奏~かなで~
【前編】
頭の中で音楽が鳴り響く。
鍵盤の上を私の指が滑らかに、そして時に激しく触れる。それは私の気持ちを表現するかのように音を奏でる。Grave(重々しく)に、Largo(幅広くゆるやかに)に・・・。
先人たちは様々な曲を生み出していった。J.S.バッハ、スカルラッティ、ハイドン、モーツァルトにベートーベン、シューベルトにショパン・・・名を挙げていけばキリがない。彼らは何を思って音楽に触れ、そして没頭していったのだろうか。中には人生の全てを音楽に捧げた音楽家もいる。音楽というものはそうさせるだけの魅力を秘めているのかもしれない。
「和奏!」
私は母にそう名を呼ばれ、驚いて鍵盤の上から指を上げて動きを止めた。母は明らかに不穏な空気を纏い、ピアノの前にいる私に詰め寄った。
「何回言わせるの! そこはタ・・・タ・・・タでしょう。もっとmorendo(絶え入りそうに)に弾きなさい」
「・・・はい」
私は叱る母から眼を逸らし、唇を噛んで再びピアノに向き合う。
毎日、毎日、母からピアノの練習を強制させられている。学校が終わって帰宅すると、夕食と入浴の時間以外は全てピアノの練習時間に充てられる。母からの指摘は凄まじく、それをこなす事ができなければ眠ることも許されない。私はこんな環境の中にいて、先人たちとは違い音楽に対して嫌悪感すら覚える。
・・・そして今日も長時間の練習が終わり、私は疲れた体を引きずって自分の部屋に戻った。
『九条 和奏』・・・それが私の名前。なぜ私がこうしてピアノに縛られてしまっているかというと、両親は2人ともピアニストだったからだ。父は私が物心つく前に他界してしまったが、2人とも世界的に有名なピアニストであるということは、家に残されている多くのトロフィーや賞状を見ればすぐに分かる。元々そういう世界にいた為か、娘である私を自分と同じように世界的なピアニストにしようとしているらしい。有名ピアニストのサラブレットとという理由か、私には天性の才能があるということ。私自身納得していないが、母はそう言っていた。園児の頃からピアノに触れ、小学校に上がる頃には最早大人顔負けの腕前となった。コンクールで幾つも受賞したこともある。
それでも、音楽というものに惹かれはしていなかった・・・。
電気を消してベッドに横になり、私は目蓋を閉じた。何時間も何時間もピアノを弾いていると、こうして眼を閉じていても音楽が耳から離れない。そういった余韻を覚えていると、指まで無意識に動いているから怖い。
「・・・私は・・・何のためにピアノを弾いてるんだろう・・・」
私はそう呟き、重い疲労と睡魔に潰されていった。
早朝。まだ日が昇らぬ時間の4時に眼が覚め、私は今日もいつものようにレッスン室へ向かった。母の言いつけで、朝は朝食までの3時間ピアノの練習をすることになっている。習慣とは何て恐ろしいんだろう。始めはイヤイヤやらされていた早朝練習も、こうして勝手に体が目覚めてしまうのだ。
私はピアノの前に座り、天井を見上げた。
「・・・何を弾こうかな・・・」
数分試行錯誤して、結局j.s.バッハの『G線上のアリア』を弾くことにした。この曲は緩やかでとても心が落ち着く曲なのだ。G線上のアリア・・・それはバッハの管弦楽組曲第3番の中でもとりわけ名高い「アリア」楽章につけられた愛称だ。しかしこのタイトルは本来作者であるバッハが名付けた題名でない。19世紀後半になってアウグスト・ウィルヘルミがニ長調からハ長調に移調させるとこの曲はヴァイオリンのG線のみで演奏可能なことに気づき、そこから由来している。これも母から教えられた受け売りに過ぎないが・・・。
ピアノを弾きながら、私は兄のことを考えていた。私には兄がいた。数年前に大学合格と同時に一人暮らしを始めて家を出て行ってしまったが、兄だけが私のこの劣悪な環境の中で唯一の癒しだったと今では思える。少し前までは電話で話すこともあったが、大学が忙しいのか、今では手紙のやり取り程度になってしまっている。
「瞬兄ちゃん、今頃どうしてるかな・・・」
私はそう呟いて、ピアノの練習を終えた。色んな曲を弾いているうちに、いつの間にか時間が経っていたようだ。気がつけば太陽が昇り、スズメたちが朝の訪れを告げている。私は演奏を止め、朝食をとるために台所に向かった。そこには既に母が立っており、テーブルには朝食が並べられていた。私が椅子に座ると、母は無表情で視線を向けてきた。
「・・・練習はしたの?」
「・・・うん」
「そう、それじゃいいわ。今日も早く帰ってきなさい。帰ったらすぐにレッスンよ」
「・・・うん」
私は溜息を押し殺し、目の前に置かれた目玉焼きを一口サイズに切って口の中に放り込んだ。娘にも自分が歩んだ道を進んでほしいという気持ちは分からなくもないが、こうも押し付けられてしまうと息苦しさすら覚える。私は母と向かい合う状況に耐えられず、急いで朝食を片した。
「・・・行ってきます」
そう言い残し、私はすぐに家を飛び出した。家の中よりも、学校に行っていた方が落ち着くというのは妙な感じだ。家を飛び出すことで、私は満足のいく開放感を胸にしていることに気づき、一人で苦笑してしまった。
団地を少し歩き、時折スキップを混ぜる。それはまるでミュージックのように、リズム良く・・・。
「・・・これは・・・Jiocoso(楽しげに)ってところかな?」
私は自分のリズムに心を弾ませ、正面に見えてきた人物まで同じリズムで駆け寄った。「お早う、綾歌ちゃん!」
私はそこにいた女の子に抱きつき、いつものように挨拶をした。しかし当の綾歌は恥ずかしそうに眼を伏せてしまっている。加々美綾歌は私と同じ小学5年生。家が近所ということもあり、物心ついた頃から一緒で大の仲良しなのだ。まぁ・・・大人し過ぎるのがタマに傷だが・・・それも今の世の中では慎ましいと受け取ってもらえる長所なのかもしれない。
「お早う・・・和奏ちゃん」
「うん。ね、また昨夜もレッスンだったんだよ。私もいい加減疲れちゃうよ」
「和奏ちゃんとこのお母さんは厳しい人だもんね・・・」
「それに比べて綾歌ちゃんのところは優しいお母さんだから羨ましいよ」
私はそんな会話を続け、学校に向かいながら歩き出した。しばらく他愛のない会話をしていたが、綾歌が何かに気づいたように問いかけてきた。
「そういえば、お兄さんはそろそろ大学卒業じゃないかな?」
「瞬兄ちゃん? ・・・留年とかしてなければ今年卒業のはずだけど・・・ちょっと心配だなぁ。面倒臭がりやなところがあるからね」
「・・・でも・・・頼りになる人だよ」
「・・・そうだね」
