9 王都から来た青年(3)
ゾロゾロと帰って行く町衆を見送りながら、レイナージュは隣に立つ背の高い青年を見上げる。
「どうかしたか」
ケイラムは視線は町民に向けたまま、優しい声でレイナージュに問う。
「いえ、本当にここにいることを秘密にしたまま私の家に滞在できるようにするなんて、ちょっとビックリしただけ」
レイナージュはまだ振り返りつつ帰る町長に手を振ってみせ、内心ため息をついた。
「町長は悪い人じゃないんだけど、アンドレのお父さんだから私に良い印象がないんだよね」
「どうして?」
「だって、私は捨て子でしょ?なんの後ろ盾もないし、どこの馬の骨か分からない血筋の女が息子と付き合っていたら得がないじゃない?」
町長は子爵家の令嬢を妻にした。結婚できたとはいえ、平民である彼が子爵家からどのように思われているのか想像できるし、そのせいで血筋に対して異常な劣等感を持ってしまっているのも知っている。
それでもアンドレはレイナージュが好きだと言ってくれた。王都へ行っても、すぐに帰るからと約束してくれたのだ。いつだって彼女を想っていると照れた顔で言ってくれた。
レイナージュだって分かっている。
王都からアンドレの手紙の数が減っているのも、だんだんアンドレが都会に染まって行くのも、そして垢抜けた都会の女性に目が行くのも。
やがて手紙は来なくなるだろう。
そしてレイナージュは忘れ去られる。
それまではアンドレの恋人でいたいのだ。別れを切り出されるまでは。
「君は素敵な女性だよ。王都中を探しても見つからないくらい、至宝の玉だと俺は思う。だから自分をそんなに過小評価しないでくれ」
ケイラムが気遣うように言った。
「ふふふ。命の恩人には優しいのね。あなたもきっとモテるのでしょうけど、恋人には誠実でいてあげなきゃダメよ?」
レイナージュがケイラムを見上げて言うと、彼は困ったような表情で彼女に目を向ける。
「俺は女性と付き合ったことはない。そもそも、みんなして俺の顔か財産目当てだ。真実愛してくれる女性なら、俺は喜んでこの心も体も永年に差し出そう」
「まあ、情熱的なのね。きっとあなたに愛される人はとっても幸せになるわ。私には分かるもの」
「だと良いが」
ケイラムはあまり信じていないような表情で呟いた。
二人は町衆が見えなくなると家の中に入った。
「どうだった、風呂は」
ケイラムが台所に立ちながら問うてくる。
「最高だった。お湯が夢みたいに頭の上から降ってくるなんて素敵だわ。それに足を伸ばしてお湯の中に浸かれるなんて、本当に信じられない」
目を輝かせて話すレイナージュの様子に彼は満足したように微笑んだ。青銀色の瞳が優しくレイナージュに注がれる。
「俺の有用性が身に染みたか?」
「それはもう!ところで何をしているの?」
レイナージュがケイラムの手元を覗き込む。
「パンケーキを作っている。そこの棚に小麦粉と砂糖と卵があったから」
「パンケーキ?」
レイナージュは不思議そうにケイラムの手で作られるものを見ている。
「王都で流行っているおやつだよ」
「まあ、それを食べさせてくれるの?素敵ね。ところで魔法が使えても、お料理は手でするのね?」
「当然だ。料理というものは手間暇かけることで美味しくなる。魔法で作ったとて、うまくはいかんよ。魔法は万能ではないからな。現に君も見ただろう?死にかけた自分を俺は魔法で治すことはできなかった。魔法には適性もあるが、人を癒す魔法は存在しない」
「なるほど」
魔法を見慣れない身としては過剰な期待をしてしまう。
「あ、アンドレもね、ほんの少しだけど魔法を使えたの。秘密だよって言って見せてくれたことがあるわ。空に虹をかけてくれたの。とっても綺麗だった」
レイナージュが思い出を語る時、くすぐったそうな、嬉しそうな表情で幸せそうに言うのがなんだかモヤモヤとした気持ちになるケイラムだったが、そうか、とだけ呟いて手元に集中する。
卵をこんもり泡立てると、そこへ砂糖を足し、粉も足していく。
それから魔法でコンロに火をつけると、フライパンを温める。
「焼いたら出来上がりだ。バターと蜂蜜はあるかい?」
「ええ。お皿も用意するわね」
パタパタと慌ただしくレイナージュが棚に向かって行く。彼女のパンケーキに対する期待が伺えた。ケイラムは口元に笑みを浮かべて、丸く膨らんだパンケーキを彼女が差し出したお皿に乗せたのだった。