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黒石心臓の簒奪者  作者: 月読二兎
序章 理不尽な死と不条理な生
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第3話 不穏な影と、祭りの夜


 俺の体に起きた変化は、良くも悪くも俺の日常を変えつつあった。


 日々の鍛錬と魔物討伐によって、胸の石は着実に力を蓄えている。

 それに伴い、俺の身体能力は人間という枠を逸脱し始めていた。

 もはやゴブリンやオークの群れ程度では、何の脅威にもならない。

 今では単独で森の奥深くに分け入り、ワイバーンのような中級クラスの魔物すら狩れるようになっていた。


 その結果、俺の懐は面白いように潤った。

 ワイバーンの素材は高値で売れる。

 もはや日雇いの依頼で糊口をしのぐ必要はなくなり、俺は埃っぽい安宿を出て、少しだけマシなアパートの一室を借りることができた。


 食事も変わった。

 硬いパンと薄いスープは過去のものとなり、毎食とはいかないまでも、週に数度は肉厚のステーキにありつける。

 死ぬ前に食いたかったものが、死んでから食えるようになったというのは、なんとも皮肉な話だ。


 だが、生活が豊かになっても、俺の心は一向に晴れなかった。


 この力は、あまりにも異質で、危険だ。

 力をつければつけるほど、人との隔たりは大きくなっていく。

 いつか、この力が暴走しないとも限らない。

 あるいは、誰かにこの体の秘密を知られ、化物として追われることになるかもしれない。


 そんな恐怖が、常に心のどこかに影を落としていた。


 だから俺は、決して目立たぬよう細心の注意を払って生活していた。

 ギルドには単独での素材収集依頼として届けを出し、人との関わりを極力避ける。

 大金を手に入れても、贅沢はせず、質素な暮らしを心がけた。


 静かに、穏やかに。

 誰にも迷惑をかけず、誰からも干渉されず、ただ生きていく。

 それが、今の俺の唯一の望みだった。



 そんなある日、俺のささやかな平穏を脅かす、最初の兆候が現れた。


 その日は、街全体が浮かれた空気に包まれていた。年に一度の収穫祭だ。

 大通りには色とりどりの旗が飾られ、露店が立ち並び、吟遊詩人の奏でる陽気な音楽が響き渡っている。


 俺は人混みが苦手だったが、食料の買い出しのために外に出ざるを得なかった。

 いつもより活気のある市場を抜け、目的のものを手早く買い集め、さっさと家に帰ろうとした、その時だ。


「――見つけた」


 不意に、背後から低い声がかけられた。

 それは、雑踏の喧騒の中でもやけにはっきりと耳に届く、粘つくような声だった。


 振り返ると、そこに立っていたのは一人の男だった。

 黒い外套を目深に被り、顔は影になってよく見えない。だが、その外套の隙間から覗く肌は、病的なまでに青白かった。

 何よりも異様なのは、その男から発せられる気配だ。

 それは、俺が森で対峙してきた魔物たちのものとは、明らかに質の違う、もっと陰湿で、知性的な邪気だった。


(こいつ……人間じゃない)


 瞬時に、全身の感覚が警鐘を鳴らす。

 胸の奥の黒い石が、ずくり、と疼いた。敵意に反応しているのか、あるいは同族の気配を察したのか。


「……人違いでは?」

 俺は平静を装い、短く答えた。関わり合いになるのはごめんだ。


 男は、くつくつと喉の奥で笑う。

「いや。その身に宿す、黒々とした力の奔流。間違いない。我らが同胞、あるいはそれ以上の存在……。まさか、このような人間の街に紛れているとはな」


 同胞。

 その言葉に、俺の背筋を冷たいものが走った。

 こいつは、俺の体の秘密に気づいている。


「何の用だ」

「我が主が、貴公に会いたがっている。我らと共に来てもらおうか。その大いなる力を、つまらぬ人間の真似事などで浪費するのは惜しい」


 男は、まるで旧知の友人を誘うかのような、気安い口調で言った。

 だが、その言葉には有無を言わせぬ威圧感がこもっている。

 主、か。こいつは誰かに仕えているらしい。そして、俺をその組織に勧誘しに来た、と。


 断る以外の選択肢はなかった。こいつらの仲間になるなど、冗談じゃない。


「断る。俺はあんたたちのことなど知らないし、興味もない。放っておいてくれ」


 俺がそう言って背を向けようとすると、男の気配がすっと険悪なものに変わった。

「それは残念だ。だが、我らが主の誘いを断ることは、死を意味する」


 次の瞬間、男の姿が掻き消えた。

 速い!


