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黒石心臓の簒奪者  作者: 月読二兎
序章 理不尽な死と不条理な生
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第1話 理不尽な死と、不条理な生


「ごめんなさい」


 目の前の女が、心から申し訳なさそうにそう言った。


 形の良い眉は悲しげに下がり、潤んだ紫色の瞳が俺を映している。

 夜の森によく似合う、黒いローブを纏った美しい女だった。

 魔女、と呼ぶのが相応しいのだろう。


 幻想的な美貌とは裏腹に、彼女の腕は俺の胸を貫いていた。


 ごぷり、と喉が奇妙な音を立てる。


 ああ、俺は死ぬのか。


 なぜ、こんなことになっているのか。まるで分からない。

 数分前まで、俺は依頼された薬草を届け、その報酬で買った安酒を片手に家路についていただけのはずだ。

 森の近道を使おうとしたのが運の尽きだったか。


 それにしても、だ。


 なぜ彼女は、俺の心臓を素手で鷲掴みにしながら、そんなにも悲しそうな顔をするのか。

 なぜ俺は、胸に風穴を開けられているというのに、痛みよりも先に疑問が浮かぶのか。


 こういう時、人は走馬灯とやらを見るものだと聞く。

 己の人生を振り返り、後悔したり、満足したりする、感動的なお別れタイムのはずだ。


 だが、俺の脳裏で始まるはずの最後の芝居は、幕が上がることすらなかった。

 ただ静かで真っ暗な舞台が広がるだけ。

 まあ、振り返ったところで碌な思い出もないのだから、観客もいない空っぽの舞台でちょうどいいのかもしれない。


 真面目に、誠実に。

 人に迷惑をかけず、困っている者には手を差し伸べろ。


 そう教えてくれた両親は、人に裏切られ、陥れられ、あっけなく死んだ。

 真面目に生きた結果がそれだ。

 俺の人生も、そんな両親の教えを律儀に守ろうとして、結局は報われないまま終わる。


 つまらない人生だった。


 ひとつだけ心残りがあるとすれば、最後の晩餐だ。

 今日の夕食が、カチカチに硬くなったパンと、野菜の欠片が申し訳程度に浮かんだ味の薄いスープだったこと。

 どうせ死ぬなら、もっと美味いものを食っておきたかった。

 肉だ。分厚いステーキが食いたかった。


 そんな、あまりにもどうでもいい後悔を最後に、俺の意識はぷつりと途切れ、深い闇へと落ちていった。



 ちくり、と頬を刺す感触で目が覚めた。

 土と草いきれの匂いが鼻腔をくすぐる。どうやら俺は、草むらの上にうつ伏せで倒れているらしい。


 ……ん? 目が覚めた?


 ゆっくりと、本当にゆっくりと瞼を開く。

 視界いっぱいに、青々とした緑が広がっていた。

 首だけを億劫に持ち上げると、視界の端に大きな街道が見える。森を抜けてすぐの野原。見覚えのある場所だ。


 辺りを見渡すが、人の気配はない。あの魔女の姿もどこにもなかった。

 まるで、悪い夢でも見ていたかのようだ。

 俺は疲れてここで寝てしまったのだろうか。そんな馬鹿なことがあるはずない。あの感触は、確かに現実だった。抉られた胸の、肉が裂ける生々しい感触。心臓を握り潰される、鈍い衝撃。


 恐る恐る、自分の身体を起こす。

 軋むような音ひとつ立てず、滑らかに上体が持ち上がった。

 特に違和感はない。痛みも、苦しさも、どこにもない。


 いや、これこそが最大の違和感だった。


 視線を自分の胸元へ落とす。


「―――っ」


 息を呑んだ。


 着ていたシャツと革のベストは、びっしょりと赤黒い血で染まっている。

 そして、その中心。心臓があったはずの場所に、ぽっかりと大穴が空いていた。


 だが、その穴の奥で覗いているのは、がらんどうの内側ではなかった。

 そこには、まるで夜の闇をそのまま固めたような、艶のない黒い石が埋め込まれていた。

 不気味なほどに脈動もせず、静かにそこにある。

 まるで、最初からそれが俺の心臓だったとでも言うように。


「ナンダコレ……」


 人生で最大の「ナンダコレ」が、掠れた声になって口から零れた。


 何が起きている?

 俺は死んだはずだ。あの魔女に心臓を抉られて。

 なのに、生きている。いや、これは「生きている」と言えるのか?