私の兄の口癖は「面倒臭い」だった。詳しくは聞いていないが、父が存命していた頃は父母からピアノの英才教育を受けさせられていたらしい。兄も私と同じサラブレットであるからして、世間からも結構注目されていたそうだ。しかし兄は中学の後半からピアノに触れなくなり、どういう訳か空手に熱中するようになってしまった。ピアニストから格闘家へ転職とは、なかなか大胆な選択だ。しかもその時期から転向しておいて、そちら方面でも実力を発揮するから母も驚いたそうだ。
その頃には父は亡くなっており、母が兄をピアニストになるように説得しても、兄は首を横に振るだけだった。「オレには向いてない」と言っていたが、本音はやはり「面倒臭い」ということだろう。
そんなことがあったから、母はただ一人残された私に期待を注ぎ込んでいるのだ。今の私の状況は兄が作り出してしまったといっても過言じゃないだろうが、どうしても兄を責める気にはならない。私が兄のことを慕っているということもあるが、自分の人生は自分で決めるものだと私も思っている。親と同じレールの上を歩くという二世代的なものは、既に前時代の古い習慣だ。私もいずれは、ピアノ以上のものを見つけてそちらに転向する可能性もあるのだ。
「お兄さんはもうこっちには戻ってこないのかな・・・?」
「う〜ん・・・どうだろうね。帰ってきてもお母さんにブツブツ言われるだけだろうし・・・瞬兄ちゃんの性格を考えると帰ってこないだろうね・・・」
「・・・そっか・・・」
綾歌は見るからに残念そうな表情を浮かべ、溜息をついている。それを見て、私はニンマリと微笑んだ。綾歌は小さい頃、私の家に遊びに来ては兄に面倒をみてもらっていたのだ。そういうこともあってか、綾歌は兄のことを本当に慕っている。もしかすると、実の兄のように思っているのかもしれない。・・・それ以上の気持ちがあるとすると問題だが・・・。
「あげないよ?」
「え・・・っ? あ、私は別に・・・その・・・そんなつもりじゃ・・・」
「顔が真っ赤だよ」
「あ・・・」
綾歌は慌てて両手で顔を覆う。どうやらこれは危惧していた事態になってしまっているようだ。綾歌がこうも兄のことを想っていたということは・・・分かってはいたが、少々複雑な気分だ。
そんなことを話しているうちに、学校に到着していた。下駄箱で靴を履き替え、階段を登って自分たちのクラスに向かう。まだ朝の会まで時間があるため、クラスメイトたちは自由に時間を過ごしていた。クラスを見渡すと、本を読んでいる子、真面目に予習をしている子、ゲームの話しに華が咲いてしまっている子もいる。私は残念ながらそのどれにも類しない人間だ。
考えてみると、私の特技はピアノしかないことに気付く。それに比べ、綾歌のどれだけ優れたことか。綾歌は勉強もできるし面倒見もいい。運動は少し苦手だが、それ以上の特技をもっている。
「もうじき発表会だね。綾歌ちゃんも楽しみじゃない? 綾歌ちゃんは歌がすごく上手だからね」
「それを言ったら・・・和奏ちゃんの演奏も上手だよ」
「・・・まぁ、スパルタなレッスンを受けてるからね」
私はそう言って苦笑した。
私たちの学校では、2週間後に音楽発表会が予定されている。同市の小学校を対象としたイベントで、子どもの勇姿を一目見ようと親も大勢やってくる。近所の住民たちも集まれば、小さいながらもテレビ局だってくるのだ。
音楽発表会といっても要は合唱だが、曲は規定されていない。私の学校では「星の大地に」「あなたにありがとう」「アメージンググレイス」を歌うことになっている。最初の2曲は確かに良い歌で子どもが歌うのに適している。しかしそれに比べ、最後の「アメージンググレイス」は洋楽だ。クリスチャンの学校でないのにこの選曲はどうかとも思うが、皆楽しそうに歌っているから問題ないか・・・。最初は英語に悪戦苦闘していたが、3ヶ月の練習を経て、今では立派に歌えるようになっている。
そしてその翌日、私にはピアノのコンクールが待ち受けている。一応弾く曲は決まっているが、それが近づくにつれて母の意気込みが増えそうな予感がして、気が気じゃない。只でさえスパルタだというのに、これ以上きつくなってしまったらとてもじゃないが耐えられない。いっその事、風邪でもひいて欠席しようかと思ったが、母の性格からして、そうした病気になってしまっても出演させられそうだ。
私と綾歌は自分たちの席に座り、そして丁度担任の先生が教室にやってきた。担任である神蔵は寝癖のついた髪形のまま、生徒たちに各自席につくように促した。
「皆、お早う!」
神蔵がそう笑顔で挨拶すると、生徒たちも笑顔で返した。「音楽発表会はもう目前に迫っているけど、大丈夫かな? 特に・・・九条さん」
「え・・・私?」
神蔵に急に名を呼ばれ、私は不意打ちをくらってキョトンとした表情を浮かべてしまった。
「九条さんには全曲ピアノを任せてしまっているからね。翌日にはコンクールもあるんだろ? あまり無理させては先生が怒られてしまうからね」
「・・・私のお母さんにですか? それは怖そうですね」
「うん・・・。九条さんのお母さんは怖いから、先生は苦手なんだ」
神蔵はそう肩を落とす。しかしすぐに顔を上げて「ここだけの話だぞ」と付け加えて生徒たちを笑わせた。
「私なら大丈夫」
「本当に?」
「はい」
「・・・そっか。なら本番も頼むよ。コンクールには皆で応援に行ってあげるからね」
「・・・そんな・・・別にいいですよ」
「ハハハ・・・応援とは少し違うかもしれないな。ただボクが九条さんのピアノを聴きたいだけなんだ」
神蔵はそう言って子どものように純粋な笑顔を浮かべている。神蔵の言葉を聞き、友人たちも順に「私も聴きたい」「オレも」「ボクも」と賛同し始めた。信じられないことに、クラス全員が賛同している。それに気を良くしたのか、神蔵は嬉しそうに「決まりだね」と肯いていた。
「・・・もう好きにしてください」
私は諦め、苦笑してそう呟いた。
授業を終え、神蔵は生徒たちを体育館に集めた。今日もいつものように合唱練習をするつもりらしい。私は皆が並んでいる横に置かれているピアノの前に座った。
「それじゃまずは星の大地にを歌おう。九条さん、頼むね」
「はい」
私は肯き、指揮者の合図で音を奏で始めた。指揮者は自分と同じクラスメイトの男の子で「格好よさそう」と立候補していたが、残念なことにリズムが合っていない。このリズム通りに弾いてしまうと曲が崩れてしまいそうだったので、男の子には悪いが自分のリズムで勝手に弾かせてもらった。それは次の「あなたにありがとう」でも同じで、時折指揮者を見るが相変わらずリズムが狂っていた。
「それじゃ最後にアメージンググレイスだ。独奏者に加々美さんだね」
神蔵は綾歌を呼び、生徒たちの中央に立たせた。神蔵が綾歌を独奏者に選んだ理由、それが綾歌の一番の特技にある。私が軽く伴奏を弾くと、皆は綾歌を中心に歌いだした。
