巡る季節をともに(三十と一夜の短篇第70回)
山のなか、木立にぽっかりと空いた広場に佇む神社があった。
静寂を包み込む群青色のうす暗がりに光が射す。
昇りはじめたばかりの太陽の姿は高い山の向こうに隠れたまま、光だけが古びた社の屋根に落ち柱を伝ってゆるゆると明るみを広げていく。
静謐に包まれた神域で、未だ光の届かぬ夜の際から朝もやにけぶるような光へと、手が伸ばされた。
しなやかな指先が陽光を受けて白い肌が晒されたのは一瞬。
光を浴びた指先は見る間にぐずぐずと黒く焦げて、焦げた先から灰となっては大気にほどけていくのを指の主である青年はぼんやりと見つめている。
「指が……」
静寂を裂いたのはか細い声。声の主は襤褸に身を包んだ少女だった。
厳かなその場に似合わぬうす汚れた格好の少女だが、澄んだ空気のなかに黒煙をあげる青年ほど無粋ではない。
生い茂る木立からはだしの足で半歩、踏み出した少女と目が合った青年がふわりと笑う。
「おはよう。いい朝ですねえ」
場違いなあいさつにぶすぶすと指先から肉の焼け焦げる音と香りを添えて、青年は目を細めた。若く、見目麗しい青年に似合いの甘い笑みだ。
視線を合わせた少女もまた目を細めたけれど、こちらに浮かぶのは青年とは正反対の表情。
暗い木立から足を進めた少女は眉間にしわを寄せ、青年を見上げる位置から態度で見下した。
「神さまがお天道さまに焼かれるうえに自殺志願なんて、ほんと世も末ね」
吐き捨てるような少女の声が、神域の静謐に妙な調和をもたらした。
〜〜〜
陽の光が社を照らし出す前に、青年は少女を社のなかに招き入れた。
社のある山のふもとの集落で育った少女は神の住まいに足を踏み入れることにためらいを覚えたけれど、招いたのは神そのひとだ、とかすかな信心を投げ捨てる。
軋む音を立てて社の扉が閉まり、ふたりの姿が暗闇に飲み込まれるかと思われたとき。
音もなく部屋の四隅に炎がにじんだ。
誘われるように視線を向けた少女の横顔に驚きはなく、ただ赤い揺らめきが大きな瞳のなかでゆらゆらと踊る。
「驚かないんですね」
穏やかな笑顔を浮かべたままの青年が面白そうに言うのに、少女は無表情に一瞥を返す。
「驚いてる。あなた、さっきは髪が青かったのにいまは赤くなってるから。ほんとに神さまなの? お社に住んでるだけのひとじゃないの?」
「ああ、僕の髪は白いですからねえ。黎明の空に染まり、燭台の赤を映すんですよ。ところでその神さまって言うのはなんです?」
疑問というよりもからかうように青年がたずねると、少女は目を丸くした。年相応の幼い表情で青年の頭のてっぺんから足の先までじっくりと見つめる。
火の赤に染まった青年いわくの白髪は肩に付かない長さでゆるくうねり、細身の体を覆うのは立ち襟の白いシャツと濃紺の小袖に墨色の袴。
炎に照らされてなお白い肌には傷はおろか、染みも汚れもない。指の先までも作り物のように美しい。
「……指先、さっき焼けてたのになんともなってないの。やっぱり神さまなんでしょ」
「ああ。あれはね、陽光に焼けていただけですよ。僕はvampireですからねえ」
「ばんぱいあ?」
耳慣れない響きを繰り返す少女の舌足らずな物言いがおかしかったのか、青年はやわらかくほほえんだ。
「ただの化け物、神なんかじゃないんですよ」
「でも、お社に住んでるんでしょ。ずっと昔から」
青年がにじませた切なさなど知ったことかと言いたげに少女は断じ、大きな目で青年を見据えた。
「なら、あたしを食べてよ」
「ええ?」
「って言うつもりだったけど、やめた。あなたの不死をあたしに頂戴」
「ええ!?」
予想外の発言を重ねられて驚く青年を見て、少女は不遜に腕を組む。
「あなた、死ぬ気だったんでしょう? だったらいいじゃない」
「ううーん。僕の眷属になれば不死に近くはなりますけど……でも、きっと後悔するからやめておいたほうが良いですよ。長く生きたところで幸せになれるわけじゃないですから」
実感のこもったつぶやきにも少女の態度は変わらない。
青年は面倒だと思う本心を隠してにっこり笑う。
「きみ、下の村の子どもですか? 道に迷ったなら送ってあげますから、ね」
言って青年が手を持ち上げると、すぐそばの暗がりからちいさな白い影がぱたぱたと姿を現し、彼の指先にぶら下がった。
影は、羽を閉じてしまえば少女の片手におさまるほどに小さい。
「白いこうもりだ」
