汗
気がついた時には、彼は家の前でじっと座っているだけだった。なぜ家の前にいるのかも覚えていない。家の中に入ろうとも思わないし、そもそも入ることができない。動くごとができないのだ。縛られているとか怪我しているとか、何か大きな理由があるわけではないが、ただ、動けないのである。本人の意思で動こうともしていない。じっと座っていることで、彼に困ったことは特にない。
いや、一つだけ困ったことがあった。汗が止まらないのだ。太陽が彼を照らし始めて少ししてから、彼の体から少しずつ汗が流れ始めた。汗は顔から体から、あらゆる場所から流れていたが、彼はそれを拭おうとはしない。彼は帽子をかぶっていたが、その帽子を取ろうともしない。
今は午前十時頃だろうか――彼は携帯電話はおろか、時計すら持っていない。時間は太陽の昇り具合でなんとなく分かるだけだ――この時間の住宅街を歩く人はまばらである。皆、彼の方へ目を向けることはない。寒そうに両手を擦り合わせる老婆、コートに首を沈めるようにしながら歩く会社員、防寒も兼ねているのか分厚そうな布地で作ったマスクで買い物に出かける主婦――汗をかいている彼にしてみれば、なぜここまで皆が寒そうにしているのかが理解できなかった。さらに彼にとって不思議なのは、そのような暑そうな格好をしていながら、汗をかいている人が誰もいないことであった。
家の前に一台のバイクが止まった。ヘルメットとマスクを着け、黒っぽいジャンパーを羽織っていた。バイクの荷台には赤い箱が載っている。郵便屋であることが彼にも分かった。しかし郵便屋は手紙をポストに入れずに家のチャイムを鳴らした。
「着払いです」
家の中から住人が出てきたらしい――らしいというのは、彼が後ろを振りむけないために、家主の様子を窺うことができなかったからだ。
実は彼とこの家とは特に関係があるわけではない。だが彼はこの家の家族構成を知っていた。
父と母、兄弟二人の四人家族である。両親がどんな仕事をしているかは分からない。兄弟のうち、兄が小学生、弟がまだ幼稚園児である。ただし、二人の年齢は分からなかった。彼はこの兄弟二人に対して、理由は分からないが感謝の念を抱いていた。ここにじっと座っていられるのも、この二人のおかげな気がしていたのである。
出てきた住人は母親だったようだ。彼女は着払い分のお金を払い、残りの郵便物も受け取ったらしい。
「ありがとうございました」
非常に業務的な謝辞を郵便屋は残して、バイクまで戻ってきた。郵便屋はふと彼の方に一瞥を向けた。だがそれ以外に郵便屋の反応はない。彼もまた、郵便屋に対して何かしらのアクションを起こすわけでもない。ああ、自分のことを気にしているんだな、と考えているだけである。郵便屋は特に彼を見て何か感じたわけではないらしい。郵便屋はそのままバイクを走らせた。
太陽はさらに高くなった。彼の汗の量は今までよりもさらに増えてきた。彼の足下は汗で濡れてきている。帽子も徐々に湿り始めている。
底に一人の女が近づいてきた。彼女は何かが入ったビニール袋を何袋か持っていた。マフラーに手袋と、完全な防寒装備である。
女は家の前に立つとチャイムを鳴らし、「ごめんください」と声をかけた。
「どうかしました?」
中から母親が出てきたようだ。客の女がビニール袋を母親に渡しているのが分かる。
「昨日息子からミカンが届いたんだけど、量が多すぎて食べきれないのよ。今ご近所さんに配ってて、良かったら食べて」
「まあ、良いんですか? ありがとう、子供たちが喜びます」
母親は嬉しそうだ。何の波乱もない、平凡な日常の一コマだった。
「それにしても今日も寒いわね」
先程から客の女は寒そうにしている。
「昨日に比べたらマシですよ。昨日はほんとに寒かったから。天気予報でも三月並みって言ってたし」
「でもダメ、他の人も今日は暖かいって言ってたけど私は無理」
「子供たちは喜んでたんですけどね」
「子供は良いわよ。こんな時こそ遊び甲斐があるんだから」
この会話を聞いていた彼は、もしこの女と一つ屋根の下で暮らさなければならないとなったら、きっと三日も持たずに別居することになるだろう、と思っていた。こんな暑い日にこの女は何を寒がっているのか。低体温症なのだろうか――
「じゃあまた」
客の女が帰ろうとすると、彼の方へ目を向けた。
「あら、気づかなかった。かわいいわねえ」
彼は少し恥ずかしくなった。褒められるのは初めてだった。しかしその嬉しさも次の言動で打ち消された。
「そうだ」と言った女はおもむろにマフラーを外した。そして手にしたマフラーをあろうことか汗まみれの彼の首に巻いたのである。「あんたも寒いでしょ? これで暖かくなるからね」
なんと傍迷惑な女だろう! 人が今どういう気持ちか、この様子を見れば簡単に予想できそうなものなのに! 彼は怒りを持った一瞥を、この自己中心な年増女に投げかけた――つもりだったが、彼女はそんな彼の様子を何とも思っていないらしい。どこまで鈍感な女なんだか。
