地中クジラ(下)
7
あれから四年、小学六年生の秋の終わり。
子供の時間の流れは遅く、密度は濃いものです。あの事件は我々の中で遠い過去のものになっていました。
私と次郎の親交は進級してクラスが別々になっても続き、親友と呼んでも差し支えのない仲になりました。悲しいかな、二年生以来しばらく同じ組になることはありませんでしたが、最高学年になった今年にやっと二人の願いが叶ったのです。それにずっと休職中だった郷原先生が我々の担任として復帰し、新学期から一年分の幸せを感じていたのでした。
なんだかあの日が戻った来たようで、それこそ時間を忘れるくらいに夢中で過ごしていたら、気がつけば長袖になっていました。運動会や修学旅行などのめぼしいイベントも無事消化し、あとは卒業を待つばかりです。旅立ちというポジティブな節目を迎えるのにも関わらず、冷たくなった風に押された先の未来は綺麗ではなく寂れて見えます。それは私の後ろの風景を映し出したものかもしれません。後悔するには遅すぎると思うのですが、私は私に何をさせたいのでしょうか。
帰りの会の終わりに「じゃあ皆、気ぃつけて帰れよ」と、郷原先生がいつもの言葉で締めくくるとクラス全員が「さようなら!」と合唱します。友達と連れ立って帰る者達や、郷原の周りに集まって一緒に話し込んでいる者達(これは女子が多いです)が居ます。いつもの風景でした。
「ユウちゃん、帰ろうぜ」
左肩にぽんと乗った手に「うん」と頷きます。
「オレちょっとトイレ行きたい。先にあいつら迎えに行っといてくれるか」
「オーケー、下駄箱の前で待ってるから」
「おう!」
わざとらしく股間を抑え私を笑わせた後「シホもよろしく!」と言って慌ただしく出ていきました。「任せて」とその背中に向かって声を掛けましたが、既に視界から消えていました。やれやれとため息を漏らしますが、日々体を張って楽しませてくれることには感謝しています。
我々の教室は南側から校舎を眺めた場合、三階の左端にあり、階段を挟んで一番左には音楽室がありました。その階段で垂直に一階まで降り、高学年用の下駄箱で靴に履き替え、渡り廊下を渡るとその先には併設されている一階建ての『にこにこ教室』があります。私はその扉の窓から中の様子を伺いました。一年前は背伸びをしていたのですが、いつの間にかかかとが付いています。
いつも居る年配の女の先生が私に気が付きにこっと笑いました。目じりには何本も皴ができています。それだけこの学校に居たということです。彼女は部屋の端の方に向かって細い腕を上げ手招きします。すぐにどだどたと複数の足音が板一つ隔てた先から聞こえてきます。それだけエネルギーが有り余っているのでしょう。
スライド式の扉が五センチほど開き、次には一気に全開になりました。樹は「にいちゃん!」と叫び歯を見せます。後ずさりするほどの大声でしたがが、彼のさらに後ろから梅雨時の蛙の合唱の方がまだましと思えるような子供たちの騒ぎ声が突風のように突き抜けてきました。
樹の隣には志帆が居ます。次郎の妹です。彼らは小学二年生で、にこにこ教室歴は今年で二年目です。入学時、樹は私が迎えに来るまでこの慣れない空間で過ごすことを不安に思いべそをかいていたそうです。逆に志帆は時間まで大人しく、どこぞのお嬢さんのようにすましていたそうでした。彼女が入学してくるまでに次郎から聞いていた印象とはまるで異なっていて、女々しい弟を不甲斐なく思ったことも懐かしく感じます。現在のように樹がにこにこ教室を楽しめるようになったのも彼女の存在が大きいでしょう。私はますます親友に感謝しているのでした。
「ユウちゃん、お兄ちゃんは?」
志帆は兄の次郎をマネて私をユウちゃんと呼びます。
「トイレに行ったよ、こんなふうに走って」
私は自分の股間付近を抑え苦しそうな表情をして見せます。女の子の前では少し下品なふるまいかと思われましたが、彼女は面白そうに笑ってくれました。にこにこ教室の先生がにこやかに手を振り、二人がそれに応えたのを確認して、「じゃあ帰ろう」と話しかけます。
下駄箱の方へと渡り廊下を歩いている途中で、階段を駆け下りてくる次郎が見えました。後ろをついてきていた樹は私を追い抜き、嬉しそうにその慌ただしい男のところに走ってゆきます。
次郎は上履きのままふざけて樹の顔をひとしきり撫でまわし「手ぇ洗ってませーん」とにたりと笑みを浮かべます。「ぎゃあ」と悲鳴を上げる樹の後方に自分の妹の姿を確認すると、両手のひらをかかげ強調しながらじりじりと迫りました。志帆は本当に嫌そうに眉間にしわを寄せ、私の背中に隠れます。どちらがどちらのの兄なのかわかりません。
「ジロちゃん、早く靴履いてよね」私は次郎を急かします。
「わかったってば。イツキ、そこでまってろ!」
人差し指をびしりと樹に向け、さっさと自分の靴を取りに行ってしまいます。志帆はまだ私から離れず、自分の兄を呆れたように見つめていました。
「よっしゃ行こうぜ!」
全く調子のいい奴。私は西門に向かって方向転換しようとしました、が、スムーズにいきません。「しーちゃん、歩きにくいよ」背中に向かって言います。志帆は列車が連結するように私のランドセルをつかんでいました。最近彼女からこのようないたずら(?)を受けています。
「おらしーちゃん、離れろ!」
次郎は再び手のひらを妹に近づけると小さな手は私から離れ、志帆は樹を巻き込んで門まで逃げてゆきました。
「ちぇ、またしーちゃんって呼んじゃった」
彼らを追わずに、隣でぼやかれます。
「もう諦めなよ」
「そうはいくか、もうすぐ中学生だぞ。ヒロショウの奴らならまだしも、他の小学校から来た奴らの前でしーちゃんなんて口を滑らせてみろ、恥ずかしいだろ。それに舐められたくないしな」
「じゃあそう努力しなよ」
「オレはしてる、原因はお前だ」
「ボクが?」
「そうだ」
「じゃあボクも呼び捨てればいいのかな」
「いや、それは、」
「どっちなのさ」
息の合ったやり取りに私は満足しました。歯切れの悪い返答をした次郎はまだ何か言いたげでしたが、大きなため息をついてごまかすと「卒業までには直すさ」と言いました。
「四年間できなかったことがあと五か月で何とかなるとは思えないけど」
「そうだな」
次郎は曖昧に返事をすると、握りこぶしを作りおもむろに私の肩に押し付けました。当てられた部分を眺め、どう反応すべきか迷っていると彼が先に口を開きます。
「手は洗ったよ」
私と次郎の前に志帆と樹がおり、四人は二列で田んぼの間のあぜ道を歩いていました。前の二人は私達にはもう理解できない子供の言葉で話をしています。我々も子供といえば子供ですが、もう別物です。
こうして四人で歩くようになってから一年と半年が経ちます。きっかけは四年前のあの日、次郎が遊びに私の家に遊びに来たことでした。昼過ぎでしたので母も樹も既に帰宅していて、突然のことにも関わらず母は快く彼を受け入れてくれました。唯一心配だった樹とも二、三言葉を交わすうちに打ち解けて見せました。
次郎は母に対して礼儀正しく良いイメージを残したと思いますし、樹は今度はいつ彼がやってくるのか気にしていました。
次郎は母子家庭で家の鍵をいつも持っており、母親と妹の帰りはいつも遅く冬は日が落ちてからでないと帰らないそうです。私はそのことを母に話すと、母は「じゃあ、お母さんのお仕事が終わるまでこの家にいてもらったら」とグラスを片手に提案しました。次郎と私は大喜びでした。はじめに電話口に次郎をを出し、母が代わってその旨を伝えたのですが、しかし彼の母親は拒みました。
「迷惑なんて思いませんよ」
「次郎君も遊んだ後で歩いて帰るのは疲れちゃうでしょうし」
「暗いと危険ですので」
「いえ、子供が楽しいのが一番ですから」
「えぇ、はい、お気になさらず」
母が電話機の前で話しているのを聞いていると、相手はかなり遠慮しているようだでした。確かに母のやり方は少し強引であるように感じますし、顔の見えない会ったことのない相手に一方的に良くしてもらうのは気が引けるでしょう。また、何か下心があるのではと疑ってしまってもおかしくはないと思います。
受話器から耳を離した母は「お母さん、いいって」と次郎に微笑みかけました。彼はガッツポーズし、私にハイタッチを求めてきます。樹はしばらくきょろきょろと二人を見返すと、やっと意味がわかって「いえーい」と私たちに混ざりたがりました。
それからは週に三、四回程度、進級しクラスが変わってからは二回、一回と機会は減ってゆきましたが消滅することはありませんでした。もっとも樹と志帆が入学して来ると、特に彼女が遊びに来たがったので自然に回数も増えることになります。新しく娘ができたようだと母も喜び(兄と同じで礼儀正しい娘でした)、現在では毎日のように家に来ていました。
志帆は洗練されていて何が起きても激しく動揺することもなく、大人しくありながら勇敢な一面もありました。上級生に絡まれている樹をかばっている姿を学校で何度か見たことがあります。私の弟はというと他人に優しいばかりで、男に必要な強さというものを持ち合わせていませんでした。少しは横の女の子を見習ってほしいのですが。しかし、前を歩いている二人が仲良さそうにしている様子を見ると、お互いを上手くカバーできているようで、これは私がとやかく考えるべきではないのだと思えます。二人はお互いに惹かれているはずです。本人たちがその気持ちを自覚するにはまだ歳が足りないでしょう。あぜ道にはみ出した頭を垂れる稲穂をおもむろに手でなぞります。
