第1話 理不尽な死と、不条理な生
「ごめんなさい」
目の前の女が、心から申し訳なさそうにそう言った。
形の良い眉は悲しげに下がり、潤んだ紫色の瞳が俺を映している。
夜の森によく似合う、黒いローブを纏った美しい女だった。
魔女、と呼ぶのが相応しいのだろう。
幻想的な美貌とは裏腹に、彼女の腕は俺の胸を貫いていた。
ごぷり、と喉が奇妙な音を立てる。
ああ、俺は死ぬのか。
なぜ、こんなことになっているのか。まるで分からない。
数分前まで、俺は依頼された薬草を届け、その報酬で買った安酒を片手に家路についていただけのはずだ。
森の近道を使おうとしたのが運の尽きだったか。
それにしても、だ。
なぜ彼女は、俺の心臓を素手で鷲掴みにしながら、そんなにも悲しそうな顔をするのか。
なぜ俺は、胸に風穴を開けられているというのに、痛みよりも先に疑問が浮かぶのか。
こういう時、人は走馬灯とやらを見るものだと聞く。
己の人生を振り返り、後悔したり、満足したりする、感動的なお別れタイムのはずだ。
だが、俺の脳裏で始まるはずの最後の芝居は、幕が上がることすらなかった。
ただ静かで真っ暗な舞台が広がるだけ。
まあ、振り返ったところで碌な思い出もないのだから、観客もいない空っぽの舞台でちょうどいいのかもしれない。
真面目に、誠実に。
人に迷惑をかけず、困っている者には手を差し伸べろ。
そう教えてくれた両親は、人に裏切られ、陥れられ、あっけなく死んだ。
真面目に生きた結果がそれだ。
俺の人生も、そんな両親の教えを律儀に守ろうとして、結局は報われないまま終わる。
つまらない人生だった。
ひとつだけ心残りがあるとすれば、最後の晩餐だ。
今日の夕食が、カチカチに硬くなったパンと、野菜の欠片が申し訳程度に浮かんだ味の薄いスープだったこと。
どうせ死ぬなら、もっと美味いものを食っておきたかった。
肉だ。分厚いステーキが食いたかった。
そんな、あまりにもどうでもいい後悔を最後に、俺の意識はぷつりと途切れ、深い闇へと落ちていった。
◇
ちくり、と頬を刺す感触で目が覚めた。
土と草いきれの匂いが鼻腔をくすぐる。どうやら俺は、草むらの上にうつ伏せで倒れているらしい。
……ん? 目が覚めた?
ゆっくりと、本当にゆっくりと瞼を開く。
視界いっぱいに、青々とした緑が広がっていた。
首だけを億劫に持ち上げると、視界の端に大きな街道が見える。森を抜けてすぐの野原。見覚えのある場所だ。
辺りを見渡すが、人の気配はない。あの魔女の姿もどこにもなかった。
まるで、悪い夢でも見ていたかのようだ。
俺は疲れてここで寝てしまったのだろうか。そんな馬鹿なことがあるはずない。あの感触は、確かに現実だった。抉られた胸の、肉が裂ける生々しい感触。心臓を握り潰される、鈍い衝撃。
恐る恐る、自分の身体を起こす。
軋むような音ひとつ立てず、滑らかに上体が持ち上がった。
特に違和感はない。痛みも、苦しさも、どこにもない。
いや、これこそが最大の違和感だった。
視線を自分の胸元へ落とす。
「―――っ」
息を呑んだ。
着ていたシャツと革のベストは、びっしょりと赤黒い血で染まっている。
そして、その中心。心臓があったはずの場所に、ぽっかりと大穴が空いていた。
だが、その穴の奥で覗いているのは、がらんどうの内側ではなかった。
そこには、まるで夜の闇をそのまま固めたような、艶のない黒い石が埋め込まれていた。
不気味なほどに脈動もせず、静かにそこにある。
まるで、最初からそれが俺の心臓だったとでも言うように。
「ナンダコレ……」
人生で最大の「ナンダコレ」が、掠れた声になって口から零れた。
何が起きている?
俺は死んだはずだ。あの魔女に心臓を抉られて。
なのに、生きている。いや、これは「生きている」と言えるのか?
