第3話 不穏な影と、祭りの夜
俺の体に起きた変化は、良くも悪くも俺の日常を変えつつあった。
日々の鍛錬と魔物討伐によって、胸の石は着実に力を蓄えている。
それに伴い、俺の身体能力は人間という枠を逸脱し始めていた。
もはやゴブリンやオークの群れ程度では、何の脅威にもならない。
今では単独で森の奥深くに分け入り、ワイバーンのような中級クラスの魔物すら狩れるようになっていた。
その結果、俺の懐は面白いように潤った。
ワイバーンの素材は高値で売れる。
もはや日雇いの依頼で糊口をしのぐ必要はなくなり、俺は埃っぽい安宿を出て、少しだけマシなアパートの一室を借りることができた。
食事も変わった。
硬いパンと薄いスープは過去のものとなり、毎食とはいかないまでも、週に数度は肉厚のステーキにありつける。
死ぬ前に食いたかったものが、死んでから食えるようになったというのは、なんとも皮肉な話だ。
だが、生活が豊かになっても、俺の心は一向に晴れなかった。
この力は、あまりにも異質で、危険だ。
力をつければつけるほど、人との隔たりは大きくなっていく。
いつか、この力が暴走しないとも限らない。
あるいは、誰かにこの体の秘密を知られ、化物として追われることになるかもしれない。
そんな恐怖が、常に心のどこかに影を落としていた。
だから俺は、決して目立たぬよう細心の注意を払って生活していた。
ギルドには単独での素材収集依頼として届けを出し、人との関わりを極力避ける。
大金を手に入れても、贅沢はせず、質素な暮らしを心がけた。
静かに、穏やかに。
誰にも迷惑をかけず、誰からも干渉されず、ただ生きていく。
それが、今の俺の唯一の望みだった。
◇
そんなある日、俺のささやかな平穏を脅かす、最初の兆候が現れた。
その日は、街全体が浮かれた空気に包まれていた。年に一度の収穫祭だ。
大通りには色とりどりの旗が飾られ、露店が立ち並び、吟遊詩人の奏でる陽気な音楽が響き渡っている。
俺は人混みが苦手だったが、食料の買い出しのために外に出ざるを得なかった。
いつもより活気のある市場を抜け、目的のものを手早く買い集め、さっさと家に帰ろうとした、その時だ。
「――見つけた」
不意に、背後から低い声がかけられた。
それは、雑踏の喧騒の中でもやけにはっきりと耳に届く、粘つくような声だった。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の男だった。
黒い外套を目深に被り、顔は影になってよく見えない。だが、その外套の隙間から覗く肌は、病的なまでに青白かった。
何よりも異様なのは、その男から発せられる気配だ。
それは、俺が森で対峙してきた魔物たちのものとは、明らかに質の違う、もっと陰湿で、知性的な邪気だった。
(こいつ……人間じゃない)
瞬時に、全身の感覚が警鐘を鳴らす。
胸の奥の黒い石が、ずくり、と疼いた。敵意に反応しているのか、あるいは同族の気配を察したのか。
「……人違いでは?」
俺は平静を装い、短く答えた。関わり合いになるのはごめんだ。
男は、くつくつと喉の奥で笑う。
「いや。その身に宿す、黒々とした力の奔流。間違いない。我らが同胞、あるいはそれ以上の存在……。まさか、このような人間の街に紛れているとはな」
同胞。
その言葉に、俺の背筋を冷たいものが走った。
こいつは、俺の体の秘密に気づいている。
「何の用だ」
「我が主が、貴公に会いたがっている。我らと共に来てもらおうか。その大いなる力を、つまらぬ人間の真似事などで浪費するのは惜しい」
男は、まるで旧知の友人を誘うかのような、気安い口調で言った。
だが、その言葉には有無を言わせぬ威圧感がこもっている。
主、か。こいつは誰かに仕えているらしい。そして、俺をその組織に勧誘しに来た、と。
断る以外の選択肢はなかった。こいつらの仲間になるなど、冗談じゃない。
「断る。俺はあんたたちのことなど知らないし、興味もない。放っておいてくれ」
俺がそう言って背を向けようとすると、男の気配がすっと険悪なものに変わった。
「それは残念だ。だが、我らが主の誘いを断ることは、死を意味する」
次の瞬間、男の姿が掻き消えた。
速い!
