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猫が世界を救った日。  作者: 入口トロ
9/46

9 私は、それを手にいれられなかった (赤宮カオル)

「ごめん。いろいろ相談にのってもらったけど」

「しょうがないよ。カオルが決めたのなら、もう何も言わないから」


 小さい頃から、私が頑固な気質であることを、美生はよく知っている。一人でもわかってくれる人がいるのは、ありがたいことだ。


「今夜は、残念パーティでもしてあげようか」

「そんな気力はないよ」


「じゃあ、離婚記念に、黒髪ロングをバッサリ切ってみるとか」


「昭和か。つーかこれは、散髪に行くのが面倒で、自分で切れるから、伸ばしてるだけだよ。くくっとけば、寝癖も気にしなくていいし。っていうか、さっきから、なんか人の不幸を、楽しんでませんかね?」

「ばれたか」


 美生はコップに冷水を補充して、皿を片付ける。


「少しは優しくしてよ。名前を変える作業を、またしなくちゃいけないかと思ったら、もう今からすでに、うんざりしてるんだから」


 私のため息を聞いて、美生は苦笑いをする。


「結婚の時は、まだ幸せオーラで乗り切れるけど、さすがにね」

「でしょ。なんであんな面倒な思いを、片方だけがしなくちゃいけないのかね」


「どこかで聞いた話だと、96%の女性が苗字を変更するらしいよ」

「なんだそれ。絶対、不公平だろ」


 名前を変えたことがある人だけが、そのひたすら面倒な作業の苦痛を理解できるはずだ。


「ほんとだよね……子供がいるから別姓はまずいとか、いろいろ言ってるけど、子供がいない夫婦には関係ないし」


 美生は無自覚なのだろうが、何気なく発した「子供がいない夫婦」という単語が、私にとっては、トゲのように、ささくれだっているように感じられた。


 そうだ。私たち夫婦には、ずっと子供ができなかった。

 当たり前のことを再認識して、勝手に傷ついている自分が、情けなくて笑えてきた。


 子供のいる普通な人たちが、さらりとそれを口にする度に、自分たちは普通ではなかったと言われているように感じるのは、ただの被害妄想だ。


 けれど、持たざる者の苦痛は、持ってしまった者には、きっとわからないだろう。


 真冬に防護服を着て、雪を楽しんでいる人には、身ぐるみをはがされ、半袖一枚で外に放り出されて、今にも凍え死にそうな人の、本当の苦痛と悲しみが理解できないように。


 笑いながら雪合戦をしようと、雪の玉を投げてくるような、無邪気な子供じみた狂気が、普通とそれ以外をより分ける言葉の中に、ひっそりと潜んでいる。


 だが、ついさっき、年齢のことを言って、美生を怒らせた私だって、一緒かもしれない。


 みんな誰だって、自分の気にしていることにしか目がいかない。


 誰かの地雷を踏み抜いていても、爆発して大事になるまでは、気づくことができないという意味では、お互い様というやつだろうか。


 コーヒーを注いでくれたマスターが言う。


「もし子供がいたって、成人した時に、どちらでも選べる選択肢があるっていうのも、アリだと思うけどなぁ。海外みたいに、元からミドルネームみたいにしてもいいと思うし」


 美生は眉間にしわを寄せて、首を振る。


「ムリムリ。どうせきちんと制度ができたって、みんなが当たり前って思うようになるまでは、世間体があるからって、絶対に普及しないんだろうし。結局、女の方が、面倒な思いをし続けるんだと思うよ」


 きっと、美生の言う通りだと思う。


 国会議員のほとんどは男性だ。自分たちには実害がないから、後回しにして、問題から目を背けているのだろう。


 そうでなければ、法案が提出されてから、こんなに長い時間、放置されているわけがない。


 もし政治家や役所の偉い人たちに経験がないから、変更する女性側の苦しみがわからないと言うのならば、改名作業を、一度やらせてみたらいい。


 いかに非効率で、いかにバカバカしい作業であるかを体験すればいい。


「本当に面倒臭いよね。私だって、もう一回しろって言われても、絶対嫌だもん」


 夫婦円満そうな美生が言う。


「私だって、やりたくてやるわけじゃないよ」

「ごめん、ごめんて」


 手を合わせて必死に美生は謝っている。


「大丈夫。カオルなら、ちゃんと手続きがいくら面倒でも、きっと乗り越えられる。犯人を一本背負でやっつけるのより、きっと簡単だから」


 苦笑するしかない。むしろ私にとっては、一本背負のほうが、簡単かもしれない。


 結婚時の変更作業を思い出しただけでも、胸焼けがしてきた。


 公的なものだけでも、銀行や郵便局の通帳とキャッシュカード、クレジットカードに、運転免許証、年金や健康保険などがあるが、切り替えをしている最中に、それらが必要になったら、面倒なことになるリスクも発生する。


