42 不思議と背筋はピンと伸びていた (三浦朔)
「……ヨブ記計画ですか。まるで会議に提出する企画書のタイトルみたいですね」
理不尽の代名詞とも言える『ヨブ記』を引き合いに出すなんて。名称の時点で、すでに悪趣味すぎる。
「実際に会議をしていたんだよ」
勉さんは、ご名答と言いたげに、小さく拍手をする。
「正しい人を何日で陥落させることができるか、入念に準備がなされ、どういう方法でダメージを与えるか、ターゲットごとに、プレゼンテーションが行われ、投票で選ばれたプランが実行される」
きっと会議室のテーブルには、ろくでもないメンツが、ずらりと座っていたのだろう。その姿が容易に想像できた。
「いかに些細なきっかけで、手数を少なく、人を滑落させるか。どこまで堕落したか。その芸術性や、崩壊するまでの最速記録を競い合っていた。一年の間に、どれが一番素晴らしいプランだったかを審査し、トップだった者には、勲章が与えられたそうだ」
「まるで、よくできましたのスタンプがもらえて、喜んでいる子供みたいですね。その人たちは、サロンではなく、幼稚園からやり直したほうが良いのでは」
僕の嫌味を聞いて、勉さんは苦笑を浮かべている。
「わたしは彼らのために、世界中で正しい人を探して、その者を不幸に突き落とす仕事の手伝いをしていた」
「素敵なお仕事ですね。金のためですか」
「軽蔑してくれたかい。でも、人が大事にするものなんて、金か名誉か愛情か、その程度だろう」
「できることなら僕は、愛情を一番大事にしたいですけどね」
「素敵な答えだ。きっと灰川聖人も、正しい人として、ターゲットに選ばれるまでは、君みたいに、答えていただろうね」
「まさか、灰川聖人も、そのサロンのせいで?」
勉さんは目を細め、唇を少し歪ませた。
「灰川聖人は、わたしの孫だった……らしい」
「え?」
「やつらは、それをわかっていて、わたしに仕事をやらせたようだ。銃撃戦で灰川聖人が死にかけて、わたしが手術をする羽目になったのも、わたしが渡したテープのせいで、彼が破滅への道を選んだことも、彼の息子を殺した少年Aに、テープを渡したことすら、ヨブ記計画として、サロンの連中に楽しまれている、下品なプランの一つでしかなかったようだ」
「じゃあ、まさか」
「知らなかったというのは、言い訳にしかならないだろう。だが、わたしは、ようやく目が覚めた。こんなろくでもない組織から、抜け出そうとしたんだ。だが失敗した」
「どうして」
「相手は退役したとはいえ、第一線で活躍していた軍人や諜報員の集団だ。簡単に逃げられるわけもなく、仕事を続けざるを得なかった。自業自得というやつだ」
勉さんはお手上げだというように、天を仰ぎ、小さく笑った。
「とはいえ、サロンに所属していたメンツも、年には勝てなかったようだ。一人、また一人と、病気や寿命で亡くなっていき、サロンを維持することができなくなった」
神に祈るように、勉さんは両手を合わせた。
「それでわたしは、ようやく自由を手にいれた……はずだったんだ。なのに、その矢先に、癌が見つかり、余命を宣告された。バチが当たったというやつだろうね」
勉さんの手足が、半年前に、家族の会食で紹介された時に比べると、やせ細って見えたのは、病気のせいだったようだ。
「絶望していた時に、病院で、かつて愛した妻にそっくりな、彼女に出会ったんだ。最後に少しだけ、夢を見たかったんだけどね。それすら奪われた」
オーブンに入れたスポンジケーキが、焼きあがる音がした。
「できれば、ちゃんと完成したものを食べたかったよ。君が作ったケーキは、本当に美味しいから」
勉さんはホイップを指に取り、ペロリと舐めて、微笑んだ。
「ありがとう。少しだけ嬉しかったんだ。わたしは、本当の孫には、何もしてやれなかったから」
「……そんな」
「きっと彼女も、今頃、天国で指をくわえて、物欲しそうに見ていると思うよ。自分だけ、君と仲良くケーキ作りなんてしてずるいって」
愛しい人を浮かべるその表情は、とても柔らかく、優しいものだった。
「まさか……僕の祖母は、あなたのせいで死んだってことですか」
「すまない。本当にたまたまだったら、良かったんだけどね。そうじゃなかったみたいなんだ。残念ながら、わたしは別のサタンに、目をつけられてしまったらしい」