玄関前で私はランドセルを開け、側面のポケットから鍵を取り出しました。じゃきりと鍵穴に差し込み、手首を回します。家には誰も居ません。母は次郎の母親のスケジュールの空きを狙って食事に行っているのでした。
「オレたちのかしきりじゃん」
「何様なの」
私はわざと冷たく言います。
「ユウちゃん、そんなこと言っていいのか」
「なんだよ」
次郎は得意になって「実は」と口を開きましたが、志帆がそれを妨げました。彼女が「これぇ」と自分のランドセルにつけていた体操袋をもじもじと手渡してきます。サンリオのキャラクターがプリントされた可愛らしい入れ物でした。私は彼女の意図が読めず無言のままそれを受け取ると、重さや手触りに違和感を感じました。
「あけて」
蝶々の形をしている結び目の、そこからのびる紐の一本をつまみ手前に引きます。しゅるりとほどけ、口を広げると、中にはポテトチップスやチョコレート、キャンディなどのお菓子がこれでもかと詰められていました。
「わぁ、すごいな!」
私は叫び、樹も中身を見たがったので体操袋を渡してやると同じく「わぁ!」と驚きました。次郎は悔しそうにしています。
「ちぇ、シホってば、もっともったいぶらなきゃ」
志帆は樹が大量のお菓子がある理由をしきりに聞きたがったのでその相手をしていて、兄の言葉は耳に入っていません。私は今朝感じた疑問を再び次郎に尋ねました。
「じゃあジロちゃんの体操袋も?」
次郎は妹に無視され黙ったままそっぽを向いていましたが、諦め「そうだよ」と言いました。
「おかしいと思ったんだ、体育が無いのに体操袋持って来るし、ボクには触らせようとしないし。すっかり騙されたよ、寝ぼけてたわけじゃなかったんだな」
「せっかくユウちゃんにひと泡吹かせるチャンスだったのに」
次郎は自分で体操袋を開けると、中身を見せました。こちらも志帆のものと同様にお菓子でいっぱいです。私としては十分に虚を突かれのですが、とどめは自分んで刺したかったのでしょう。そんな兄の気持ちなどつゆ知らず、志帆は「昨日の夜詰めたの」と無邪気に言います。
「ねぇ、早く上がろうよ」
拝んだことのないお菓子の量に目をきらきらさせた樹の掛け声で玄関に溜まっていた私たちは動き出しました。次郎は、先生に気づかれないようにするのが大変だったなどと愚痴っていましたが、おそらく妹の方は肝が据わっているらしいので、彼女にはそんな気苦労はなかったのではないかと思います。
いつも遊んでいる二階の私達兄弟の部屋に行きました。戸をスライドさせると、背中合わせに設置された勉強机がそれぞれ別々の壁を向いて存在しています。次郎達兄妹は部屋の真ん中のスペースで各々の体操袋を逆さまにし、その口からはぼろぼろと小物が流れ出てきて、たまに詰まると上下に振りました。それらが地面に当たってはじけ、袋が空になるころには半径五十センチほどの円状に広がっていました。次郎が「集めろっ」音頭を散ると、樹は二人に駆け寄りそれぞれ三方向から散らばったお菓子たちを中心に寄せだしました。私はその姿が面白く、高みから見下ろしていました。
「ほら、食え!」
お菓子の山を囲むように四人は座ると、次郎は私達に好きなものを手に取るように勧めました。樹はすぐに一口サイズのチョコレートを二三個取りましたが、私は一方的に施されていることを気にして、なかなか手が出ませんでした。
「ちょっと待っててっ」
私はその場を離れ、部屋を出ました。廊下に設置してある小さな冷蔵庫を開けます。相変わらず、みずみずしさが上手く表現されたフルーツがプリントしてある缶達が沢山ありました。しかしこれらは子供が飲むことを許されないものです。諦めて扉を閉め、心の中で母に恨みごとを言いながら戻ろうとしますが、はたと何か思いつき、階段を下ります。そのすぐ横に位置する台所へ、すりガラスの張ってある戸をスライドさせます。中に入り、大きな冷蔵庫の前に立ちました。これは上のものとは違い、食材や調味料が入っているばかりです。緊張しながら開けました。奥から冷気が吐き出され、それを真に受けて小さく震えます。
あまり期待せず、それでも我慢して端からじっくりと見渡すと、欲しかったものがありました。冷蔵用ポケットに立てられている大きなペットボトルの中で濃い橙色の液体が揺れています。それをその場で回転させてみても、どこにもアルコールとは表示されていません。よく見ればボトルの側面に「優基へ、みんなで飲んでね」とマジックで直接書かれていました。そういうことはあらかじめ伝えておいてくれと母を毒づきましたが、用意がいいことに感謝しましたし、母を悪く思ったことをすまないと感じました。私は嬉しくなり、大きなペットボトルを抱え、肘を使って重い扉を閉めます。パチンとマグネットが良い音を立てて引き合ったのを確認して、出口に足を向けます。
一歩と進まないうちにすりガラスの一部が人の形にぼやけているのがわかりました。小さな影でした。こちら側に入ってきたいのでしょうか、柱と扉の隙間に手をかけ開けるそぶりを見せますが、すぐに腕を下ろしているようです。私はそれが誰かわかったので、特に警戒せずに戸をスライドさせました。
急に開けた視界に驚き、びくっと体を震わせたのは確かに志帆でした。彼女は私を見上げ目が合うと嬉しそうに頬を緩ませ、まるで照れたように俯きました。そういえば彼女と二人きりになったのはこれが初めてでした。上からはそのつやつやとした髪の毛を見ることができます。
どこからかしゃかしゃかと何かがこすれる音が聞こえていたので、音源を探すと、それは目の前で鳴っていることがわかりました。
志帆は黒色のビニールで包装されている手のひらサイズのお菓子を両手で握り、しきりに手悪さをしていました。彼女の指の隙間からそれが私の好いている菓子であることがわかります。チョコレートクッキーをさらに別の種類のチョコレートでコートしたものでした。それに気を取られます。
目の前の小さな生き物が、正面からゆっくりと私の体に抱き着きつきました。
志帆の羽毛のように柔らかくすべやかな肌の質感を堪能しながらも、頭では抵抗しようとしました。自分よりも四つも下の女の子で、それも親友の妹でしたが、私の心臓は一度大きく波打った後、ことりとも動かなくなりました。
「かして」
志帆の言葉に再び心臓は動き出します。彼女は私が抱えている大きなペットボトルを一生懸命引っ張って、奪おうとしていました。つまりそこには、抱擁の意図はなかったのだと思います。
「重いよ」
「だいじょうぶ」
「階段、危ないから」
「へいき」
まるで意思を曲げようとしないので、さすが次郎の妹だと思い、彼女が自分の引っ張る勢いで後ろに転げないように「わかったから」と落ち着けて安全に離してやりました。彼女は思い通りになってにたりと笑うと、ペットボトルを抱えながらも器用に持っていたお菓子を差し出してくれました。
「ありがとう」
私はそれを受け取り、頭を撫でてやりました。
するとどうしてか、志帆は泣き出したのです。
声も涙も無いに等しいものでしたが、目の表面がうるうる濡れ、白い部分には赤い導線が敷かれてゆきます。驚いて、すぐに手を離しました。私が頭を押さえたから、彼女の涙腺を潰してしまったから、欠伸と同じ原理で目が濡れたのだと思いました。志帆が私のことをどう想っているのかはさておいて、その因果関係はそこに起因しないことを望んだのだと思います。
いつも彼女の毅然とした姿しか見てこなかった私は、私の心臓は、その表情に今度は大きく波打ち、しばらく止まることはありませんでした。
「さあ、戻ろう」
志帆が無言で頷いたのを確認し、背中をやさしく押して先に階段を上るよう促しました。重心がとりずらいのかペンギンのようによちよちと歩いていたので、終始私を心配させます。
部屋の前に立ち、まず志帆が体当たりするようにして戸を横にずらそうとしていましたが、それで思い道理にいくはずもありません。背後から手を伸ばし、左方向に力を込めました。
満面の笑みを浮かべ菓子の海でクロールをする樹の横には、歯を見せながらも次郎が若干不機嫌そうに片方の膝を立てて座っていました。弟の相手をしてくれています。戸と床の擦れる音でこちらを振り向いた彼の眉間にはしわが寄り、目は細くなっていました。しかし大きなペットボトルを抱える妹を見ると、一気に表情を和らげ「何だ、いいもんあんじゃん!」とガッツポーズを天井に掲げ大げさに喜んでみせました。さりげなく志帆の目を見つめます。この角度からでは長いまつ毛が邪魔をしてその目元まではっきりとは見えませんでしたが、既に眼球は乾いているようでした。
「コップ取ってくるよ」
「サンキュー、シホ、ついでに手伝ってやれば」
兄に言われ、志帆は胸に抱えているまだ冷えたままのペットボトルに顔から抱き着きました。
「大丈夫だよ、今度はすぐ戻るから」
「おう。そうだ、ゲームの準備してていいか?」
次郎はカラーボックスに収納されている箱の一つ(ゲーム機本体とコントローラーなどが仕舞ってあります)と、その上に乗っているブラウン管テレビとを交互に指さして言いました。