だが、今の俺の目には、その動きがかろうじて捉えられた。
男は俺の背後に回り込み、その爪を――人間のものとは思えない、黒く鋭い爪を、俺の首筋へと突き立てようとしていた。
俺は振り返りもせず、ただ体を半身ずらす。男の爪が、空を切る。
「なっ!?」
驚愕に目を見開く男の脇腹に、俺は無造作に肘を叩き込んだ。
手加減はした。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
ゴッ、という鈍い音と共に、男の体がくの字に折れ曲がり、数メートル先まで吹き飛んだ。
露店のテントに突っ込み、果物や野菜を散乱させながら、地面に転がる。
周囲の人々が、何事かと悲鳴を上げて散っていく。衛兵が駆けつけてくるのも時間の問題だろう。
「……これ以上、俺に構うな」
俺は倒れている男にそう言い捨て、その場を足早に離れた。
路地裏に飛び込み、人目を避けながらアパートへと戻る。
部屋に入るなり、荒々しく息を吐いた。
あの男、一体何者だったんだ。
魔族か? あるいは、高位の悪魔の類か。
いずれにせよ、厄介な連中に目をつけられてしまった。
「我が主」という言葉が、頭の中で反響する。
勧誘が失敗に終わった今、次はもっと強力な刺客が送られてくるかもしれない。
静かに暮らすという俺の望みは、どうやら簡単に叶えられそうにはない。
◇
その夜、俺は祭りの喧騒を避けるように、普段はあまり行かない街の外れにある広場に来ていた。
ここにもいくつかの露店が出ていたが、大通りほどの賑わいはない。ちらほらと、家族連れや恋人たちの姿が見えるだけだ。
昼間の出来事が、思考の大部分を占めていた。
あの男は、俺のことを「同胞」と言った。俺の胸にあるこの石は、やはり魔族や悪魔に関係するものなのだろうか。
だとすれば、俺を殺したあの魔女も、その一味だった可能性が高い。
彼女は、特定の心臓を必要としていた。魔力が高く、そして……。
そこまで考えて、俺は思考を中断した。今は憶測を重ねても意味がない。
気分転換でもしようと、何とはなしに露店を眺めて歩いていると、一つのお面屋が目に留まった。
獣や有名な英雄を模した、色とりどりのお面が並べられている。子供たちが、目を輝かせながら品定めをしていた。
その中に、一つだけ異質な雰囲気を放つお面があった。
それは、悪魔をモチーフにしたものらしかった。鋭い牙を剥き、二本の角が生えている。
だが、その表情は恐ろしいというよりも、どこか悲しげに見えた。
眉根が寄せられ、口元は苦痛に歪んでいる。
「兄ちゃん、そいつが気になるのかい?」
店の主である人の良さそうな老人が、にこやかに話しかけてきた。
「ええ、少し。随分と変わった意匠ですね」
「ああ、そいつにはちょっとした曰くがあってな」
老人は、お面を手に取りながら、古いおとぎ話を語るように話し始めた。
「昔々、人に憧れた変わり者の悪魔がいたそうだ。その悪魔は、自分の肌を人のように白く塗り、角を隠すように大きな笠を被って、人の村に下りてきた」
俺は黙って、老人の話に耳を傾ける。
「だが、村人たちはすぐにそいつが悪魔だと見抜いた。そして、悪魔を恐れるあまり、寄ってたかって槍で串刺しにして殺してしまったんだと」
「……」
「その悪魔は、最後にこう言ったそうだ。『悪魔ではない。私は、人だ』ってな。なんとも皮肉な話だろう?」
老人はそう言って、寂しそうに笑った。
悪魔ではない、私は人だ。
その言葉が、妙に胸に突き刺さった。
人ならざる者になってしまった俺。だが、心はまだ人間だと思いたい。
そんな俺の境遇と、おとぎ話の悪魔の姿が重なった。
「……気に入った。これを一つ、貰えますか」
俺はその悪魔のお面を買い、顔につける代わりに腰に下げた。
祭りの明かりが、お面の悲しげな表情を照らし出す。
これから先、俺は何度も「人か、それ以外か」という選択を迫られることになるのだろう。
その時、俺は迷わず「人だ」と答えられるだろうか。
答えの見えない問いを抱えながら、俺は祭りの夜の闇へと、再び歩き出した。