正しくなりたい
あなたが人生で一番怒られた瞬間はいつだろうか。
恐らく、中高生くらいまでの間でピークは来るものだと思う。
自分語りをさせて貰うと、この俺のピークは高校生の時だ。その時の俺は不良じみていたというか、擦れた高校生だった。煙草も吸うし、気に入らない奴がいれば喧嘩だってする。別に荒れている高校ではなかったため、俺は学校に馴染む事も出来ずに地元の悪友とばかりつるんでいた。同じ高校の奴らが特段嫌いだったわけではない。ただ、生きている世界が一線だけズレているような感覚があったからだ。恐らく周りからも同じように感じられていたのだろう。卒業まで、友達と言える存在は出来なかった、
そんな俺の高校に、一人名物教師のような存在がいた。ドラマなどである熱血教師というべきか、とにかく暑苦しい人だった。生徒が問題を起こせば誰よりも先に駆けつけ、文化祭の準備にも教師ながら精を出し、卒業式ではどの生徒よりも涙を流していた。そんな先生だ。情に熱い先生で生徒からの人望も高く、他のどの先生よりも一目置かれていたと思う。俺はその先生に、何度か怒られたことがある。
高校一年の時、俺はいつものように非常階段でタバコを吸っているところをその先生に見られた。
三年以上前のことになる為鮮明には覚えていないが、人生でこれ以上ないくらい怒鳴られた記憶がある。
暴力こそ振るわれなかったものの、未成年喫煙は決して許される事ではない、というようなことを30分近くに渡って涙ながらに諭され、最後にはお前には長生きをしてほしいと抱きしめられた。
俺はその熱血教師がなぜ俺の喫煙を止めるのか、理解が出来なかった。そんなに俺の健康の心配をするなら、俺が毎日のように昼飯を菓子パンで過ごしている事を知って一声掛けてくれたって良いのではないか。もちろん弁当を作ってくれだなんて事は言わないし、そもそも求めていないのだが。
健康面ではなく、未成年喫煙という行為に怒っているのだろうが、人に迷惑をかけているわけでもない。ただ「ルール」というものにだけズレている事が、そこまで罪の重いことなのだろうか。
涙ながらに感情をぶつけられたのは、高校時代にもう一回ある。それは怒られたのではなく、「怒り」であるが。
俺はいつものように地元の友達と、深夜街に出て遊んでいた。そこで俺は、見覚えのある女子生徒を見つけた。見たことがあるはずだ。その子は隣の席に座っている、同じクラスの女の子なんだから。その子の存在にパッと気づけなかったのは、彼女がラブホテルから出てきたからだ。それも、明らかに50代であろうおっさんと。彼女と目が合い、ひどく動揺している様子を見る。援助交際、今となっては一般単語となったその行為に俺はなんの特筆すべきイメージもない。利害の一致で金銭が発生する。そこに他の職業となんの違いも感じられなかったからだ。性欲を媒体とするのが駄目なのであれば、果たしてその理由はなんなのだろうか。50過ぎのおっさんが若い女の子とセックスしたいと考えた時、お金という武器を使えなくなったとして、彼らはその願いを一生叶えることができないのだろうか?その願いは、そこまで嫌悪されるものなのだろうか。また、行きずりのセックスに特段抵抗の無い女の子が、若さという武器を使いお金を稼ぐ事は悪なのであろうか?一体それは、アイドルやインスタグラマーとしてお金を発生させる事からそんなに遠い事なのだろうか。
隣の席の女子生徒は(ここでは名前をAとしよう)、後日話があると俺に言い、頼むから内緒にして欲しい、と懇願してきた。俺は元からそのつもりだったし、そもそも言うような相手もいない。その意思を伝えると彼女は安心したように日常に帰っていった。高校という狭い箱庭の中で援助交際をしている事がバレるというのは、中々生きづらくなるものだろう。
