第8話 街の変革と、新たな旅立ち
夜が明け、朝の光が街を照らし始める頃。
俺が砦を後にしてから、数時間が経過していた。
アパートの自室で、俺は静かにその時を待っていた。
窓から見える街は、まだ昨夜の惨劇を知らない。いつものように、人々が市場へと行き交い、一日が始まろうとしていた。
やがて、その均衡は破られた。
街の中心にある広場が、にわかに騒がしくなる。
窓から身を乗り出して様子を窺うと、衛兵たちが民衆をかき分けるようにして、領主の館へと駆け込んでいくのが見えた。
バルトーク辺境伯が、約束通り出頭したのだろう。
それからの街の動きは、早かった。
領主である辺境伯が、長年に渡り私腹を肥やし、邪教団と結託して民を攫っていたという事実は、瞬く間に街中に知れ渡った。
最初は誰もが半信半疑だったが、不正の証拠が次々と明るみに出るにつれ、それは怒りへと変わっていった。
人々は領主の館を取り囲み、罵声を浴びせた。
街は、一種の革命前夜のような熱気に包まれていた。
俺は、その騒ぎをただ静かに見つめていた。
俺がやったことは、きっかけを与えたに過ぎない。
街を変えるのは、そこに住む人々自身の力だ。
数日後、辺境伯の処遇が決定した。
全ての爵位と財産を剥奪され、王都へと護送されることになった。そこで正式な裁判にかけられ、おそらくは終身刑か、それ以上の罰が下されるだろう。
彼が不正に蓄えた財産は没収され、街の復興と民への還元に使われることになった。
長年、重税に苦しんできた人々は、歓喜の声を上げた。
街には、新しい領主代理として、王都から実直な文官が派遣されてきた。
街は少しずつ、だが確実に、良い方向へと変わり始めている。
両親が見たら、きっと喜んだだろうな。
そんなことを思い、少しだけ胸が温かくなった。
復讐の一つは、終わった。
だが、俺の戦いは、まだ始まったばかりだ。
俺は、この街を離れる準備を始めていた。
目的地は、王都。
魔女リリアーナ。
古の霊廟。
始祖の心臓を巡る、全ての元凶がそこにいる。
向こうから来るのを待つのではなく、こちらから乗り込んでいく。
俺が生き延び、平穏を取り戻すためには、それしか道はない。
旅の支度を整え、俺はギルドへと向かった。
街を離れる前に、最後に一つ、顔を出しておきたい場所があったからだ。
ギルドに入ると、受付嬢が俺の姿に気づき、少し驚いた顔をした。
「あら……。しばらく見ないと思ったら、随分と良い装備になりましたね」
確かに、今の俺は以前の薄汚れた冒険者とは違う。辺境伯の砦から手に入れた資金で、上質な革鎧と、手入れの行き届いた長剣を新調していた。
「しばらく、この街を離れる。世話になったな」
「……そうですか。寂しくなりますね」
彼女は、心からそう言ってくれているようだった。
短い間だったが、ギルドの依頼にはずいぶんと助けられた。
「あ、そうだ。あなたに、手紙が届いていましたよ」
そう言って彼女が差し出したのは、一通の封蝋された手紙だった。
差出人の名前はない。
訝しみながら封を切ると、中には一枚の羊皮紙が入っていた。
そこに書かれていたのは、短い文章だった。
『君の活躍は聞いている。腐敗した領主を排除し、街を解放した仮面の英雄。大した手腕だ。だが、君が対峙すべき本当の敵は、そんな小物ではない。王都で待つ。我らは、君の味方だ』
文末には、梟の紋章が刻印されていた。
「梟の止まり木」。あの酒場のバーテンダーか。
彼らは、一体何者なんだ。単なる情報屋ではない、何か大きな組織に属しているのか。
そして、「味方だ」という言葉。
にわかには信じがたいが、少なくとも、今のところ敵意は感じられない。
俺は手紙を懐にしまう。
王都に行けば、分かることだ。
敵も、そして味方も、全てがそこに集まっている。
ギルドを後にし、俺は街の門へと向かった。
活気を取り戻した街並み。人々の顔には、以前のような暗い影はない。
この光景を守れただけでも、俺が戦った意味はあったのかもしれない。
門をくぐり、王都へと続く街道に出る。
振り返ると、住み慣れた街が小さく見えた。
ここで得たものも、失ったものも、たくさんあった。
だが、感傷に浸っている時間はない。
俺は、前を向く。
果てしなく続く街道の先には、どんな運命が待っているのか。
魔女リリアーナとの対決。
始祖の心臓の謎。
そして、俺自身の存在理由。
全ての答えを見つけるために、俺は歩き出す。
胸に宿る黒い石の心臓が、新たな戦いの予感に、静かに、だが力強く脈打っていた。
一人の男の、長くて険しい旅が、今、ここから始まる。