その様子を、母親が見ていたらしい。彼女は女に近づいた。彼は母親が注意してくれるのを期待した。
「すごい、良く似合ってる」彼の期待は外れた。女と一緒になって喜んでいる。「でも良いんですか?」
「良いのよ、こういうの見てたら私も懐かしい気持ちになっちゃったから」
女はニコニコしながら彼を見ている。つい先程までなら、彼も嬉しさで照れただろうが、勝手にマフラーを着けられた今、彼女の笑顔は嫌悪感しか催さない。
「確かに、私も子供が羨ましくなっちゃうんですよね」母親も呑気なものである。しかし彼女の息子たちに恩義を感じている彼は、母親のことを悪く思わなかった。「また明日洗って返しますね」
「別に良いわよ、高いもんじゃなし」
そう言って女は改めて別れの挨拶をし、帰っていった。彼は今すぐにでもマフラーを外してもらいたかった。
昼の十二時を超えた。それは太陽が頂点を少し超えたらしいところからも分かる。この太陽の動きも、彼が直接太陽を見ているわけではない。彼は自分の影を見ていたのである。影が左から真ん中へ、長さもそれに合わせて短くなっていく。
汗の量はさらに増える。まるで溶けてしまいそうなくらいに。それでも彼は動くことができない。一応姿勢をある程度崩すことはできるため、彼は楽な座り方に変えた。少し目線が低くなった。足下の汗が、少しずつ水たまりになっていくのが目視でも分かる。
家の前にバスが停まった。側面にはかわいらしい絵が描いてある。どうやら幼稚園のバスのようだ。その音を聞いた母親が、家から出てきた。その理由は彼にも分かっている。このバスには弟君が乗っているのだ。元気よくバスから飛び降りた弟君は、先生や他の子供たちに手を振った。
「バイバーイ」
「またねー」
バスが走り去ると、弟君はすぐに家に入ろうとした。それを母親が止めた。
「ちょっと待って、ほらよく見て」母親は弟君を彼の前に連れてきた。弟君はじっと彼を見つめる。「ねえ、なんか変わったところがあるでしょ?」
「マフラーだ!」弟君は気がついて嬉しそうな声を上げる。「誰の? 誰の?」
「ご近所のおばさんが着けてくれたのよ。今日一日着けといて良いよって言ってくれたから、明日幼稚園から帰ってきたら、一緒にお礼言いに行こっか?」
客の女は明日返せとは言っていないのになあ、と彼は不思議そうに聞いていた。
「うん行く!」
弟君の嬉しそうな声を聞くと、客の女がしたこの行為も悪くない気がしてきた。
彼の影が真ん中から、さらに右へ動いていた。汗もこれまでにない量になっていた。帽子が頭から少しずれそうになっているのが感じられる。ここまで暑いのはマフラーを巻かれたからか? いや、それは関係ないようだ。やはりこの日光が原因のようだ。数時間前の母親と客の女の話を聞くに、昨日は非常に寒かったらしい。天気はどうだったのだろうか。今日は雲一つない青空なのだが――するとここで、彼の中である疑問が生まれた。なぜ自分には昨日の記憶がないのだろうか?
「お前すげえな」
近くから声が聞こえた。彼の疑問は一旦打ち消された。目の前には弟君と弟君の友達と思われる同い年くらいの男の子がいた。声は弟君の友達だった。
「すごいだろ、昨日作ったんだぞ」
「一人でか?」
「お兄ちゃんと作ったんだ」
「すげえなあ、俺も昨日作ったらよかった」
「今からでも作れないの?」
「もう無理だよ、作れてもちっちゃいのだけだよ」
この友達はバスの中から彼の姿を見てわざわざ家まで遊びに来たらしい。友達は他にも彼の帽子のこと、マフラーのこと、本当はどれくらいの大きさだったのかということ等、多くのことを弟君に訊ねた。
「二人とも、公園に遊びに行かなくていいの?」
母親が家から顔を出して声をかけた。二人は慌てて公園へと遊びに行った。
何気ない風景を眺めながら、彼の心は動揺していた。彼をざわつかせたのは弟君のあの言葉――「昨日作ったんだぞ」――つまり自分は弟君とお兄さんに作ってもらった存在だということになる。ということは、自分は昨日彼等の手で生み出されたということになるのか? もしそうだとすれば、彼等は人体錬成が可能な人間だということになる。そのようなファンタジックなことが有り得るのだろうか――。
もう一つ、彼が気になったのは、友達が自分の大きさについて訊いていたことだった。つまりあの友達は自分の大きさがもっと大きかったはずだと推測しているらしいのだ。彼はあることに気づいた。姿勢を崩しているわけでもないのに、自分の目線が初めの時より低くなっていることに――。
太陽がさらに傾いてきた。影もさらに長く右に伸びていく。汗は昼間より少なくなっていた。だがそれでも体が濡らされているのが分かる。足下の水たまりもかなり増えてきた。目線もさらに低くなった気がする。
