31 私は何もわかっていなかった (白雪姫花)
田中理空くんと付き合い始めた頃に、弟の神威くんが登校拒否をして、引きこもりをするようになったのは、きっと何かわけがあるのだと思っていた。
来月には、私たちの結婚も決まっている。いずれ義理の弟になる子だ。なんとか元どおりの生活を送ってほしい。
そう願って、お節介かもしれないが、SNSで他人のふりをして、いろいろアドバイスをしたりもした。
結局、まだ学校には行けていないものの、少しずつだが、料理のための買い物をしたり、兄が開店準備をしているレストランに足を運んだりと、徐々に外に出る機会が増えているようだった。
だから少しずつでも、良い方に向かっていると思っていたのに。
田中さん家から届けられたという、あの8ミリフィルムのテープを見て、とても驚いた。カエルを始めとして、小動物を解体するような映像が、いくつも記録されていたのだ。
中にはもっと猟奇的な、自主制作映画みたいな古い映像も混じっていたが、あれは誰かにもらったものなのだろうか。
あんな残酷な映像を見て、感化されてしまったのかもしれない。
「さぁ、全部、本当のことを話して。悩んでることがあるなら、なんでも聞くから」
部屋に入ってきた神威くんは、なかなかベッドに座ろうとしない。
「見たのは姫花さんだけ?」
「最初に変換したデータを見たのは父で、それを母と私に相談してきたの」
「そう……なんだ」
神威くんは顔をしかめる。
「で、どうするの」
「あの映像は、警察に提出するつもりだから」
「なんで」
「君のやってることは、犯罪行為なんだよ」
「ただの……器物損壊でしょ」
「そういうことじゃなくて」
「外科医なんでしょ。あなただって、毎日、人のこと、いっぱい切り刻んでんのに。助けられなかった患者を、殺してるじゃないか」
当たり前のようにやっていることが、その言葉で、急に地面が抜けていくような感覚に見舞われた。
「どうせあなただって、初めて本物の人間の体に、メスを入れたとき、興奮してたんじゃないの。それと何が違うの」
研修医として、本番を経験した時を思い出していた。
「医者はいっつも、何かを切り刻んで、実験したり研究したりしてるじゃない。普通の人は、そんなことやれないよ。人を切るのが、楽しいからやってるんじゃないの」
「そんな……こと」
違う。そんなはずはない。楽しんでなんていない。
でも、本当にそう言い切れるかどうか。
これまでに、手術がうまく成功した時に、興奮していなかっただろうか。一度たりとも? 絶対に?
自分の記憶と感情に、自信が持てなかった。
「大人がやってるのに、どうして子供がやったらダメなの。なんでぼくだけ、警察に行かなきゃいけないの」
「それは、私たちがやってるのは仕事……だから」
「じゃあ、ぼくだって、仕事だって宣言したら許されるの? 食肉の解体業者の人や、ジビエ料理をしてる人は、毎日のように動物をさばいてるし、でもそれが、仕事だったら許されるんだよね。普通の人からしたら、とても残酷なことをしているのに。なんで許されるの」
「きちんと資格を取って、やってるから」
「でも、昔の人は、そんな資格なんてなくても、みんなが山で狩りをしてたよね。大人だけじゃなくて、子供だって、獣を殺してたでしょ。魚なんて、今でもみんな、日本人なら、活け造りなんてこともしてるし、生で食べたりしてるよ。ほかの国の人からしたら、すごく残酷なことをしてるのに。でもなんで、ぼくが動物の解体をやったらだめなの」
神威くんは、目を輝かせるようにして話している。けれど、その身振りは、やけに芝居じみていた。
「ぼくだって、大事な研究をしてるんだよ。将来、料理人になりたいからさ」
追い詰められて自供する犯人のように、興奮しているということなのか。よくわからない。
「どのぐらい切り刻んだら死ぬのかを、ちゃんと記録して、どの部位をどんな風に調理したら、美味しくなるのか。いっぱい研究してるんだから。もちろん殺した動物は、きちんと食べて無駄にしてないよ」
「そういう……問題じゃないから」
「じゃあ、どういう問題なの」
「とにかく、あんなことは、もうやめなさい」
神威くんは、噴き出すように笑う。
「それっておかしくない?」
「おかしいって、何が」
「ぼくだけ、ずっと続けてることをやめるって、変でしょ。一方的に、こっちだけ不利益を被るのって、不公平じゃない?」
「不公平って言われても」
「だったらさ、あなたも譲歩してよ」
「譲歩って何を」
「あいつと結婚するのやめて、ぼくと結婚してよ。そしたら研究するのやめてやってもいいよ」
「そんなこと……できるわけないでしょ」
「じゃあ、ぼくもやめない」
私はイラついて、ベッドから立ち上がる。
「なんでそんなこと言うの」
「それはこっちのセリフだよ。ぼく、ずっとあなたのこと好きだったのに」
神威くんの目には、涙が浮かんでいた。
全然、知らなかった。
そんな、まさか、私のことを。
「知ってたよ。あのガラスの靴のアイコンで、ぼくのこと、ずっと励ましてくれてたアカウントって、姫花さんでしょ」
「え?」
ガラスの靴のアイコン?