しかし、その安泰も長くは続かなかった。クラスの委員長にバレてしまったらしく、いつの日にか教室全体に広まってしまっていた。クラスの委員長は真面目な女の子で、「いかにも」といった感じの子だ。たまたま現場を目撃した委員長も最初は誰にもいうつもりが無かったらしく、Aに直談判しに行ったらしい。援助交際は良くないこと。そんな事でお金を稼がなくても、他にバイト先なんて沢山ある。そんな楽な方法でお金を稼いで、将来どうするのか。直接見たわけではないが、そんな事だろう。それを言われたAは、泣き出してしまったらしい。ただ泣くだけではなく、あなたなんかには一生分からない。そんな言葉を吐きながら、大声で泣き喚いたと言う。その騒ぎを聞いた他の生徒達につい委員長が事情を説明してしまい、噂が広まったという訳である。その後委員長が、自分のせいでAがクラスで浮いている事に責任を覚えたのか、A以外のクラスメイトでグループラインを作り、みんなで明日から前みたいに話しかけよう。そう提案した事があった。俺はAが援助交際をしていると知る前も知った後も対応が変わらなかった事もあり、そのグループラインが酷く気持ちが悪いものに感じた。そして俺は、ひっそりとグループを退会する事にした。翌日委員長から理由を詰められた時に、お前の正義を押し付けるな。俺お前のそういう所が嫌いだ。そう伝えた。
あなたって本当にどうしようもない人間ね。だからクラスで誰も友達が出来ないのよ。
彼女はそう言い残し、走り出した。
そんな二つの思い出が、大してキラキラもしていない俺の高校生活にどんよりと、確かな暗闇をしめている。
そんな俺は今、高校を卒業して大学生になった。大した大学ではないが、やりたい事もないなら取り敢えず大学には行っとけという親の方針もあり、適当なところに進学した。
もう今では二年生になるが、大学では特にサークルにも入る事なく、日々を雑に過ごしている。地元の友達は半分以上が就職して、たまに一緒に銭湯に行く程度だ。世界を斜に構えて、周りの同年代をどこか下に見ていた俺たちは、結局何者にもなれていない。雇われて日銭を稼いでいくか、どこか行き着く先をひたすら探しているかだ。聞けばあの熱血教師は最近不登校の生徒の家に毎週顔を出しに行った結果登校させる事に成功し、委員長は将来政治に関わる仕事に就くため、日々勉強しているらしい。
「兄ちゃん、火持ってねえか?」
急に声をかけられ、パッと声をかけられた方を振り返る。誰もおらず、訝しげに顔を動かすと下に段ボールをひいて座っているおっさんがいた。しかしホームレスにしては割と若く、40過ぎ、もしかしたら30代だろうか。
「あるよ」
そう答え、ライターをおっさんに渡す。高校生の時、涙ながらに止められた煙草は、結局その日には空になって買い足した記憶がある。
「なんや兄ちゃん、えらい辛気臭い顔湿ったけど」
「今日彼女と別れたんすよ」
「お、若いな。なんや、振られたんか?」
どうせこの後別れたら一生会うことのない相手だ。変にカッコつけることなく、俺は今日会ったことを話した。俺も煙草を咥え、返してもらったライターで火をつける。メンソールの煙が肺に入り、灰色なのか白色なのか分からない煙と共に言葉を吐き出す。
「俺めちゃくちゃ浮気症で、今回の彼女と付き合ってる時もずっと他の子と関係持ってて。それがバレてって感じっす。別に彼女のこと、好きだったんやけど」
寂しかったから、とか他の子に気持ちが揺らいだから、とかの理由でもない。ただ、彼女一人では満足できなかったからだ。別れる時に正直にそう言ったら、そんな気持ちで人と付き合わないでよ、と言われた。彼女の気持ちも分かる。傷つけたのも分かる。だけど、俺は今までもこれからも、一人の人を愛し続ける人間になれる気がしない。そうなりたいとは思うが、どうしても目移りはしてしまう。俺がそういう人間なのは、二十年以上生きてきてよく知っている。そんな俺は、一生人と付き合う資格はないのだろうか。
