9 私は、それを手にいれられなかった (赤宮カオル)
「ごめん。いろいろ相談にのってもらったけど」
「しょうがないよ。カオルが決めたのなら、もう何も言わないから」
小さい頃から、私が頑固な気質であることを、美生はよく知っている。一人でもわかってくれる人がいるのは、ありがたいことだ。
「今夜は、残念パーティでもしてあげようか」
「そんな気力はないよ」
「じゃあ、離婚記念に、黒髪ロングをバッサリ切ってみるとか」
「昭和か。つーかこれは、散髪に行くのが面倒で、自分で切れるから、伸ばしてるだけだよ。くくっとけば、寝癖も気にしなくていいし。っていうか、さっきから、なんか人の不幸を、楽しんでませんかね?」
「ばれたか」
美生はコップに冷水を補充して、皿を片付ける。
「少しは優しくしてよ。名前を変える作業を、またしなくちゃいけないかと思ったら、もう今からすでに、うんざりしてるんだから」
私のため息を聞いて、美生は苦笑いをする。
「結婚の時は、まだ幸せオーラで乗り切れるけど、さすがにね」
「でしょ。なんであんな面倒な思いを、片方だけがしなくちゃいけないのかね」
「どこかで聞いた話だと、96%の女性が苗字を変更するらしいよ」
「なんだそれ。絶対、不公平だろ」
名前を変えたことがある人だけが、そのひたすら面倒な作業の苦痛を理解できるはずだ。
「ほんとだよね……子供がいるから別姓はまずいとか、いろいろ言ってるけど、子供がいない夫婦には関係ないし」
美生は無自覚なのだろうが、何気なく発した「子供がいない夫婦」という単語が、私にとっては、トゲのように、ささくれだっているように感じられた。
そうだ。私たち夫婦には、ずっと子供ができなかった。
当たり前のことを再認識して、勝手に傷ついている自分が、情けなくて笑えてきた。
子供のいる普通な人たちが、さらりとそれを口にする度に、自分たちは普通ではなかったと言われているように感じるのは、ただの被害妄想だ。
けれど、持たざる者の苦痛は、持ってしまった者には、きっとわからないだろう。
真冬に防護服を着て、雪を楽しんでいる人には、身ぐるみをはがされ、半袖一枚で外に放り出されて、今にも凍え死にそうな人の、本当の苦痛と悲しみが理解できないように。
笑いながら雪合戦をしようと、雪の玉を投げてくるような、無邪気な子供じみた狂気が、普通とそれ以外をより分ける言葉の中に、ひっそりと潜んでいる。
だが、ついさっき、年齢のことを言って、美生を怒らせた私だって、一緒かもしれない。
みんな誰だって、自分の気にしていることにしか目がいかない。
誰かの地雷を踏み抜いていても、爆発して大事になるまでは、気づくことができないという意味では、お互い様というやつだろうか。
コーヒーを注いでくれたマスターが言う。
「もし子供がいたって、成人した時に、どちらでも選べる選択肢があるっていうのも、アリだと思うけどなぁ。海外みたいに、元からミドルネームみたいにしてもいいと思うし」
美生は眉間にしわを寄せて、首を振る。
「ムリムリ。どうせきちんと制度ができたって、みんなが当たり前って思うようになるまでは、世間体があるからって、絶対に普及しないんだろうし。結局、女の方が、面倒な思いをし続けるんだと思うよ」
きっと、美生の言う通りだと思う。
国会議員のほとんどは男性だ。自分たちには実害がないから、後回しにして、問題から目を背けているのだろう。
そうでなければ、法案が提出されてから、こんなに長い時間、放置されているわけがない。
もし政治家や役所の偉い人たちに経験がないから、変更する女性側の苦しみがわからないと言うのならば、改名作業を、一度やらせてみたらいい。
いかに非効率で、いかにバカバカしい作業であるかを体験すればいい。
「本当に面倒臭いよね。私だって、もう一回しろって言われても、絶対嫌だもん」
夫婦円満そうな美生が言う。
「私だって、やりたくてやるわけじゃないよ」
「ごめん、ごめんて」
手を合わせて必死に美生は謝っている。
「大丈夫。カオルなら、ちゃんと手続きがいくら面倒でも、きっと乗り越えられる。犯人を一本背負でやっつけるのより、きっと簡単だから」
苦笑するしかない。むしろ私にとっては、一本背負のほうが、簡単かもしれない。
結婚時の変更作業を思い出しただけでも、胸焼けがしてきた。