慌てて全身を確かめる。
手足は問題なく動く。目も見えるし、耳も聞こえる。感覚は全て正常だ。
おかしいのは、この胸に鎮座する不気味な黒い石だけ。
震える指先で、懐から小刀を取り出す。これも護身用にと持っていただけの、安物だ。
意を決して、左手の人差し指の先を、刃で軽く切りつけた。
いつもなら、ぷくりと血の玉が浮かび、赤い線が走るはずだ。
だが。
「…………」
指先には、ただ白い一本線が刻まれただけだった。
血は、一滴も流れない。
その傷も、まるで傷なんてなかったかのように、瞬く間に塞がっていく。
「ナンダコレ」
本日二度目の「ナンダコレ」は、一度目よりもずっと乾いていて、実感を伴っていなかった。
ただ、呆然と傷の消えた自分の指先を見つめる。
ああ、そうか。
俺の、人としての人生は、どうやら本当に終わってしまったらしい。
しばらくの間、俺はそこで思考を停止させていた。
空を流れる雲をただ眺め、頬を撫でる風を感じる。五感は生きている頃と何も変わらない。
それなのに、俺という存在の根幹が、まったく別の何かに置き換わってしまったという事実だけが、重くのしかかっていた。
これから、どうすればいい?
この体は一体なんなんだ。アンデッドか? ゴーレムの一種か?
分からない。何も分からない。
だが、ここで呆けていても事態は好転しない。
どれくらい時間が経ったのか分からないが、不意に、死んだはずの脳が冷静な判断力を取り戻した。
とにかく、情報を集めよう。まずは自分の身に何が起きたのかを知る必要がある。
そのためには、ここを動かなければならない。
よし、と小さく気合を入れる。
まずやるべきことは決まっている。
町へ帰ろう。俺が住んでいた、あの埃っぽい裏路地の安宿へ。
街道へ出て、町へと続く道を歩き始めた。
幸い、人通りはまばらだ。
それでも、たまにすれ違う商人や旅人たちが、俺の姿を見てぎょっとしたように顔を引き攣らせ、足早に距離を取っていく。
その反応で、俺はようやく自分の格好を思い出した。
胸には大穴。全身血まみれ。
傍から見れば、森から這い出てきた瀕死の重傷者か、あるいは亡霊そのものだろう。これでは怪しまれるのも当然だ。
とはいえ、今更どうしようもない。服の替えもなければ、体を洗う水もない。
もう町は目と鼻の先だ。このまま突き進むしかない。
案の定、町の城門が見えてくると、そこに立つ二人の門番が俺の姿を捉え、槍を構えて険しい表情になった。
「待て、そこで止まれ!」
片方の門番が、張りのある声で制止をかけてくる。
周囲の人間たちが、何事かと遠巻きにこちらを見ているのが分かった。面倒なことになった。
「なんだその格好は! 血まみれじゃないか。どこで何をしていた!」
どう説明する?
正直に「森で魔女に襲われて、心臓を抉られました。でも、なぜか生きてます」とでも言うか?
間違いなく狂人扱いされて、衛兵詰所に連行されるだろう。
そこで身体検査でもされ、胸の石が見つかったら最後、何をされるか分かったものではない。解剖か? 悪魔憑きとして火炙りか?
面倒事は避けたい。それも、とびきり厄介なやつは。
俺は、できるだけ苦しげな表情を作り、かすれた声で答えた。
「……森で、大きな獣に、襲われまして」
「獣だと? それで、その怪我か。よく生きていたな」
門番は訝しげに俺の全身を観察している。特に、普通に立って歩いていることを不思議に思っているようだ。
「いえ……これは、返り血です。手負いの獣で、なんとか……仕留めることができましたが……こっちも無傷とはいかず……」
しどろもどろに、ありきたりな嘘を並べる。我ながら苦しい言い訳だ。
だが、門番はこれ以上深く追及する気はないらしい。そもそも、俺のような薄汚い男一人に、そこまで興味がないのだろう。
「チッ、面倒な。……まあいい。死体は森に置いてきたんだろうな? 下手に持ち込むなよ。病の元だ」
「は、はい……」
「さっさと行け。医者に行くなら広場のジル診療所だ。金がないなら諦めろ」
門番は、まるで汚いものでも追い払うかのように、しっしっと手を振った。もう一人の門番も、呆れたようにため息をついている。
俺は小さく頭を下げ、足早に門をくぐった。
背中に突き刺さる好奇の視線を感じながら、町の雑踏の中へと紛れ込む。
活気のある大通りの喧騒が、やけに遠くに聞こえた。
行き交う人々の笑い声も、客引きの怒声も、すべてが別世界の出来事のようだ。
俺はもう、彼らと同じではない。
血の通わない、心臓の代わりに石を埋め込まれた、得体の知れない何か。
これから先、俺はこの体で、どうやって生きていけばいいのだろうか。
答えのない問いを抱えたまま、俺は人波をかき分け、住み慣れたはずの薄暗い裏路地へと足を向けた。