「兄ちゃん、クズだねってよく言われるだろ」
「高校くらいから、言われ続けてますよ。クラスの癌みたいな立ち位置だったんで」
クラスの癌、というのはいつしか委員長から陰口で言われた言葉だ。彼女の中で、人を傷つけない援助交際は許せないのに陰口を吐くことは造作もないらしい。真実であろうし、彼女になんと言われたところで大して気に留めないのだが。
「つかおっさん、さみいだろ。おれんち近いから、いらねえ毛布いる?汚ねえけど」
「お、まじ。兄ちゃん良いやつだな」
良いやつ、という言葉は久々にかけられた。捨てる予定だった夏用の毛布を処分したかっただけなのだが、言ってみるもんだ。おっさんと一緒に家に向かいながら色んな話を聞いた。おっさんは元ヤクザで、服役していたこと。その間に奥さんと子供に逃げられて、仕事もない為ホームレスをしていたこと。過去に、人を殺していること。
「人殺した後ってどんな気分なるんすか?」
「別になんとも、っていったら流石に嘘だな。だけどまあ、俺と仲間にとっちゃそれが正義だったからな。戦争中だって人沢山殺した方が英雄だろ?そんなもんじゃねえかな」
正義。確かにそうだ。ヤクザの事なんて不良まがいの俺には想像もつかないが、そんなもんなのだろう。人を殺すなんて大層な、とんでもないことのように思えるが、もし俺がおっさんの環境で生きていればまた違ったかもしれない。
「なー、おっさん」
この際、俺は高校の時からの疑問をこの得体の知れないおっさんに聞いてみる事にした。
「正しいとか正義とかって、なんだと思う」
「なんだ兄ちゃん、そんなん考えるお年頃か」
小馬鹿にするような笑いをしながら、おっさんは考えるポーズをする。
「なんだろうなぁ。俺はずっと、胸がちくちくしないかで判断してたけどな」
「ちくちくって、小学生みてえ」
「確かにな。けど、俺は法律なんて破るのが当たり前だったし、知らない人に疎まれる事も多かった。社会が求める正しいってのは理解できるけど、俺がそれに従うのはできなかった。金なんて汚い稼ぎ方でもいいし、理由があれば女でも殴る」
だからまあ、とおっさんは続ける。
「何が正しいとか、そんなんはそいつの匙加減だ。だけど、それが社会からズレればずれるほど生きにくいぜ。自分の信念を貫き通す覚悟がねえなら、社会に合わせた信念を着ていた方がずっと生きやすい」
往々にして、世の中のおじさんおばさんは語り出すものだ。年配者の言うことは聞け、という風潮があるが、俺はその言葉を信じた事がない。その人が生きてきた、その人だけの価値観をあたかも長く生きてるというだけで押し付けられるのが嫌だったからだ。あと、大体つまんねえし。だが、このおっさんの飾らない言葉は妙にするりと入ってきた。
「そんな人によって正しさとか変わるもんか?」
「んなもん立場によって変わるだろ。だから争いが起きる。けどまあ、基本的な正義は変わらんよ。だからアニメでも悪役が悪役たるし、倒されることを望まれる。悪いことをしたやつは、罰を受けなければならない」
けどまあ、とおっさんは続ける。
「多分兄ちゃんは正しくあろうとしても上手くできねえ。クズなのに、んな事聞くあたり真面目っぽいからな。綺麗なものを正しいってしちゃうんだろ。
だから、無理して正しくならなくていい。正義にならなくてもいい。正直でいろ。世界に正直になんなくても、自分に。出来たら、相手に。そしたら正しくなくても、楽になるもんさ。自分が正しくないのが分かってれば、正しさを人に強要することもない。善悪にこだわんない、そんなやつが居ても、いいだろ」
熱血教師は、人望が高かった。正義のために燃える事ができる人間ってのは、ヒーローだ。
委員長は、ひたすらに正しかった。人のためを思い、汚い欲を疎み、正しい世界を作ろうと尽力していた。