 慌てて全身を確かめる。

 手足は問題なく動く。目も見えるし、耳も聞こえる。感覚は全て正常だ。

 おかしいのは、この胸に鎮座する不気味な黒い石だけ。


 震える指先で、懐から小刀を取り出す。これも護身用にと持っていただけの、安物だ。

 意を決して、左手の人差し指の先を、刃で軽く切りつけた。

 いつもなら、ぷくりと血の玉が浮かび、赤い線が走るはずだ。

 だが。


「…………」


 指先には、ただ白い一本線が刻まれただけだった。

 血は、一滴も流れない。

 その傷も、まるで傷なんてなかったかのように、瞬く間に塞がっていく。


「ナンダコレ」


 本日二度目の「ナンダコレ」は、一度目よりもずっと乾いていて、実感を伴っていなかった。

 ただ、呆然と傷の消えた自分の指先を見つめる。


 ああ、そうか。

 俺の、人としての人生は、どうやら本当に終わってしまったらしい。


 しばらくの間、俺はそこで思考を停止させていた。

 空を流れる雲をただ眺め、頬を撫でる風を感じる。五感は生きている頃と何も変わらない。

 それなのに、俺という存在の根幹が、まったく別の何かに置き換わってしまったという事実だけが、重くのしかかっていた。


 これから、どうすればいい?

 この体は一体なんなんだ。アンデッドか? ゴーレムの一種か?

 分からない。何も分からない。


 だが、ここで呆けていても事態は好転しない。

 どれくらい時間が経ったのか分からないが、不意に、死んだはずの脳が冷静な判断力を取り戻した。


 とにかく、情報を集めよう。まずは自分の身に何が起きたのかを知る必要がある。

 そのためには、ここを動かなければならない。


 よし、と小さく気合を入れる。

 まずやるべきことは決まっている。


 町へ帰ろう。俺が住んでいた、あの埃っぽい裏路地の安宿へ。


 街道へ出て、町へと続く道を歩き始めた。

 幸い、人通りはまばらだ。

 それでも、たまにすれ違う商人や旅人たちが、俺の姿を見てぎょっとしたように顔を引き攣らせ、足早に距離を取っていく。


 その反応で、俺はようやく自分の格好を思い出した。

 胸には大穴。全身血まみれ。

 傍から見れば、森から這い出てきた瀕死の重傷者か、あるいは亡霊そのものだろう。これでは怪しまれるのも当然だ。


 とはいえ、今更どうしようもない。服の替えもなければ、体を洗う水もない。

 もう町は目と鼻の先だ。このまま突き進むしかない。


 案の定、町の城門が見えてくると、そこに立つ二人の門番が俺の姿を捉え、槍を構えて険しい表情になった。


「待て、そこで止まれ!」


 片方の門番が、張りのある声で制止をかけてくる。

 周囲の人間たちが、何事かと遠巻きにこちらを見ているのが分かった。面倒なことになった。


「なんだその格好は! 血まみれじゃないか。どこで何をしていた!」


 どう説明する?

 正直に「森で魔女に襲われて、心臓を抉られました。でも、なぜか生きてます」とでも言うか?

 間違いなく狂人扱いされて、衛兵詰所に連行されるだろう。

 そこで身体検査でもされ、胸の石が見つかったら最後、何をされるか分かったものではない。解剖か? 悪魔憑きとして火炙りか?


 面倒事は避けたい。それも、とびきり厄介なやつは。

 俺は、できるだけ苦しげな表情を作り、かすれた声で答えた。


「……森で、大きな獣に、襲われまして」

「獣だと? それで、その怪我か。よく生きていたな」


 門番は訝しげに俺の全身を観察している。特に、普通に立って歩いていることを不思議に思っているようだ。


「いえ……これは、返り血です。手負いの獣で、なんとか……仕留めることができましたが……こっちも無傷とはいかず……」


 しどろもどろに、ありきたりな嘘を並べる。我ながら苦しい言い訳だ。

 だが、門番はこれ以上深く追及する気はないらしい。そもそも、俺のような薄汚い男一人に、そこまで興味がないのだろう。


「チッ、面倒な。……まあいい。死体は森に置いてきたんだろうな? 下手に持ち込むなよ。病の元だ」

「は、はい……」

「さっさと行け。医者に行くなら広場のジル診療所だ。金がないなら諦めろ」


 門番は、まるで汚いものでも追い払うかのように、しっしっと手を振った。もう一人の門番も、呆れたようにため息をついている。


 俺は小さく頭を下げ、足早に門をくぐった。

 背中に突き刺さる好奇の視線を感じながら、町の雑踏の中へと紛れ込む。


 活気のある大通りの喧騒が、やけに遠くに聞こえた。

 行き交う人々の笑い声も、客引きの怒声も、すべてが別世界の出来事のようだ。

 俺はもう、彼らと同じではない。

 血の通わない、心臓の代わりに石を埋め込まれた、得体の知れない何か。


 これから先、俺はこの体で、どうやって生きていけばいいのだろうか。


 答えのない問いを抱えたまま、俺は人波をかき分け、住み慣れたはずの薄暗い裏路地へと足を向けた。


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