私が使っていたのは、うちで飼っているチワワの画像を使ったアカウントだ。
「出来がいい姉妹のせいで、苦労してるなんて、嘘までついて、ぼくのこと慰めてくれてたんでしょ」
「違う。それは私じゃ……」
確か、妹の裏垢が、ガラスの靴をモチーフにしたアイコンではなかったか。
「でもそれって、どうせ、あいつに頼まれて、仕方なく、やってただけってことだよな」
「そう……じゃないっ」
「もういいよ。だったら、最後の実験をしてやるよ。あなたが悪いんだからね。全員を道連れにして、ぜーんぶ終わりにしてやる」
神威くんは、部屋を出て行ってしまった。
説得することはできなかった。
全員を道連れって、どういうことなのか。これ以上、良からぬことを考えていないといいけれど。
それに、あの映像はどうしよう。
本当に警察に提出して良いのだろうか。まずはみんなに相談してみたほうがいいのかもしれない。
小さなため息をついてから、部屋を出た。
一階に降りようとした時、変な匂いがした。
病院で定期的に感じる、あの鉄臭さ。慌てて階段を駆け下りると、居間に通じる通路に、弟の神威くんが両手を挙げて立っている。
「来るなっ!」
泣きそうな顔で、私を見た神威くんが、必死に叫んでいる。手にはフォークが握られている。
「いてぇだろ、神威。フォークは人間を刺すものじゃないんだぞ」
声がしたのは、居間の方からだった。
「本当にお前はバカだな。人を刺す時は、刃物のほうがいいに決まってんだろ」
廊下に出てきた理空くんの手には、料理庖丁が握られていた。その手は、真っ赤な血で塗れている。
「やっぱり、お高い庖丁は、本当によく切れるな」
「何を……しているの」
「婚約祝いに買ってもらった、すごい庖丁なんだよ。職人の名前とか刻まれてるやつ。ほら、このライン、惚れ惚れするでしょ。いつか人間で試したいと思ってたんだ」
居間には、私の両親と、理空くんたちの両親が、血まみれになって倒れていた。部屋中に血が飛び散っている。
一瞬、何がどうなっているのか、さっぱりわからなった。
あんなに病院で、血を流している患者を見ているのに。
あれほど手術室で、大量の血液を見ているのに。
体のあちこちを切り裂かれている両親を見て、明らかに血圧が上昇している。まるで初めて手術をした日のように。
思い出した。そうだ、私は興奮などしていなかった。
自分の手が、誰かの命を握っているという運命の重さに、恐れおののき、手が震えていただけだ。
「あのテープのこと、うちの両親にまで、べらべら喋り出すからさ。しょうがないだろ」
あの日、手術室で先輩に言われたように、何度も深呼吸をして、脈を整える。だが、あの時のように、平常心に戻ることはなかった。
いくら落ち着こうと思っても、ずっと耳鳴りがして、地面が揺れているみたいな感覚が続いていた。
「黙っておけば、こんなことにならなかったのに。沈黙は金なりって、知らないの?」
理空くんが、私に同意を求めるように、こちらを見てくる。その目は、正気ではなかった。
「ぼくをそんな目で見ないでくれよ。これでもずっと、必死に我慢をしてたんだ。褒めて欲しいぐらいだ。なのに、もう無理だ。全部終わりだよ」
弾けるように笑っているのに、理空くんの表情は、とても苦しそうだった。
「そうだ。ここにいる三人が知ってるってことは、妹の姫乃ちゃんも、見ちゃったのかな。だったら、殺しに行かなきゃな」
ダメ。やめて。それはダメ。
私はスマートフォンを取り出して、妹に連絡しようとしたが、彼の血のついた手で奪われた。
「ダメだよ。ズルしちゃ」
逃げようとしたが、理空くんに腕を掴まれて動けない。
「これから襲われますなんて、先に知らせたら、面白くないだろ」
理空くんが私を羽交い締めにして、包丁を首元に突きつけてきた。
「やめろっ」
私たちの方へ、近づいてこようとした神威くんは、蹴り飛ばされた。壁に激しくぶつかり、そのまま倒れて、動かなくなった。
信じられない。どうしてこんなことに。
「だって、君たちが悪いんだから。そんなに、ぼくの一部になりたかったの?」
やっとの思いで、声を絞り出した。
「あの映像……あなたがやったの」
「だったらどうする?」
私は何もわかっていなかった。