彼らの信念や行動は、社会において必要な動きだ。その正義や正しさが無ければ、世の中は退廃してしまうだろう。だから正義と正しさに対する気後れは、ずっとある。俺はそこに入れなかった、選ばれなかった人間なのだと。
そんな自分に、正直になる資格なんてないと思っていた。正しさの仮面を被るか、それが出来なければ悪だと自分にレッテルを貼って戦う覚悟を持つか。その2択しか自分のような人間は選ぶことが出来ないと思っていた。正直に、身の程を許容して。そんな甘えが許されて良いのだろうか。
「ここ俺んち、毛布持ってくるからちょっと待ってて」
そう言い残し、外付けのアパートの階段を上る。家賃5万のアパート相応に、階段もかなりさびれている。駅近や日当たりなどの条件と引き換えに4畳半という狭さを背負うことになったが、意外とその狭さが心地いい。大学を卒業してどこかに勤め、もう少し良い物件に暮らすことにもなる気もするが、広い部屋を持て余すくらいなら今の家に住み続けたいという気持ちもある。
使わなくなり、今や丸めて腰掛けとしている毛布を手に取り、軽く畳む。毛布の端をつまみながら、おっさんの言葉を思い出していた。正直であれ、その言葉は字面を見るととても綺麗なことに思える。実際、小学校の頃も担任の先生に正直になりなさい、嘘をつくのは良くないことです、と言われたことがよくあった。しかし、おっさんの言う正直である事、というのはそのような綺麗さとは一線を画したところにある気がした。汚い、世界から決して称賛されることのない部分を自分で肯定することに対しての怖さだろうか。俺からしたら自分を悪だと認め、誰に対しても、自分にだって蓋をして生きていく方がずっと生きやすいと思えた。十人十色、なんて言葉は嘘だ。価値観なんてみんなすり合わせて生きてるんだから。その義務から一歩踏み出すことは、この世界で生きていく切符を破く覚悟が必要なことに思えた。
「おー兄ちゃん、ありがとな」
階段を降り始めると、下にいるおっさんが呼びかけてきた。両手で抱えた毛布のせいで階段が見えにくい。足を踏み外さないよう、気を付けながら下る。
「ほい、思ったより汚えかも」
「せんきゅ、これお礼だ」
と、毛布を渡した手に暖かいものが渡される。缶コーヒーだ。
「いーのに、あんがと」
得てして全国のおっさんはみんなブラックコーヒーを飲むと思っていたため、微糖のコーヒーを渡してきたことに少し驚いた。苦いのは苦手なため、ありがたい。おっさんは俺に渡すだけで、自分の分は買っていなかった。家もない状況でお礼とはいえ、人に何かを買ってあげることは、俺にはできないなと思いながらプルタブを開ける。思ったより良いやつなんだな、とも思うがこのおっさんが人を殺したことがあるということを思い出した。元ヤクザで、殺人をしたことがあって、名前も知らない大学生に毛布をもらいに着いてくる。世間的に言えば悪くて、どうしようもない人だろう。だけど、俺からしたらなんの悪感情も湧かなかった。殺された人に何の関係もなく、おっさんに害をもたらされたことが無いからだろう。ただ、おっさんの話はあの教師の熱い30分の説教よりもずっと頭に引っ掛かり、反芻されている。
「達者でな、兄ちゃん」
「おう、ばいばい」
達者でな、なんて日常で初めて聞いたがなんだか違和感はなかった。おっさんと別れ、帰路を辿る。結局のところ、全部ホームレスの元ワルの戯言だ。正しくいた方が、良い奴であった方が偉いに決まっている。それが出来ないのならば、自分を責め、他人に責められるべきだ。世界はそう回っている。自らの逸脱性を認めてしまうのは、弱さであり甘えである。そう考えなければならないのは分かっているのに、おっさんの言葉が甘美なものに思えて仕方がなかった。
「…気持ち悪ぃ」
そう呟き、俺は残り一本となった煙草に火をつけた。