顔を寄せてまじまじと見つめた少女のつぶやきに、ちいさな白色のコウモリはぶら下がったまま「きぃ」と鳴いた。
「まだ陽が昇りきらない今のうちならこの子が案内してくれますから、さあ」
背中を押した青年のことばを裏付けるように、その手から飛んだコウモリが少女の顔の周りをくるりひらりと舞う。
けれど少女は立ち尽くしたまま、動こうとしない。
「不死を分けてくれないならあたしを食べて。あなた、化け物なんでしょう」
「ええ? それはまあ確かに乙女の血のほうがおいしいですけど、でもきみはあまりにも幼いから手を出すのはちょっと、ねえ」
ためらう青年に少女は笑った。
容姿の幼さなど感じさせない、老成した笑いを見せた彼女は乾いた声で告げる。
「なら良かった。だったらはやく、あたしが未通女じゃなくなる前に喰ってしまってよ」
良かった、とは誰にとってなのか。
問うことはせずに、青年はちいさく息を吐いた。
びくりと肩を跳ねさせた少女が瞬きする間に青年の影からにじみ出たのは、コウモリの形を模した黒い何か。形だけはコウモリそのものだが、目も鼻も無く膨らみも温もりも持たないそれは明らかに生き物ではない。
「どうにも訳ありみたいですねえ。ちょっと見てみましょうか、村の様子を」
青年のつぶやきに応えるように黒い塊は宙をすべり、閉じたままの社の扉をすり抜けて出て行った。その後ろ姿を見送って、少女のそばを舞っていたちいさなコウモリは青年の襟首にぶら下がる。
「なに、あれ」
「うーん……分身、欠片、なんて言えばいいのかな。切り離した髪の毛のようなものでもあるし、僕であって僕でないものなのですけれど」
首をかしげ説明するためのことばを探していた青年が、ふと表情を変える。
見上げる少女は彼の瞳の赤が増したような気がして瞬いた。
「……大きな家、ええと、地主? の家だったかな。ひとがたくさん走り回っていますね、太った男が騒いでる」
宙を見つめてつぶやく青年の視線の先には社の暗がりしか無いにも関わらず、彼の赤い瞳には村の景色が映っていた。
大きな地主の屋敷、唾を飛ばす勢いでくちを動かす年老いた地主が肉のついた腕を振り回し、ひとびとが駆け回る姿。
「『シキ』というのはきみの名前ですか」
虚空を見つめていた青年がふと少女を見下ろし問いかけると、少女、シキは身を固くした。
村から山の社までは大人の脚でも半刻かかる。青年がどうやって自身の名を知ったのかはわからなくとも、村で起きていることを知られたのだということがシキにはわかった。
「……男手が無い、母さんも病弱で働けないのにあたしたちが村に居られらるのは地主のおかげだって。これからも母さんが食べてくために、地主があたしのこと食うんだって。日が昇ったらきれいに磨いてもらうから、地主の家に行けって言われて」
聞かれて答えるのはあまりにつらくて吐き出すように告げたけれど、告げた内容があまりにみじめでシキは続けられなかった。
ただ薄汚れた拳をきつく握りしめて、胸のうちでうねる感情をこらえることに意識をそそぐ。
「だから神さま、あたしをっ」
「きみを逃がしたのはこの子かな」
シキの叫びをさえぎる青年の声は変わらず穏やかだった。
毒気を抜かれたシキは彼の瞳に映る人影に目を凝らし、息をのむ。それが青年への答えになった。
「『ショータロー』が言ってます。『シキの草履を川のそばで拾った』って」
青年の赤い瞳に映る少年が、古びた草履を手に大人に向かって何事かを訴えている。途端に太った地主は川下を指差し、村の人々が駆けていくその姿は、青年の瞬きで掻き消えた。
知らぬ間に赤い瞳を凝視していたシキは青年と見つめ合う形になって、裸足の足を居心地悪そうに後ずさらせる。
素足のまま山道を登ってきたシキの足は土で汚れ、小枝や石でついたちいさな傷にまみれていた。貧しい少女が持つ草履はひとつきり。
そのひとつきりさえ行方をくらますために手放したせいで足は傷つき、傷口に土が入り込む痛みが少女を苛んでいたが、シキが苦し気に押さえたのは痩せた胸。
「正太郎は『子どもが大人の食い物にされるのはおかしい』って。『時代が変わったんだから世の中も変わるべきなんだ』ってこっそり食べ物をわけてくれて。学校で習ったことを教えてくれて、それで、あたしを逃がしてくれた」
胸を押さえ苦し気に眉を寄せながらも、シキはわずかに表情を緩める。ここにきて初めて見せるかすかな笑みに少女の思いがにじんでいた。
