8 すべて悪いのは私だ (赤宮カオル)
カーテンの隙間から、少しだけ朝日が漏れている。
昨夜遅くに、久しぶりに帰ってきた大吾は、どうやらリビングのソファーで力尽きたらしい。
スーツを着たまま寝息を立てている。竜宮商店街近くで、事件が起きたらしい。帳場が立って、しばらく忙しいのだろう。
起こさないように、寝室から毛布を持ってきて、そっとかけてやる。寝顔が子供みたいに無防備なところは、昔から変わらない。
短髪の頭を撫でると、少し固めの髪質が、大型犬みたいだなと、いつも思ってしまう。
なのに本人は、小さい頃に、お尻を噛まれて以来、ずっと犬が苦手で、猫好きだというのだから、不思議なものだ。
二人の出会いも、大吾が苦手な警察犬にやたらと懐かれて、よだれまみれになって、困っていたところを、私が助けたのがきっかけだった。
今にも泣きそうな顔をした大吾を見て、爆笑していたら、「困っている人間を笑うなんて、正気を疑う」と、むちゃくちゃ怒られた。
私の答えは「面白いと思ったものを、笑ったらいけないのか? いつから許可制になったんだ? 笑うかどうかなんて、自分の感情ぐらい、自分で決めるよ」で、さらに火に油を注いだ。
同僚に止められなかったら、危うく取っ組み合いの喧嘩になるところだったぐらいだ。
おかげで、出会いは最悪だった。なのに、まさか結婚することになるとは、当時は思いもしなかった。
人生とは、人との出会いとは、本当に不思議なものだ。
テーブルの上には、昨日のうちに半分だけ記入した離婚届と、小さなメモを置いた。
『他に好きな人ができたので、別れて下さい。ごめんなさい』と書いた文字は、何度も書き損じて、やっと決めたものだった。
きっとこれを見た大吾は怒るだろう。だが、このぐらい書かないと、承諾してもらえそうにない。
嘘も方便というやつだ。
文句は言いつつも、きちんと謝った相手は、必ず許す。大吾はそういう男だ。素直に騙されてくれることを祈るしかない。
すぐに使う物や服だけを入れた、スーツケースを手にして、玄関に向かう。
新しい部屋が見つかるまでは、しばらく友達の所か、ウイークリーマンションにでも泊まるしかないだろう。大きい荷物は、引越し先が決まってから、また考えよう。
じっと、部屋を見つめて、二人で不動産屋を回った時のことを思い出していた。
「きっといつか、子供もできるし、もしかしたら、ペットを飼う日が来るかもしれないだろ」
キラキラとした目で、未来を語る大吾が眩しかった。
二人で住むには、少し大きめの部屋を借りたのに。そんな未来がやってくることはなかった。
大吾はずっと、猫を飼いたがっていたが、刑事という不定期な仕事で、可哀想な思いをさせるぐらいならと、我慢していた。
もし私がずっと家にいて、夫の帰りをおとなしく待つような、立派な主婦だったら、よかったのだろうけれど。
すべて悪いのは私だ。
ずっと子供に恵まれなかった。かといって、妊活のために仕事を辞めることもできない。
そんな私を、義父母を始めとする大吾の親族は、表向きは放任してくれていた。だが、大吾の祖父が亡くなって、葬儀に駆けつけた時に、うっかり聞いてしまった。
「もうちょっと若くて、普通のお嫁さんだったら、あの人も、可愛い孫を抱いてから、死ねたかもしれないのにねぇ」
大吾の祖母が、ふいに漏らした本音が聞こえてきた時に、私は望まれていない妻であると悟り、決心がついた。
大吾は二十九、私はもうすぐ三十五だ。
これまでに流産を四回経験している。
不育症と診断されて、いろいろ検査もしたが、大吾にも私にも、これといった問題はなかった。
理由もわからず、妊娠するたびに、今度こそと思い、でもやっぱり、またダメなのかを繰り返し、どんどん心がすり減っていった。
もしかしたら、私には、母親になる資格なんてないという、天からのお告げのようなものなのかもしれない。
そう思いたくなるぐらいには、子供を授かることができない事実が、ずっと重くのしかかっていた。
これ以上、大吾の足かせになるのは嫌だった。やり直すのなら、彼にとっても早い方がいい。
「さよなら、大吾」
口に出してみると、ふいに涙がこみ上げそうになった。必死に上を向いて、鼻をすする。
しっかりしろ、自分。
一人で生きて行くって、決めたんだろ。
ほっぺたをピシャリと叩いてから、玄関の扉を開けた。
いつもより早めに家を出て、時間はたっぷりあった。
署に行く前に、竜宮商店街の裏通りにある、『夕焼け庭園』という喫茶店に寄ることにした。
親友の青谷美生が働いている店だ。
クラシックな純喫茶という雰囲気の店内に入ると、夕日のように赤い、年季の入った革張りのソファーに腰掛ける。
