ありがとう、お母さん
安田の給料は出来高制で、時給320円だった。だから、神様なんか信じない。
薄暗い紫色の紗幕に囲まれた小さなステージで、コインマジックを披露する。その際に投げられるおひねりが、彼の給料の全てだ。
「ここに、1枚のコインがあります。なんの変哲もありません。なんの変哲もありませんが……お客さん、煙草を一本お借りしてもよろしいですか?」
灰色のくたびれたスーツを来た男は、隣の女性と話しているのを邪魔されて、不機嫌そうに安田を見た。
「ええ、では、お客様の刺さるような視線を比喩した煙草の吸い殻がここにございますので、こちらをお借りしますね」
安田は灰皿から吸い殻を取ると、灰を指先で少しもんで形を整えた。吸い口には口紅がついていたのに気づき、灰色スーツの隣の女性を見ると、まるで露出狂をみたかのような蔑んだ目を安田に向けていた。もう借りてしまったのはしょうがない。そのままマジックを続ける。
「さあ、いきますよ!1、2、3!ほら、コインを吸い殻が貫通しました!もちろん吸い殻を取ると、コインに穴は空いていません!」
客席からステージは遠く、何が起こったのか良く見えない客達は、周囲を見回して客同士目を合わせ、意を決してぱらぱらと拍手を送った。そのうち3人が100円玉をステージに投げつけ、2人が10円玉を放り投げた。安田は床に落ちた5枚のコインを、急いで拾った。
ステージから客席に降りて、先ほど話を邪魔してしまった二人をちらっと見たが、こちらに興味を持っていないようだった。灰色のスーツの男の横を通り過ぎてバーカウンターの方へいくと、コップを拭いていたマスターは、水道水を紙コップに汲んで出してくれた。酒を買うお金がないことを察してくれた、マスターの好意だろう。
「よかったよ」
そう一言安田に声をかけると、目を伏せた。妖艶な音楽が鳴る。ステージへはカウンターに座っていた着ぶくれした女が上がると、5秒で全て脱いだ。青白い頬に手入れのされてない裸を音楽に合わせてステージ上で揺らしている。マスターはため息をつき、女を見ないようにしながら拍手を送った。こんな芸をする奴しか呼べない自分の店の行く先に心を痛めているようだった。
安田は楽屋のようになっている狭いスタッフ休憩室の片隅で、肩身狭く煙草を吸う。
今日のステージを思い出すと、気分は最高だった。夢にスタンディングオベーションをうける様を見ても、現実ではそれを受けたくない自制心。その賞賛されたい気持ちが満たされずに自制心が満たされてほっとする。
それからあの、ステージの途中で受けた露出狂を見るような女の目、60点。あの女は怒らせたらヒステリーを起こすだろうか。もし無理に言ってお付き合いでもしたときに、結局SM風俗の女王のように最後は慈愛に満ちたおこぼれを俺に与えたりしないだろうか。彼女の泣き叫び脅しを脳裏に浮かべながら、先ほど灰色のスーツの男の脇を通ったときにスった、財布の中身を確認した。
店を出ると、暗がりから女が寄ってきた。まさか、出待ちだ。俺に?安田が驚いて逃げようとすると、女は腕に抱きつき、胸を押し当てた。
「これから、一緒にお食事にいきませんか?」
暗闇に目が慣れてよく見ると、先ほどの60点女だった。顔が引きつりながらも口角を上げて俺を誘うところをみると、水商売の女だろう。灰色スーツの男はアフターだったか。幸いにも俺の財布にはもともと入っていた400円に加え、給料の320円と臨時収入20万円程が入っている。一つ、この女に付き合ってみよう。俺の笑い方が気に入らなくて、公道の真ん中で泣き叫び脅しをやってくれるかもしれない。安田はそう思って夜の町についていった。
次の日に目が覚めると、安田は自室で半裸だった。昨夜、女とバーに入って以降の記憶がない。部屋に時計を置いてないので何時か分からないが、多分朝だ。部屋にはコンソメの香りが漂っていて、包丁がまな板を叩く音がする。安田がキッチンに行くと、昨日の60点女が立って料理をしていた。
「あ、おはよう。もうすぐできるから、テーブルで待っていて」
安田の心臓の鼓動が早くなり、指の先からぞわぞわとした鳥肌が立つ。次に、少し遅れて全身にかゆみが回って肌が真っ赤になった。
「ああ、かゆい」
