11-6 縁書
涙を流すアニエスを見ていたヴィクトルは、アンジューの腕を掴んだ。アンジューが驚いている中、ヴィクトルが念じた事でアニエスに纏うようにかかっていた魔法が解けたのをジュスティは感じた。
「……これで町の若者の傷も、時間が経てば消えるだろう」
「ヴィクトル!?」
アンジューの声を無視し、ヴィクトルはアニエスの前に膝をついた。
「アニエス……、すまなかった」
我慢していればいつかは望む幸せを手に入れられるとヴィクトルは信じていた。問題解決のためには自分が我慢することが大事だと信じていた。
だがそれが、大事な者も我慢させているのだという事を理解していなかった。
「本当に、すまなかった」
「……お父さんのせいだけじゃないよ」
アニエスは涙を流したまま、下がったヴィクトルの頭を抱き締めた。
「私たちのせいだから、謝らないで」
普通の生活に嫉妬した自分達のせいだから、と。
□ □ □
ヴィクトルはアンジューをロプに渡した。ロプが金を渡そうとしたが、ヴィクトルはそれを断った。あくまで譲ると言って譲らなかった。
ヴェトラートの若者たちには傷は残っていたが、アニエスが受けた傷は既に癒えていた。戻らない物もあるが、アニエスはそのことを気にした様子は無かった。
そうしてロプがアンジューを譲って貰った翌日の朝、ヴェトラートの町の出入り口にジュスティとアンジュー、そしてアニエスがいた。
アニエスは仕立ての良いドレスではなく、動きやすそうな質素なワンピースを着ている。その手には大きなトランクケースを持っていた。
アニエスはこれからヴェトラートから離れる。それはアニエス自身が決めたことだった。今まで貯めていた資金と、ヴィクトルから無理矢理持たされたお金を元に、自分を知らない土地を目指していくそうだ。
「アニエスさん、お一人で大丈夫ですか?」
ジュスティがそう聞くと、アニエスは笑顔を向ける。
「大丈夫よ。一応知識はあるし、むしろ1人でどこまでできるかワクワクしてるの」
そう言ってから、アニエスはジュスティに申し訳なさそうに眉を下げてみせる。
「それより、我が儘を言ってごめんなさい。最後にアンジューに会いたいなんて言って」
「いえいえ。主も許可をくださりましたし、お気になさらず」
そう言ったジュスティは、自分の背に隠れるように立つアンジューに視線を向ける。アンジューは怯えるようにアニエスを見ていた。
そんなアンジューにアニエスはため息をついてから、アンジューに近づいた。
「アンジュー、私、本当は貴女のこと好きじゃなかったの」
優しい言葉をかけるのかと思っていたジュスティはアニエスの言葉に驚いた。アンジューの表情がさらに暗くなるが、それを気にせずにアニエスは続ける。
「だって、私は普通の生活がしたいのに、書人が友達だなんて普通の子にしては珍しいじゃない? 今回の事だって、貴女と友達じゃなかったら起きなかったのだし」
アンジューが今にも泣きそうに顔をくしゃくしゃに歪める。アニエスはでも、と言い、そんなアンジューの身体を抱き締めた。
「貴女が友達でよかった。友達がいたから、いじめられてても私は頑張れたわ。ありがとう、アンジュー」
アンジューは目を見開いた。アニエスの言葉もこの温もりも本物だ。
アンジューは人と関わることが好きではない書人だった。図書院では1人で過ごす事がほとんどで、話しかけられると逃げる書人だった。そんなアンジューを変えたのがアニエスだった。
まだ幼いアニエスはアンジューと友達になりたいと望み、アンジューが嫌がるからと過度な接触は避けてくれていた。アンジューが興味を示したと気づくとその話題を詳しく教え、アンジューが一歩踏み出せるように手助けしてくれていた。
アンジューにとって、アニエスは大事な人だった。だが、書人と人間の違いから、共に学校で学ぶことができないのが辛く、アニエスを苛める者に恨みと共に、共に学校で過ごしていることに嫉妬を感じていた。自分の魔法により、罪の証を負った者たちを当然の報いだと喜びを感じていた。
今回の事はアニエスやヴィクトルばかりが悪いんじゃない。嫉妬心を抱いていた自分だって悪かった。
「……アニエス……っ、自分は、自分は……アニエスがっ、大好きだった……!」
貴女に対する気持ちが違っていれば、また違っていたのだろうか。
「さよなら、アンジュー」
「……さよなら、アニエス」
スピンで繋がっているわけではない、大切な者への別れを、アンジューは受け入れた。
アニエスと別れ、魔導書の姿に戻ったアンジューを持ち、ジュスティは宿屋に戻るために足を踏み出す。
「ジュスティ」
横から呼ぶ声がして立ち止まると、隠れるように建物の影に隠れていたロプが姿を現わした。
「主。来ていたのなら一緒に見送ればよかったのに」
「僕は必要なかったでしょう? ……僕は見送りに来たのではなく、ジュスティがアニエスにアンジューを渡すことがないか監視していたのですわ」
信用されていないなぁとジュスティは苦笑する。そんなジュスティの手から魔導書を受け取り、ロプは肩からさげたポシェットにしまった。
「主、結局誰が悪かったんですかね」
ふとジュスティが呟いたのを聞いて、ロプは呆れたように息を吐き出す。
「そんなの、全員に決まっているでしょう」
「え、全員?」
「そう。2人のどちらかを捨てなかったヴィクトルも、ヴィクトルを切り捨てなかった女も、両親を信じていたアニエスも、ヴィクトルに力を渡したアンジューも。そして、アニエスを苛めた人たちも」
そう言ってから、ロプはジュスティに微笑を向けた。
「誰もが加害者ですわ。……彼らが今後どう生きていくのか、気になりません?」
ロプの問いに、ジュスティは何も答えなかった。答えられなかった。