第51話 新たなる契約
「――俺が、アストリアを簒奪する」
俺の言葉は、ボルガンの執務室に重く静かに響き渡った。
その言葉の意味を咀嚼するように、ボルガンはしばらくの間黙り込んでいた。
やがて彼は、その顔に深い覚悟の色を滲ませ、ゆっくりと口を開いた。
「……本気か、レオン」
「ああ。本気だ」
「それは、アストリア王国に宣戦布告するということだぞ。アリアンナ王女は、お前にとって恩人でもあるはずだ。その彼女と、剣を交えることになるかもしれん」
ボルガンの指摘は、的を射ていた。
アリアンナ。
彼女の真っ直ぐな瞳が、脳裏をよぎる。
彼女は俺を信じ、力を貸してくれた。腐敗した貴族たちと戦う、気高い同志だった。
その彼女と敵対することは、俺の本意ではない。
だが。
「……アリアンナは、王族だ」
俺は、静かに答えた。
「彼女は既存の秩序の中で、国を正そうとしている。だが、そのやり方には限界がある。腐った根は、枝葉をいくら刈り込んでも、いずれまた新しい芽を出す。本当に国を守るためには、根こそぎ、全てを一度更地に戻すしかない」
俺がやろうとしていることは、反逆だ。
だがそれは、破壊のための破壊ではない。
守りたいものを、永遠に守り続けるための土台作りだ。
そのためには、既存の権力構造そのものを、俺自身が乗っ取るしかない。
「……そうか」
俺の覚悟を感じ取ったのか、ボルガンはそれ以上何も言わなかった。
彼は静かに立ち上がると、俺の前に進み出て片膝をついた。
それは、騎士が主君に忠誠を誓う時の、最上級の礼だった。
「……何をする、ボルガン」
「レオン。あんたがもし、本気でそれを成し遂げるつもりなら。俺たち『黒き翼』も、あんたの剣となろう」
「……!」
「俺たちは、あんたに救われた。この国は、あんたのおかげで新しい夜明けを迎えようとしている。その恩を、返させてもらいたい」
ボルガンだけではない。
いつの間にか執務室の入り口に集まっていた、ギルドマスターのサラシャや革命軍の幹部たちも、次々と俺の前に膝をついていく。
彼らは俺をただの英雄としてではなく、新たな時代の指導者として見ているのだ。
「……あんたたちには、この国を復興させるという大事な役目があるだろう」
「もちろん、それも果たす。だが真の同盟とは、互いの戦いを支え合うものではないのか?」
ボルガンは、力強い目で俺を見上げた。
「俺たちの新政府が安定すれば、俺たちはいつでもあんたの元へ駆けつけよう。フェルゼン王国は、レオン。あんたの最初の、そして最強の同盟国となる」
予期せぬ申し出だった。
だが、これほど心強いものはない。
俺の孤独な戦いに、頼もしい仲間たちが国ごと加わろうとしてくれている。
「……分かった」
俺は、彼らの覚悟を受け止めた。
「その時は、頼らせてもらう。だが、まずは俺一人で始めなければならない」
これは、俺自身の戦いだ。
俺が、俺の力で最初の礎を築かなければ、意味がない。
「……一つ、頼みがある」
俺は、ボルガンに言った。
「俺を、アストリアへ送り返してほしい。できるだけ早く」
「承知した。すぐに、最速の飛空艇を手配しよう。だが、その前に……」
ボルガンは、意味ありげに言葉を区切った。
「あんたのそのボロボロの装備を、新調する必要があるな。一国の王に挑む者が、そんな格好では様にならん」
彼は、悪戯っぽく笑った。
◇
数日後。
俺は、フェルゼン王国の技術の粋を集めて作られた、新たな装備に身を包んでいた。
それは黒を基調とした、軽量かつ強靭な特殊合金の鎧。
俺の始祖の心臓の力――黒と金のオーラ――に耐えうるよう、特別な魔術的処理が施されている。
背中には黒いマントがたなびき、その姿はかつての『仮面の英雄』とは全く違う、威厳と風格を漂わせていた。
まるで闇の覇王。
あるいは、夜明け前の簒奪者。
アリアンナから貰った魔法の剣は、今も俺の腰にある。
この剣だけは、手放すつもりはなかった。
出発の日。
飛空艇の船着き場には、ボルガン、サラシャ、そしてリゼット女王が見送りに来ていた。
リゼットは、瞳に涙を浮かべていた。
「レオン様……行ってしまうのですね」
「ああ。だが、また会える」
俺は彼女の前に膝をつき、その視線を合わせた。
「リゼット。あんたは立派な女王になれ。民の笑顔を守れる、強い女王に」
「……はい!」
彼女は涙を拭い、力強く頷いた。
「レオン。これを、持っていけ」
ボルガンが、一つの紋章を俺に手渡した。
それはフェルゼン王家の紋章が刻まれた、特別な通信魔道具だった。
「何かあれば、いつでもこれを。俺たちは空を越えて、あんたの元へ駆けつける」
「……ああ。ありがとう」
俺は仲間たちに背を向け、飛空艇のタラップを上がった。
リリアーナは、来ていない。
彼女は俺に別れの言葉も告げずに、どこかへ姿を消してしまった。
ルナを止めるため、彼女自身の戦いへと向かったのだろう。
俺もまた、俺の戦場へと向かう。
ゴウン、と音を立てて飛空艇が浮上する。
眼下に、小さくなっていく仲間たちの姿。
そして俺が救い、そして救われたこの国の姿。
さらばだ、フェルゼン。
俺は必ず、戻ってくる。
俺自身の国を、その手に携えて。
俺は故郷アストリアへと舵を切った。
始まりの地へ。
そして俺が、全てを終わらせる場所へ。
簒奪者としての最初の戦いが、今、幕を開ける。