 だが、今の俺の目には、その動きがかろうじて捉えられた。

 男は俺の背後に回り込み、その爪を――人間のものとは思えない、黒く鋭い爪を、俺の首筋へと突き立てようとしていた。


 俺は振り返りもせず、ただ体を半身ずらす。男の爪が、空を切る。


「なっ!?」


 驚愕に目を見開く男の脇腹に、俺は無造作に肘を叩き込んだ。

 手加減はした。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。

 ゴッ、という鈍い音と共に、男の体がくの字に折れ曲がり、数メートル先まで吹き飛んだ。

 露店のテントに突っ込み、果物や野菜を散乱させながら、地面に転がる。


 周囲の人々が、何事かと悲鳴を上げて散っていく。衛兵が駆けつけてくるのも時間の問題だろう。


「……これ以上、俺に構うな」


 俺は倒れている男にそう言い捨て、その場を足早に離れた。

 路地裏に飛び込み、人目を避けながらアパートへと戻る。

 部屋に入るなり、荒々しく息を吐いた。


 あの男、一体何者だったんだ。

 魔族か? あるいは、高位の悪魔の類か。

 いずれにせよ、厄介な連中に目をつけられてしまった。


 「我が主」という言葉が、頭の中で反響する。

 勧誘が失敗に終わった今、次はもっと強力な刺客が送られてくるかもしれない。

 静かに暮らすという俺の望みは、どうやら簡単に叶えられそうにはない。



 その夜、俺は祭りの喧騒を避けるように、普段はあまり行かない街の外れにある広場に来ていた。

 ここにもいくつかの露店が出ていたが、大通りほどの賑わいはない。ちらほらと、家族連れや恋人たちの姿が見えるだけだ。


 昼間の出来事が、思考の大部分を占めていた。

 あの男は、俺のことを「同胞」と言った。俺の胸にあるこの石は、やはり魔族や悪魔に関係するものなのだろうか。

 だとすれば、俺を殺したあの魔女も、その一味だった可能性が高い。

 彼女は、特定の心臓を必要としていた。魔力が高く、そして……。

 そこまで考えて、俺は思考を中断した。今は憶測を重ねても意味がない。


 気分転換でもしようと、何とはなしに露店を眺めて歩いていると、一つのお面屋が目に留まった。

 獣や有名な英雄を模した、色とりどりのお面が並べられている。子供たちが、目を輝かせながら品定めをしていた。


 その中に、一つだけ異質な雰囲気を放つお面があった。

 それは、悪魔をモチーフにしたものらしかった。鋭い牙を剥き、二本の角が生えている。

 だが、その表情は恐ろしいというよりも、どこか悲しげに見えた。

 眉根が寄せられ、口元は苦痛に歪んでいる。


「兄ちゃん、そいつが気になるのかい?」

 店の主である人の良さそうな老人が、にこやかに話しかけてきた。


「ええ、少し。随分と変わった意匠ですね」

「ああ、そいつにはちょっとした曰くがあってな」


 老人は、お面を手に取りながら、古いおとぎ話を語るように話し始めた。

「昔々、人に憧れた変わり者の悪魔がいたそうだ。その悪魔は、自分の肌を人のように白く塗り、角を隠すように大きな笠を被って、人の村に下りてきた」


 俺は黙って、老人の話に耳を傾ける。


「だが、村人たちはすぐにそいつが悪魔だと見抜いた。そして、悪魔を恐れるあまり、寄ってたかって槍で串刺しにして殺してしまったんだと」

「……」

「その悪魔は、最後にこう言ったそうだ。『悪魔ではない。私は、人だ』ってな。なんとも皮肉な話だろう?」


 老人はそう言って、寂しそうに笑った。


 悪魔ではない、私は人だ。


 その言葉が、妙に胸に突き刺さった。

 人ならざる者になってしまった俺。だが、心はまだ人間だと思いたい。

 そんな俺の境遇と、おとぎ話の悪魔の姿が重なった。


「……気に入った。これを一つ、貰えますか」


 俺はその悪魔のお面を買い、顔につける代わりに腰に下げた。

 祭りの明かりが、お面の悲しげな表情を照らし出す。


 これから先、俺は何度も「人か、それ以外か」という選択を迫られることになるのだろう。

 その時、俺は迷わず「人だ」と答えられるだろうか。


 答えの見えない問いを抱えながら、俺は祭りの夜の闇へと、再び歩き出した。


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