第9話 王都の梟
王都までの道のりは、拍子抜けするほど平穏だった。
街道は整備され、時折すれ違う商人や旅人たちの表情も明るい。道中、いくつかの村や宿場町に立ち寄ったが、そこでは決まって同じ噂を耳にした。
「聞いたか? 東の辺境で、仮面をつけた英雄が現れたらしいぜ」
「ああ、悪徳領主と邪教の連中を、たった一人で壊滅させたって話だろ? にわかには信じがたいがな」
噂は尾ひれがつき、俺の物語は俺自身の手を離れて、英雄譚として独り歩きを始めていた。
それを聞くたび、何とも言えない居心地の悪さを感じる。
俺は英雄などではない。ただ、自分の平穏と、ささやかな復讐のために戦っただけだ。
旅を続けること十日。
ついに、目的の地がその姿を現した。
王都アステリア。
巨大な城壁に囲まれ、白亜の王城が天を突くようにそびえ立つ、この国の中枢。
門をくぐり、街へ足を踏み入れる。
その規模と活気は、俺がいた辺境の街とは比較にならなかった。
石畳で舗装された大通りを、豪華な馬車が行き交い、様々な人種の人々が笑顔で闊歩している。
だが、その華やかさの裏で、俺は確かに感じていた。
路地裏の影に潜む貧困。衛兵たちの目に宿る傲慢さ。そして、街全体を覆う、どこか淀んだ魔力の気配。
この美しい都もまた、見えない部分が腐敗しているのかもしれない。
俺は人波をかき分け、「梟の止まり木」からの手紙に記されていた場所へと向かった。
そこは、貴族街と商業区のちょうど境目にある、薄暗い路地裏だった。
古びた木製の看板には、かすれた文字で『梟のねぐら』と書かれている。ここが、王都における彼らの拠点らしい。
扉を開けると、カラン、と乾いたベルの音が鳴った。
店内は、辺境の街にあった酒場よりも小ぢんまりとしていたが、隅々まで磨き上げられ、静かな緊張感が漂っている。
客はいない。カウンターの中に、一人の女が立っているだけだった。
彼女は、黒い髪を短く切りそろえた、切れ長の涼しげな目元を持つ女性だった。
年齢は俺と同じくらいだろうか。バーテンダーの服装をしているが、その佇まいは、明らかにただ者ではないことを示している。
彼女は俺の姿を認めると、磨いていたグラスを置き、静かに口を開いた。
「お待ちしていました、仮面の英雄……いいえ、今は素顔なのですね」
「手紙の主か?」
「ええ。私はサラ。この『ねぐら』の主であり、『梟』の一員です」
サラと名乗った彼女は、俺にカウンター席を勧めた。
俺が腰を下ろすと、彼女は何も言わずに一杯の水を差し出す。
「単刀直入に聞きましょう。あなたは、これからどうするつもりです?」
「決まっている。魔女リリアーナを見つけ出し、始末する。俺の心臓を巡る因縁を、全て断ち切るためだ」
「目的は、我々と同じですね」
サラは静かに頷いた。
「我々『梟』は、単なる情報屋ではありません。この国の影に巣食う腐敗を正し、真の安寧をもたらすために活動する組織。魔女リリアーナと『黒き祭壇』は、その目的において、最も障害となる存在です」
「なぜ、俺に接触してきた? あんたたちだけでも、奴らを追えるはずだ」
「確かに、追うことはできます。ですが、決定打に欠けていた」
サラは、真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「リリアーナは狡猾で、決して尻尾を掴ませない。しかし、あなたという存在が現れたことで、状況は変わりました」
「俺が、餌になるということか」
「……言葉は悪いですが、その通りです」
彼女はあっさりと認めた。
「『始祖の心臓』を持つあなたを、リリアーナは決して見逃さない。彼女は必ず、あなたに接触してくる。そこが、我々にとっての好機となるのです」
利用されるのは気に食わない。
だが、俺一人で王都のどこにいるかも分からない魔女を探すより、彼らの情報網を利用する方が、はるかに効率的だ。
利害は、一致している。
「……いいだろう。手を組む。ただし、俺はあんたたちの言いなりになるつもりはない。あくまで、対等な協力者としてだ」
「ええ、それで結構です。我々も、あなたを駒として使うつもりはありませんから」
サラの口元に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
「では、協力者殿。早速ですが、最初の情報です」
彼女はカウンターの下から一枚の地図を取り出し、広げた。
それは、王都の貴族街の詳細な地図だった。
「リリアーナは、現在『リリー』という偽名を使い、とある有力貴族の令嬢として社交界に潜り込んでいます。我々の調査では、彼女の狙いは王城の地下深くにある『古の霊廟』。そこは、王族と、代々霊廟の守護を任されてきた一部の公爵家しか立ち入れない聖域です」
「リリアーナは、その公爵家の者に近づこうとしている、と」
「その通り。そして、三日後。その公爵家が主催する夜会が開かれます。リリー、すなわちリリアーナも、そこに出席する可能性が非常に高い」
話が、あまりにも早く進んでいく。
だが、この速度は嫌いではない。
「その夜会に、俺も潜り込めと?」
「ええ。もちろん、正面から乗り込むわけにはいきません」
サラは、どこか楽しそうに目を細めた。
「あなたにも、招待客の一人として、潜入していただきます。幸い、あなたには『辺境を救った若き英雄』という、格好の肩書きがある。それを使わない手はありません」
まさか、自分が広めたわけでもない噂を、こんな形で利用することになるとは。
貴族の夜会。柄ではないこと、この上ない。
だが、それが魔女に最も近づける道だというのなら、断る理由はなかった。
「準備は、こちらで全て整えます。あなたは、三日後までに、貴族社会の作法を頭に叩き込んでおいてください」
そう言ってサラが差し出してきたのは、分厚い作法教本だった。
俺は、これから始まるであろう、剣よりも厄介な戦いを前に、深く、長いため息をつくしかなかった。