「いつも勝手にやってるじゃない、もちろんいいよ」
「おし、イツキ、こい!」
樹はお菓子を食べる手を止め、嬉しそうに四つん這いの姿勢で移動しています。
私は戸をしっかりと閉め、左手の通路を進み流しに入ります。この空間は光が入りづらく、日中でも薄暗いです。樹など未だに一人でこの場所に来ることができません。
壁のスイッチをはじくと、頭上の蛍光灯が点灯します。ガラス張りの戸棚を開け、人数分のコップを取り出します。私は手が大きい方ですし、五本ずつある指を駆使すれば一度に運んでしまうことも難しくありません。
頭で完成図をイメージしながら、三個目のコップを指にはめていると、一瞬部屋が暗くなり、また一瞬で明るくなりました。指には力を入れたまま、蛍光灯に目をやると、片端がわずかに暖色を帯びていることが確認でき、じこじこと気味の悪い音もしています。
「あとで母さんに言わなきゃ」
そう独り言ちて、素早く、不意打ち的に後ろを振り返りました。
誰も居ませんでした。
私はさっさと四個目も装着し、腕を上げるのは面倒でしたので、壁のスイッチに頭突きして電気を切ります。
戻ると次郎がゲームカセットの基板に息を吹きかけているところでした。
「調子悪い?」
「うん、いや、これで二回目」
息継ぎをしながら応え、本体に差し込みます。カチリ、と上向きにスイッチをスライドさせると、無事オープニングが始まり問題は無いようでしたが、途中でフリーズしました。
「あー、またここだ」
「まあ、古いハードだし」
いらつく次郎をなだめます。
「ちくしょう、もう一回っ」
「バッテリーが熱でやられてるのかも、少し待とうよ」コンセント抜きました。
彼はお菓子の山から適当に一つ掴むと、それを口に含みながらコントローラーのアナログスティックをぐるぐると回し始めます。もちろん、何を操作するでもありません。私も先ほどオレンジジュースと交換したお菓子の包装を剥きました。志帆の手の熱のせいでコーティングが少し溶けていて内側の銀色にべっとりとへばりついています。
機械と格闘するのは兄貴たちの仕事で、二人と言えば袋に小分けされているチョコレート菓子かクッキーか柔らかいものを選んでキャッチボールをしていました。どちらかが取り損ねるたびに甲高い笑いが起きます。
「やっぱ新しいゲーム機欲しいよな、今時これじゃあ」
次郎は今手悪さをしている特徴的な形のコントローラーを肩の高さまで上げます。
「この前イッチーんち行ったんだけどさ、こう、リモコンを画面に向けて振り回すんだよ、そしたらキャラが動くんだぜ」
「テレビのリモコンがコントローラーになるの?」
「違う、専用のコントローラーさ、それが四本ある」
「よくわかんないな」
「わかりたいと思わないか」
「ははん、ボクに買わそうとしてるな」
私は二階の冷蔵庫の中にあるいつまでたっても減らないアルコール類を思い浮かべました。
「無理だよ、高いんだろ」
「だめか」
「あと二回くらいお正月が来れば、どうかな。そんなことよりジロちゃんが持ってきてくれればいいよ、好きなだけコンセントを使わせてあげるからさ」
「ちぇ、なあ、頼むよ」
「じゃあ、ボクからその友達に乗り換えればいい」
「なんだと」
次郎は「聞こえなかった」と、そう言う割には目に力を込めて私を見ました。
この学年になってからこのような一見して無意味な衝突が頻繁に起こるようになりました。すぐに元通りになるのですが、仲をたがう原因がよくわからず、いつもしこりが残るのです。完全な決着が来ることはありませんでした。おそらくは不安、卒業という大きな節目を迎えることへの焦りのようなもので、幼稚園を卒園するのとはわけが違う、初めて自覚して、自分が何か別の者になることを意識させるからなのでしょう。
今回は次郎が折れました、「言い過ぎた」と。
「イッチーんち、シホも連れて行ったけど、全然楽しそうじゃなくて、あいつはここがいいんだ、でも画面だけは羨ましそうに見てたから」
そう耳打ちすると、彼は横目で自分の妹を見ました。彼らは未だ楽しそうに飽きもせずキャッチボールを続けています。
「楽しそうだよなぁ」
「それこそ今時、お菓子だけであんなに喜べるなんてね」
「持ってきてやったのはオレたちだぞ、その言い方は」
「わかってる、ボクだって嬉しいんだ」
私は本心を言ったつもりでした、それに彼だってこの四人でいることが嬉しいのです。
私たちの視線を感じたのか、樹は振り向くと「なにぃ」とにやけ、身振り手振りで兄たちの不審な挙動を志帆にも伝えようとします。
「よしっ!」
次郎はぱちん! と拍手をすると樹の服を引っ張り、隣に座らせます。
「ユウちゃん、コンセント」
「任せて」
壁とゲーム機本体をコードでつなぎ電気を送ります。今一度次郎がゲームカセットに息を吹きかけ、本体に差し込み、スイッチを入れました。先ほどとは違い、スムーズにオープニングムービーが流れます。志帆は気を利かせ、三人の前にコップを並べると、オレンジジュースを注いで回りました。最後に自分の分を確保すると、私の横にちょこんと座ります。
「やろうぜ、チーム戦だ」
私たちは幾度と眺めた画面に、また夢中になるのです。
今夜は母よりも父の方が早くに帰宅しました。父は騒がしい部屋に入ってくると「やあ」と兄妹に挨拶をし、次郎と志帆は対戦中にも関わらずコントローラーを放り出し「おじゃましてます」と礼儀正しく言います。私も手を止めざるを得ませんでした。樹は一人で画面に向かっています。彼は容量が悪いというか、一度に二つのことができず、つい点を見るようになるのです。
父はすぐに出て行ことはせず、私と目が合うまで戸の隙間から顔を覗かせていました。遊びに来ている二人はほとんど面識の無いしかめ面の男を前に身を固めてしまっています。私は仕方なく立ち上がり、父の元へ歩きます。廊下に出ると戸は隙間なく閉めました。
「いつからだ」
相変わらず煙草臭い息でした。
「六時くらい」一時間ほどサバを読んで答えます。
「そうか、よっと…もう九時近いな、ゲームのやりすぎぎゃないか。ほどほどにしないと馬鹿になるぞ」
左手を上向きに振り、スーツの袖を下げてから時計を見て言いました。
「とりあえず母さんに電話する、こんな時間まで何をやっているんだか。わかっているとは思うが、ゲームはすぐにやめなさい」
「うん」
私は踵を返すと足早に部屋に戻り、戸に背を向ける格好でテレビの横に立ちました。側面にある音量の『-』のボタンを連打し、外に漏れない程度にまで下げます。小さい二人からはブーイングをくらいました。プレイヤーは選択したキャラクターの特性を生かして戦うアクションゲームで一試合五分とかかりませんでしたが、早く終わってくれと人差し指のひらでブラウン管をリズミカルにたたきます。
それから一区切りつくと、対戦の感想を言い合うのも聞かず電源を切りました。樹はまだプレイしたいと駄々をこねましたが、父の言いつけであることを告げると途端に座高が半分になってしまいました。次郎は後頭部に両手をやり、そのままそっと頭を床に置くように寝転がります。天井を見つめたまま右手で辺りを探り、くしゃりとビニールの手ごたえを感じると、掴み、弄び、体を起こすと志帆の背中に投げつけました。最後の一個でした。志帆は背中に腕を回し、何か付けられたのかと勘違いして、たたくように探りのーんと首を曲げ、やがて床に落ちているチョコレート菓子を見つけます。拾うとこっそり自分のスカートのポケットに入れました。
再びぬっと父が現れ、「お母さんたちはもう帰ってくるそうだよ」と変わらず仏頂面で知らせてきます。
「君たち、帰る準備をしなさいね」
抑揚のない事務的なメッセージにも兄妹は何失礼なく従います。ぺらぺらになった体操袋はランドセルに入れていました。私は樹と一緒にゲーム機やその周辺機器を片付け始めます。
父が連絡を受けたという「もう帰る」とは何だったのか、母達が帰ったのは十時前でした。夜は更け、年齢が一桁の者達はうつらうつら船をこぎだし、樹など完全にリラックスし床に寝転んでいます。私など光を浴びすぎた目は冴えていたので、同じような状態の次郎と話し込んでいました。クラスの女子の悪口など、弟達の前では話題にできないようなこともこの隙に話します。
車のタイヤが砂利を乱す音が窓を突き抜けて聞こえました。流石に眠そうにしていた次郎でしたが、それには敏感に反応し、志帆の頭を小突きます。本来ならば布団で横になっている時間にも関わらず、行儀よく背を伸ばして目を閉じていた彼女はおしりを中心に頭から弧を描くように自由落下しました。床で頭を打ち、ずん、と鈍い音を鳴らし、しかしその衝撃よりもどちらかといえばその音に気付いたようにゆっくりと目を開きます。
「シホ、起きろ、かーちゃんだぞ」
「うん」
志帆は目をこすりながらかろうじて返事をします。私も樹の体をゆすりましたが、ぴくりとも動きません。
「いいよ、寝かしといてやりな」
次郎はひそひそと言いました。私は二人を見送ろうと立ち上がり、伸びをします。それぞれランドセルを背負ったのを確認し、部屋の戸を開けました。
廊下では煙草を片手に持った父と、既に二階へ上がって来ていた母とで口論になっていました。母は珍しく酔っており、へべれけな様子で話がかみ合わず、父は明らかにいらついていました。ほがらかなのか、張りつめているのか、状況を上手く読みかねます。
