5 そんなうまい話があるわけはない (白雪姫乃)
少年は思った以上に、足が速い。どんどん引き離されていく。久しぶりの全速力で、すぐに息が上がる。
電話のコールは途切れない。
私は仕方なく、少年を追いかけながら、スマートフォンを取り出して電話に出た。
「……もしもし」
電話の相手は、聞いたこともない、低い男の声だった。
『警察の者ですが、白雪姫乃さんは今、ご自宅のほうにいらっしゃいますでしょうか』
警察から電話なんて、ちょうどいいところに、と一瞬思ったが、そんなうまい話があるわけはない。なんだか怪しいと思いながら、返事をせずに相手の出方を待つことにした。
『もしもーし。白雪さん、聞こえてますかー』
聞こえてるっつーの。返事をしようとしても、走りながらだと声がかすれて、言葉にならない。
『息が荒いですけど、大丈夫ですか。具合が悪いのでしたら、救急車を呼びましょうか』
あまりにもしつこいので、答えようとするが、息が苦しく、途切れ途切れだ。
「け……結構ですっ。何ですか……急に」
『実は、ついさきほど、ご両親のごいたいが発見されまして』
「は?」
私は足を止めた。呼吸を整えながら、相手の言葉を、頭の中で反芻する。
ごいたい。しばらく頭の中で、言葉が認識されなかった。数秒してから、ご遺体と言ったのだと理解した。
言葉の意味はわかったのに、意味がわからなかった。
今日も、いつものように、朝ごはんを一緒に食べたし、いってらっしゃいって、三人を送り出したのに。
死んだ?
そんなことって……いやいやいや、これは嘘だ。
そうだ、これはきっと、オレオレ詐欺か、何かに違いない。
「ばかじゃないの。今時そんな詐欺とか、引っかかるわけないし。だいたい、今、それどころじゃないんだから」
『それどころじゃない……とは』
「店のPCを壊されて、犯人を追いかけてたの。邪魔しないでくれますか。つーか、二度とかけてくんな、詐欺師のおっさん。とっとと捕まれ、ばーか」
イラつきながら電話を切る。逃げていった少年の姿を探したが、もうどこにもいない。
最悪なタイミングで、余計な電話をかけてきやがって。
どこのおっさんだ。大人のくせに、しょーもないことして金儲けとかするな。真っ当に働け。ありえないポカでもして、逮捕されてしまえ。
ムカムカしながら、店に戻ろうとしたら、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。みるみるうちに近づいてきたパトカーと黒い車が、うちの店の前で止まった。
パトカーから現れたのは制服警官だった。続くように、赤いランプがついた覆面パトカーから出てきた男は、赤いスマートフォンを手にして、こちらを睨んでいる。
短髪で日に焼けていて、精悍な顔つきをしていた。服の上からでも、鍛えた体つきをがわかる。スーツより、スポーツのユニホームでも着ているほうが、よっぽど似合いそうな男だった。
「白雪姫乃さんですね。お取り込み中のところ、大変申しわけないのですが、少しお話を。よろしいでしょうか」
さっき電話をしてきた人の声だった。
胸ポケットから警察手帳を出して、困ったような顔をしながら、私に見せてくる。『警視庁捜査一課 警部補 赤宮大吾』と書かれていた。いくら詐欺師が用意周到だとしても、さすがにパトカーや制服警官までは調達しないだろう。
「さきほどは、突然のお電話、失礼しました。詐欺師でも、オレオレ詐欺でもありません。本物の警察官なので捕まりませんし、バカでもないつもりです。なので、ご心配なく。安心してお話していただけると助かります」
なんてことを言ってしまったんだという後悔で、顔がカッと熱くなる。
「あと、できれば、おっさんではなく、お兄さんと言ってもらえると嬉しいですね。こう見えても、まだ二十九なんで」
「すみま……せん」
まさか警察官を詐欺師呼ばわりしたなんて。恥ずかしいにもほどがある。
だがそれと同時に、さっきの電話が本当だとしたら。急に体の芯から冷えるような感覚に襲われた。
まさか。そんな。
やっとの思いで、一つだけ質問を口にする。
「……事故……ですか」
「いえ……じけんです。別件の捜査で田中家を訪問したのですが、ないふのようなもので、さされた形跡がありました。今、かんしきが調べているところです。後で、ごいたいの確認もしていただきたいのですが」
大事な部分が、頭に入ってこない。
ゆっくりと遅れて、単語が滲み出てくるみたいに、脳に伝わってくる。事件、ナイフ、刺された、鑑識、ご遺体。
どうやら父も母も、本当に死んだということらしい。とてもじゃないけれど信じられない。
「あ……姉は」
「わかりません。それを調べているのです」
「わからないって、どういう」
「ご近所の方の証言で、現場の田中家に、ご両親と一緒に入る姫花さんの姿が目撃されていますが。その後の行方は不明です」
もうすぐ幸せな結婚をするはずの姉が。そんなまさか。
「妹さんなら、何か事情をご存知かもしれないと、お話を伺いに来たのですが」
刑事はかくれんぼをしている子を探す鬼のように、店内に目をやってから、私を見た。
「お姉さん、今、どちらにいらっしゃるか、何か心当たりはありませんか」
「うちには……帰ってません」
「本当に?」
疑うような口ぶりだ。
「そんなに信じられないなら、家探しでも何でもしてください」
刑事は天井の四隅を確認するように、視線を飛ばした。
「あとで防犯カメラの映像も、確認させていただけると助かります」
「どうぞ。私は店のことはよくわからないので、勝手に調べてください」
刑事が指示をすると、ほかの刑事と制服警官が、あちこち調べ始めた。
自宅として利用している二階からは、甲高い犬の鳴き声が聞こえてくる。いつも姉の部屋にいるチワワのブランカが、警察官たちを見て、不審者だと思って、吠え立てているのかもしれない。
戻ってきた制服警官が、見つからなかったと報告をしている。いないものを、いくら探しても無駄だ。
「だから言ったのに」
姉の婚約者の家も、うちと同じように、ズカズカと入り込んで、調べまわっていたのだろうか。
「すみません。そういう仕事ですんで」
刑事は申し訳なさそうに、苦笑いをする。
「ご両親とお姉さんが、家を出る前に、何かおかしな様子とかありませんでしたか」
一見、にこやかにしゃべっているが、その目は笑っていない。もしかして、私も何か疑われているのだろうか。
「いつも通りに、四人で朝ごはんを……食べただけ……です」
母の作った味噌汁は、もう二度と食べられない。学生時代は遅刻するからって、何度も、朝ごはん抜きで出かけて、いっぱい無駄にしていたのに。
父にトイレで新聞を読まないでって、ちゃんとトイレットペーパーがなくなったら交換してって、今朝だって怒鳴ってたのに。
大好きだから最後に残しておいた卵焼きを、いつものように姉に横取りされて、ずーっとネチネチと文句を言っていたのに。
なんでこんなことに。
刑事がハンカチを出してきた。
「落ち着くまで、ちょっと座りましょうか」
涙をぬぐったハンカチに、可愛らしい猫の絵柄がついていた。そんなどうでもいいことに気がつくのに。考えないといけないことには、頭が回らない。
父も母も死んだ。姉は行方不明だ。
店のPCだって、謎の少年に壊された。
どうしてこんなことに。