・・・こうして聞いていると、やはり綾歌の声が際立っている。他の子も頑張ってはいるが、綾歌のどこまでも透き通るような声には敵わない。普段大きな声を出すことがないのに、彼女はこういう場では信じられないような声量を出すことができるのだ。しかもただ大きくて煩いのではない。心地よく耳に残り、透明感すら感じさせるのだ。その歌声に酔っているのか、神蔵は目を閉じたまま聴き入っている。油断すると私までそちらに集中してしまい、指先が止まりそうになる。それだけ彼女の歌声は素晴らしいのだ。
合唱練習を終え、私と綾歌は一緒に下校していた。
空が茜色に染まり、夕焼けが空や雲を幻想的に映し出している。夕焼けの光を浴びて頬を染めている綾歌に、私は苦笑した。
「・・・やっぱり綾歌ちゃんはすごいね」
「え? 何の話?」
「歌だよ。先生もすごく褒めてた」
「その・・・でも私も自分にあんな声が出せるなんて知らなかったんだよ。全部先生に言われた通りにしてるだけで・・・」
「でも先生から教えられたのは歌の練習方法だけでしょ? すごいのはやっぱり綾歌ちゃんだよ」
私が褒めると、綾歌は恥ずかしそうに顔を俯かせた。こんな気弱そうで大人しい子が、まさかこんな才能をもっているなんて誰も気づかないだろう。その才能を見出した神蔵にも驚かされるが、やはり本当にすごいのは綾歌自身だと思う。
「でも和奏ちゃんもすごいよ。最後にコンクール用の曲を練習してたでしょ? 皆感動してたよ。あれは何て曲なの?」
「あれは・・・瞬兄ちゃんが昔よく弾いてた曲なんだ。悲しいけど・・・でも心を包んでくれるような優しさも感じる・・・。私ピアノはあまり好きじゃないけど、こういう音は好きなんだ。『弦楽のためのアダージョ』っていうんだけどね」
「そういえば・・・私もお兄さんがそれを弾いてるところを見たことあるかも・・・」
私は綾歌にそう言われ、その光景を思い出した。私がもっと小さかった頃、兄はピアノの前で優しい・・・でもどこか儚いような笑みを浮かべていたような気がする。兄は何を思ってこの曲を弾いていたんだろうか・・・。
綾歌と別れ、ついに家に到着してしまった。ここからまた母のスパルタレッスンが始まるかと思うと、自然と足取りが重くなる。いっそこのまま家出したい気分だ。しかしそんな行動をとれるはずもなく、溜息をついて扉を開けた。
「・・・あれ?」
私はそこで初めて家の敷地内に見慣れない車が止まっていることに気がついた。不思議に思って家の中に入ると、玄関口に荷物が置かれていた。それには見覚えがある。このカバンは私の兄が愛用しているものだ。
「瞬兄ちゃんが帰ってきた?」
私はそれに気づき、高揚感を抑えきれずに居間の扉を勢いよく開けた。
【中編】 兄と最後に顔を合わせたのはいつだっただろうか・・・。
もうそんなことを考えなければならないくらい、兄と会うのは久しぶり。
会ったらまず何を言おうか? まずはお帰りなさいかな・・・などと考えながら、扉を開ける。
しかしそこにいたのは自分が望んでいた人物でなく、考えれば当たり前のようだが仁王のように立っていたのは母だった。母は私が帰ってきたのを確認すると、ピアノのレッスン室へ向かうように目で合図をしてきた。そこの部屋を見渡すが、兄の姿はどこにもなかった。
「・・・瞬兄ちゃんは?」
「あの子なら帰ってきてすぐに家を出て行ったわ」
「・・・そう」
母からの小言を聞かないようにするためだなと私は気づいていたが、それは口にしないことにした。しかし兄のカバンも家に置いてあることだし、しばらくは実家に滞在するつもりなのかもしれない。それを思うと、何だか嬉しくなった。
「コンクールまでもう時間がないわ。今は一秒でも時間が惜しいの。すぐに用意なさい」
「・・・はい」
母は相変わらずだ。私は母に促されるようにしてランドセルを置き、レッスン室へ入った。いつものように・・・私の前には大きなピアノ。そして隣には私の一挙手一投足を観察する母。他にはなにもない。あるのはそれだけ・・・。私はゆっくりと両手を鍵盤の上に置き、そっと音を奏でた。
コンクール用の演奏曲。私はそれに兄が好きだったこの『弦楽のためのアダージョ』を選んだ。しかし理由はそれだけでないのかもしれない。スパルタレッスンを受けてきて、ピアノが嫌いだと思っている私にも、この旋律は無意識に惹かれてしまうのだ。前半のすすり泣くような旋律・・・それは何を指しているのだろうか。
・・・悲しみ?
・・・優しさ?
それとも苦しみ?
それとも切なさ?
いくら考えても答えが出ない。そもそも答えなんてものは作曲者以外誰にも分からない。音を聴いて、それをどう受け止めるかなんてのは人それぞれなんだ。だからこそ私はこの旋律を聴いて、苦しみを連想させた。今の現状がそれだ。ピアノを強制させられ、自分の意思の置き場はどこにもない・・・。
しかしこの曲は中間部から激しく突き上げる慟哭さが現れる。
それは悲鳴にも似た激しさ・・・。それを感じたとき、私はいつも不思議な虚無感に襲われる。それはまるで・・・この音にとり憑かれるような現象さえ感じ取れる。
私はそれに恐怖し、不意に鍵盤から指を離してしまった。
「どうしてそこで演奏を止めるの?」
「・・・」
母は憤慨を露にしている。もしこれが本番だったら減点ものだ。母もそれを危惧しているのだろう。いつにも増して眉間にシワを寄せ、私の肩を強く掴んだ。
「・・・怖かったから・・・」
「怖い?」
「・・・音に・・・吸い込まれそうな気がして・・・」
「・・・そう」
母は腰を曲げ、私と視線を合わせた。そこにいたのは・・・私が知っているいつもの母の顔ではなかった。不思議なことに、優しささえ窺えるような笑顔だった。
「和奏・・・やはりあなたは天性の才能があるわ。そうやって旋律を感じ取れる人間は、そうはいない。そしてそれを演奏できる人は更に少ない。今の演奏は途中で終わってしまったけど、いい出来だったわ」
母はそう言うと、再び顔を上げてピアノの鍵盤に指を置いた。そしてゆっくりと優しい旋律を奏で始めた。私は母の顔を見上げながら、同時に母の指にも意識を向けた。
「・・・怖がることはないわ。ピアノと・・・旋律と一体となるの。そうすれば、あなたはもっと上へ行ける・・・」
「・・・旋律と・・・一体に・・・」
「あなたなら・・・私が行けなかった世界にも・・・」
母は体を翻し、「今日はもう休んでもいいわ」と言い残すとレッスン室を出て行ってしまった。母がこれだけ短い練習時間で切り上げるのも珍しいが、優しい言葉をかけてくるのは更に珍しい。3年に1度あるかないかの珍事かもしれない。
私は母が出て行ったこの部屋で、ピアノを見下ろしていた。そして再び旋律を奏でた。
「旋律と・・・一体に・・・」
母が自分に言った言葉。これが一体どういう意味か分からない。あの虚無感の向こう側に、何かがあるのだろうか・・・?