「あらぁ、次郎くん、志帆ちゃん」
名前を呼ばれた二人は目の前の異様な光景にたじろぎました。
「お母さんから聞いたわよ、お菓子いっぱい持ってきてくれたんだってねぇ、ありがとうねぇ」
「…いやぁ、ジュースありがとうございました、おばさん」
次郎はかろうじて返答し、今のうちに通り過ぎるようにと二人のランドセルを後ろから押しました。
「ユウキ、どこへ行く」
どさくさに紛れ、この場から逃げようとする私を父は咎めました。
「君、部屋は片付けたのか」
「もうきれいだよ」
「じゃあ勉強でもしていなさい」
「でも」
「すぐにだ、二度言わせるな」
母は今使い物にならず、反抗心を巧妙に隠しながら私はこの場で二人を見送ることになりました。
「じゃあねジロちゃん、しーちゃんも、またね」
「おう」
次郎は訳知り顔で微笑み、志帆などはほとんど寝ていながらも虫の泣くような声で「ばいばい」と唇を動かし、手を小さく振ってくれました。
気が違っている母は、まだシャワーすら浴びていないはずです。汚れているはずの衣服はそのままで化粧すら落とさずに、リビングに入るや否や床に転がりました。後はうなるばかりです。父は一度舌打ちをすると新しい煙草に火をつけ、吸うと、網戸に向かって吐き出しました。兄妹が軽くノックするように階段を下る音を耳に残しながら、私は部屋に戻ります。煙草のにおいがするうちに樹を起こし、お風呂に入れなければなりません。彼は既に本格的な眠りに入っていました。先ほどのようにゆすったりしても喃語のような寝言が返ってくるだけでしょう。彼はうつぶせの姿勢で、左頬を床に押し付けるようにしていました。可愛く、気持ちよさそうな寝顔を浮かべています。可哀そうではありますが、日の出とともにさえずる雀の声を聞きたそうなその小さなな耳に「お父さん」と、私は話しかけるのでした。
8
二月も半ばの寒い朝、私は下駄箱に不審なものを発見しました。色は上品なネイビー、肌触りの良いビニールでサイズもまた主張控えめである。まさか危険物でもあるまい、しかしある種の緊張感は抜けきらず恐る恐る袋の口を開きます。そこにあったのはどちらかといえば安全で、幸福とか喜びといった甘ったるいものを呼ぶものでした。私の好きだったチョコレート菓子でした。ここ最近で興味を失いつつある分野のもので、そんな類のものはクリスマスケーキ以来食べた記憶がありません。もちろん嬉しい気持ちも感じています。それは厳しい冬を過ごすために糖分を取ろうとする本能的なものでしょうか。私は人気のない下駄箱で贅沢な悩みを持て余していました。このまま教室に持っていけばそれこそ劇物となりかねません。
その場で少し跳ねてみました。浮かれているわけではありません、ランドセルにどれくらいの空きがあるかを調べているのです。接している背中とがこすれる音がするばかりで、中からは小物の揺れすらも感じとれませんでした。今朝時間割を確認する際にも苦労して荷物を積めたことが思い出されます。卒業間近であるというのにランドセルは重くなる一方です。クラス単位で卒業制作なるものを作っているのですが、これがなかなか凝っていて、特に女子などが率先して仕切っているのでした。
本日の時間割ですが、国語や算数などの正課の授業は大休憩までで、それから六時間目までは学活となっています。その時間のことを担任の郷原は「好きにしろ」と私たちに言い放ちました。それは自分勝手にしろという意味ではなく、我々を信頼し、ドッヂボールでもフットボールでも好きな遊びをして楽しめと言っているのでした。我々は大いに騒ぎ、突如として手に入った莫大な時間をどんなふうに使おうかと巡らせるのでした。もちろん、第一期卒業生からの伝統らしい卒業制作のことは忘れてはいません。私を含めたほとんどの男子達はめんどくさがりで精密や正確といった言葉からは遠い傾向にあり、これに割く時間はその自由な時間の半分程度、もしくはもっと少なくてもいいだろうと考えていました。何よりこの時は冬休みが開けたばかりでしたし、完成期限まで二か月弱あり、それでも短い卒業までの時間を友達と楽しみたかったのです。そして噛みしめたかった、これでもかというくらいに。
冬休み空けの学活で卒業制作の実行委員が決められました。枠は男女一人ずつで、何でもその実行委員とやらは他の先生方とも話しスケジュールの調整なんかもしなければならないらしいではありませんか。我々は安易に、妙にやる気のある女子と、冷やかしでその彼女と噂になっている男子とを候補者に立てました。彼は迷惑そうにしていましたがまんざらでもなさそうでした。こうして、まるで楽園のような教室が完成するはずだったのです。
聞くところによると女子の実行委員には二年前に同じ小学校を卒業したお姉さんがおり、彼女が中心となって完成された卒業制作はそれは見事なもので、都会の立派な賞をいただいたそうなのです。その作品は東京のどこかの美術館に飾られたまま、以来一度も故郷に帰ったことは無いそうでした。そのことを彼女のお姉さんが悲しんでいて代わりのもので慰めたいのか、同じような立派な作品を作って追いつきたいのか追い越したいのかはわかりません。いずれにしても彼女は一生懸命だったのです。
我々が無邪気に外遊びをしている間に、クラスの女子達は彼女に取り込まれていました。それに同調せざるを得ないもう一人の実行委員は、いの一番にボールを持ってグラウンドに出ようとする男子達にも声をかけないわけにはいきません。男子数人から「えぇ」と漏れた不満げな声に女子達は敏感に反応します。教室の瞬時に凍てついた空気が、まるで冷蔵庫の中にいるようでした。彼らはあらゆる視線から逃れるためうつむくしかありませんでした。。
ろくに遊ばず、過去一番重いランドセルを背負って登校する日々でした。教科書二冊、算数のワークが一冊、ノートが二冊と筆箱、本来ならばそれだけで良いのです。加えて、絵の具に彫刻刀、その他工具、牛乳やお酒のパック(広げてパレットとして使うらしいのです)など実行委員がリクエストし家にあれば持ってきます。我々はこの卒業制作自体を早く終わらせようと、アイデアをはじめ必要な道具はせっせと実行委員の元へと運びました。様々なものが、さらに量が集まればやれることが増えるというのは、ごくごく自然な流れです。原案は一度取り下げられ、あらゆる意見を取り入れるうちに規模は大きくなり、新たな構想から完成図までに丸一日を費やしました。
郷原は画用紙に描かれた妄想的で夢うつつな絵を眺め、この一年のうちで初めて不安そうに口元を歪めうんとうなってましたが何も言いませんでした。何人かは「無理だ」とはっきり言ってほしかったのでしょうが、皆驚くほどあきらめがよくなっていました。空元気ともつかない前向きな自暴自棄を続けてきたことに疲れたのです。でも放棄したわけではありませんでした。
ランドセルを下ろしてまで確認しましたがやはりチョコレートが入るようなスペースはありませんでした。私は足踏みをしながら辺りに目をやります。家が近いことにかまけて学校に着くころにはほぼ毎日登校時間直前であるため、長く悩んではいられませんでした。私は運動靴のその中にチョコレートを左右の足に均等に押し込みます。それをつま先から下駄箱に収納しました。周りの靴はこちらにかかとを向けていて、全体的に見ると規律に欠け不自然ではありますが、中身が目立たなければそれでよいのです。せっかくの贈り物を足に敷いてしまったようで私としてもいい思いはしませんでした。ところで誰が? と、一拍遅れて肝心な疑問にたどり着いたのはその罪悪感から逃避していた頃でした。
大休憩が始まると、我々は各々椅子を上げ、掃除の時間と同様に机を後ろに下げます。廊下では隣のクラスから飛び出してきた男子達がボールを抱えて、怒鳴る女子を振り切って走っていくところでした。二組では思うように統率がとれていないようです。流石は貴方の居るクラスですね。
そんな我々も他のクラスのことなど気にしていられないくらいに切羽詰まっていました。卒業制作の締め切りは近く、卒業式の練習も始まり、作業時間はぶつ切りにされ、集中力も長く持たなくなります。それらが相重なって教室は常に険悪なムードに包まれていました。それでも下駄箱にしかるべきものを入れて置くあたり、やはり女子の方が強く神経も太いのでしょうか。
我々一組の卒業制作は巨大な壁画でした。はじめは一枚板に書き込むという計画でしたが、そんな板を調達する宛も予算もなく、作業する空間もありませんでした。すると郷原はクラス一人一人が絵の一部分を担当すればよいと言い出します。全員で二十四人、一辺が五十センチの正方形の木の板を横に五枚、縦に五枚並べ最終的に一辺が二百五十センチの巨大な絵が出来上がります。郷原は黒板にチョークを打ち付けるようにして白い線を引き興奮した様子で話していました。
「下書きはやっさんだな」
「大丈夫、うちも手伝うから」
「どうせなら彫ろう!」
「ニスを塗ればそれっぽいかもね」
ぞくぞくと意見が出てきます。話しているのは女子ばかりでしたが、面白いのは男子も一生懸命にその話に耳を傾けていることでした。雰囲気にのまれているのでしょう、男が単純でよかったです。ところで我々は二十四人しか居ないのですが、あと一枚はどうするのでしょう?
