1 その日から、ぼくはおかしくなった (灰川聖人)
「ハンガリーで作られた『暗い日曜日』って歌、知ってるか。自殺の聖歌ってやつ」
彼の英語には独特のなまりがあった。うちの診療チームに先月から合流した外科医は、前はヨーロッパで活動していたらしい。だから突然こんな話を持ち出したのだろうか。
「聞いた人が自殺するって曲だっけ」
「そういうのを研究してたところがあったらしいぞ」
「お前、本当にそういう話、好きだな」
彼はいつもこの手の真実かどうかよくわからない与太話をしては、ぼくの反応を見て楽しんでいるようだ。たぶん、ぼくがほかのスタッフより、無駄話に乗る傾向があるせいで狙い撃ちにされているのかもしれない。
だが最近は、ぼくの趣味に付き合わせて、畑違いのプログラミングを彼に少し手伝ってもらったからお互い様だろう。
完成したあの子に、面白がって『Satan』という名前をつけたのも彼だ。ぼくの息子が一番好きだったアニメの主人公もサタンだったから、そのまま採用することにした。
「いつものオカルト研究部とか、学校サークルレベルの話なら、仕事が終わってからにしてくれよ」
内戦が続くこの地域では、医療機関がまともに機能していない。危険を承知で、支援に乗り出しているのだ。
ぼくたち医師の命すら、危うい状況だった。
今日が無事でも、翌日には死にそうな目に会うこともしばしばある。都会の大きな病院で、流れ作業のように数分おきに、患者のカルテを書き込む治療とは、まったく違う。
だから本当は、こんな与太話を聞いている暇などないのだが、人懐っこい彼の笑顔を見ていると、つい耳を傾けてしまう。
「今回は違うって。そういう遊びのやつじゃなくてさ、どうして人は特定の曲を聞いて泣くのかとか、元気になるのかとか。曲だけじゃなく映像や文章とかも含めて、人の感情を曲や映像や言葉でどれだけ変化させられるかみたいな、ガチの研究だよ」
「ガチの研究ねぇ。で、どこの研究所だ」
「それは……確か、ナチス・ドイツがどうの……みたいな、そっち系のやつだよ」
急に信憑性が怪しくなってきた。
どうやらこれは話半分で聞いた方がよさそうだ。
「あの曲って、そんな昔からあるんだっけ」
「確か、ハンガリーで発表されたのは1933年だ。実際にレコーディングされたのは、もう少しあとみたいだけどな」
「へぇ、結構古い曲なんだな」
「あんたが育った日本に入ってきたのは、もっと後だろうけど。世界中でその曲を聞いたせいで、何百人が自殺したって噂も、ナチスの侵攻が迫ってる状況だったから……みたいな戦時中の暗い時代背景が影響してるって話もあるしな」
てっきり戦争が終わって、みんなの生活が豊かになってから、自殺をする余裕ができた、わりと最近の話だと思い込んでいた。
「実際にはそんなに死んでないとか、いろいろ説はあるみたいだけど。曲を作ったシェレシュ・レジェーもブダペストで投身自殺をしたとか、逸話には事欠かない曲なんだ」
「ふーん。作曲家も自殺してるのか」
「ちなみに俺の名前はシェレシュ・ラースローだ。作詞者のヤーヴォル・ラースローの名前にも関連しているとか。たまたまというには出来過ぎだろ」
「確かに。鴨が葱を背負って来そうなレベルに出来過ぎだな」
「鴨が葱? なんだそりゃ」
「ただのことわざだよ」
生まれつき因縁めいた名前を持ってしまったがために、彼は都市伝説のような話に魅入られてしまう体質になったのだろうか。
「おかげで妹には、小さい頃から呪われた名前だって散々バカにされてたよ。ひでぇ妹なんだ。顔は無駄に可愛いけど。紹介してやろうか」
「いやいいよ。もう結婚はこりごりだ」
「あぁ、離婚したばかりだっけか。すまない」
「気を使わないでくれ。もう終わったことだ」
彼は肩をすくめて笑う。
「まぁとにかく、世の中には、人様に不思議な影響を与える、曲や映像や言葉なんてのが、あるって話だよ」
「そんなにうまく研究で、どうにかなるもんなのかね」
「さぁな。でも、今だって、普通にテレビのCMなんかを見て、普段なら、絶対に買わない物でもうっかり買っちゃうとかあるだろ」
「あるね。実際に買ったら、思ったほどじゃないって、がっかりする、みたいな」
「そうそう。ほかにも、まったく知らない国の歌なのに、聞いてて涙が出てきたりとか、本人が意識してなくても、見た映像や聞いた曲で感情を左右されてたり、たった一言のフレーズで、心が揺さぶられたりなんてことが、いくらでもあるだろ」
