夢のような現実は、夢?
「ベルナレット様、お疲れ様でございます。こちらを……」
騎士団団長の父をもつ私の婚約者ベルナレット・キーヌ様は、自身も騎士を目指している。そのため連日連夜、鍛練に明け暮れる。
私と交流を持つ事などほとんどない。仕方がないので私はこうして彼の訓練後、汗を拭くタオルと飲み物を用意して彼に渡しているのだ。
だがここ最近は、それもままならない。
何故ならば、こうして用意しておいた物がいつの間にか汚されているからだ。しかもすぐには気付けない程の小さなシミがタオルには付着しており、飲み物には小さな異物が浮いている。
そんな物を彼に渡すわけにもいかず、かといって素直にその事を告白すると我が伯爵家の管理はどうなっているのかと不興をこうむる。だから、いつもここで手を下ろしてしまう。
「キャノン?」
不思議そうにする彼を前に、私は頭を下げるしかない。
「申し訳ありません。用意できておりませんでした」
「……君はいつも何しにここに来ているんだ? 冷やかしなら帰ってくれないかな」
「いえ、決してそのような……」
「ベルナレット様~」
そうして今日も聞きたくない甘い声が、私の婚約者の名を叫ぶ。
「ミーニャ」
「お疲れ様です。良かったら、これ使ってください」
私の後ろから彼に走り寄って来たのは、同じクラスのミーニャ・カレン男爵令嬢だ。
ハァハァと息を切らせ、ニッコリと微笑みながら私の婚約者を仰ぎ見る。そうして肌触りの良さそうな清潔なタオルを、両手で差し出すのだ。
「いつも悪いな。今日は遅かったみたいだけれど、忙しかったんじゃないのか?」
「いえ、婚約者のキャノン様を差し置いて、私がいつもベルナレット様にお渡しするのはどうかと思ったので、後ろから様子を伺っていたのです。でも、今日もキャノン様は用意されてなかったみたいなので、私がお渡ししても問題ないかなって思って持って来ました。でしゃばってしまってごめんなさい」
そう言って私をチラリと見ると、頭を下げた。
ちょうど用意しておいたタオルが何故か汚れだした時、彼女はこうしてベルナレット様に渡す様になったのだ。『キャノン様は用意していないからいいですよね』と言って。
毎日、屋敷の使用人にタオルと飲み物が汚れている旨を話す。
侍女達は汚れがある事に驚き、そうして伯爵家の矜持にかけて、屋敷中全員で必死になって清潔なタオルと飲み物を用意してくれる。
毎朝、侍女頭と執事が確認した物を持って行くのだが、何故かベルナレット様に渡す段階になって汚れている事を発見してしまうのだ。
執事が言いにくそうにしながらも『学園内で汚されているのではないでしょうか?』と言って来た時には、そうでしょうねと思いながらも、素直に頷く事はできなかった。
だってそれを認めてしまうと、私がいじめられている事も認めてしまう事になるのだから。
私が黙って俯いていると、ベルナレット様はハア~っと溜息を吐いた。そうして私の存在を無視するかのように、ミーニャ・カレンに近寄る。
「キャノンに気を遣う必要はない。彼女は俺のために何かをしようなどと思わないのだから。今もこうして冷やかしに来ているだけだ。それよりもミーニャに、何かタオルの礼をしないといけないな。何か欲しい物はあるか?」
信じられない事に、彼は婚約者の私の目の前で、他の女にプレゼントの相談をし始めたのだ。
驚く私の顔をチラリと見るベルナレット様。
「何か文句があるのか? 君が用意してくれないから、毎日届けてくれる彼女に礼をしようとしているだけだ。本来なら婚約者である君が……いや、いい。その気のない者に強請っても自分が虚しくなるだけだ。行こう」
そう言って彼は男爵令嬢を促し、私を置いてその場を離れる。
呆然とする私に、ミーニャ・カレンが近寄って来た。
そうして耳元で囁いた言葉は、信じられない内容だった。
『ベルナレット様は私に任せて、いじめられっ子は大人しく去りなさい。名ばかりの婚約者、悪役令嬢様』
「!」
バッと顔を上げた私に、ミーニャ・カレンはニヤリと笑うと、サッとその場を離れて追いかけたベルナレット様の腕に、己の腕を巻き付けた。
「ちょっと待って下さいよ、ベルナレット様。ハァハァ、足が速いんですから。流石騎士様ですね」
「まだ騎士ではない」
「いいえ、私には最高の騎士様です。毎日鍛錬をかかさないお姿を見ていると、私もじっとしていられなくなるんです。タオルを用意する事ぐらいしかできていませんが、何かお望みの物はありませんか? なんでも言ってください」
「ありがとう。どうやら俺の事を気にかけてくれるのは君だけのようだ」
ベルナレット様は腕に回された手を離しもしないで、そのまま二人で屋内へと入って行った。
残された私は、今のミーニャ・カレンの言葉を反復する。
彼女はなんて言った? いじめられっ子と言った? それって、つまり私がこんな目にあっている事を彼女は知っている? どうして? ううん、そんな事考える必要もないわ。
犯人はミーニャ・カレンなのだから。
私は目を閉じる。
本当は気付いていた。彼女が色々としている事を……。だけど、それを認めるのが怖かった。