「一枚は俺もやるぜっ」
郷原の豪快な声色に、クラスは大いに盛り上がりました。
そんな初めの頃の熱気も懐かしいものです。
床には広げられた牛乳パックが六つほどまばらに置かれ、それぞれ瓦ほどの大きさの分厚い板を抱えその周辺に座り込みます。即席パレットに数種類の絵の具を垂らし、皆で共有して使います。ほとんどの者が着色作業に移行していましたが、数人はまだ彫刻刀や紙やすりをいじっていました。数日前に体育館を借りて実際に組み立ててみたのです。下書きに沿って彫られたそれらを初めて合わせてみると、その迫力に驚きました。周りも無意識のうちに感嘆の声が漏れ、溜息が聞こえてきます。今まで自分たちが作っていたもの、それは所詮一部分ですから、下書きは目にしたものの何を作っているのか今までピンとこなかったのだと思います。
色は塗られておらず、板の肌色一面に細かな起伏があるだけで目を凝らさなければ何が描かれているのかわからないのですが、確かに全員で作り上げたものがそこにはありました。実行委員が音頭を取り、それぞれでつなぎ目が不自然になっている部分を探し、気になる部分は設計図に直接メモしていきます。板の後ろには担当者の名前が書いてあるので、取り間違うことも、修正作業から逃げることもできません。チェックが終わると、それぞれの板を取り教室に戻るのでした。
修正作業をくらった部分とその周辺部分は、次の作業であるやすり掛けに進むことができません。板と板の線と線とのずれを限りなく無くすまでは待つことになります。修正分は二枚と少なくて済みましたが、それらは四辺とも他の板と接していてかつ離れていて結果クラスの半分近くが足止めをくらうことになりました。
皆無言のうちに各々の作業を進めています。クラスの雰囲気は重いままです。着色もまた周囲のパネル担当者と細かく確認を取らなければ、他面へ続く同じ色があるのでムラがあれば塗りなおしです。時間がわずかしか残されていないことと、そしてこれが全体の終盤なために完成を間近にして焦りが生まれ、それがクラスに伝播しているのでした。この時間を楽しんでいるのは郷原くらいで進捗も一番、大人の余裕というやつでしょう。
そんな重苦しい空間を、大休憩の終了を伝えるチャイムと共に私は抜けださなければなりませんでした。皆土下座のような恰好で作業をしている中、私の挙動は目立ちます。郷原が一声かけてくれればいいものを子供のように自分のことに集中しているようでした。教室の戸はどんなに気を付けてもガラガラと音が立ちます。背中に不満や怒りを含んだ目線が刺さるのがわかりました。私は目を伏せていました。
これから体育館に向かうのです。卒業式のプログラムの段取りの確認、リハーサルでした。教員の間で私の評価がどうなされたかはわかりませんでしたが、児童会長を差し置いて、私が答辞をすることになったのです。その事実を自分で確かめる度に、今一度胸ポケットに忍ばせている幾度と折りたたまれ長細くなった用紙を制服の上からさすりました。
チャイムが鳴ってからゆっくりと来てくれればいいといわれていましたが、廊下からは他学年が黒板に向かっている姿が見えますし、罰が悪く早足になります。彼らに目撃されないように腰も気持ち低くしました。
三階廊下を突き当りまで一気に進み、懐かしい給食用エレベータを横目に見ながら階段を下ります。給食室出口の側に出ると、その入り口とは違う方向に進みます。体育館はその先、敷地の北東部から東にかけてありました。恐る恐る扉をスライドさせ、亀の挙動のように首だけを突っ込み、中の様子を伺いました。
まだ、誰も居ませんでした。
壇上に向かって前方に卒業生用の席が、少し間隔が空いて後方に在校生用にその何倍もの数の席が並べられており、そしてそのパイプ椅子の群れを縦に真っ二つに分ける赤いカーペットが敷かれていました。
館内は外と別種の静けさであり、私はその空間を支配したくて早くに扉を閉めてしまいました。今一度誰も居ないことを確認し、私は両手を天井に突き上げ、スーパーマンが飛ぶような姿勢をしてみました。普段なら感じる羞恥も、背徳感の前では存在感がありません。私は制限されていませんでした。他にもいつも次郎達としているゲームキャラクターの声やしぐさを真似て動いてみたり、一番楽しかったのは目の前に敵キャラクターが居るようにふるまってみることでした。想像した一体が攻撃を仕掛けてくる度に私は膝を曲げたりジャンプしたり、時にはカウンターのパンチを入れたりします。そうして相手を倒せば決めポーズ、一連の流れがとても気持ちがよく何度でもコンテニューしたくなりました。
独り占めしているこの空間の中でまだまだやってみたいこともありましたが、上方に設置してある大きなアナログ時計を見るにそろそろ先生方が来てもおかしくない頃です。テレビで見たブレイクなダンスはまた次の機会に取っておくことにして、私は並べられた椅子の一つに座りました。在校生用の一席でした。
鼻歌を漏らしていると、壁の向こうから履物が地面を擦る音が複数聞こえてきました。その音が止み、男女の話し声が扉の向こうで聞こえています。私が先ほど入ってきた扉が開き、まず男性の教員が見えました。後ろの女性教員を気にしているようで私には気づいていません。そういえば体育館の照明を入れていませんでした。点け方は知っていましたがそれよりも逸る気持ちがあったのです。
男性は女性の前に恭しく手を差し出し、女性は紳士な対応を受けたことがそんなに嬉しかったのか、その体をやたらと男性に密着させます。男性は離れるよう促しますがまんざらでもない様子です。はたから見て、二人の仲はとても学校という場にふさわしいものではありませんでした。
男性教員は「電気付けてきます」とさわやかに言うと、照明のスイッチがある舞台袖に向かいました。女性ははにかんで手なんか振っています。それから真顔になっておもむろに首をまわすと、やっと私を見つけたようでした。勢い余って二回転目に突入しかけた首は途端に逆に回転し、今度ははっきりと私を見ます。目は合いません。私はさっきから胸ポケットから取り出した折り目の付いた紙、答辞のセリフを確認していました。我ながら良く機転を利かせたと思います。
女性教員は一歩後ずさり、目をいっぱいに開き眉間に起伏の激しい山々を作りました。
信じられない、そう言いたげでした。まるで私が彼女らの秘密を盗み見たような雰囲気です。私はこの人たちの名前すら知りませんし、誰かに喋るつもりもありません。二人の秘密を私が見たのと同じく、私の奇行だって見られていたのですから。だから私さえ何も見なかったことにすれば、私も二人も許される、そう自分の中で完結させたのでした。
戻って来た男性もやっと私を発見すると困ったように笑顔をゆがませていましたが、女性とひそひそと何か話し、どうやら私が長く手元のものを眺めていたらしくことの始終の一部さえも目にしなかったらしいと解釈すると、「やあ、早いね」といきなりフレンドリーに話しかけて来ました。「はい」と私は短く切るように、しかし遠慮気味に返事をし、わざとらしくきょろきょろと辺りを見渡して見せました。
「もう始めますか」
「いや、あと一人送辞をする子が来るはず」
それを聞いて安心しました。二人はようやく職場環境に慣れてきた年であるらしく、そろそろ自由にふるまいたいようでした。しかし児童の手前、現在は事務的な会話をしています。
ほどなくして三度目の扉が開きました、送辞を担当する児童でしょう。私がしたように顔だけ覗かせていますが、隙間からは学校指定のジャケットが覗いています。女の子でした。
いえ、男の子でした、紺の半ズボンが見えます。
中性的で利発そうな顔立ち、頭髪はつややかでその下に膨らむ肌は白くここからでもきめ細かい様がうかがえます。今でもボーイッシュな女の子が男装しているように見えました。私ですら一瞬見とれたのですから、大人二人の衝撃もすさまじいものだったでしょう。美少年と呼んで差し支えない男の子を前に女性は両手で口を塞ぎ悲鳴を抑えていましたし、男性の方は少年を見る目が普通ではありませんでした。
私はこの少年に既視感を覚えました。醸し出される雰囲気は志帆に近く、四年前居なくなった町田玲に酷似していました。名札には「田中」とあります。彼女とは関係が無いようです。彼の印象が私に当時のことを思い出させたのでした、その懐かしさが既視感を呼んだのだと思います。時間の経過を感じました。我々のためにあつらえられたこの場に改めて実感させられます、私はもうすぐここを出ていくのです。
三十分程度でリハーサルは終わりました。内容は段取りの確認で私達は教員たちのナレーションに従って足を動かすばかり、せっかくセリフに目を通していたのですがそれは徒労に終わりました。通し練習は明日行われる予定のようです。実際に音読するとしたらその時でしょう。その折りたたまれた紙を握りしめ、逆「く」の字の階段を二文字分、太ももを酷使して上ります。たかが三十分でさえ、私は作業を放り出していたのですから。不安定になっているクラスの雰囲気を悪化させるわけにはいきません、たとえ卒業式の練習という大義名分があってもです。
