フェリス、記憶の書を読む
「……つまり、図書館の中で、本の記憶を盗んでいくウサギが出るって話?」
タクヤは報告書を手にして眉をひそめた。王都北部の旧文書管理館。そこに設置された古書館では、最近になって「ページが白紙になる」「本の内容が改ざんされる」といった不可解な現象が多発しているという。
「それって……本当にウサギなのかしら?」
リアナが書面をのぞき込み、呆れたように呟く。
「依頼書には、耳の長い獣が走っていた目が合うと急に本が読めなくなるって……でも、確かに魔力痕跡はあるみたいだね」
フェリスは少しだけ顔をこわばらせながら、依頼者が示した記録図を指差した。
「このパターン……記憶系魔導種の可能性があるかも」
「魔導種……って、魔法に適応した獣?」
「ううん。魔法そのものが形を取った存在。自然発生することもあるし、昔の魔導実験の副産物として生まれることもある。記録を読み食いするなんて……厄介だけど、好奇心の塊みたいな存在なの」
「なるほど。図書館にすみついたってのも、餌場みたいなもんか」
「そういうこと。もしその個体が強力だったら、対処はかなり慎重にしないと……」
フェリスの顔に、淡い不安が浮かぶ。彼女にとって、図書はただの知識ではなく、記憶の断片そのものだった。
旧文書管理館は、王都の北部に位置する静かな石造りの建物だった。
吹き抜けの天井、天井まで届く本棚、今ではすっかり使われなくなった紙の知の殿堂。だが、空間全体にはかすかな魔力が残っており、歩くたびにページがざわめくような音が響いた。
「……ここにいるのね、記憶ウサギ」
フェリスがそっと目を閉じ、手のひらを本棚に触れた。
彼女の魔力が、本の記憶に寄り添う。
「いた……!」
その瞬間、空気がふるえた。
「ぴゅぃっ!」
ピンク色のもふもふが一閃、本棚の陰から跳ね出した。大きな耳、つぶらな瞳、しかし尾には魔力の光が集まっている。
「おい! 本当にウサギだ!」
タクヤが追おうとした瞬間、本棚の背後に影が差した。
「まって! 捕まえるだけじゃ――!」
フェリスが叫ぶが、その前にタクヤが魔力補助で床を滑り、うまく進路を遮る。
「行き止まり! さあ、おとなしく――」
「ぴゅい!」
ウサギの瞳が、一瞬タクヤを見た。
そして。
「……あれ? 俺、なんでここにいるんだ?」
「タクヤ!? いまの、完全に記憶抜かれた!」
フェリスが駆け寄る。
「大丈夫、少しだけ。自己紹介と今朝のパンの味が抜けただけみたい」
「地味に困るやつだな……!」
その間に、ウサギはまたふっと姿を消した。本の隙間、ページの奥へと。
「逃げ込んだ……? 本の中に?」
フェリスは目を細める。
「やっぱり、あの子……ただの魔導種じゃない。記録層に潜る力を持ってる。もしかしたら、図書館そのものと同調してるのかも」
「ってことは?」
「私が追う」
フェリスの瞳が決意に満ちる。
「この図書館……アーカイブ型。つまり、思念に応じて記憶を構成する空間に切り替えられる。ウサギのいた記憶層に私自身が入れば、捕まえられるかもしれない」
「でも、危険だろ? 中で記憶を抜かれたら――」
「大丈夫、私は守人の血を引いてる。記憶の奥に潜る力なら……私にもある」
そう言って、フェリスは中央の記憶台座に手をかざした。
「……記憶起動。コード:フェリス=アークノート」
その瞬間、光が弾け、本棚がめくれるように開かれ、フェリスの身体が吸い込まれる。
「フェリス――!」
タクヤとリアナが駆け寄るも、そこにはただ、静かに閉じた本棚だけが残った。
記憶の層。そこは、夢とも現実ともつかぬ空間。
フェリスはふわりと立っていた。
そこには、ひとつの懐かしい声が響く。
「……あなたが、継ぎ手なの?」
振り返ると、そこには、小さな少女がいた。
フェリスと同じ髪、同じ瞳――