公的なものだけでも、銀行や郵便局の通帳とキャッシュカード、クレジットカードに、運転免許証、年金や健康保険などがあるが、切り替えをしている最中に、それらが必要になったら、面倒なことになるリスクも発生する。
もちろん、それだけじゃ終わらない。職場への申請に、仕事相手への連絡、家や車、株式を所持していたら名義変更が必要だし、ネットや携帯電話の契約、民間の生命保険、通販や登録しているサービスの修正手続きなんて、リストアップするだけでも気が狂いそうになる。
しかも得てして、結婚や離婚の場合は、引越し作業も付随してくることが多い。
そうなると、名前だけでなく住所変更手続きも含まれて、どのタイミングで切り替えるかも悩みの種になる。
身分証明証のコピーや、住民票、戸籍謄本を郵送する必要があったり、一つ一つにたっぷり時間がかかるせいで、手続きの順番を間違えると、無駄に時間もかかる。
「愚痴を聞くぐらいしかできないけど、まぁ、その頑張れ」
「うん、じゃあ朝ごはんは、タダにしてください」
「それはダメ。友達でも金銭面はきっちり、いただきます」
「……ケチ」
「おまわりさーん、ここに恐喝しようとしている人がいまーす」
「通報はやめて。仕事すらなくなったら、本当にいろいろ人生が終わるから」
これからまた新しい、別の人生を歩まなくてはならないのだ。
名前の変更作業は、手間ひまの問題だけではない。それまで一緒に生きてきた、自分の苗字が、変更されて使えなくなるということの、心理的影響もないがしろにされている。
新たな名前に慣れるまでの、アイデンティティーの曖昧さを苦痛に感じる人だっているかもしれない。
大吾と同じ名字になって、銀行や病院で呼ばれても、なかなか慣れなかった日々を思い出した。
結婚したり、離婚したりする度に、自分の名前を捨てる羽目になるなんて、なんでこんなに大事なことが、ないがしろにされているのだろう。さっぱりわからない。
「あーあ、結婚なんか、しなけりゃよかった。そうすれば、こんな思いはしなくて……すん……だのに」
その瞬間、まるで体が拒絶するかのように、心の奥底にある大吾への思いが、急に溢れてきて、涙となって流れ落ちた。
「ちょっと、カオル?」
美生が心配そうに覗き込んでいる。
もう泣かないつもりだったのに。涙が止まらなかった。
美生が慌てて、テーブルの上の紙ナプキンをごっそり抜き取ると、マスターも負けじと厨房から、キッチンペーパーを持ってくる。
こういうところがお似合いの夫婦だなと思えて、わけもなく羨ましくなった。
「子供が産めない女ってだけで、何の価値も無いみたいに扱われるのが、ものすごく理不尽で。自分が可哀想って、酔ってる自分にも腹立たしくて、ムカついて、イヤしくてさ……」
子供ができないという、その一点のみで、私のすべてが否定されたような気分になる。
女として認められない。そんな圧力に屈するのも悔しかった。
けれど、私は自分が思っているより、弱かった。負けてしまったのだ。
「ごめん、大丈夫だから」
「大丈夫って……そんな顔で言われてもね」
カウンターから飛び降りた黒猫が、珍しく私の足元にすり寄ってきた。慰めてくれているのだろうか。
猫にまで心配されているようでは、情けないにもほどがある。
二人が持ってきてくれた紙ナプキンとキッチンペーパーで、涙をがさつに拭き取ると、コーヒーを一気飲みした。
「何にも知らなかった、小さい頃に戻りたいよ、ほんと」
「そうだねぇ。でも大丈夫だよ。あんたは昔から、見た目はおしとやかな大和撫子なのに、中身はどんだけ踏まれても枯れない雑草みたいな子だったから」
「それ、ほめてないじゃん」
「うん、ほめてないよ」
「なんだよ、それ」
二人で笑った。
「はい、あげる。大盤振る舞いだぞ」
エプロンからキャラメルの箱を取り出して、私の手の平に乗せた。大好きなキャラメルを箱ごとくれるなんて。確かに、美生にしては、かなりのサービスだ。
「一粒食べるごとに、カオルがシワヨセになれる呪いが発動します」
「しわ寄せってなんだよ。そこは幸せとかじゃないの?」
「間違えたんじゃない……噛んだだけだからっ」
昔から、美生はこういう子だった。普段は優秀なくせに、時々おバカなこともやらかす。
けど、私にはもったいないぐらい、優しくて良い子だ。だから幸せを手にいれたんだと思う。
私は、それを手にいれられなかった。
ただそれだけだ。