私が教室に戻った時、階段を挟んだ先にある音楽室から体操服を着た女子児童が数人連れ立って出てくるところでした。クラスメイトでしたが私に目もくれずさっさと教室に戻ってしまいます。彼女らとは別の、後ろ口から遠慮気味に体を差し入れました。
床では制服を体操服に着替えた者達が作業を続けていました。戸惑い、状況を把握できずにいると、見かねた次郎がやってきました。彼も体操服に着替えています。「おつかれ」彼は小さな声で私をねぎらった後、「卒業式前に汚すなってさ」と私を指さし、自分の体操着をつまみました。
「わかった」
こちらも小さく返事をします。次郎はにかっと歯を見せると、元居たところに戻りました。私は教室後方に密集している机をかき分け、自分のロッカーにたどり着きます。途中、体と椅子の揚げられた机とがどうしても当たり、机の脚が床と擦れる音が静かな教室に響きます。その度に鳴る舌打ちや背に突き刺さる目線には長くさらされたくはありません。
体操服は使ったその日には洗濯し、翌日には学校に持っていきました。その日体育があるなしに関わらずです。沢山ある自由な時間に、いつ気まぐれ的に泥だらけになりそうな遊びが始まっても問題なく参加できるようにとの思惑があってのことでした。言わずもがな男子はともかく、理由は違えど女子などもほとんどこの方法を取っていたと思います。それが思わぬところで役に立ったわけなのですね。音楽室は今女子が更衣室として使っているのでしょう。周囲では四本足を天井に向けている椅子が私を囲んでいますから、体操着をかぶり、頭や両の手は出口を探して暴れ、勢い余り肘がそれらに当たってしまいます。邪魔になるといけないので脱いだ制服は一緒くたに体操袋に入れ、余ったものはロッカーの隙間に詰めました。
掃除と帰りの会を終わらせ後は下校するのみ、放課後も残って作業する者達は居ましたが、郷原は任意だと言い、女子達に強制されることはありませんでした。ほとんどの者は下校しましたが、実行委員の女子と彼女と噂になっている男子、その取り巻きが今も床に向かっています。空は既に橙色に染まり、その波長の長い光が窓から教室に忍び込んできていました。
「可哀そうになぁ」
次郎がその男子に向かって冗談交じりにつぶやきます。
「まんざらでもなさそうだけど」
「言えてるな」
彼はくくっと笑います。
そして急に真面目な表情になって「あいつら、付き合ってんのかな」と、こましゃくれた物言いをしました。
「付き合ってるのかな」
私も同じように返します。しかし、あまりにも大人びた会話に、二人は恥ずかしくなってお互いにそっぽを向きました。『好き』という言葉と、『告白』という言葉の意味は思い浮かべただけでのぼせてしまうくらいにわかっていました。しかしその先の『付き合う』となると、それが何を表すものなのかわからないですし、それに小学生が使うにしてはどこか背伸びしているように感じられ、口にするのも気恥ずかしくありました。要するに、それはただの憧れの状態だったのです。私たちはまだお子様でした。
「きっとまだ、もらうもんもらって無いんだぜ」
「…なるほどね」
今朝のことを思い出して返事をしました。
「ジロちゃんはどうなの?」
「はっ」
次郎は一笑すると手のひらをだらりと開き、お化けのジェスチャーをするように両手を振って見せました。私は意外に思い「本当?」とぼんやり言います。妹の面倒を見ているからなのか、彼は女子の扱いが上手いように普段見ていて感じていたのですが。
「どーもどーも」
褒めてくれてありがとうと、にかっと笑います。それから「しかし殺伐としてたよな」と昼の教室の話をし始めました。
あれ、と、てっきり私にもその話題を振ってくるものだと思っていたので拍子抜けしてしまいました。初めてああいったものをもらったので自慢してやろう思っていましたし、彼がもらっていないというのも比較になって結果が際立つと楽しみにしていましたのに。それからすっかり打ち明けるタイミングを逃してしまいました。
「もう最後なのにさぁ…」と次郎はつぶやきました。もの言いたげな目で睨まれ、たまらずなんだよ、と返します。
「別に、卒連とかでユウちゃんたまにいなくなるよなって、思っただけ」
「それは仕方ないじゃん」
「なにぃ、オレたちの友情よりも大事なのかよっ」
「なんだそれ」
私の小気味良い突っ込みで、二人は堰を切ったようにぎゃははと大笑いしました。いつもと変わらず接しているつもりなのでしょうが、何だかんだ次郎は寂しいのでしょう。毎日クラスで顔を合わせていて、放課後すらも一緒に居るのにも関わらず何故そんなに弱弱しくなってしまうのか不思議でした。
後から内容すら思い出せないような他愛もない話をしながら階段を下ります。最後の斜め一直線に差し掛かったところで、玄関前に志帆と樹が立っているのが見えました。普段ならまだにこにこ教室に居るはずですし、私たちもこれから二人を迎えに行こうとしていたのです。
手前に志帆、その後ろにつまらなさそうにふくれている樹が見えました。どうやら彼女に無理やり連れられてきたようで、まだ教室で遊びたかったようでした。
「おい、お前ら!」
次郎の呼びかけに樹が素早く反応し満面の笑みを作ると次にはもう自分が不機嫌だったことすら忘れていました。反対に志帆ときたら私達の方に顔は向けるものの、首が上がりきっておらず目が合いません。どこか元気が無いように思えました。樹を引っ張って既にこの場に居る積極さがそれと矛盾していましたが、何故と考えることはしませんでした。兎に角は、志帆を笑わせてやりたかったのです。
「見てな」
私は三人を手招きし勿体付けるように言いました。下駄箱から自分の運動靴を取り出し、下から鷲掴むように両手に持って慎重に彼女らの前まで運びます。次郎は「なんだなんだ」と盛り上げてくれました。弟もにこにこしています。志帆だけがまだ不安そうでした。
私は言いました。
種も仕掛けもありません。
満を持して、手首をひねり、逆さになる運動靴。
その口からあふれ出るチョコレート。
靴の中身が空だと思い込んでいた人間には今まさにチョコレートが生成されているように見える、という仕掛け。
ビニール製の包装が無限に落下する。
地面と当たると、ぐしゃり、無様に軽い音を立てた。
それがいくつも、いつまでも続く。
弟は面白がって無邪気に笑った。
ただそれだけの出来事でした。
本日も四人で下校するものと思っていたのですが、家の都合だとかで次郎達は今日はこのまま帰るらしく、何やら落ち着かない様子でさっさと南門に向かってしまったのです。離れていくにつれ、二人の背中は縮んでゆきました。
「明日もあるから」
私は不満そうに再びふくれる樹の頭に手をやり慰めてやります。我々は西門から学校を出ました。家までの道のりが、何だか遠かったです。
冬の短い日が沈む頃、窓から見える西の空の光が糸のように細くなり擦り切れてしまう時、はたと何か思いつき、ハンガーにかけた制服のジャケットを壁から引きはがし、床に叩きつけました。穴を掘るようにすべてのポケットをまさぐります。そして血の気が引いていきました。答辞の用紙がありません。あの丁寧に折り目の付けられている紙でした、明日の全体練習で使うのです。どこかに置いてきてしまったのでしょうか、私は今日の出来事を必死に思い出そうと自分の頭をこつこつと叩きます。その威力は無意識のうちに強くなっていきました。ランドセルもひっくり返しましたが見当たらず、教科書や大量のチョコレートで部屋が散らかるだけです。再び頭を殴っていると、ようやく体操袋が無いことに気が付きました。使ったら持って帰るようにしていたのですが、外遊び以外の用途で使用した場合はその限りではありませんでした。昼の作業では絵の具こそ気づかないうちに飛び散ったかもしれんせんが、この季節に汗などはかくはずもありません。制服に着替える際に脱いでそのままたたみ、袋にしまったのでした。その時の自分のロッカーの様子を思い出します。私の予想が正しければ、紙はそこにあるでしょう。でももし無かったら、何かの拍子にロッカーから零れ落ち、掃除当番に捨てられてしまっていたとしたら。考えたくないことばかりが浮かびます。私は答辞という大役を任されている身でして、その大事な紙を失くしてしまったとしたら明日は大恥をかいてしまうでしょう。後輩たちへの示しもつかず、皆に呆れられてしまいます。せっかく私を選任してくれた郷原にも愛想をつかされてしまうでしょう。怒鳴られる方がまだましと思えます。
