第2話 黒い石の心臓と、始まりの力
俺が住んでいるのは、町の裏路地にある木造三階建ての安宿だ。
ギルドからの日雇いの依頼で食い繋ぐ、俺のような連中の吹き溜まりになっている。
ぎぃ、と悲鳴を上げる階段を上り、一番奥にある自分の部屋の扉を開けた。
わずか三畳ほどの、ベッドと小さな机を置いただけの殺風景な空間。
ここが、今の俺の城であり、唯一落ち着ける場所だった。
扉に閂をかけ、まずは血に塗れた上着を脱ぎ捨てる。
胸の穴から覗く黒い石が、薄暗い部屋の中で一層不気味に存在を主張していた。
改めて、それを指でそっと触れてみる。
ひんやりと冷たい。まるでそこだけ体温がないかのようだ。
石の表面は滑らかで、硬質。
しかし、不思議と肉体との境目に違和感がない。
まるで、長年連れ添った身体の一部であるかのように、ぴったりと馴染んでいた。
鏡はない。この安宿には、そんな気の利いた備品はないからだ。
だが、自分の姿を見なくても分かる。今の俺は、常人とはかけ離れた存在になってしまった。
ベッドに腰を下ろし、これからどうすべきか考える。
まず、この体の検証が必要だ。
分かっていることは三つ。
一つ、心臓があった場所には黒い石が埋まっている。
二つ、血が流れず、傷が瞬時に再生する。
三つ、痛みを感じにくい……のかもしれない。少なくとも、胸に大穴が空いているというのに、全く痛みはない。
では、分からないことは?
それは、山ほどある。
この体は食事や睡眠が必要なのか。疲労はするのか。病気になるのか。
そして何より、この力の源はなんなのか。
疑問ばかりが頭を巡るが、答えはどこにもない。
あの魔女を見つけ出し、問いただすのが一番手っ取り早いだろう。だが、手がかりは皆無だ。
夜の森で会った、美しい女。それだけ。
ため息を一つ吐き、机の上に無造作に置いてあった革袋を手に取る。
中には、ゴブリンやコボルトといった、低級な魔物を倒して得た魔石が数個入っていた。
換金すれば、数日分の宿代と食費にはなる。これも、ギルドの依頼で森を探索したついでに狩ったものだ。
その中の一つ、ゴブリンの魔石をつまみ上げる。
赤黒く濁った、指の爪ほどの大きさの石だ。
魔物から得られる魔石は、魔力の源であり、様々な道具の動力源や、魔法の触媒として利用される。高純度のものほど高値で取引された。
ぼんやりと、その魔石を眺めていた、その時だった。
胸の黒い石が、ずくり、と微かに動いたような気がした。
いや、気のせいではない。確かに、ほんのわずかに脈動した。
そして、その脈動に呼応するように、手の中のゴブリンの魔石から、霧のような淡い魔力が立ち上り、俺の胸の穴へと吸い込まれていくのが見えた。
「なっ……!」
慌てて魔石を机に放り出す。
すると、胸の石の脈動はぴたりと止み、魔力の吸収も止まった。
なんだ、今のは。
恐る恐る、もう一度ゴブリンの魔石を手に取り、胸の石に近づけてみる。
やはり、同じ現象が起きた。胸の石が魔石の魔力を吸い上げている。
そして、魔力を吸い上げるたびに、全身に奇妙な感覚が広がった。
空腹の獣が餌を与えられた時のような、満たされていく感覚。力が、漲ってくる。
手元の魔石は、みるみるうちに輝きを失い、ただの黒い炭のような石ころへと変わってしまった。
魔力が完全に抜き取られたのだ。
まさか。
俺の胸のこの石は、他の魔石から魔力を吸収する性質があるのか?
