冷たい令嬢
私、エリアーナ・フォン・リュミエールは、目を覚ました瞬間から胸の奥に小さな棘が刺さっているような違和感があった。
理由はわからない。ただ、いつもなら自然にできる深呼吸が、なぜかうまくできず、吸い込んだ空気が途中で止まってしまうような感覚だけが残っていた。
侍女に髪を整えてもらいながら鏡を見ると、そこに映る私は、相変わらず感情の読めない顔をしていて、王太子の婚約者としてふさわしいと教え込まれてきた「落ち着いた令嬢」そのものだったけれど、その静かな表情の奥で、心が不穏にざわついていた。
――今日は、大広間に来るように。
そう告げられたのは、ほんの数時間前のことだった。
理由は聞かされていない。
それでも、最近の殿下の態度を思えば、胸が嫌な予感でいっぱいになるのは当然だった。
回廊を歩くたび、すれ違う人々が一瞬だけ私を見て、すぐに視線を逸らす。その仕草があまりにも揃っていて、まるで事前に示し合わせたかのようだったから、私は無意識のうちに背筋を伸ばし、顔に感情を浮かべないよう、いつも以上に気を張っていた。
――大丈夫。私は、王太子の婚約者。
何度もそう言い聞かせながら、私は大広間の扉の前に立つ。
扉が開いた瞬間、視界に飛び込んできた光景を、私はきっと一生忘れない。
玉座の前に立つアルベルト殿下。そして、その隣に寄り添うように立つ、見知らぬ少女。
彼女は、淡い色のドレスに身を包み、守ってあげたくなるような不安げな表情を浮かべていて、殿下の腕に触れるその仕草一つ一つが、まるで「私がここにいる理由」を雄弁に語っているようだった。
(……ああ)
その瞬間、胸の奥で何かが静かに音を立てて崩れ落ちた。
語られるより先に、結末を理解してしまった自分が、ひどく惨めだった。
「エリアーナ・フォン・リュミエール」
名前を呼ばれ、私は一歩前に足を踏み出す。声が震えないよう、意識的に喉に力を入れて。
「はい」
殿下は私を見ていた。けれど、その瞳に映っているのは、もう私ではなく、「不要になった婚約者」だった。
「本日をもって、君との婚約を破棄する」
その言葉は驚くほど簡単に、あまりにもあっさりと、私のこれまでの人生を切り捨てた。
周囲がざわめく音が耳に届く。けれど、不思議と頭は冷えていて、感情だけが遅れて追いついてくるような、奇妙な感覚に包まれていた。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
殿下は一瞬だけ眉を動かす。けれどすぐに、私を納得させる必要などないと言わんばかりの表情で口を開いた。
「君は、王妃にふさわしくない」
私のすべてを否定するような冷たいその一言に、胸が締めつけられる。
「華やかさがなく、感情も乏しい。民衆の前に立つ存在として、人の心を掴む魅力に欠けている」
一つ一つが、これまで私が必死に押し殺してきた不安を、正確になぞる言葉だった。
隣の少女が、殿下の腕をきゅっと掴む。
「殿下は……本当の愛を知るべきなんです」
潤んだ瞳で、彼女は私を見た。
(……そう)
私は、最初から選ばれていなかったのだ。ただ、都合のいい婚約者として、必要な役割を果たすだけのロボットに過ぎなかったのだ。
ゆっくりと頭を下げる。
「承知いたしました」
それ以上、言葉は出なかった。泣き叫ぶことも、抗議することもできたはずなのに、私の中には、もう何も残っていなかった。
大広間を出る背中に、視線が突き刺さる。同情と嘲笑が入り混じった、独特の空気。
それでも私は歩き続けた。
立ち止まった瞬間、本当に壊れてしまいそうだったから。
部屋に戻り静かに扉が閉まった音を聞いた瞬間、足元から力が抜けるような感覚に襲われながらその場に膝をついた。
涙が溢れるまでには、少しの間があった。長いこと感情を抑え込むことを当然として生きてきたせいか、悲しみを感じることも難しくなってしまったのかもしれない。王太子の婚約者は取り乱してはいけない、弱さを見せてはいけない、そう何度も自分に言い聞かせてきた言葉が、役割を失った今になってもなお私の心を縛りつけていた。