「・・・ピアノ・・・音・・・旋律・・・私は・・・」
夕食を終え、私は早々と自分の部屋に戻っていた。
今日は母の許しも得て、レッスンはなしとのことだ。帰宅後のあの演奏がそれ程母のお気に召すものだったのか、それとも私が何気なく言った一言がそれ程大切なものだったのかは分からないが、母は妙に満足していた。
そして兄は夕食時になっても帰ってきていなかった。私の演奏で機嫌を良くした母が兄の分まで食事を作っていてくれていたが、やはり母と顔を合わせるのが気まずいのだろう。
「・・・早く会って色々話したいのにな・・・」
私がベッドの上でそうぼやいていると、階段を誰かが上がってくる音がした。そしてその足跡は私の部屋の前で止まった。
(お母さん? それとも瞬兄ちゃん?)
私がどちらだろうと探っていると、扉の前にいる人物はノックをしてきた。私が「どうぞ」と言うと、扉はゆっくりと開けられた。
・・・そこにいたのは、兄だった。
数年振りに見た兄の姿は、どこか大人びており、頼もしささえ感じる。ラフな髪型は相変わらずだが、背も少し伸びているような気がする。兄は私を見るとニコリと微笑み、目を細めた。
「・・・ただいま」
「うん、おかえりなさい」
私はベッドから跳ね起き、すぐに兄の下へ駆け寄った。「ほら、こっちこっち」
兄を部屋のソファーに座らせ、私もその隣に座る。
「瞬兄ちゃん、今どこに行ってたの?」
「・・・うん、少しね」
「・・・少し?」
「いや、ちょっと散歩してただけだよ。久しぶりだったからな」
「すごく懐かしかったんじゃないかな? あの人たちには会ってきた? ほら、あの昔すごく仲が良かった友達いたよね」
「・・・乙部? それとも佐藤か?」
「ううん、違うよ。えっと何ていう名前だったかな・・・」
私は手を顎につけて考える素振りをとった。「あ、思い出した。ゆうきさんだ」
「ゆうき? ・・・ああ、浅倉裕輝か。そういえば昔はよく遊んだな」
「久しぶりに会いに行ってみたらどうかな?」
私はそう言って昔の光景を思い浮かべた。ゆうきさんはよく兄と一緒にいて、何をするにも一緒だった。母もその仲良しぶりに「兄弟みたいね」と笑っていたそうだ。性格も兄と少し似ていてとても優しい。兄が大学合格する少し前からゆうきさんを見かけていないが、今は何をしているのだろうか・・・。
「まぁ、そのうちまた会えるさ。それよりも・・・和奏、少し・・・というか結構大きくなったな。見違えたよ」
「うん・・・成長期だからね。あと綾歌ちゃんは私より少し背が高いよ。加々美綾歌ちゃん、覚えてる?」
「・・・あ、ああ」
「・・・本当に?」
「・・・ごめん、誰だっけ?」
「もう!」
兄のこんないい加減なところは変わっていない。綾歌本人が聞いたらガッカリするだろうが、久しぶりに懐かしい兄の一面に触れることができて、私は少しホッとしてしまった。
「・・・和奏」
「何?」
名を呼ばれて兄の顔を見上げると、兄はいつにも増して真剣な表情でいた。兄はすっと立ち上がり、私の頭を優しく撫でている。
「・・・・・・少ししたら・・・オレはまた家を出る。だから母さんのこと・・・頼んだぞ」
「・・・また・・・行っちゃうの? 今度はいつ帰ってくるの?」
「・・・仕事で少し遠い所に行かないといけなくなる。いつ帰ってこれるかは分からないんだ。だから和奏に母さんのことを頼みたいんだ。母さんはああ見えて、とても弱い人だから」
兄は何かを決意している、私の眼にはそう映った。兄が何を考えているのかは分からないが、母を、そして私を本当に心配してくれていることは確かだ。私は頭を撫でる兄の手をとり、そっと掴んだ。
「・・・瞬兄ちゃん」
「・・・オレじゃ・・・ピアノを捨ててしまったオレじゃ、母さんを支えることはできないんだよ」
「そんな・・・ピアノは捨てても家族なんだから大丈夫だよ・・・」
「家族・・・それだけじゃ本当に母さんを理解してあげることはできないと思う。母さんと同じようにピアノに触れ、同じように才能をもっていていつも傍にいる和奏じゃないとダメなんだ」
兄はそう言って少し寂しそうな表情を浮かべている。
私は兄の真意が見えず、首を傾げてしまった。ピアノの才能なら、私よりも兄の方がずっとある。なにしろ当時は兄のピアノを聴いてそれに憧れ、私はピアノを覚えたのだ。私はその時よりも大分上達したと自負しているが、今でも兄の旋律には到底及んでいない。
兄は「100年に1人の才能」とまで言われていた天才ピアニストになれる天性の指先をもっていたのだ。その兄が母を支えることができないと言うのならば、私では尚更役不足ではないのだろうか。
そんな私の気持ちを見抜いたのか、兄は苦笑した。
「オレはそんな優れた人間じゃないよ。ただの・・・どこにでもいるようなただの凡人だ。でもお前は違うんだ。オレにはわかる」
「私・・・よくわかんない」
「今はわからなくてもいいさ。いずれわかる」
兄は私から手を離し、部屋の扉に向かって歩みだした。「それじゃ、オレは母さんが作ってくれた夕飯をもらうことにするよ。和奏、オレのさっきの言葉を忘れないでほしい」
兄はそれだけを言うと、微笑みながら部屋を出て行ってしまった。
「・・・瞬兄ちゃん・・・?」
「それじゃ、お兄さんが帰ってきたの?」
翌日、登校中に出会った綾歌にその話をすると、彼女はとても嬉しそうに聞き返してきた。私が「そうだよ」と肯くと、彼女はとても可愛い満面の笑顔を浮かべている。この笑顔を男子が見たらイチコロだろうなと思いつつ、私は続けた。
「もう単位は足りてるし、卒論っていうのも提出してあるみたいだから、卒業式まではこっちにいるみたいだよ」
「そっか・・・そっか・・・ね、今日遊びに行ってもいいかな?」
「瞬兄ちゃんに会いに? う〜ん・・・どうしようかな・・・」
「ダメ・・・かな?」
「ダメじゃないけど・・・」
久しぶり会った兄は綾歌のことを覚えていなかった。それを本人に伝えるのは気の毒だ。ここで2人を会わせても、兄のうろたえぶりが眼に浮かぶ。私は苦笑しながら眼を逸らした。
「あ、そ、そういえば瞬兄ちゃんは少し出かけるって言ってたよ!」
「え・・・そうなの?」
「うん、昔の友達に会いに行くみたいなこと言ってた気がする」
嘘だ。
本当はそんなこと言っていない。しかし今2人を会わせても何もいいことがないような気がして、私はとっさに口から出任せを言ってしまった。ガッカリしている綾歌には悪いが、今回だけは勘弁してもらう。
・・・だけどそんな時、意地悪な神様が私たちに余計なお節介を焼いてきた。
「和奏、オレもそこまで一緒に行くよ」