また車が家の前に停まった。今度はトラックである。運転席から出てきた作業着姿の若い男が、トラックの荷台から一つのダンボール箱を取り出した。彼にもこの男の目的が分かった。荷物を届けに来た宅配業者だった。
男は朝の郵便屋と違い、彼に興味を持った視線を投げかけた。しかしすぐに仕事のモードに切り替えた。
「宅配便でーす!」
チャイムを鳴らした後、男の威勢の良い声が響いた。家からまた母親が出てきた。昨日の記憶のない彼には、普段からこの家にこんなに来客が現れるものなのか分からなかった。
「ありがとうございました!」
男は仕事を済ませると、トラックへと戻ってきた。ほぼ同じ光景を、朝に彼は見ていた。
ところが、ここで朝とは違うことが起きた。男が彼の前にしゃがみこんだのである。男は彼に語りかけるように――もちろん本人は独り言のつもりなのだが――話し始めた。
「お前は良いよな、そうやって座ってるだけで何もしなくていいんだしさ。俺だって本当は夢あって田舎から出てきたけど、結局こうやってバイトして稼ぐしかねえんだもんな」男は小さく溜め息を吐いた。「俺の人生って何か意味あんのかなあ」
この男がこれまでどのような人生を歩んできたのかなど、彼は知る由もない。彼の姿勢は突然さらに崩れた。そのせいで彼は男を見上げるような形になった。
「そうか、かなり溶けかかってきてるのか」そう言った若い男は勢いよく立ち上がると、元気を取り戻したようにまた独り言を続けた。「そうだよな、こいつの人生は一日だけかもしれないけど、俺の人生はこの先何十年ってあるわけだ。何回もやり直せるチャンスがあるだけ、俺の方が幸せなのかもな」
男は再びトラックに乗り込み、そのまま別の宅配先へと向かった。男の急な心変わりを、彼は可笑しく思った。
だが、気楽に考えていられるのは一瞬だけだった。男は自分を「かなり溶けかかってきてる」と言ったのである。彼は汗をかいているのではない。溶けているのだ!
太陽は彼をさらに照らしつける。彼の目線はさらに下がっている。顔と地面がさらに近づいている。もしかすると自分はこのまま消えてしまうのだろうか――。
最期にこの家の兄弟に会いたい――彼の望みはそれだった。しかしその思いも虚しく、彼はさらに小さくなっていった。
「俺の人生って何か意味あんのかなあ」という宅配業者の男の言葉が思い出される。この家の兄弟に生み出され、動くこともできず、何も喋らず、後はただ溶けていくだけの人生――自分の人生には何の意味があったのだろうか? なにより、こうしてたった一日で消えてしまうなんて、あの兄弟なんかよりも、自分の方がよっぽどファンタジックな存在ではないだろうか?
彼は最後の力を振り絞って辺りを見回した。今まで彼は来る人来る人を気にしていて、しっかりと注目していなかったのだが、消える前に周りの風景を目に焼き付けておこうと思ったのである。
彼を照らす夕陽は、家も道も同じように輝かせていた。まだしっかりと乾ききっていない道は光を反射させて、まるでクリスタルの洞窟のようだった。家々の屋根は鮮やかに陰影を浮かび上がらせて、夕方特有の幻想的で寂寥感のある光景を映し出していた。
彼にはその光景を美しい以外の形容で表現することができなかった。自分の生きた意味はなかったかもしれない。だがこの光景を目に焼き付けることができたのは、この世に生まれなければできなかったことだ。自分を生み出してくれたこの家の兄弟に、彼は改めて最大の感謝を送った。
この景色を見ながら、自分はもうすぐ消える。彼の汗はもはや汗とは呼べないほどの量になっていた。直に汗の量が、自分の本体の大きさを超えるだろう。いや、もう超えているのか。彼は段々と地面に吸い込まれているような気分になってきた――。
太陽が沈み切らないうちに、この家に二人の兄弟が帰ってきた。
「あれ、もう無くなってる」
お兄ちゃんの方が声を上げた。弟君は帽子とマフラーを拾い上げた。
「このマフラー着けてもらったんだよ」
弟君がお兄ちゃんに嬉しそうに伝えた。
「ほんとか! 見たかったなあ」
「遅かったじゃない、何してたの?」
二人の声が聞こえたからか、母親が家から出てきた。
「帰ってる途中で会ったから一緒に遊んでたんだ。ねえお母さん、このマフラーどうしたの?」
「近所のおばさんが貸してくれたのよ。明日返しに行くから、あんたも付いてくる?」
「うん!」
「じゃあ、明日は早く帰ってらっしゃいね。さあ、帽子とマフラーを頂戴。ちゃんと洗わないとね」
二人は家の中へ戻った。弟君は帽子とマフラーを片手に持ちながら、「濡れてる、濡れてる、ビチョビチョ、ビチョビチョ」となぜだか楽しそうである。
――彼がいた場所にはちょっとした水たまりができていた。この水たまりも、明日にはすっかり消えているだろう。