窓の向こうは既に夜であり、寒さは一層増しているようでした。私は短い決意を済ませ、押し入れを勢いよく開けました。ふすまはよく滑り、木枠に当たってスパンと気持ちの良い音を鳴らします。ガラクタの山をかき回していると五年生の時家庭科で制作したナップサックが出てきました。「これでいいか」独り言を漏らし、空中ではたいてほこりを飛ばします。再びガラクタの山に両手を差し込みました。懐中電灯、腕時計(通信教材の付録で側面のボタンを押すと文字盤が光ります)、修学旅行で買った木刀、双眼鏡など使えそうなものは片端からナップサックに詰めました。本当に使用するかどうかはわかりません。必要だと思うから持っていくのです。
樹は自分の勉強机の前に立ちつくしたまま、不思議そうに私の奇行を眺めていました。私がパンパンに膨らんだナップサックについでにとチョコレートを食べさせていると、彼はたまらず「にいちゃん、なにしてんの」と聞いてきました。私はしばらく言葉に悩んで「登校かな」と言ってやりました。夜闇に向かう前の、ほとんど空元気で発したことでした。樹はそれを聞くと一度その言葉を咀嚼し、意味がわかると目を輝かせ、私に付いて行きたがりました。
「だめだ」
私ははっきりと言いました。樹は「いやだ」と駄々をこね、奇声を上げます。
「これ全部やるから」
私は床に散らばった残りのチョコレートをかき集め、弟に押し付けました。
「な、これで」
「…いやだよう、にいちゃんいいでしょう、オレも連れてってよう」
「ああ、もう」
言うことを聞いてくれないことに苛立ち、押しのけるように部屋を出ると二階にある小さな冷蔵庫を開きました。奥から生み出てくる冷気に当てられ、室内とはいえ冬の冷たい空気と相俟って私の体温が奪われます。大量に買い込まれている、まるで群生しているように茂っている缶の林をかき分けて、腹に溜まりそうなものを探します。やがて魚肉ソーセージ三本入りの長細い赤色のビニール製の袋を見つけました。その表面に描かれている白い四角を背景に簡素な黒文字が賞味期限を二日過ぎていることを伝えていました。私はそれを弟に差し出します。
「ほら、これ食べて待ってるんだ」
「…」
「大した用事じゃないから、すぐに戻ってくる」
樹は何も答えませんでしたが、もうついてこようとはしませんでした。私は、弟がわかってくれたものとして、ジャケットを羽織り、重いナップサックを背負い部屋を出ます。「すぐに戻ってくるから」と像のように佇む樹に向かってもう一度そう投げかけます。
私はもう振り返ることはせず、真っ暗のリビングを横切りました。そこでは母が眠っています。階段を降り、玄関から外の世界に飛び出すと、不思議と胸躍りました。
夜の闇が冷たい手で、隠しきれなかった露出した肌をさすります。長ズボンでも履いてくればよかったのですが。私は頻りに制服の半ズボンの裾を引っ張ります。ぶるりと寒さに震える度にナップサックを背負いなおすため飛び跳ねました。その際、ナップサックに完璧に入りきらず飛び出している木刀の柄頭が後頭部を掠め、たまに直撃しました。天井の空はまだ完全な黒ではなく、懐中電灯を使うまでもありませんし、若く健康な目には周囲一メートルほどは難なく見渡せました。ですからあぜ道を歩いていて誤って田んぼに足を踏み入れてしまうことはありません。それに今の時期は夏から秋にかけてのあのどろどろとは違い、ひび割れするほどに土は乾いてしまっているため、落ちたところで衣服を汚してしまうことはなく、せいぜい靴の底に粘土がこびりつくくらいでしょう。
私は昼に体育館を支配した時にやっていたように、隣に背の高いキャラクターを召喚しました。日の短い冬の、歳月が過ぎるように早く深まりそうな闇が私にはやはり怖く、共に行く連れが必要だったのです。私が召喚したそれは無駄口を叩かず縦横無尽に空中を跳ねまわり、忍び寄る夜の手を払うのでした。
学校はその輪郭を曖昧にして静かに佇んでいました。あるいは巨人が眠っているようにも感じられました。朝登校するように西門から侵入しようとしたのですが、そこは既に鉄柵で閉じられています。懐中電灯を取り出し、手元を明るくします。ライトで門付近を照らすと、錠が下ろされ鍵も丁寧にかけられていることが確認でき、どうやっても開けられないことが理解できました。なるべく目立たないように一度ライトを消し、暗闇の中で作戦を考えます。いつの間にか手の形すらも見てわからなくなるほどに夜は進んでいて、体ごと闇と同化しているような錯覚を覚えました。今の私はこの世で最も小さい闇粒の群れである、そう思うと恐怖も少しは和らいだのでした。
この暗さですから懐中電灯の明かり無しでは安全に歩行することさえままなりません。校舎の隙間からかろうじて光が確認できることから、おそらくまだ残っている教員が居るのでしょう。北の職員専用の駐車場から入って行っては鉢合わせをする恐れがあります。東門はここと同じ規模のものなので既にしまっていると見てよいでしょう。大きく校舎から遠い南門でしたら、まだ空いているはずです。
懐中電灯で足元を照らし学校の敷地の輪郭に沿って歩きます。街灯などはありません。
光は地面に垂直に向けます。地面から反射した薄い光の中、さらに目を凝らし、危険を回避して足を前に進めます。先程まで隣を歩いていた長身のキャラクターの存在が不鮮明になりつつありました。私はそのイメージが保てなくなります。
南門の側で辺りを伺い、そしてくぐると、私は孤独になりました。
遠くの校舎にはやはり明かりのついている場所がありました。一階中央のあの位置は職員室です。ここからはライトを切らなければなりません。私はナップサックを手前に下ろし、懐中電灯を放り込もうと口を開けました。スペースの大部分を占拠する木刀がその動きをスムーズにさせてくれません。来るときにも感じていましたが、こんなもの持って来る必要はなかったでしょうか。おもむろに後頭部を押さえました。
幸い、グラウンドにはこれといった障害物はあるはずもなく、それこそ目をつぶってていても(今の状況が正にそうでした)校舎にたどり着くことができるでしょう。六年も見てきて、実際に走り回っていたのですから当然といえば、当然のことです。いつだったかパトカーがここを通っていたことを思い出しました。
私は高学年用の下駄箱を目指し、北西方向へグラウンドを横切ります。明るい場所にいる教員の目から暗闇に紛れる私が確認しにくいことは理科で習った通りでしたが、無意識に中腰の姿勢を作りました。なんだかチョウチンアンコウにでもなった気分です。唇を開閉させ、ぱくぱくと鳴らしてみます。きっと海底はこんな感じなのでしょう。砂粒を静かに巻き上げ、海の底を這うように泳ぎます。そのように、この状況を愉快に思いふるまえるのは、校舎内と違ってここが開けた場所であること、尚且つ外につながる門は開いていて、つまりはまだ逃げ道があるからでした。
校舎は巨大な生物のような姿で、体に闇をまとい、そのせいで輪郭が曖昧なのをいいことに膨張と収縮を繰り返して、まるで息をしていました。きゅる、きゅるり、そう耳鳴りがします。
私は依然として辺りに注意を払いながら前進し、本校舎とにこにこ教室とをつなぐ渡り廊下に差し掛かりました。玄関は大きく口を開けていて、誘われ、食べられます。外気とはある程度遮断されていて、ごく微量ではあるが熱がこもっているのか、この空間は生温かくありました。
下駄箱には私以外の靴が一足もありませんでした。いつもと違う光景を不気味に思い、「いつもどおり、いつもどおり」と念仏のようなものを唱えながら生真面目にシューズに履き替えます。それからほとんど呼吸を止めて階段を上りはじめるのでした。
まずかかとから地面につけ、空気が入らないよう丁寧にシールを張るように最後につま先を付けるのです。そうすれば全くといっていいほど足音は立ちませんでした。三階まで合わせて六十とある階段一段一段をそのような上り方をしていれば時間もかかりますが、今最優先にすべきは見つからないことです。
普段の何倍もの時間をかけて三階の廊下に出ました。右手には音楽室が見えます。ピアノの音なんかは聞こえません、これには少しほっとしました。そのようなもはや定番化された七不思議を怖がる歳でもないのですが。左に折れると、長く廊下が続いているのがわかりますが、暗いせいで突き当りまでは見えません。そこまで見渡せずとも、我々が普段使っている教室はすぐ隣にありました。扉に手をかけ、力を入れます。不用心にも鍵はかかっておりませんでした。私は未だライトは付けず、記憶を頼りに教室内を移動しました。時折、机の脚を蹴ります。周りが静かだからなのか、その音は私の耳に大きく鳴り、この空間に反響します。その度に立ち止まり、呼吸と心拍を整えるのでした。
両の腕を虫の触覚のように伸ばし、ゆっくりと空気をかき回すように進行方向に動かし、障害物に触れると迂回しました。そうやってじぐざぐに、行き止まりまで進みます。そこは教室の一番後ろ、目的のロッカー。実は、後ろの扉から入った方が障害物に当たって余計な音を立てることも無く、リスクも最小限だったと思いついたのはこの時でした。
