恋は論理の彼方に
ガタンゴトン。
いつもの通学電車。
心理学を専攻する大学生、僕、相田悠斗は、今日も分厚い専門書の隅っこに意識を沈めていた。恋愛? リア充? 僕には縁遠い世界の言葉だ。そう、さっきまでは――。
「……!」
隣に、誰かが座った。ふわりと香る、清潔なシャンプーの匂い。視界の端に捉えたのは、息をのむほど美しい横顔だった。陽光を透かすような黒髪、白い肌、伏せられた長いまつ毛。完璧な造形美。それはまさに、僕が脳内で漠然と描いていた理想そのものだった。
瞬間、僕の脳内で緊急警報が鳴り響いた!
『緊急会議招集! 緊急会議招集! 対象、隣席の女性!』
議長席にふんぞり返ったのは、冷静沈着を装う【理性】。「諸君、落ち着きたまえ。これは単なる…」
「異議あり!」声を張り上げたのは、フラスコ片手に目をギラつかせた【神経科学(ドーパミン担当)】だ。
「脳内スキャン結果! 腹側被蓋野(VTA)及び線条体、活性化レベル急上昇! ドーパミン放出量、通常比300%超! これは、これは…危険ドラッグ摂取時と酷似した反応ですぞ! 」
「ほう、つまり強烈な『快楽』と『報酬』への期待が生じているわけか」
腕組みしたのは、鋭い目つきの【進化心理学】。
「短時間でのパートナー候補発見メカニズムが作動した可能性が高い。これは生殖適応度を高めるための原始的ドライブかもしれん 」
「待った! 早計すぎる!」ラフな服装の【認知心理学(速い認知担当)】が異を唱える。
「100ミリ秒での印象判断、いわゆる『速い認知』が働いているだけじゃないか? 美しいから好意的特性を帰属させる『ハロー効果』の典型例だ。落ち着けって!」
「でも、でも! ドキドキが止まらないんです!」涙目なのは、ハートマークを抱えた【感情(情熱的惹かれ担当)】。
「ノルエピネフリンもドバドバで、もう思考停止状態なんです! この衝動、止められません! 」
「ふむ…」哲学書をめくっていた【個人差要因分析】が口を開く。
「議長、彼のパーソナリティ(内向性)と過去の恋愛経験(皆無)を考慮すると、これは『ポジティブ・イリュージョン』、つまり美化された記憶として後で再構築されるパターンかもしれんぞ? 片想い的な…」
「やかましい!」ドーパミン担当が再び叫ぶ。
「デフォルトモードネットワークもセリュラリングネットワークも再編されつつある! 彼女の情報に完全に注意がロックオンされている状態だ! 」
「だからそれは…!」
「いや、これは…!」
「運命です!」
「分析が必要だ!」
脳内は大混乱。各キャラクターが好き勝手に自説をぶつけ合う。
議長の【理性】は「いい加減にしたまえ! ただの偶然だ!」と叫ぶが、もはや誰にも届かない。
…そうか。これが、教科書で読んだ「一目惚れ(Love At First Sight)」ってやつなのか。
出会ってわずか数秒で、これだけの化学反応と情報処理が僕の脳内で嵐のように巻き起こっている。
分析すればするほど、感情の波は高まっていく。
「……よし!」僕は覚悟を決めた。脳内会議の結論は「一目惚れ」で満場一致(理性以外)。
ならば行動あるのみ! この奇跡的な出会いを無駄にはできない。
せめて、連絡先だけでも…!でも、いきなり声を掛けられたら怖いんじゃ?
ここへ来て理性が全力で行動に移さない理由を並べ立てて阻止しようと試みる。
「嫌われたら二度とこの電車には乗れないぞ」
「それどころか、通報されて下手すりゃ逮捕だお前の人生終るぞ」
「馬鹿野郎!少なくとも悠斗の隣に座るくらいは警戒してない、つまり嫌悪感は無いんだそんなことになるか!」
「千載一隅一期一会五里霧中!」
分析結果を実行するのがこんなに難しいとは…
意を決して顔を上げ、隣の彼女に声をかけようとした、その瞬間――。
『――次は、〇〇駅、〇〇駅』
プシューッ。
無情にも電車のドアが開く。
彼女は、僕の存在などまるで気づいていないかのように、すっと立ち上がり、颯爽とホームに降りていった。開いた口が塞がらない僕を残して。
「あ……」
脳内会議、完全沈黙。
さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返る。
(……結局、何もできなかったじゃないか……)
分析だけは完璧だったのに。脳内化学物質の乱高下も、認知バイアスも、進化の戦略も、全部理解していたはずなのに。
ガタンゴトン。
電車は非情にも走り出す。窓の外を流れる景色が、やけに滲んで見えた。
僕の一目惚れは、分析結果だけを残して、あっけなく終幕を迎えたのだった。トホホ…。