いつの間にか私の背後にいた兄がそう声をかけてきたのだ。私と綾歌は慌てて振り返った。
「え・・・瞬兄ちゃん?」
「・・・どうした?」
「・・・何でもない・・・けど・・・少しタイミングが悪いかな・・・?」
「?」
苦笑する私を見て、兄は首を傾げている。私は隣にいた綾歌の様子をそっと窺うと、彼女は案の定頬を染めて俯いてしまっている。兄もそれに気づいたのか、綾歌の顔を覘きこんだ。綾歌は兄に顔を近づけられ、顔を紅潮させている。
「あ・・・あの・・・あの・・・」
「顔赤いけど、大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか?」
「だ・・・大丈夫・・・ですよ?」
「本当?」
「そ、それよりも瞬兄ちゃん!」
私は慌てて2人の間に割って入った。「こんな朝からどこに出かけるの?」
「ん・・・いや、少し調べ物をね。丁度通学路だったみたいだから、そこまで一緒に行こうと思って」
「そ・・・そうなんだ」
私は苦笑いをして話題を変えた。「そうだ、もうすぐ市の音楽発表会があるんだ。瞬兄ちゃん、もし暇だったら聴きにきてよ。私も綾歌ちゃんも頑張るからさ」
「綾歌・・・あ・・・ああ、そうかわかった」
私は兄の眼をよく見て、「この人が綾歌ちゃんだよ」という思いを込めて伝えた。兄もそれを察してくれたのか、綾歌を見て苦笑しながらも肯いた。当の綾歌は未だに俯いてしまっている。
「予定がなければ、聴きに行くよ」
「・・・予定があったら来れない・・・よね?」
「・・・わかった、訂正するよ。絶対に聴きに行く」
「うん、やった!」
私はそれほど子どもではないつもりだが、兄が聴きに来てくれると思うとやはり嬉しい。綾歌も私と同じ思いのようで、顔を上げて嬉しさを表現していた。
私たちは学校の校門前で兄と別れ、学び舎へと入っていった。
・・・しかし私はまだこの時・・・気付いていなかった。
・・・兄の想いを・・・。
そして・・・母の体のことを・・・。
・・・母が体調不良で倒れたのは、それから一週間後のことだった・・・。
・・・その日、私はいつものように早朝のレッスンに励んでいた。
母から練習するように申し付けられている名曲を・・・。
ベートーヴェンが手がけたピアノソナタ、第8番ハ長調『悲愴』。
第14番嬰ハ短調 『月光』を。
第15番ニ長調『田園』を。
第17番ニ長調『テンペスト』を。
第21番ハ長調『ヴァルトシュタイン』を。
第23番ヘ長調『情熱』を。
第26番変ホ長調『告別』を。
そして第29番変ロ長調の『ハンマーグラヴィーア』を弾いていた。
母はいつもこの旋律を誕生させたベートーヴェンの言葉を口ずさんでいた。それはある侯爵に向けて放った言葉だが、それは母にとっては衝撃的な言葉だったらしい。それは、こんな言葉であった。
「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」
それは彼の不羈奔放さを示すものではあるが、逆に惹きつけられる深い言葉でもある。
私は有名ピアニストの両親の間に生まれた。けれど、こうしてピアノを弾いているのはそれだけが理由ではないのかもしれない。確かに母から強制させられている面は否めないが、それでも私は拒否することができたはずなのだ。
「私は・・・何かに惹かれてる・・・?」
私の指がソナタの終盤に差し掛かった瞬間、頭の中で不思議な旋律が走った。
「・・・どうかしたか?」
「・・・何でもないよ。ただ疲れただけ」
私は腕を下ろし、後ろで聴いていた兄に顔を向けた。兄は帰ってきてから、毎日私の早朝レッスンにこうして付き合ってくれている。私が「ゆっくり寝てていいのに」と言うと、兄は決まって「寝てるより、お前のピアノを聴いてた方がずっと有意義だ」と笑う。そういう兄を見て気づいたが、この数年で兄は変わった。今まではこんな感情をはっきりいう人でもなかったし、今までの兄だったら睡眠を優先させていたはずだ。心境の変化でもあったのか、前以上に暖かみを感じてしまった。
「さて、そろそろお母さんも起きてる頃かな?」
私は椅子から飛び降り、兄の手を掴んだ。「今日は私も一緒に朝ごはんを作ろうかな? 瞬兄ちゃんの分も作ってあげるね」
「料理、作れるようになったのか?」
「私ももう5年生だよ。それ位作れるもん! 瞬兄ちゃんよりも上手かもしれないよ」
「ハハ・・・そうかもしれないな」
兄はそう笑って私と一緒に部屋を出ようとした。しかしその瞬間、兄の動きが止まった。私は不思議に思って兄の顔を見上げると、兄は両目を強く閉じ、片手で口元を覆っていた。体調でも悪いのかと思い私は声をかけるが、兄は首を横に振った。
「・・・不安・・・苦しみ・・・これは・・・」
「瞬兄ちゃん、どうしたの?」
私が兄の体を揺すると、兄は我に返って私の手を引っ張った。
「母さんが・・・!」
「え・・・?」
兄は母の寝室のドアを勢いよく開けた。
私も兄に連れられ、寝室を慌てて覗き込んだ。
そして・・・目を見開いた。
・・・母が倒れていたのだ。
寝相が悪くてベッドから落ちたわけでもない。母は横になったまま、目を見開いたまま倒れていたのだ。
「お母さん!」
私が駆けつけて呼びかけるも、反応がなかった。「お母さん、どうしたの!?」
「・・・和奏、オレはすぐに救急車を呼ぶ。ここにいてくれ・・・」
兄はそういい残すと、すぐさま部屋を飛び出していった。
それからどれだけ待っただろうか。
実際にはそれほど経過してはいないのかもしれないが、私にはとても長く待たされたように感じた。
兄が呼んだ救急隊員が部屋に駆け込み、母の様子を見てすぐに担架に乗せた。そして私と兄はそのまま一緒に救急車に乗せられ、病院まで搬送された・・・。
「脳腫瘍」
それが母が倒れてしまった原因であった。私には難しいことは分からないが、医師から話を聞いていた兄がそれだけを教えてくれた。医師は続けて兄に説明をする。
「現在お母さんは緊急の手術を行っています。手術前に検査を行ったところ・・・残念ですが・・・悪性のものだと判明しました」
「・・・悪性・・・! それでは・・・母は・・・」
「・・・どうやらお話を聞くと、お母さんはあなた方に症状を知らせていなかったようですね・・・。これだけ進行してしまっていると・・・手術を終えても後遺症も視野に入れておかなければならないかもしれません・・・」
「・・・後遺症・・・」
兄は拳を強く握り、力なく俯いた。
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「・・・和奏・・・オレは少し話を聞いておく。だから・・・お前は今のうちに学校の方に休みの連絡をしておいてくれ・・・」