「まぁ、そうだけど」
いくら科学が発達しても、人間の脳や心の動きに関しては、まだまだ未知数なことばかりだ。
もし全てが解明できる時が来たら、人間の行動のすべてが、アルゴリズムとして分解され、機械的に再現することも可能になるだろうか。神が人を作ったように、いずれ人間は、新たな生命を作る日がくるのかもしれない。
「その研究所ではさ、IQを高くする曲や映像なんてのも作られてたらしいぞ」
「ぜひ、そんな素敵な技術があるなら、ぼくが必死こいて勉強してた、学生時代に知らせて欲しかったもんだね」
本当にその研究が成功していれば、もうすでにノーベル賞を受賞しているだろう。
「ほかにもトラウマを抱える人に、悲しみや恐怖を感じなくさせる効果がある作品だとか、いろいろ作ってたらしい」
「すごいじゃないか。精神科医が泣いて喜びそうだな。仕事を失う未来に絶望して」
「人の不幸を茶化すなんて、結構、お前も性格悪いな」
「君の妹ほどじゃない」
もしそんな、トラウマが解消できる作品ができていたら、ぼくは今もまだ彼女と一緒に、日本で暮らしていたのだろうか。
無残に殺された、息子のことなど忘れて。
「結局、いつもの都市伝説ってことだろ」
「だから違うって。その施設が研究してたのはまた別の次元っつーか。同じものを見たり聞いたりしても受け取る側次第で、いくらでも感情が変わるってのを科学的に分析すれば、それを応用することも可能だって話だ」
どこまで本気で言っているのか、よくわからない。彼の表情を見る限りは、ふざけているわけではなさそうだ。
「で、なんで実現してないんだ」
「それがさ、軍事転用もやってたらしくて、たぶんやりすぎたんだろうな。実験中におかしな被験者が続出して、その研究所は閉鎖されたんだってさ」
都市伝説系の話では、よくある結末だ。うまいこと煙に巻くつもりだろうか。
「廃墟みたいになった施設から、悪ガキどもが盗み出した8ミリフィルムには、『in vitro』とだけ、書いてあったらしい」
「……嫌な感じのタイトルだな」
イン・ビトロというのは、『試験管内で』を意味する生物学の研究用語だ。通常は試験管内などの人工的に作られた環境で、薬物などの作用を調べる試験を意味している。ラテン語の『ガラスの中で』が語源らしい。
この場合は人為的にコントロールされた環境という意味で使っているのだろうか。その施設では、よっぽど良からぬ実験でもしていたのかもしれない。
本当にそんな施設があればの話だが。
「そのフィルムを見た人が、やっぱりおかしくなったんだってさ」
「おかしくなったって、どういう風に」
「それは……」
だが、その続きを聞くことはできなかった。
直後にぼくたちは突然始まった銃撃戦に巻き込まれ、頭部に流れ弾を受けた彼はその口を開くことすらできずに息を引き取ったからだ。
ぼくは、臓器のいくつかに銃弾を受け、血も大量に失って、かなり危険な状態に陥ったが、奇跡的に助かった。
優秀なスタッフが運良く、襲撃直後に戻ってきたことで、緊急措置的に手術をしてもらえたからだ。おかげで、なんとか生き延びることができた。
ぼくが帰国する時に、亡くなったシェレシュ・ラースローの荷物を整理していたスタッフから、変なモノを見つけたとあるテープを渡された。
ただの与太話だと思っていた、例の8ミリフィルムだ。ラベルには『in vitro』と書かれていた。
ぼくを助けてくれたスタッフのベン・ミュラーから「形見にもらってやれよ」と言われて、つい受け取ってしまった。
日本に戻って、たった一人になった部屋で、ふいに彼の言葉を思い出していた。
『ほかにもトラウマを抱える人に、悲しみや恐怖を感じなくさせる効果がある作品だとか、いろいろ作ってたらしい』
もしこのテープに、そんな素敵な効能があったら。
別に本当に信じていたわけじゃない。何もかもを失い、絶望し、真っ暗闇の未来しか、想像できなくなっていた愚かな人間が、ただ何かにすがりたかっただけだ。
だが、ぼくはそれを見るべきではなかったのかもしれない。
その日から、ぼくはおかしくなった。
ぼくが、ぼくではなくなってしまう。明らかに理性が飛んでいる。自分で制御できない。これは悪魔のテープだ。
気がついた時には、ぼくは殺した女を切り裂いて、料理して、食っていた。