第10話 偽りの英雄、夜会に臨む
それからの三日間は、俺にとって剣術の修行よりも過酷な時間だった。
サラが用意した隠れ家で、俺はひたすら分厚い貴族作法の教本と格闘していた。
フォークとナイフの正しい使い方から始まり、挨拶の角度、乾杯の際のグラスの高さ、ダンスのステップ、令嬢への気の利いた(と俺には到底思えない)賛辞の言葉の数々。
「……無理だ。俺には向いてない」
三日目の朝、俺は教本をテーブルに叩きつけて、天を仰いだ。
「弱音を吐いている場合ですか。今夜が本番ですよ」
向かいの椅子に座り、優雅に紅茶を飲んでいたサラが、冷ややかに告げる。
彼女はこの三日間、俺のスパルタ教師でもあった。
「そもそも、なぜ俺がこんな七面倒なことをする必要がある。夜会に忍び込んで、魔女を見つけ次第、斬ればいいだろう」
「そんなことをすれば、あなたは王都中の衛兵と騎士団に追われることになります。我々の目的は、リリアーナを捕らえ、彼女と『黒き祭壇』の繋がり、そして『古の霊廟』の秘密を吐かせること。公衆の面前で殺されては、意味がないのです」
「……分かっている」
俺はため息をつき、再び教本を手に取った。
理屈では分かっている。だが、慣れないことをするのは、どうにも性に合わない。
その日の夕刻。
全ての準備が整った。
サラがどこからか調達してきた、上質な仕立ての礼服に身を包む。
鏡に映った自分の姿は、まるで別人のようだった。
いつも無造作に伸ばしていた髪は整えられ、日々の戦闘でついた細かな傷も、巧妙な化粧で隠されている。
そこには、辺境の薄汚れた冒険者ではなく、どこかの貴族の若君のような男が立っていた。
「……悪くないのでは?」
サラが、満足げに俺の姿を眺めながら言う。
「様になっていますよ、『辺境の英雄』様」
「やめてくれ。鳥肌が立つ」
俺は、慣れない襟元を何度も直しながら、ぶっきらぼうに答えた。
剣は、もちろん持ち込めない。サラが用意した、偽装用の儀礼剣を腰に差すだけだ。
丸腰同然で敵地に乗り込むのは、不安がないわけではない。だが、今の俺の体は、それ自体が最強の武器であり、防具だ。いざとなれば、素手でもどうにでもなる。
用意された豪奢な馬車に乗り込み、俺は夜会の会場である公爵家の屋敷へと向かった。
車窓から見える王都の夜景は、まるで宝石箱をひっくり返したように美しい。
だが、俺の心は少しも浮き立たなかった。
これから始まるのは、華やかな宴ではない。嘘と欺瞞に満ちた、腹の探り合いだ。
屋敷の前に着くと、門番に招待状を渡す。
『辺境を救いし若き英雄、レオン様』
サラが用意した、俺の偽名だ。
門番は招待状を確認すると、恭しく頭を下げ、俺を中へと通した。
一歩、足を踏み入れた瞬間、眩い光と喧噪が俺を包み込んだ。
天井からは巨大なシャンデリアが吊り下げられ、その光が着飾った紳士淑女たちの宝石やドレスに反射して、きらきらと輝いている。
優雅な音楽が流れ、あちこちで談笑の輪ができていた。
まさに、雲の上の世界。俺がこれまで生きてきた世界とは、あまりにもかけ離れている。
俺は教わった通り、まず主催者である老公爵に挨拶を済ませた。
老公爵は、俺が例の「英雄」だと知ると、大層喜んで歓迎してくれた。
その好意が本心からのものか、あるいは政治的な計算によるものかは、俺には判断がつかない。
挨拶を終え、俺は会場の隅に移動し、壁際でグラスを片手に人間観察を始めた。
目的は、魔女リリアーナを見つけ出すこと。
サラの情報によれば、彼女は『リリー』と名乗り、銀色の髪を持つ絶世の美女だという。
そんな女、目立って仕方ないだろう。すぐに見つかるはずだ。
俺は会場全体を見渡し、目当ての人物を探す。
すると、すぐにその姿は目に入った。
会場の中心、最も多くの人々に囲まれている場所に、彼女はいた。
月の光をそのまま編み込んだような、美しい銀色の髪。
雪のように白い肌に、血のように赤い唇。
彼女が微笑むたびに、周りの男たちは骨抜きにされたような、だらしない顔になる。
その姿は、確かに人間離れした美しさを持っていた。
だが、俺が注目したのは、そこではない。
彼女の紫色の瞳。
それは、俺が忘れるはずもない、あの夜、俺の心臓を抉った魔女と、全く同じ色をしていた。
リリアーナ。
間違いない。あいつが、俺の仇だ。
見つけた瞬間、胸の奥の黒い石が、ずくり、と熱を持った。
全身の血が沸騰するような、激しい怒り。
今すぐにでも飛びかかって、その喉を掻き切りたい衝動に駆られる。
だが、俺は必死にそれを理性で押さえつけた。
サラとの約束がある。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
俺がリリアーナを凝視していると、不意に、彼女の視線がこちらを向いた。
目が、合った。
彼女は、俺の存在に気づくと、一瞬だけ、その完璧な笑顔を崩して、驚いたような表情を見せた。
だが、それも束の間。
すぐに彼女は優雅な笑みを取り戻すと、周りの男たちに一言断り、こちらに向かって歩き始めた。
まずい。
向こうから、接触してくるつもりか。
俺は平静を装い、グラスに口をつける。
心臓の代わりに鎮座する黒い石が、ドクン、ドクンと、警鐘のように鳴り響いていた。