兄は今にも潰れてしまいそうだ。しかし・・・それは私も同じことだった。私の耳には兄の言葉がかすかに届いただけで、私は何も反応できなかった。兄はそれに気づいたのか、医師に「・・・少し待ってください」と伝えると、私の手を引いて電話機の場所まで移動した。兄は学校に連絡すると、母が倒れたこと、しばらく欠席するという旨だけを伝え、受話器を置いた。
「瞬・・・兄ちゃん・・・」
「和奏、オレは話を聞いてくる。だからお前は手術室の前で母さんを待っててやってくれ」
兄は震える私の肩をしっかりと支え、強い眼で私を見据えて言った。そう言った兄の眼は、先ほどまで私と同様に無力感に溢れていたそれでなく、強い光さえ感じられるほどの瞳だった。
「・・・待ってて・・・あげられるな?」
兄のその言葉に、私は目を細め、力なく肯いた。
・・・とても重苦しい空間。
そこに私は立っていた。「手術中」と点灯している赤いランプが私の目の前を染める。あの向こう側に、母がいる。
「・・・この空気は・・・イヤ・・・イヤ・・・イヤだ!」
私はそれに耐えられず、顔を覆って座り込んでしまった。母が死んでしまうのではと考えると、胸が押しつぶされ、涙が止まらない。苦手でしかなかった母でも、そんなのは関係ない。どんな人でも、私にとっては掛け替えのない母なんだ。
「・・・だから・・・お母さん・・・死んじゃイヤだよ・・・!」
私がそう呟くと、丁度前の廊下から手術室へ入ろうとしている医師が2人出てきた。
・・・しかし・・・その医師たちは手術室の扉に手を伸ばしたきり、静止してしまっている。
それが10秒近くも変化がないことに気づき、私はその異変を知った。
私がゆっくりと医師に近付くが、やはり動きがない。身体も・・・顔も・・・目蓋さえもピクリとも動かずにいる。
・・・それどころか・・・その医師の1人がポケットからこぼした時計が私の目の前で浮いていたのだ。それは重力によって落下することなく、まるでそこにあるのが当たり前のようにその場に留まっている。
私は恐る恐る時計に触れるが、それは全く動かすことができなかった。そしてその時計をよく見ると、秒針さえも止まっていたのだ。
「・・・どう・・・なってるの・・・?」
「君はダレ?」
「え?」
不意に声をかけられ、私は驚いて後ろを振り返った。するとそこには、さっきまでいなかったはずの男の子が、人形を抱えて立っていた。歳は私よりも下・・・小学生の1,2年生といったところだろうか。前髪は長く、眼はそれに隠れ、とても大人しい男の子という印象を今でなければ抱いただろう。しかし今はこの不思議な現象の後にこの子を見てしまった。私じゃなくても、疑心をもつだろう。
男の子は微笑み、ゆっくりと私に近付く。
「君は・・・ダレ?」
男の子は再び同じ質問を私に問いかける。
「・・・私は・・・九条・・・和奏・・・。あなたは?」
「ボクは・・・エキ・・・。和奏・・・君はどうしてここに来たの?」
「ここ・・・ってお母さんが倒れちゃったから・・・病気を治すためにこの病院に・・・」
私がそう言うと、エキと名乗った男の子は首を横に振る。
「ここはボクの世界・・・ボクだけの世界。普通の人には入ることのできない、和奏がいた場所とは別の世界。なのに君はここにいる」
「・・・え? どういう・・・こと?」
「音を・・・君も聴いてしまったんだね。人が聴いてはいけない旋律を・・・」
私はエキが発する言葉全てが理解できなかった。しかし世界がどうの、音がどうのと私には関係ない。今はそんなことよりも大切なことがあるのだ。
「そんなことより!」
私は大きな声を上げてエキの言葉を止めた。「私は今お母さんが心配でそれどころじゃないの。だからよくわかんないこと言ってこないでよ!」
エキは私の言葉を聞き、そっと指を差してきた。
「・・・何?」
「大丈夫。和奏のお母さんは死なないよ。だけど、それから先は和奏次第だ」
「・・・どういうこと?」
「・・・後ろを・・・向いて」
「後ろ?」
私はエキに言われたまま、エキの指の先を見るために後ろを振り返った。
すると、目の前にあった時計が床に落ちて音をたてた。
「お・・・っと、しまった」
目の前にいた医師が慌てて落とした時計を拾い、私に視線を向けた。
「うわっ・・・ビックリした。あれ・・・君さっきここにいたっけ? 全然見えなかったよ」
医師は驚いた顔を浮かべながら、そのまま手術室へと入っていった。
「・・・動いてる・・・」
私はすぐに後ろを振り向くが、さっきまでそこにいたはずのエキの姿はなかった。
・・・夢なんかじゃない。幻なんかじゃない。人には説明できないけれど、確かに時が止まっていた。そして私の前にエキという男の子が現れた。あれは現実にあったことなんだ。私はエキが言った言葉を思い出した。
「・・・お母さんは死なない。けど・・・その先は私次第・・・?」
それはどういう意味なんだろうか。「死なない」ということは手術が成功するというを差すのは分かるが、その後がよく分からない。私がそんなことを考えていると、廊下の向こう側から兄が駆けてきた。
「・・・和奏、母さんは?」
「・・・まだ手術中。でも・・・大丈夫だって・・・」
「・・・? 誰が? 医師がそう言ってたのか?」
「ううん。エキが・・・」
「えき? えきって何のことだ?」
「・・・ごめん、何でもない」
私は首を振り、苦笑した。こんなこと兄に言っても信じてもらえるはずもない。私でも、そんな話をされたって信じないだろう。ならば無駄な話をして兄を不安がらせる必要はない。私は兄の手を握り、「何でもないから」と呟いた。
その2時間後、母の手術は終了した。
あの時エキが言った通り、母は死ななかった。しかし医師が言っていた後遺症のせいで、それから数日が過ぎても母が目覚めることはなかった・・・。
ここから先は私次第・・・。
エキの言葉が・・・耳から離れなかった。
【後編】
母は目覚めなかった。
手術を終えた母は、安らかな寝息をたてて眠っている。
・・・眠り続けている。
私は今日も学校を休み、兄と一緒に母が眠っているこの病室で母の手を握っていた。
「・・・お母さん・・・」
「・・・和奏・・・」
兄はそっと私の肩に手を置いた。「お前、最近寝ていないだろう。母さんはオレが看ているから、少し休んだ方がいい」
「でも・・・」
「ここでお前まで倒れてしまったら、看病しないといけなくなるのはオレなんだ。だから・・・休め」
兄は優しい笑顔で私にそう言った。それはとても暖かい言葉だった・・・。自分が心配だという言葉だが、私は兄の妹を何年もやっているのだ。兄は私を心配し、そのように言ってくれたということはすぐに分かった。