もしそうだとしたら、これはとんでもないことだ。
◇
数日後、俺は自分の体に起きた変化をさらに詳しく検証していた。
まず、食事と睡眠は必要だった。腹は減るし、眠くもなる。
ただ、以前よりも少ない量で満足できるようになった気がする。燃費が良くなった、とでも言うべきか。
そして、最も大きな変化は、やはり力だ。
魔石を胸の石に近づけて魔力を吸収すると、一時的に身体能力が向上することが分かった。
普段なら持ち上げるのに苦労する荷物も軽々と持ち上げられ、半日歩き回っても疲れを感じない。
この力を効率よく得るにはどうすればいいか。答えは単純だ。
魔物を狩る。
人間が魔物を倒した場合、その魔物が持つ魔力の一部を自身の生命力や魔力として取り込むことができる。これは、この世界の常識だ。だからこそ、騎士や冒険者は魔物と戦い、力をつけていく。
俺も、日雇いの依頼をこなしながら、積極的に森へ出てゴブリンやオークを狩った。
そこで、さらなる異常に気づくことになる。
魔物を倒した時に取り込める力の量が、以前とは比べ物にならないほど多いのだ。
通常、ゴブリン一匹を倒して得られる力など微々たるものだ。
だが、今の俺がゴブリンを倒すと、まるでオークの一匹でも狩ったかのような、明確な力の流入を感じる。
身体の奥底から、力が湧き上がってくるのがはっきりと分かった。
どうやら胸の石は、魔石だけでなく、倒した魔物からも直接、効率よく力を吸収するらしい。
おかげで、俺の実力は日を追うごとに増していった。以前は苦戦していたホブゴブリンの群れも、今では一人で難なく殲滅できる。
力がつけば、より強い魔物がいる危険な依頼も受けられるようになる。収入も増え、生活は少しずつ楽になっていった。
硬いパンと薄いスープばかりだった食事も、たまにだが肉が食えるようになった。
だが、手放しでは喜べなかった。
この力は、あまりにも異質だ。
人目を避け、誰にも知られることなく力をつけ、静かに暮らす。今の俺にできるのは、それだけだった。
◇
そんなある日、些細なきっかけで、もう一つの重大な事実が判明する。
その日、俺はギルドの依頼で、腕利きの戦士数名と共にオークの集落の討伐に参加していた。
俺の役目は、後方での雑魚処理と荷物持ちだ。最近、やけに依頼の達成率が高いということで、ベテランのパーティーから声がかかったのだ。
戦いは熾烈を極めた。
オークキングと称される、一際体躯の大きな個体が予想以上に手強く、パーティーは苦戦を強いられた。
俺も後方でオークを数体斬り伏せていたが、リーダー格の戦士がオークキングの一撃を食らい、壁際まで吹き飛ばされた。
「くそっ、誰か回復を!」
リーダーの怒声が飛ぶ。パーティーに一人だけいた回復魔法師の若い男が、蒼白な顔で詠唱を始めた。
その時、回復魔法師の背後に、別のオークが忍び寄っているのが見えた。
「危ない!」
俺は咄嗟に回復魔法師を突き飛ばし、オークの薙ぎ払った棍棒を左腕で受け止めた。
ゴッ、と骨が砕ける鈍い音が響く。
凄まじい衝撃。左腕が明後日の方向に折れ曲がった。
常人なら激痛で意識を失っていてもおかしくない。だが、俺が感じたのは、鈍い衝撃だけ。痛みは、ほとんどない。
「なっ……!?」
回復魔法師が、俺の腕を見て絶句している。
その隙を、オークが見逃すはずもなかった。追撃が来る。
だが、その前に俺は動いていた。
折れた左腕を無視し、右手の剣でオークの喉を突き刺す。断末魔の叫びを上げるオークを蹴り飛ばし、俺は回復魔法師の前に仁王立ちになった。
「す、すまない! 助かった……! だが、その腕は……!」
回復魔法師が、震える声で俺に言う。
「すぐに治す! 《ヒール》!」
彼が差し出した手のひらから、淡い緑色の光が放たれ、俺の折れた腕を包み込んだ。
回復魔法。傷を癒し、痛みを和らげる奇跡の光。
だが。
「……効かない、だと?」
回復魔法師が、信じられないといった表情で呟いた。
彼の言う通りだった。
緑色の光は俺の腕に触れると、まるで霧散するように掻き消えていく。何度試しても結果は同じ。
彼の魔力が、俺の体に弾かれているのだ。
その間にも、ミシミシと音を立てて、俺の腕の骨が元の位置に戻り、肉が繋がり、傷が塞がっていく。
常人では考えられない速度での、自然治癒。いや、これは治癒というより、再生と呼ぶべき現象だ。
「君は……一体、何者なんだ……?」
回復魔法師の問いに、俺は答えることができなかった。
幸い、他の戦士たちがオークキングを仕留めたことで、戦闘は終わりを迎えた。俺の腕も、仲間たちが駆け寄ってくる頃には、すっかり元通りになっていた。
仲間たちは、俺の腕が折れたことには気づいていないようだった。
回復魔法師の男だけが、何か言いたげな顔で俺を見ていたが、結局何も口にすることはなかった。
帰り道、俺は一人、考え込んでいた。
回復魔法が効かない。
この世界には、ごく稀に魔法が効きにくい体質の人間がいると聞いたことがある。
そういう人間は、体内に宿す魔力が高い傾向にあるらしい。
魔力は、言わば体を守る障壁のような役割も果たす。自身の魔力が高すぎると、外部からの魔力、つまり回復魔法なども弾いてしまうのだ。
騎士団の中でも、特に魔力量の多いエース級の騎士には、回復魔法がほとんど効かない者もいるという。だから、回復魔法師は、あえて魔力の低い脳筋タイプの戦士と組むのが定石とされている。
だとしたら、俺の体は、とんでもない量の魔力を宿しているということになるのか?
胸の石が、その源泉だということは間違いないだろう。
力を得た。だが、同時にまた一つ、厄介な秘密が増えてしまった。
この体は、ますます人間離れしていく。
この力の果てに、何が待っているのか。
俺は、ただ静かに生きたいだけなのに。
夕暮れの赤い光が、俺の長い影を地面に落としていた。
その影は、まるで俺ではない、別の何かの姿をしているように見えた。