲労感が溜め息という形でアルフレドの口から吐き出され、彼もまた再び夜空を眺め始めた。
何事もなかったかの様に、静寂が二人の下へと舞い降りる。
これで当分互いに話す事はない、様な気がする。
(今日は、やけに長く話したもんだな)
ただ、何か得るものがあったかと言われればそれは、サクヤとは割とロマンチストだった……という少々意外な事実だけだろうか。
アルフレドは、密かに確信を持っていたのかもしれない。
嵐の前の静けさとは言うが、存外にそれは静かだとは言い切れないのだ。
ジャリッ。
「仕事」
「ん、ああ……やっと来たか」
「寝てばかり、ちょっとは警戒して」
地面を踏む音だ。
サクヤが立ち上がり、腰に下げていた杖を握っている。
アルフレドの意識が覚醒するまでにそこまで時間は掛からなかった。
今度は浅い眠りだった為か体が鉛の様に重く感じる事もない。
体を起こし、腰を上げながら傍に控えているサクヤに視線を向ける。
「……ん?」
相変わらず真っ直ぐな瞳だ、とアルフレドは呆れつつも感心した。
変化を感じさせない無感動の瞳。
彼女が動じる訳がない事はこの二週間の間で既に承知している。
ならば、特にフォローする必要もない。
「うー……っと、こういうのも悪くはねえが、疲れは残ったまんまだ」
「羽毛なんて贅沢、寝れるだけありがたい」
「へいへい、俺は早く宿の飯が食いたいよ……」
「じゃあ、後一踏ん張りお願いする。アルフレド・マーティン」
「……へいへい、と」
草木が揺れる、視界を遮る森の中を何かが駆け抜ける。
一寸先まで広がる闇の中に浮かぶ赤い眼光、這いずる様な低い唸り声。
一瞬でも隙を見せれば奴等は必ず襲い掛かかってくるだろう。
そんな緊張感がアルフレドの全身を伝い、肌の感覚をより敏感にさせる。
一種の興奮状態、だがこれこそが心地いい。
「……ふふ、よぉし、いいぞー……!」
引き攣った様な笑みを浮かべながら舌なめずりをする。
理性を僅かに残した瞳は、既に狩人としての輝きを見せていた。
そう、獲物を待ちわびていたのは奴等だけではない。
高揚する心が、渇望する欲求が、はち切れんばかりに上り詰める。
斬りたくて仕方がない衝動が津波の如く理性を飲み込まんと到来する。
戦いの前は常にこうだ、この感情に飲まれればどれだけ楽になるだろう。
だがまだだ、まだ堪えろとアルフレドは己を抑えた。
今はその時はではない。
「……キサラギ、準備は」
「万事完了、後はタイミング」
「そいつは結構。……仕事中は会話が弾むもんだな」
「それは…相性がいいってこと?……仕事の」
「そいつはしらねえ、ただ……」
「? 何て……」
「気にすんな。それとカウントする、合わせろ」
「……了解」
サクヤから唇を動かすのみの無音の唄が紡がれた。
魔法陣なし、術式エフェクトOFFの完全簡易版。
「3……」
それに合わせ、アルフレドのカウントが始まる。
奴等は動かない。
まだ機会を伺っているようだったが、それならそれで好都合。
「2……」
サクヤの口の動きが止まる。
アルフレドを一瞥し、軽く頷いた。
(早めに詠唱が完了した?……問題は、ないッ!)
腰に携えた剣の柄を握り、腰を低くした。
スタートだ。
「今!」
アルフレドは勢いを乗せ、力強く大地を蹴る。
その瞬間。
「短縮詠唱」
彼の背を前にして、サクヤの魔法が解放される。
「光撃・拡散」
平坦な声で呟かれた。
瞬間、大音量の爆音が鼓膜を突き破りかねない激痛となって耳の中を奔ると同時に、視界を白一色に染め上げる程の光が周囲を包み込んだ。
影の先までを照らし出し、森の中に潜む奴等の姿を鮮明にするだけの光がその動きを妨げ、視界を奪う。
「……眩しい、早く」
「すぐに済む!」
サクヤの杖から放たれたその輝きを背に、アルフレドは剣を引き抜いた。
刃が光を拾い、研ぎ澄まされ薄く黒ずんだ刀身を白く染め上げる。
「先制、取ったぞ!」
迷いもなく正確に、アルフレドの刃は奴等を斬り伏せんと容赦なく振り下ろされた。