私はその言葉を聞き、小さく肯いた。
私は病室を出て、ゆっくりと病院内を歩く。私は病院がきらいだ。この鼻にくる消毒の臭いがすごく苦手で、病気になると母に無理やり連れてこられ、泣いてしまっていた過去を思い出してしまった。その母の厳しくて、でも心の奥底ではとても優しい顔を思い出し、目頭が熱くなる。病院から自宅にたどり着くまでの間、その母の顔が離れなかった・・・。
家に着くと、玄関前に綾歌が立っているのに気づいた。
綾歌はとても心配そうに、今にも泣き出しそうな顔を浮かべながら私に歩み寄ってきた。
「・・・あの・・・その・・・和奏ちゃん・・・」
「・・・綾歌ちゃん、私なら大丈夫だよ」
「でも・・・和奏ちゃんのお母さんが・・・」
綾歌はついにポロポロと涙を流してしまった。実の娘の私が空元気ながらも笑顔を浮かべているというのに、これでは立場が逆だ。でも綾歌は優しいから・・・優しいから私の代わりに泣いてくれる。私は綾歌と抱き合い、悲しみを分かち合うかのように立ち尽くした。
そしてどれくらい泣いただろうか・・・。綾歌も泣きつかれ、眼も赤く腫らしてしまった頃に私は彼女を自分の部屋に招きいれた。綾歌は私の部屋に入って私の前でそっと座った。私はそんな綾歌を見て、軽く笑みを浮かべた。
「・・・私、今度クラスの皆に謝らないといけないね・・・」
「謝るって何を?」
「・・・音楽発表会のこと・・・。瞬兄ちゃんがしばらく欠席するって連絡しちゃったから・・・参加を辞退しちゃったんだよね?」
音楽発表会は本当ならば明日、参加するはずだった。しかし私が急遽休むことになってしまったため、ピアノを演奏する人材がいなくなってしまったのだ。私以外にもピアノを弾ける子は何人かいるが、残りの時間で発表する曲を弾けるようにするというのは少し難しい。そういう理由で担任である神蔵が校長に話を通し、不本意ながらも辞退を決意したのだ。
「・・・たくさんの人に・・・迷惑かけちゃったね・・・」
「私は迷惑だなんて思ってないよ」
俯く私に、綾歌はそう答える。「クラスの皆も・・・和奏ちゃんのこと分かってくれてるよ。だからそんなこと言わないで・・・」
綾歌はそう言ってくれるが、たくさんの人に迷惑をかけてしまったことは事実なのだ。発表会を楽しみにしていた子もいるだろうし、子どもの雄姿を心待ちにしていた親もいたかもしれない。そんな人たちの楽しみを、私の勝手で奪ってしまった。それを思うと、悲しさと同時に、申し訳なさがこみ上げてくる。
「・・・私に・・・何ができるんだろう・・・」
「え?」
「お母さんに・・・迷惑をかけちゃった皆に・・・私に何かできることあるのかな・・・」
私は顔をそっと上げ、目の前の綾歌に聞いた。
病院で・・・あの不思議な空間でエキが言った言葉。
この先は・・・私次第なんだ。でも自分に何ができるのか、こんな自分に・・・果たしてできることがあるのかすら分からない。その自分の行く末を求めるかのように綾歌の顔を窺うが、自分自身でも理解している。
・・・これは自分で考えなければいけないことなんだ。
その日、私は心配する綾歌を説得して、礼を言って帰ってもらった。
その直後、私はすぐにレッスン室へ駆け込んだ。そして目の前に佇む大きなピアノを視界に入れる。
・・・私にはこれしかない。
「ごめんなさい」という在り来たりな謝罪の言葉しか浮かばない私にできることは、自分の気持ちをこのピアノの旋律に乗せて聴いてもらうことしかないんだ。
「お母さん・・・皆・・・ごめんね・・・」
私は震える腕をピアノに伸ばし、白い鍵盤に指を置く。「私の音を・・・聴いて・・・下さい」
私がそう呟くと、閉めたはずのレッスン室の扉がゆっくり開けられてゆくのに気がついた。私がそちらに視線を向けると、そこには先ほどまで一緒にいた兄が立っていた。
「瞬・・・兄ちゃん?」
「・・・母さんの傍を離れてごめんな。でもオレにもできることがあると気づいたんだ」
兄はそう言って私に近づき、そこにあったピアノを眺めた。私が首を傾げていると、兄は優しく微笑んだ。「皆の前で・・・弾くんだろ?」
「え・・・」
「和奏なら・・・そうすると思ったんだ。違うか?」
「・・・ううん」
兄は・・・私の気持ちを一番分かってくれていた。私の心の痛みを、そしてこれからどうしたいかを、察してくれている。それに私は驚いて目の前の兄を改めて見つめた。兄はこういうところで妙に勘がいい。人の気持ちを、状況を、まるで自分のことのように考えているとでもいうのだろうか。それは昔から今も変わらず続いているようだ。私は驚いた顔を浮かべたものの、クスリと笑った。
「・・・? 何か可笑しかったか?」
「ううん。変わってないなと思ってね」
「?? ・・・まぁ、オレもお前を手伝う。オレにできることがあれば、何でも言ってくれ」
「・・・ありがとう。それじゃ・・・」
私は頼りになる兄に耳打ちをして、これからのことを説明した。私の希望を聞いて兄は一瞬戸惑っていたものの、すぐに「仕方ないな」と笑っていた・・・。
・・・翌日、私は母が入院している病院の前で立っていた。
私の祈りが通じてか、天気もよく雲ひとつない。私は母がコンクール用に準備してくれた白いドレスを身に纏い、病院に受診しにきた人々の注目を浴びていた。普段の私ならばとてもじゃないが、恥ずかしくて胸を張って立っていることなどできないだろう。でも今の私はそうした人々の視線なんて、不思議に塵ほども気にならなかった。
数分ほどして、私の隣に大きなトラックが停車した。そのトラックの助手席側から兄が降りてきて、私と同じように病院の母が眠り続けている病室を眺めた。
「・・・母さんに・・・届くといいな・・・」
兄のその言葉に、私は首を横に振った。
「ううん。絶対に届かせてみせるよ」
私のその言葉を聞き、兄は嬉しそうに微笑んでいる。しかし兄はすぐに「始めるか」と呟くと、トラックを運転してきた兄の知人と思われる男性に手を振った。
その知人の男性は赤い髪が印象的で、日本人でないように思える。兄が外国人のその赤髪の男性とどういう経緯で知り合ったのかも気になったが、今の私にとってはとても些細なことだった。その男性はトラックの背部を開け、中に納められていた自宅のピアノを降ろして私の前に運んでくれた。
「ありがとう」
私がその男性にお礼を述べると、その人は微笑んで「頑張りな」と応援してくれた。
私は白いドレスをなびかせ、ピアノの前の椅子に腰を降ろした。そして・・・ゆっくりと腕を上げる。
「お母さん・・・私の音を・・・聴いてください」