「……もう、婚約者じゃないのに」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、胸の奥がひどく痛んだ。立場を失った瞬間、人はこんなにも簡単に空っぽになるのだとそのとき初めて実感した気がする。
しばらくして侍女が様子を見に来たけれど、私は微笑みを作って「少し疲れただけ」と告げた。心配されることが怖かったのではなく、同情される自分を直視する勇気がなかったのだと思う。
やがて正式な通達が届き、「本日中に荷物をまとめて城を出るように」という丁寧で冷たい文章を読みながら、私はこれが現実なのだと否応なく理解させられた。
婚約破棄された令嬢に、この場所に残る理由などない。理屈としては分かっているのに、胸のどこかで、まだ信じたくない自分がここにいた。
荷造りをしながら、これまでの人生が頭をよぎる。王太子の婚約者として求められた振る舞い、感情を抑え込むこと、常に正しくあろうとする姿勢、それらを当然の義務として受け入れてきた日々。私はこの役割を、誇りに思っていたし、必要とされているのだと信じていた。――信じたかった、のかもしれない。
ふと窓の外を見ると、空は驚くほど澄み渡っていて、あの日と同じように、何も知らない顔で太陽が輝いていた。その光景が、どうしようもなく胸に刺さる。
思い出したのは、遠い昔、夜の庭園で一人泣いていた私に声をかけてきた青年のことだった。銀色の髪と蒼い瞳、私を憐れむでも見下すでもなく、ただ真正面から見つめてくれた、あの不思議な人。『そんな顔をするほど、君は弱くない』と、静かに言ってくれた言葉だけが、今でもなぜか鮮明に残っている。
(……どうして、今になって)
過去の記憶に縋ってしまうほど、私は追い詰められているのだろうか。そう自嘲しながら、最後に部屋を見渡し、深く息を吸った。ここは、私の居場所ではなかった。少なくとも、もう。
その瞬間だった。
外から、乱暴な音が響き、扉が強く叩かれる。耳に飛び込んできた声に、心臓が大きく跳ね上がった。
「エリアーナ!」
聞き覚えのある声。けれど、ここで聞くはずのない声。
「……そんなはず、ない」
否定するように呟いた私の声は、震えていた。けれど次の瞬間、扉が勢いよく開き、そこに立っていた人物を見た途端、言葉は完全に失われた。
銀色の髪、蒼い瞳。記憶の中よりもずっと大人びて、それでも変わらない、真剣な眼差し。
隣国ルーヴェンハイム第三王子、レオンハルト殿下は、私の姿を確認すると、まるで張りつめていたものが切れたかのように、はっきりと安堵の息を吐いた。
「……無事でよかった」
その一言が、胸の奥深くまで染み込んで、思わず視界が滲む。
「婚約破棄されたと聞いた。城を出る前に間に合って、本当によかった」
彼はそう言って、私に一歩近づく。
「……私は、もう何者でもありません」
ようやく絞り出した言葉には、自分でも驚くほどの諦めが滲んでいた。価値を失った人間が、ここに立っているだけなのだと、そう思ってしまっていた。
けれど、レオンハルト殿下は否定するように首を振り、私の前に立って視線を合わせると、低く揺るぎない声で言った。
「それでも、私はあなたを迎えに来た」
胸が、大きく波打つ。
「あなたがどれだけ我慢してきたかも、どれだけ一人で耐えてきたかも、私は知っている。だからこそ言える。あなたは、誰かに捨てられていい人ではない」
涙が、止まらなかった。
「どうして、そこまで……」
問いかけると、彼はほんの少しだけ、懐かしそうに微笑んだ。
そっと取られた手の温もりが、現実と教えてくれる。胸の奥で長いあいだ絡まっていた何かが、静かにほどけていくのを感じた。
――婚約破棄は、終わりではなかったのだ。
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