困ったような顔で笑った勉さんが、窓の方を見た。
「最近多いだろう。アクセルとブレーキを踏み間違えるご老人が。ほらあんな風に」
一瞬だった。目の前に突っ込んできたのは、鮮血のように赤い車だった。
「危ないっ」
僕は腕を引かれて、床に投げ出された。
しばらくの間、何が起こったのか、よくわからなかった。
部屋の中は、車が突っ込んで、テーブルもキッチンも、何もかもがめちゃくちゃだ。
もしあのまま、同じ場所に立っていたら、今頃、車に押しつぶされていただろう。
運転席には誰もいない。どうなってるんだ。
「大丈夫か、朔」
僕と勉さんを助けてくれたのは、カオルさんだった。
「え、ちょ、カオルさん、なんで」
携帯を取り出してカオルさんは、電話をしている。
「大惨事だ、応援頼む。あと、余計な仕事をする羽目になったから、厳選ハラミも追加な」
どうしてこんなところに。しかも、ハラミってなんだ。
カオルさんは、勉さんの腕を捻り上げている。
「で、こいつは誰だ」
「あんまり乱暴しないでください。三浦勉さんです。僕の義理の祖父で、元ベン・ミュラーさんです」
カオルさんは首を傾げている。
「……かなり意味がわからないのだが」
「詳しくは、またあとで説明しますから」
「ややこしい話だったら、別にいい。今、猛烈に眠いんだ。面倒な説明なんて聞いたら、気絶する準備ができている」
相変わらずで、僕は噴き出してしまった。
「さすが、カオルさんですね」
「そんなに褒めても、特上カルビと、A5ランクのサーロインと、厳選ハラミは、お前にはやらんからな」
「はい? 何の話ですか」
遠くから、パトカーのサイレンの音が近づいてきた。
カオルさんは、窓の外を見て、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「おせーよ」
外には、捜査一課の大吾さんが立っていた。
ほかにも黒江という女性捜査員が一人。
サイバー犯罪対策課に配属されたはずの彼女が、なぜかこんなところに。僕に向かって、小さく会釈をしてから、カオルさんから引き渡された勉さんを連行していった。
部屋に入ってきた大吾さんは、突っ込んだ自動車や、散らばっているガラスの破片を見て、顔をしかめた。
「まさか、これ、カオルがやったんじゃないだろうな」
「違うに決まってんだろ」
「隙あらば、物を壊すの、やめなさいよ」
「だから、違うって。ちゃんと玄関から入ったっつーの。ほら、靴脱いでるだろ?」
大吾さんが、ものすごく怪訝そうな顔をしながら、足元を確認している。よっぽど疑われるということは、様々な前科があったに違いない。
「だいたい、人が目の前で、死ぬかどうかって時に、そんなの気にしてられるか。それに、心配だから見に行ってやってくれって、頼んできたの、大吾のほうだろ」
大吾さんは、こめかみを押さえて、頭が痛そうにしている。
「悪かった。俺が頼む人間を、間違えたかもしれない」
僕は二人を見かねて、助け舟を出す。
「そんなことないですよ。きっとカオルさんが来なかったら、僕どころか、勉さんも、今頃、死んでましたから。ありがとうございました」
僕は深々と礼をする。本当は、土下座をしたっていいぐらいに、お世話になりっぱなしだけれど、さすがにガラスの破片が、大量に散らばった部屋では無理だ。
「まぁ、よくわからんが。とりあえず、こんなカオルでも、間に合ってよかったよ」
「こんな、ってなんだよ」
「俺の寿命と金を、モリモリと目減りさせるような女は、こんな呼ばわりで十分だろ」
「なんだと、あぁ?」
二人で睨み合っている。
「ほらほら、喧嘩しない。お二人には、いつも、助けられてばかりですね」
大吾さんは、首を振ってから、清々しい笑顔を見せる。
「そんなことないよ。お前が電車で、みんなに投げかけた言葉、あれのおかげで、暴動が収まっただろ。むちゃくちゃ助かった。あれ見てさ、ヒーローみたいだって、俺は感心したんだぞ」
「ヒーローみたい?」
「そうそう。本人の知らないところで、誰かの心をキラキラッとさせてることなんて、いくらでもあるってことだよ。胸を張れ」
カオルさんに叩かれた背中は痛かったが、不思議と背筋はピンと伸びていた。