私は気持ちを込めて・・・指で音を奏で始めた。
今弾いているのはドビュッシーの『月の光』。この曲は本来好きな人に対する熱情のものだが、この旋律は今の私の気持ちと通じるところがあると感じている。この緩やかで、何かに語りかけるような旋律・・・それに私の母への思いを乗せて奏でる。
音が・・・旋律がどこまでも響いている。
私の指が鍵盤に触れるたびに、私の胸が熱くなる。
私の前にはピアノと青い空。
数分後にはいつの間にかたくさんの人々が私を囲んで音を聴いてくれていた。その人たちの気持ちも・・・この旋律を通して触れることができるような気さえする。
その曲が終わると、私の隣に綾歌が立っているのに気づいた。綾歌だけではない。私のクラスの子が全員、そこで集まっていた。
「・・・綾歌ちゃん・・・皆・・・どうしてここに?」
私がそう訊ねると、目の前にいた綾歌はクスリと笑う。
「和奏ちゃんのお兄さんが・・・神蔵先生に頼みにきたの。『和奏が病院にいる。皆で・・・来てほしい』って・・・」
「瞬兄ちゃんが?」
私は綾歌の後ろにいた神蔵に視線を移した。神蔵は苦笑しながら「校長を丸め込むのに苦労したよ」と顔を引きつっていた。当の兄はもう既にこの場からいなくなってしまっていたが、私は兄を思い浮かべて苦笑した。・・・本当に、私のことを考えてくれるんだな・・・。
綾歌は私の手をとり、微笑んだ。
「和奏ちゃん・・・お母さんに伝えようとしてるんだよね。私には歌うことしかできないけど・・・私にも手伝わせてよ」
「え・・・?」
私が綾歌の顔を見上げていると、他のクラスメイトたちも次々に駆け寄ってくる。
「私も・・・一緒に歌うよ」
「オレも九条のお母さんに起きてほしいから」
「同じクラスの仲間なんだから、ボクたちも手伝いたいよ」
皆は・・・私を囲んでそう言ってくれる。私は皆の優しさに触れ、嬉しさのあまり頬が震えてしまった。涙が溢れ、視界がボヤけながらも、私は仲間たちを見失うことなく見上げていた・・・。
「・・・ありがとう・・・ありがとう・・・」
私は涙を堪えることができず、顔がクシャクシャになってしまうほどポロポロと頬を濡らしてしまっている。その私を見て「泣かないで」と慰めてくれる友達もいた。
「・・・九条さん。仲間もこう言ってくれてるんだよ」
神蔵が言う。「皆で九条さんのお母さんに届くように、一緒に歌おうよ。九条さんはピアノを・・・ボクたちは歌声をね」
「さぁ・・・皆! 今日は最高の発表会にしよう!!」
神蔵は周りのクラスメイトに大きな声で呼びかけ、その声に応えるように皆も大きな声をあげる。皆はすぐに音楽発表会のように整列し、病院を一斉に見上げた。指揮者が私に合図を送る。指揮者の腕が旋律の始まりを告げ、私と・・・皆で・・・音を響かせていった。
・・・皆・・・本当にありがとう・・・。
お母さん・・・私は・・・こんなにも音楽が好きになったんだよ。
だからお母さん・・・私のこの音を・・・・・・聴いてください・・・・・・・。
母の病室。
そこで窓から演奏を聴きながら瞬はその集まりを眺めていた。妹の・・・そしてその仲間の旋律を。
「・・・母さん、聴こえてるか? あいつが・・・和奏が・・・大切な仲間と一緒に作り出しているこの旋律を・・・。母さんに聴かせるために・・・和奏はこうして弾いているんだ。母さん・・・聴いてあげてくれよ・・・」
瞬がそう眠り続けている母に声をかけた時、母の表情に僅かだが変化が生じた。目蓋がピクリと動き、ゆっくりと目を開け始めたのだ。
「母さん!」
「・・・良い音ね」
瞬が駆け寄ると、母は開口一番にそう言って微笑んだ。「音を聴けば分かるわ。これは・・・和奏の音ね。とても・・・気持ちのいい音・・・。和奏・・・あなたの旋律・・・届きましたよ」
母はそう微笑んでいた。
【エピローグ】
私は今、ピアノコンクールの会場で自分の番を待っていた。
「・・・まだ・・・あれから一日しか経ってないんだなぁ・・・」
そう呟き、昨日の光景を思い出した。病院の前で『月の光』を演奏し、クラスの仲間と一緒に歌ったあの光景を。
その後も私はピアノを演奏し、見物客たちの間を縫ってきた兄に母が目覚めたという知らせを受けたのは2時間が過ぎてからであった。私はその場で再び嬉し泣きをし、クラスの皆も一緒に喜んで泣いてくれていた。
しかし当然のことながら、病院側からはお叱りの言葉を頂いてしまった。何の知らせもなしにそういう演奏会を始めてしまったことで、責任者の神蔵はその日に減給を宣告されたらしいが、当の本人は「そんな些細なことは気にするな」と笑っていた。本人曰く、「生徒のためならどんなことでもするのが教師」らしい。しかし今日、朝刊を覘くとそこには市の音楽発表会の記事の隣に私たちのことが載っていた。『もうひとつの発表会』という見出しがつけられ、恥ずかしいことに私のドレス姿が撮られていた。そこに病院側から、名前は伏せてあるが意識不明の患者が、その発表会のおかげで意識を取り戻したと公表していた。しかもそれは私の母だけではないらしい。どうやら複数の意識不明の患者が目覚めたらしいのだ。
私のクラスの親たちや、近所の人たち、病院側や患者さんたちからたくさんの好評を得ることができれば、恩人である神蔵の減給も取り消されるかもしれないと兄は言っていた。そうなってほしいものだ。
「・・・準備はできてる?」
「もちろん!」
私は隣で車椅子に座っている母に、力強くそう返した。母はそれを聞き、微笑んだ。
「今日は優勝できそうかしら?」
「・・・う〜ん・・・結果はどっちでもいいかな。今私は・・・早く音を奏でたいの。それでもっとたくさんの音を知りたいな」
「・・・そうね」
母は目を閉じ、嬉しそうに肯いた。
「今日はクラスの皆が聴きにきてくれてる。良い音を聴いてもらえたらいいな」
「・・・瞬は・・・残念だったわね。もう仕事に行ってしまったみたいで・・・」
「・・・うん」
兄は・・・私に記事のことだけ伝えると、すぐに家を出て行ってしまった。仕事で海外に向かうことになったらしい。一体どんな仕事か聞くのを忘れてしまっていたが、いささか急過ぎて見送りにも行けなかった。今度私の前に帰ってきてくれるのは何年先になるか分からないが、不思議と寂しさは感じなかった。母の「仕事に行く前に、ピアノを聴いてもらいたかったわね」という言葉に私は首を横に振った。
「・・・大丈夫・・・。瞬兄ちゃんがどこにいても・・・音は届くよ。音は・・・絶対に・・・」
そう母に言うと、私の演奏の出番が回ってきた。
私は立ち上がり、笑顔で母に「行ってきます」と告げると、光溢れるホールへ歩いていった。
『奏〜かなで〜』END