「これは……私の記憶?」
記憶ウサギが、ページの奥でぴょんと跳ねた。
フェリスは、夢のように歪んだ図書館の中に立っていた。
記憶の層。その奥には、知識の形をした幻が浮かび、書物たちが宙に踊るように巡っている。
そして、彼女の目の前にいるのは――
「わたし……?」
声を発した少女は、幼い頃のフェリスにそっくりだった。衣服こそ古風なものだが、その瞳には同じように強い意志が宿っている。
「私は記憶の守人だった人の記録。そして、あなたの記憶でもある」
少女が静かに言った。
「ここに住みついている記憶ウサギは、あなたが触れた本、見つめた記録、感じた思い出に反応して、目覚めた存在」
「……私が生み出した?」
「正確には、目を覚まさせただけ。長い間、ここで眠っていた。記憶に飢えて、誰かに見つけてもらうのを待ってた」
フェリスは息を呑んだ。
記憶ウサギは、書物の間を跳ねながら、まるで彼女の周囲を懐かしむように回っている。敵意はない。けれど、このまま放置しておけば、さらなる記憶の破損を招く。
「でも……捕まえるだけじゃ意味がない。あの子は読みたかっただけなんでしょ?」
「ええ。だから、守人としてどうするか、選ばなきゃならない」
少女の姿がふわりと薄れ始める。
「あなたが継いだ力は、記録を読むだけじゃない。記録を紡ぎ直す力。新しい秩序を与える力」
「……ウサギに、記録の器を用意してあげれば、もう本を荒らしたりしない?」
「きっとね」
フェリスは、静かに目を閉じた。
そして――
「記録制御。コード:フェリス=アークノート。付与命令。記憶の跳躍者に書庫管理ユニットの一部権限を移譲」
ウサギの周囲に、金の魔法陣が浮かんだ。
「ぴゅ?」
戸惑うようにウサギが跳ねる。
けれど、光が降り注ぐと、その耳がぴくりと立ち、次の瞬間――
「ぴゅいっ!」
ウサギは嬉しそうにフェリスの足元へと跳ね寄った。そして、ふわっとその身体が宙へと昇ると、空中に本が一冊出現し、彼の身体はその中に静かに収まっていった。
ウサギはもう、暴走する記憶の読み手ではない。
書庫を巡る記憶の番人として、新たな役割を得たのだった。
「――フェリスっ!」
記憶の層から現実に戻ると、目の前には心配そうなタクヤとリアナの顔があった。
「大丈夫。記憶は無事。ウサギもね」
「ウサギ……どこ行った?」
タクヤがあたりを見回すと、フェリスは微笑みながら一冊の本を開いた。
そこには、小さなウサギが表紙に描かれていて、その中に眠るように丸まっていた。
「この子は、これから図書館の記録案内役。誰かが迷ったら、本の道しるべになってくれるわ」
「案内役って、そんなに簡単に……」
「ううん、本当は難しい。でも、私は記録を再編する力を持ってる。だからできたこと」
フェリスの指が、本の表紙をそっとなぞる。
「それに、この子と私は……同じだったの。知りたくて、読みたくて、でも独りぼっちで」
リアナが黙ってフェリスの肩に手を置いた。
「……ありがとね。あんたがいてくれて、本当に良かった」
フェリスは少し照れたように笑った。
「依頼完了ってことでいいかな?」
タクヤがそう言うと、フェリスは頷いた。
「うん。でも、この図書館、もう少し整理が必要かも。記憶の層がまだ混線してるから」
「……便利屋に図書館整理の仕事は入ってなかった気がするんだが」
「じゃあ、追加依頼ってことで?」
「まったく、休ませてくれないな……」
3人の笑い声が、書架の間に静かに響いた。
その夜、誰もいない図書館の片隅。
棚の上で、開いた本の中のウサギが、ページを一枚めくった。
「ぴゅい」
それは、忘れられていたある書物の記録。
――そこには、「管理者」と呼ばれる者たちの残した断片的な計画書が記されていた。
ウサギの瞳が、ほんの少しだけ光る。