壁のあちこちには、夕焼けがモチーフの絵画が飾られていた。まだ朝だというのに、なんだかもうすぐ、日が暮れそうな錯覚に陥りそうになる。
白いシャツに夕焼け色のエプロンをつけた美生が、お冷を持ってきた。
「こんな時間に、珍しいね」
「今日は、サンドイッチが食べたい気分だったんだ」
「さては、カオルも、弟子入りをしに来たか」
「弟子入りとか、普通の人はしないから」
もともと美生は、外資系商社でキャリアウーマンをしていた。学生時代から付き合っていた彼氏に、二股をされてからは、「絶対に男なんて信用しない」というのが口癖だった。
なのに、たまたま打ち合わせで訪れた、この喫茶店で、昔ながらのサンドイッチの味と、それを作るマスターの姿に惚れ込んでしまったらしい。
すっぱり会社勤めを辞めて、弟子入りをしてしまったという。
その後、この店のマスターと結婚して、二人の子供もいるというのだから、人生、何があるか、わからないものだなと思う。
もしその日、違う店に入っていたら、彼女の人生は、まったく違うものになっていただろう。
人の人生なんて、些細な選択肢で、大きく変わることもある。それが良いものになるか、悪いものになるかは、自分次第だ。
カウンターの上には、看板猫の黒猫が寝っ転がっている。
気持ちよさそうに足を伸ばして、毛づくろいをしてから、私の視線を感じたのか、ニャーと鳴いた。
まるで「こっち見んな」とでも言いたげに。
それとも、「いつもの撫でるのが上手な男は、一緒じゃないのか」という催促だったりするのだろうか。
残念ながら、もう一緒に来ることはないと思うよと、心の中でだけ返事をしておく。
美生は、ご自慢のサンドイッチを運んできた。
ふわとろなたまごサンドと、和風な味付けのツナサンド、ハムときゅうりサンドの、ミックスサンドイッチだ。
昨日からご飯も食べず、夜通し泣いていたせいで、すっかり腹ペコ状態だ。いつもならたっぷり目な量だが、すぐにペロリと食べきってしまう。
見た目は、オーソドックスなサンドイッチだが、初めて食べた人が、皆なぜか懐かしいと感じるほどに、郷愁を誘う、不思議な魅力のある味だった。
食べたことがなくても、サンドイッチが懐かしいのは、もしかしたら自分の祖先が、同じような味を食べたことがあるのかもしれない。
夕焼けを見て郷愁を感じるのも、古代の人類が、今日も一日無事に生き延びた、と安堵していた時の記憶が蘇っていたりするのだろうか。
「やけに、アンニュイな感じだね。お疲れなら、これもどうぞ。そのまま入れちゃってください」
マスターはキャラメルを一つ、テーブルに置いてくれた。
半信半疑で、キャラメルの包み紙をむいて、コーヒーに入れてみる。ほのかな甘みが出て、案外美味しい。
「私も、それ好き」
そう言った美生が、向かいの席に座ってくる。ほかに客がいないから、暇つぶしに相手をするつもりなのかもしれない。
「でもキャラメルも大好きだから、だいたいコーヒーに入れる前に、食べちゃうけど」
美生の言葉を聞いて、マスターが笑っている。未だに、キャラメル大好きっ子のようだ。
小学生の頃、遠足のお菓子として、味の違うキャラメルだけを複数用意したせいで、「バランスを考えなさい」と先生に怒られても、いかにそれぞれの味が違うかを、詳細に説明する美生に、逆に先生のほうが論破されていた記憶がある。
「そういえば、靴屋の娘さん、夜道で暴漢に襲われて、そのまま行方不明だって。怖いよね」
大吾が今、捜査を担当している事件だろうか。若い女性ばかりが襲われて、姿を消す事案が続いている。同じ竜宮商店街ということもあって、美生は被害者と、顔なじみだったようだ。
「狙われているのは、十代から二十代の若い女性ばかりみたいだから、今のところは、美生は大丈夫だとは思うけど」
「何それ、喧嘩売ってんの。カオルだって、その若くないほうに含まれるってわかってますかね」
美生はムッとした顔をする。
昔はあまり、年齢のことを気にするタイプではなかったが、お互いに年をとったということだろうか。
「わかった、わかった。見た目のお若い美生様も、大変危険です。一応、ここも戸締り、気をつけたほうがいいよ」
美生がスーツケースをちらっと見た。
「家出を企て中のカオルが、この店をボディガードしてくれるなら、安心なんだけど」
「家出じゃないよ。美生、突然で悪いけどさ、次の住むところを見つけるまで、泊めてくんない?」
美生がマスターに、視線を飛ばした。マスターがにっこり微笑むと、美生が手を広げて、五本指を見せつけてくる。
「しょうがないな。特製サンドイッチのモーニング付きで、一泊五万円いただきます」
「ぼったくりすぎでしょ、それ」
「冗談だって」
ケラケラと笑った美生が、私の肩をポンと優しく叩く。
「結局、別れることにしたんだね」