それを目にして、青年はさわやかに笑って言う。
「村の大人に食われるくらいなら、山の化け物に食われておいでって?」
「ちがう!」
烈火のごとき怒りを込めた瞳を受けて、それでも笑みを崩さない青年にシキは吠える。
「正太郎はそんなこと言わない! 山の社に隠れてろって。人目を盗んで追いかけるから、社に住む神さまに食われないよう待っていてって!」
「青春ですねえ、実にいいものです。けれど少年に力はなく、少女は希望を捨てるわけだ」
詩を諳んじるようにしみじみと言う青年にシキは返すことばもなく、ぐっと押し黙った。
子どもふたり、村を出たところで行き倒れるか見つかって連れ戻されることはシキにもわかることだった。
「すこしの幸せを抱えて死にたいって思うのは、そんなにおかしなこと?」
つぶやいて、悲痛な面持ちでうつむく少女のまわりをコウモリがぱたぱたと舞う。「きぃ、きぃ!」と非難するように泣きつかれた青年が情けなく眉を下げた。
「冗句ですよ、冗句。そう怒らないでほしいな。僕だって急な話で驚いてるんですよ。というわけで」
こほん、と咳払いをひとつ。青年は居住まいを正し、シキと向き合った。
暗い赤色に村の景色を映していた瞳を明るく煌めかせて社の床に膝をつく。見下ろす高さから見上げる場所へ、位置を変えた青年は少女の薄汚れた頬を指先でぬぐいながら微笑んだ。
「シキ、きみの望みを聞かせてもらいましょう。あいにく僕は神さまではないけれど、長く生きた化け物には変わりないですからね。気まぐれにきみの願いを叶えるかもしれませんよ」
「だったら、あたしを」
荒んだ瞳で口を開くシキに、青年はゆるりと首を振る。
「殺して、っていうのは無しです。これでも僕は平和主義の人間びいきなvampireですからね、『助けてほしい』とか『手を貸して』なんて言われるとやる気が出るかもしれませんねえ」
少女のことばを遮った青年がいたずらっぽく笑った瞬間、シキの顔がくしゃりと歪む。
張りつめたように神経をとがらせていたシキは、目の前にしゃがむ青年から隠すように顔をうつむけて声を絞り出す。
「神さま……助けて」
か細い祈りの声に神は応えない。
神の社で何十年と暮らしたところで神の姿を見たことも、神がひとを救うところも青年は見たことがない。
けれど『祈り』を力に変えられない化け物の青年は獰猛に笑う。
「いいですよ。僕は『平和主義』ですからね、君の助けになりましょう」
穏便に、ね。
そう言った瞬間、青年の身体は無数の黒い影となって社を抜けた。
どこへ向かったのか、何をしたのか。
社に取り残されたシキにはわからない。白いコウモリに阻まれて社の外をうかがうこともできずにいるうちに、黒い影の群れは舞い戻る。社の床に集った群れはぶすぶすと焦げる音と臭いをさせながら、青年へと姿を変えた。
「あなた、身体が……!」
姿を変えてもくすぶり、煙をあげて焦げていく青年を見てシキが悲鳴をあげる。
陽に焼かれた青年は見るも無惨に焼け焦げて、白い肌と言わず艶やかな白髪と言わず爛れて崩れ落ちていく。
だというのに、当の本人は焼けた肌を引き攣らせてくすりと笑う。
「これくらいの光なら血で賄えますよ。伊達に長く生きていませんから」
赤い瞳を煌めかせたかと思えば彼の身体は崩壊を遡らせはじめ、見る間に元の美しい容姿を取り戻した。
驚きに目を見開いたシキに微笑んだ青年は、ふと口もとについた赤い液体に気がついて照れ笑う。
「おっと、失礼」
「血を……吸ったの?」
シキの視線は青年の指先にぬぐわれた赤い粘液に吸い寄せられていた。
その目にこれから宿るであろう感情を思って、青年の顔に浮かんだのは笑顔だ。落胆するほど深入りする前に嫌悪されるならば悪くはないと、長い生で知っていた。
「殺してはいませんよ。ただ限界寸前まで血を抜いたから、しばらくはまともに動けないでしょうけど」
知っているのに、往生際悪く言い訳めいたことを口にしてしまう自身を青年が笑ったというのに。
「あんな年寄りの、それも太り過ぎの血なんて吸って身体に悪くない?」
シキが心配したのは青年の身だった。
「は……」
今度は青年が目を見開く番だった。
眉を寄せたシキが「ああいうひとは蚊にも刺されないって聞くから、血がまずいんでしょ。それってやっぱり身体に悪いから刺さされないんじゃないの」などとつぶやくのを聞いて、青年はこらえきれずに笑い声をあげる。