安田は耐えられなくなって、背中を壁の角でゴリゴリと掻き、おなか辺りは両手で、両手のかゆみと擦り合って掻いた。掻いても擦っても治まらない。女は振り返って安田を見、驚いて金切り声をあげた。すると、安田のおへそからじんわりとかゆみが引き、鳥肌さえも治まった。床に倒れ、肌を冷やす。女は包丁を落とし、しばらく声を出せなかった。誰だ、この女は。声に覚えがあるが顔に見覚えが無い。ああ、化粧を取ったせいだろう。
半目を開けている安田の目の前で、女は引きつった顔をそのままに、光に満ちた手をかざす。体はだんだん冷たくなり、痛みを感じるまで冷えると、ふっと気が安らいだ。
女は更に安田にじりじりと近づき、頭に手を添え、苦虫を噛み潰したように顔を右へひん曲げ、さるぐつわを噛まされたように低い唸り声を上げながら、太ももの上へ安田の頭を乗せた。あからさまに人を撫でたことの無いことが伝わる女の手は、安田の頭頂部で迷子になり、ジグザグに髪の毛をなぞった。
「きつかったね。私はあなたを幸せにしにきたの。なんでも言って」
「俺を、お前から見て不幸にしてくれ。俺にはそれが幸せなんだ。」
安田は思いがけなく素直な思いが口をつき、そわそわした。
「な、何を言っているのよ。もっと、幸せはふわふわとしたわたあめのようなものよ?もっと素敵なことを言いなさい」
女は目を泳がせ、貧乏ゆすりをして安田の頭を揺らし、不規則に呼吸をしながらそう言った。
この、俺と関わるのに無理をしている感じ、どことなく懐かしい。と安田は思った。自分は我慢をしているんだぞ、というアピールが無意識にあふれ出ている。まるで、死んだ母親みたいだな、と思い至った。いや、案外当たらずとも遠からずな考えなのではないだろうか、と考えを続ける。例えば、あの世で何らかの命令を受けて、自分に接触しようとしているとか……。いや、馬鹿馬鹿しい。あの世とかあの世で命令を出す立場の人間がいるとか、あるはずがない。しかし、先ほど手が光ったような気がする。ここは一つ確かめてみようと思って、ポケットからコインを出した。
「一つだけ、叶えて欲しいことがある。これができたら俺は幸せだ」
「なんでしょう」
安田は女にコインをよく見せた。
「ここに1枚の銀硬貨がある。表裏共に別の絵柄だな。……ところが、こうして右手で表をくすぐってやるだけで、ほら、両面とも同じ裏面の絵柄になった!表面はくすぐったくて出て行っちゃった!」
くすぐっている間に両面とも同じ柄の銀コインにすり替えただけのマジックだが、女は立ってぱちぱちと拍手し、奥歯を噛みしめて笑った。
「すごーい。すごーい」
「これをやってみて欲しい。今まで女がこのマジックをしているところを見たことがない。俺はそれを見れたら幸せだ」
女の頬が緩んだように見えた。こんなの簡単だ、そう思ったに違いない。
安田は財布の中から10円玉を出して女に手渡した。女が言う。
「ここに、なんの変哲も無い10円玉があります。この表面を右の人指し指でくすぐると……」
女の指が光る。
「ほら!どちらの面も裏になっちゃいました!ちゃんちゃん」
女から手渡された10円玉は、きちんとどちらの面も裏だった。おもちゃの質感は無い。
決まりだ。この人はあの世からなんらかの力を持って現世へ来た母親だ。法律を破るラインで実際の硬貨そっくりのタネを作るマジシャンは今はいない。
憶測だが、息子の世話を焼くことが自身の利益になるため、料理を作ったり膝枕をしたりしたのではないか。
「さすがだね、お母さん」
女ははっとして、わなわなと震えた。この感じ久しぶりだ。泣き叫び脅しが来る!
「お前のせいで地獄行きだよ、くそが!死ね死ね死ね!バレたらこの世にいられねえんだよあああああああ!」
母親はソースのチューブを引き裂いて安田の頭にかけた。どくどくと、ソースが安田の目、耳、頬をなぞって服の襟を汚す。作った料理を投げる。コンソメスープをぶちまける。机をひっくり返して後は叫んでいた。
段々と母親の体が地面に沈んでいく。ゆっくりと沈んでいくのを、安田は葬式のときより丁寧に見送った。最後に割れたネイルが見えなくなったとき、ふっと気が緩んだ。
「何を言っているかわかんねえよ。……お母さん」
ソースでべとべとの髪の毛に嫌悪感を感じた自分に驚きながら、窓を開けて明るい空を見た。爽やかな風が入ってくる。清々しい気分だ。頬を流れる液体が塩辛さでヒリヒリしたのを感じる。
安田が女性の誰かを、お母さんと呼んだのは生まれて初めてのことだった。
先日母の日だったので、母の小説を書きました。