だって、私が……伯爵家の娘のこの私が、男爵家の娘にいいようにいじめられるなんて。
ポロリと涙が頬を伝う。悔しい。
何が一番悔しいか……そんな事は分かっている。ベルナレット様が気付いてくれないのが、一番悔しく、辛いのだ。
ベルナレット様の鍛練は、遅くまで続けられる。鍛錬をしている他の生徒の中でも、一番最後まで行う事が多いのだ。
だから今この学園の鍛錬場には、ベルナレット様に置いていかれた私だけがいる。
嗚咽が零れる。
一人なのだから我慢しなくてもいいとは思うものの、やはり大声で泣くには伯爵令嬢としての矜持が邪魔をする。
ああ、私はあくまでも伯爵令嬢という肩書を大事にしてしまうのだなと、自分自身に呆れてしまう。
「……馬鹿みたい……」
「そんな事ないわ。頑張っている貴方はとっても偉いと思う」
「!」
一人きりだと思っていた私は、突然後ろから声がして、心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
パッと振り向くと、そこには絶世の美女がいた。
驚きの余り固まってしまった私に、美女は白いレースのハンカチを差し出してきた。
「はい、これ使って。大丈夫よ。ここには私達だけだから」
「大丈夫の要素が少しも見当たらないが、ユリアだから許そう」
「殿下はユリアに甘過ぎます。もう、今日は様子を見るだけって言ったでしょう。姿を現してどうするの?」
「仕方ない、エリーゼ。それがユリアーズ様だ」
「殿下もティモン様もいけません。確かにユリアは可愛いですけれど、それとこれとは別の話です。ユリアは王太子妃になる身ですよ。公でこんな突拍子もない優しい事を素でされたら威厳が保てません。ここは辛くても、容赦せずに正さなくてはいけないのです」
「バーバラは真面目だな。そんなところも可愛いとは思うが……」
――私がその場で気を失ったのは、言うまでもない。
こんな事が現実におきるはずがない。
私の人生において、学園上位の貴族の方達と知り合う事があるなんて。
それも保健室で横になる私のそばにいる彼らは、なんと私を心配してくれているのだ。もちろん、名前もご存知で……。
「キャノン様、大丈夫? ごめんね、吃驚させちゃったかな?」
私の顔を覗き込んで、シュンとする絶世の美女はこの国の第一王子の婚約者、ユリアーズ・マリノチェ様だ。
「ユリアは驚かそうと思って、わざとやった訳じゃない。謝る必要はないよ」
落ち込むマリノチェ様の肩をそっと抱き寄せるのは、この国の美貌の王子ハリオス・イーブ・デュラリオン様。
「何度も申し訳ありませんが、殿下はユリアに甘過ぎです。人一人気を失わせるほど驚かす行為は、謝罪すべき事ですわ」
肩に乗せた殿下の手をペチペチと叩くマリノチェ様の後ろから、腕を引いて殿下とマリノチェ様の間をあけようと頑張っているのは、マリノチェ様の友人のエリーゼ・ガルノヴァ様。
「だからこの二人の事は諦めろって、エリーゼ」
そうぼやきながら保健室の空いた椅子に腰かけて、こちらを眺めているのはエリーゼ様の婚約者ティモン・サラデュラ様。次期宰相候補と噂されているお方だ。
「確かに謝罪は必要ですが、王族が簡単に頭を下げてはいけません。ユリアに変わり私が謝罪申し上げます。驚かせてしまい、申し訳ありませんでした。キャノン様」
そう言ってガルノヴァ様の後ろから頭を下げたのは、以前目に埃が入って困っている時に助けてくれたバーバラ・デュオ様だ。
「……マグレーバー嬢が困っているぞ。そろそろ本題に入らないか?」
頭が一向に働かず、目を白黒させていた私を助けてくれたのが、デュオ様の婚約者ダリアス・マーカー様。
余りのキラキラしさに、私はもう一度気を失いかけた……。
今でもはっきり覚えている。入学式のあの光景を。
殿下の麗しいお姿に、会場中が熱い吐息を零した。そして、そっと隣に寄り添うマリノチェ様。二人のこの世の者とも思えない輝かしさに、私は一生この姿を忘れないと心に誓った。
そのお二人はもちろんの事、ご友人の方々の美しさも言葉では言い尽くしがたい。
神々のような美しい方達の間で、寝台にくるまっているのが私だなんて、これは夢? 夢なのよ。だからこのキラキラ眩い光景はもうすぐ消える。もったいないけど消える。
そう思っていたのに……どうしよう。幻が私の頭をよしよしと撫でている。柔らかくていい匂いがして気持ちがいい。
「話できそう? 保健室の先生、呼んだ方がいいかしら?」
「……えっと、大丈夫です。ご心配、おかけしまし、た?」
「なんで疑問形が分からないけれど、大丈夫なら良かったわ」
「ユリア、俺も撫でて」
「ハリーは黙ってて。それよりもなんて説明したらいいのかしら? バーバラお願いできる?」
マリノチェ様のお願いに、デュオ様はニコリと微笑まれて、私の寝台の横にある椅子に腰かけた。
途中、殿下がマリノチェ様に変な事を言っていたような気がするが、夢だから仕方がない。
そうして寝台から離れたマリノチェ様の腰をもって、自分も椅子に座る。その際マリノチェ様をご自分の膝の上に座らせたのは、夢だから仕方がない(二度目)。