 もちろん、それだけじゃ終わらない。職場への申請に、仕事相手への連絡、家や車、株式を所持していたら名義変更が必要だし、ネットや携帯電話の契約、民間の生命保険、通販や登録しているサービスの修正手続きなんて、リストアップするだけでも気が狂いそうになる。


 しかも得てして、結婚や離婚の場合は、引越し作業も付随してくることが多い。


 そうなると、名前だけでなく住所変更手続きも含まれて、どのタイミングで切り替えるかも悩みの種になる。


 身分証明証のコピーや、住民票、戸籍謄本を郵送する必要があったり、一つ一つにたっぷり時間がかかるせいで、手続きの順番を間違えると、無駄に時間もかかる。


「愚痴を聞くぐらいしかできないけど、まぁ、その頑張れ」

「うん、じゃあ朝ごはんは、タダにしてください」


「それはダメ。友達でも金銭面はきっちり、いただきます」

「……ケチ」


「おまわりさーん、ここに恐喝しようとしている人がいまーす」

「通報はやめて。仕事すらなくなったら、本当にいろいろ人生が終わるから」


 これからまた新しい、別の人生を歩まなくてはならないのだ。


 名前の変更作業は、手間ひまの問題だけではない。それまで一緒に生きてきた、自分の苗字が、変更されて使えなくなるということの、心理的影響もないがしろにされている。


 新たな名前に慣れるまでの、アイデンティティーの曖昧さを苦痛に感じる人だっているかもしれない。


 大吾と同じ名字になって、銀行や病院で呼ばれても、なかなか慣れなかった日々を思い出した。


 結婚したり、離婚したりする度に、自分の名前を捨てる羽目になるなんて、なんでこんなに大事なことが、ないがしろにされているのだろう。さっぱりわからない。


「あーあ、結婚なんか、しなけりゃよかった。そうすれば、こんな思いはしなくて……すん……だのに」


 その瞬間、まるで体が拒絶するかのように、心の奥底にある大吾への思いが、急に溢れてきて、涙となって流れ落ちた。


「ちょっと、カオル?」


 美生が心配そうに覗き込んでいる。

 もう泣かないつもりだったのに。涙が止まらなかった。


 美生が慌てて、テーブルの上の紙ナプキンをごっそり抜き取ると、マスターも負けじと厨房から、キッチンペーパーを持ってくる。


 こういうところがお似合いの夫婦だなと思えて、わけもなく羨ましくなった。


「子供が産めない女ってだけで、何の価値も無いみたいに扱われるのが、ものすごく理不尽で。自分が可哀想って、酔ってる自分にも腹立たしくて、ムカついて、イヤしくてさ……」


 子供ができないという、その一点のみで、私のすべてが否定されたような気分になる。


 女として認められない。そんな圧力に屈するのも悔しかった。


 けれど、私は自分が思っているより、弱かった。負けてしまったのだ。


「ごめん、大丈夫だから」

「大丈夫って……そんな顔で言われてもね」


 カウンターから飛び降りた黒猫が、珍しく私の足元にすり寄ってきた。慰めてくれているのだろうか。


 猫にまで心配されているようでは、情けないにもほどがある。


 二人が持ってきてくれた紙ナプキンとキッチンペーパーで、涙をがさつに拭き取ると、コーヒーを一気飲みした。


「何にも知らなかった、小さい頃に戻りたいよ、ほんと」

「そうだねぇ。でも大丈夫だよ。あんたは昔から、見た目はおしとやかな大和撫子なのに、中身はどんだけ踏まれても枯れない雑草みたいな子だったから」


「それ、ほめてないじゃん」

「うん、ほめてないよ」

「なんだよ、それ」


 二人で笑った。


「はい、あげる。大盤振る舞いだぞ」


 エプロンからキャラメルの箱を取り出して、私の手の平に乗せた。大好きなキャラメルを箱ごとくれるなんて。確かに、美生にしては、かなりのサービスだ。


「一粒食べるごとに、カオルがシワヨセになれる呪いが発動します」


「しわ寄せってなんだよ。そこは幸せとかじゃないの?」

「間違えたんじゃない……噛んだだけだからっ」


 昔から、美生はこういう子だった。普段は優秀なくせに、時々おバカなこともやらかす。


 けど、私にはもったいないぐらい、優しくて良い子だ。だから幸せを手にいれたんだと思う。


 私は、それを手にいれられなかった。

 ただそれだけだ。




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