「ははっ、あははははは! 僕を心配してくれるですか? 僕を、血を吸う化け物の僕が悪い血を吸ったんじゃないかと、心配して!」
「なっ、なんで笑ってるの! 心配してなにが悪い!」
シキが頬を膨らませて怒るものだから、青年の笑いはますます止まらない。
心配するように飛びまわる白いコウモリをよそに笑い続けた青年は、やがて涙のにじむ目元をぬぐって息を整えた。
「……はあ。こんなに笑ったのは何十年ぶりでしょう。いいですね、楽しいですよ。気に入りました」
にっこりと今までにないほど良い笑顔を見せた青年に、シキはこくりと息を飲む。
「食べるの? あたしのこと……」
「そんなもったいない! 僕の血肉にするのも悪くありませんが、それではあまりに味気ないでしょう。もっと良い方法がありますよ、僕ときみとが長くともに居られる方法が」
〜〜〜
陽が沈むのを待って、ふたりと一匹は社を出た。
遠いふもとの村ではいくつもの篝火が焚かれ、村のあちこちを赤くゆらゆらと照らし出している。
「地主が急に干からびたので、驚かせてしまったみたいですねえ。怪異だ、妖だと騒いでいるようですよ。少年もそのせいで家を出られないようです」
社を背にしてすぐ立ち止まったシキの耳に、青年がささやくように告げた。その瞳には村の様子が映し出されており、家を抜け出そうとしては家人に捕まり部屋のなかへと押し込められる少年の姿が見える。
真面目な正太郎は少女との約束を守ろうとしているのだろう。
「……手紙を、残してもいい?」
「ええ、どうぞ。ただ、あまり時間は無いようです。神仏にすがろうと山を登っている者たちがいますから」
遠くを見て答える青年に頷いて、シキは荷物のなかから布を取り出して引き裂いた。
シキが身につけていた襤褸布は少女の力でも容易に裂けて、薄汚れた布きれになる。そこに、シキは拾った木の燃え滓で書き記す。
『カミトトモニ』
何も持たない少女に文字を教えたのは正太郎だ。歪で癖が強い字であっても彼にならば書き手が誰かわかるだろう。
記名も何も無い淡白な六文字を床に置いて、シキはがらんどうになった社に背を向けた。
「……あれだけで良かったのですか? 例えば『待っていて』だとか書いて、地主が代替わりするころに戻ってくることもできますが」
布きれを見ていた青年が声をかけるが、シキは与えられた新品の草履で山道を登っていく足を止めない。
「いい。正太郎は約束を守ろうとしてくれた。その事実だけであたしにはじゅうぶんだから」
くるりと振り向く動きに合わせて、シキがまとった真新しい小袖のたもとが揺れる。
青年がどこからか持ってきた服は和装から洋装まで種々様々で「どれもこの国で作られたものですよ」と聞かされたシキは、時代が変わったという少年のことばをようやく実感したものだ。
新しい着物に新しい草履、汚れた顔を拭いて髪を整えたシキは、生まれ変わった気持ちでにっこり微笑んだ。
「それに、あたしをあなたの旅に連れてってくれるんでしょ。それでもう少し大きくなったら眷属にしてくれるって」
さも喜ばしいことのように語るシキを見つめた青年は、足元に置かれた布きれにもう一度、目を落とす。
「カミトトモニ……共に、なのでしょうけど」
「ねえ、行こうよ! 死にたがりの神さま!」
かろうじて社が見えるぎりぎりのところまで進んだシキが手を振って青年を呼ぶ。くるりくるりとシキの周りを飛ぶ白いコウモリも青年を待っているようだ。
ふたりの姿を視界に映し、青年はまぶしそうに目を細めた。
「僕はねぇ、死にたいわけじゃないんですよ。生きているって確認するために傷をつくるんです。でも、それももう必要ないかもしれませんね」
誰に聞かせるともなくつぶやいて社の扉を閉める。
暗い社のなかに残された書き置きを思い返して、青年は淡くほほえんだ。
「ともに、共に、友に……友になれるほどの時を共に過ごせたなら、なんて贅沢な望みですね」
「おーい、神さま! 置いて行くよ!」
「シキ、そう大声を出すと聞き咎められますよ」
元気に手を振る少女に返して、青年は歩き出した。
孤独に耐えかね故郷を離れた化け物は、住み着いた異国の神の社を捨てて旅に出る。
弾むように先を行く少女と青年の視線が近づいて、ふたりの心の距離が彼の望んだ形になるかあるいは彼の心を焦がすものになるかは、まだ先の話。