隙間。
幼い頃から昔から隙間というものが怖かった。ほんの少しだけ開いているその「隙間」に、何が潜んでいるのか分からない、正体不明の何かがこちらを覗いているかもしれない、得も言われぬ恐怖を私は感じていた。だからドアであろうと何であろうと少しでもそこに隙間があると、私は恐怖にかられてぴっちりと閉めるようにしていた。
私が大人になって、親から独り立ちし、一人暮らしをするようになってからも、隙間に対する恐怖は変わらなかった。昼間の日がさしているときは感じないけれど、夜中になると、私の中の恐怖が鎌首をもたげてくる。でもだからといって、この恐怖を誰かに言うことはなかった。たかが隙間に何を怯えているのか。子供っぽいと思われたくないというのも、あったのだと思う。
ある日の夜のことだった。私は珍しく酒に酔い、ふわふわとした、どこか心地良さすら感じる状態で帰宅した。帰宅してすぐに明かりをつければ、暗闇は一瞬で消え去ってしまう。酔い覚ましに冷たい水を飲み、一休みしてから、私は風呂に入り、就寝前の歯磨きを始めた。
私は思っていたより酔っていたのかもしれない。全面には洗面台の鏡、そして背後には引き戸があった。つまり歯を磨いていると、必然的に背後の引き戸が見えることになる。私はまだ酔っていた。だから油断していた。後ろの引き戸に、少しだけ、隙間があったことに。
背中がぞくりと震えた。歯磨き粉を水で洗い流し、鏡を見た途端、そこにある「隙間」を見て私は震えが止まらなかった。何かがいる。何かがこちらを覗き込んでいる。その事実に気付いてしまい、私は慌てて、震える手で引き戸をぴっちりと閉めた。
戸を開けるのが怖かった。「隙間」に潜んでいた何かにまた遭遇してしまうのでは無いか。酔っていた私の頭は冷えるように覚めていった。怖い。ここを開けるのが怖い。でもここには明かりがついている。何より「隙間」を作らなければ良い。勢いよく引き戸を開けてしまえばいい。騒音問題になるかもしれないが、私の恐怖を紛らわせるのなら、これくらいは許容範囲内だ。
私は勢いよく引き戸を開けた。あっけなくそれは開かれ、明るいキッチンスペースに続いていた。浅くなった呼吸を落ち着けるために、また水を飲む。大丈夫、このまま眠ってしまえば、朝が来れば、あの「隙間」なんて怖くなくなる。
私は洗面台とキッチンスペースの電気を消し、そのままいつものリビングを通ってベッドへと向かった。もうこれで安心だ。あとはもう眠るだけ。そんな私の視線に、ベッドの「隙間」が現れた。ああ、ああ、何かが、「隙間」から何かがこちらを見ている。私は言葉を失った。「隙間」から何かが現れる。私は悲鳴も上げられぬままに、何かによって「隙間」に引きずり込まれていった。
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けたたましいアラームが鳴り響く。何事かと思いながら手元を見てみると、私の手の中でスマホが朝の時間を知らせてきていた。どうやら酔っ払った私は、ベッドにたどり着く前に眠ってしまったらしい。床で寝たせいか体中が痛い。
昨日は変な夢を見てしまった。ベッドの「隙間」から現れた、不可思議な存在に、その隙間の闇に引きずり込まれる夢。いつもより深酒をしてしまったからだろう、幼い頃から抱いていた恐怖が、酒の悪影響で増大してしまったのかもしれない。とにかく一度起きて、少し気分を変えよう。私はそう考えながら起き上がる。
ふと、視界の隅に「隙間」が見えた。そこから何かに見られている感覚がしたけれど、私は二日酔いでまだ疲れているのだと自分に言い聞かせて、それを無視した。あれは夢だった。それを、「隙間」の中にいる何かを認めてしまったら、私はまたあそこに引きずり込まれるかもしれない。だから、あそこに視線を合わせてはいけないのだ。