第4話 始祖の心臓
祭りの夜が明けてから数日、街はすっかり日常の顔を取り戻していた。
だが、俺の日常は、もう元には戻らない。
あの日以来、俺は常に何者かの視線を感じるようになっていた。
街を歩いていても、アパートの自室にいても、背中に突き刺さるような、粘つく気配。
姿は見えない。だが、確実に奴らは俺を監視している。
次にいつ、どんな形で接触してくるか分からない。その緊張感が、じりじりと俺の神経を削っていた。
静かに暮らしたい。
その願いは、風の前の塵のように、あまりにも脆く、儚いものだったらしい。
こうなった以上、ただ待つのは得策ではない。
俺はギルドへ足繁く通い、情報収集に努めた。最近、街の周辺で不審な人物の目撃情報はないか。黒い外套の集団、奇妙な魔術を使う連中。どんな些細な情報でもいい。
だが、有力な手がかりは一向に得られなかった。
奴らは、よほど巧妙に動いているらしい。
そんなある日、ギルドの依頼掲示板の前で、俺は一枚の依頼書に目を留めた。
『緊急討伐依頼:古代遺跡に出現したゴーレム群の破壊』
場所は街から半日ほど離れた森の奥。
報酬額が、破格だった。ゴーレム討伐にしては、明らかに高すぎる。
まるで、腕利きの冒険者を誘い込むための餌のようだ。
(罠、か……)
十中八九、そうだろう。
俺がこの依頼を受ければ、奴らは人目につかない森の奥で、確実に俺を仕留めようと待ち構えているはずだ。
面倒だ。関わりたくない。
だが、このまま監視され続けるのも精神衛生上よろしくない。
それに、いつまでも逃げていては、いずれじり貧になるだけだ。
向こうにその気があるのなら、いっそ、この挑発に乗ってやるのも一つの手かもしれない。
俺は依頼書を剥がし、受付カウンターへと向かった。
「これを、単独で」
俺の言葉に、受付嬢は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの事務的な表情に戻った。
「承知しました。……お気をつけて」
最後の言葉に、わずかに案じる響きが混じっていた気がした。
◇
指定された古代遺跡は、苔むした石造りの建造物が、森の木々に飲み込まれるようにして佇んでいた。
依頼書にあったゴーレムの姿はどこにもない。
代わりに、遺跡の入り口で俺を待っていたのは、二人の人影だった。
一人は、先日俺が叩きのめした男と同じ、黒い外套を纏った魔術師風の男。
もう一人は、外套は羽織らず、筋骨隆々とした肉体を晒した大男だ。その手には、巨大な戦斧が握られている。
「お待ちしておりました。我らが誘いに乗っていただき、感謝します」
魔術師風の男が、芝居がかった口調で言った。
「単独で来るとは、愚かなのか、あるいはよほどの自信家か」
戦斧の大男が、地響きのような声で嘲笑う。
「用件は何だ。また勧誘の続きか?」
俺は腰の剣の柄に手をかけながら、冷たく問い返した。
「いえいえ。前回の者の報告によれば、貴公は我らと相容れる気はないとのこと。ならば、話は早い」
魔術師の男が、くい、と顎をしゃくった。
それが、戦いの合図だった。
「オオオォォッ!」
大男が雄叫びを上げ、大地を蹴って突進してくる。
その速度は、見た目の巨体からは想像もつかないほど速い。
振り下ろされる戦斧は、風を切り裂き、轟音を立てて俺に迫る。
俺は冷静に半身を引いてそれをかわす。
戦斧が叩きつけられた地面が、轟音と共に砕け散った。
間髪入れず、後方から魔術師の詠唱が聞こえてきた。
「《ダークランス》!」
数本の黒い魔力の槍が生成され、俺の背後から襲いかかる。
前には戦斧、後ろには魔力槍。見事な連携攻撃だ。
だが。
「遅い」
俺は呟くと、回避も防御もせず、ただ胸を張った。
黒い槍は、俺の体に吸い込まれるようにして、そのことごとくが霧散した。
胸の黒い石が、ずくん、と心地よさそうに脈動する。
「なっ!? 魔術を喰っただと!?」
魔術師が驚愕の声を上げる。
その隙を見逃すほど、俺はお人好しではない。
大男の次の攻撃をいなし、その懐に潜り込むと、渾身の蹴りを腹部に叩き込んだ。
ぐしゃ、と熟れた果実が潰れるような嫌な音が響く。
大男の巨体が宙に舞い、遺跡の壁に激突して動かなくなった。
「馬鹿な……ボルグが一撃で……!」
魔術師は、信じられないものを見る目で俺を見つめ、後ずさる。
「貴様、一体何者だ……。その力、ただの人間のそれでは……」
「それはこっちの台詞だ」
俺はゆっくりと魔術師に歩み寄る。
「あんたたちは何者だ。俺に何の用がある」
「……我らは、偉大なる魔神様の復活を望む者。そして、その贄として、最高の心臓を捧げんとする僕」
魔神の復活。贄。
俺を殺したあの魔女の目的と、繋がった。
「貴様のその胸に宿る石……。あれは、ただの魔石ではない。まさかと思っていたが、文献にあった通りの輝き……。あれは、魔力の根源そのもの……『始祖の心臓』だ!」
魔術師は、恐怖と恍惚が入り混じったような表情で叫んだ。
始祖の心臓?
初めて聞く言葉だった。
「あの方……我が主である魔女様は、血の繋がりを持つ者の心臓でなければ、魔神様を蘇生させることはできないと仰っていた。だが、貴様が『始祖の心臓』の持ち主であるならば話は別だ! それを捧げれば、我らの悲願は……!」
魔術師の言葉は、そこで途切れた。
俺の剣が、その喉を正確に貫いていたからだ。
これ以上、べらべらと喋らせておく必要はない。必要な情報は得た。
ごぼり、と血を吐きながら、魔術師はその場に崩れ落ちる。
静寂が戻った遺跡に、俺は一人立ち尽くしていた。
胸に手を当てる。
服の下で、黒い石が静かに鎮座している。
魔石ではなかった。
始祖の心臓。
魔神の復活。
血の繋がり。
頭が痛くなるような単語ばかりだ。
どうやら俺は、自分が思っていた以上に、とんでもないものを抱え込んでしまったらしい。
そして、それを狙う連中がいる。
静かな生活は、もう望めない。
ならば、どうする。
逃げ続けるか?
いや、もう逃げるのは終わりだ。
俺を殺し、こんな体にした魔女。
そして、その背後にいるであろう「魔神」とやら。
こちらから、見つけ出してやる。
そして、俺の平穏を奪った落とし前を、きっちりとつけてもらわなければならない。
俺の心に、冷たく、昏い決意の炎が灯った。
それは、復讐とも、あるいは単なる生存本能ともつかない、歪な炎だった。