確かこの辺りだったと自分のロッカーに適当に当たりをつけます。その正方形のスペースは小さく、奥行きも大してありません。私の上半身が入りきらない程度の規模のものでした。低学年で、比較的体の小さい女の子ならばもしかすればかくれんぼが楽しめるのかもしれません。かくれんぼ。そこまで考えて、当初の目的の遂行とは別に見回りの人から身を隠すことを念頭に置くことにしました。ここまで上がってくることは無いように思えますが万が一に備え、意識くらいはしておくことにします。
勘で探っていたロッカーは空でした。気持ちがいいほど何もなく、細かい埃が手のひらに付くくらいでした。他の箇所も似たようなもので、繰り返すと手の皴にほこりが溜まるばかりです。一度、何かがちくりと私の小指付け根付近を刺しました。木製のロッカーですからささくれている部分もあります。血も出ないほどの衝撃でしたが、私はそれ以上手を伸ばすのが途端に怖くなりました。
懐中電灯を取り出し、つけます、
すぐに消します。
そうやってスイッチを絶えずはじきながら、モールス信号のように光を点滅させました。長い時間光が教室から漏れないことだけを考えて、一瞬しか照らされない光の中に目を凝らします。挙句には出席番号の一番から、つまりは端から端まで全てのロッカーに懐中電灯を向けたのです。
しかしどこにもありません、何一つ。
ロッカーの一つ一つは洞穴のようで、よく見れば奥行きがありました。その最深部は、落ちる陽が作る影のようにいつの間にか深くなっているようです。私の大事な答辞の紙は吸い込まれてしまったのでしょうか、何かが餌だと勘違いして持って潜ってしまった、穴の奥に。
今更、中に手を入れまさぐったことを恐ろしく感じ始めていました。
懐中電灯は床に自由落下します。見ると、手のひらは闇と同化し、輪郭が曖昧になっています。グー、パー、グー、パー。勢いよく指を広げ縮めると、細い指に空気の抵抗を感じました。私の両腕はちゃんと存在しているようです。
虫の巣のように密集しているロッカーの奥から、この暗さとは正反対に白く発光し、つややかで表面が粘膜で覆われている、ムカデのように足が幾つもあって、苺に埋め込まれている種のように目が幾つもある、そんな生き物が何十匹と這い出てくる。今にもその光景が見える気がして、耳を押さえ、偶然に頬を掠めた爪が深く皮膚をえぐった。全て私の妄想でした。
私はその場から逃げ出し、教室後ろの扉を勢いよく開けました。なめらかに滑る扉は反対側の戸枠に打ち付けられ低く音を立てました。
外は依然として闇であり、空一面を覆う黒い雲が余計な音や光を吸い取っていました。ここはまるで静寂、夜にふさわしいほどに。
身を乗り出すとグラウンドが見渡せます。校舎に入る際に通った場所を上から目でなぞりました。そのつい過去の自分は小さく、きょろきょろと辺りを気にして頭を回し地底魚のように動く様子が可愛らしいく、その時の感情が蘇ります。まるで闇と同化するように、擬態するように、夜を構成する要素の一つになる。何にも見つからないように。そうふるまい、息すら止めると、私は落ち着きました。
「もう帰ろう」
グラウンドを見下ろしたまま、何を見つめるでもなくそう独り言ちました。何だかどうでもよくなったのです。手すりから身を引き、廊下に足を付けました。固いコンクリートの感触がシューズの裏から伝わります。私は教室に戻り床に投げ捨てられた懐中電灯を拾い上げました。スイッチをはじくと、一秒ほど遅れて光が灯りました。胸辺りのまあまあの高さから落としてしまったのですが、故障したわけでは無いようでした。破損した箇所も無いようです。
先程の恐怖は何処へやら、私は懐中電灯を点けたまま教室を出ました。惜しげもなく辺りを照らし、確かな足取りで階段を踏みしめます。行きと違って下りは危ないですから、足元がよく見えて安心しました。そうやって、私は下を目指したのです。下へ向かえば地上に出るのが道理ですから。
兎に角下へ、底に近づくにつれ小さく笑い声が聞こえてきました。
9
「あら、珍しいわね」
うふふっ。
そう微笑んで、木刀を構えた私に貴方は穏やかに言いました。上品に口に手をやって笑顔のために歪んだ口元を隠していました。私に関心があるのかと思いきや、しかし一度まばたきをした後には周囲に同じような表情を向ける貴方の姿がありました。それはとても懐かしい光景でした。
「ねえそれ」と私が握っている木刀を指さして貴方は言います。怖がっているわ、と。それは下駄箱にかけての階段の踊り場に差し掛かった時、不気味に地べたに座り込む女の子に向かって構えたものでした。結局懐中電灯は途中で消えてしまったのですが、貴方はこの暗さにも関わらず嫌にはっきりとした輪郭を持っていました。だからその後姿を確認することができて、私はナップサックから木刀を引き抜いたのです。何より目の前に居るものが人間であるとは思えませんでした。その月のように白く、暗闇でぼわりと行燈に似た雰囲気の淡く灯るような肌にこの世非ざる美しさを感じ、目の当たりにして目が眩みました。電灯に誘われる夜の虫のように、本能の赴くまま貴方につられたいのですが、それは麻薬に似た恐ろしさを孕んでいて、私は心地良いものから逃げるのでした。上履きを履き替えることも忘れ、シューズのまま玄関を出て大地を踏もうとしたのです。
「だめよ」
突然、貴方はぴしゃりと言い放ちました。しかし私の方を見るでもなく、余所見をしています。
「溺れてしまうわ」
また、余所見をして言いました。誰に話しかけているのかわかりません。私は内と外の境界で立ちつくしてしまいました。
「あなた、泳ぐの上手?」
「…普通かな」
「そう、羨ましいわ」
溜息をつくと「ねぇ、こっちに来ない」と、まるで遠足で自分のシートに誘うかのように隣のスペースを手のひらでたんったんっ、と叩きました。まるで演奏しているように小気味良く、です。どうしようもなく、ひとまずは従うことにしました。無言のうちに隣に腰を下ろします。畏怖や恐怖、怖気、あるいは遠慮。あるいは、飲み干したばかりの水筒のその内側にそれでもへばりついている水気程度のほんの少しの気恥ずかしさ、その分だけ二人の間に距離ができます。
「うふふっ」
貴方は嬉しそうに声を漏らし、お尻を浮かせるとその距離を零にしました。三角座りをしている貴方の低い座高、右肩の頂点が私の左側の二の腕を小突きます。貴方にどこまで気を許すべきか迷い、まさに吊り橋を渡っているかのようで、心臓が大きく鳴り、鼓膜が外側に膨らみました。
「大好きなのよ」
何処からかぷしゅりと空気の抜けるような音がします。おそらくは私の耳からでした。瞬時に再生する鼓膜が「プールのことよ」と空気の振動に合わせて震えます。こちらの気も知らず、私をからかえて嬉しいのか手を口元に持ってゆき肩を小刻みに揺らしていました。それを隣でやられて、ようやく体から硬さがとれてきました。彼女の全身を眺める余裕も生まれます。制服を着ていました、それもこの時期に半袖です。ご丁寧に名札まで付けられています。その格好で膝を抱えて座っていました。
「難しいのよ」
「…泳ぐのが」
「そう、よく真似をするの」
「誰の真似」
「誰って、皆のに決まってるじゃない」
貴方は口元に手をやって「ふふっ」と笑いました。おかしなことを聞くね、というふうに。
「好きなものが苦手ってつらいわね」
消極的なことを言う割にはうきうきとしています。まるでこの時間が、ひいては私との会話を楽しんでいるようにも感じられました。日頃次郎達と過ごすようにリラックスできている自分が何処かに居ます。「それってうれしいわ」彼女は言います。汎用的で心を読まれたように聞こえるセリフ、いつだって貴方は何を考えているのかわかりません。
「そうでしょう、忘れられないもの」
「そうだね」
ちぐはぐな話にまともについていけるはずもなく、相槌を返すだけで精一杯でした。隙を見てこっそりと尻を動かし離れてみます。彼女は自分が喋ることに夢中な様子を見せながらも、まめに距離を詰めてきました。
「ねぇ、ところでその袋には何が入っているのかしら」
貴方は変わらず余所見をしていましたが、私が背負っているものに興味を持っているようでした。
「これ?」私は首をじゃばらのように伸ばしナップサックに目をやります。
「それよ」
「別に大したものは入ってないんだ」
「それはわかっているわ、ところで何が入っているの?」
私は「だから」と喉まで出かかった言葉を飲み込み、諦めて小さな溜息と共に教えてやりました。
「さっきの木刀、腕時計、双眼鏡、裁縫道具…」
彼女は一つ一つに「うん、うん」と相槌を打ってくれています。
「ラジオ」
「うん」
「方位磁石」
「うん」
「…」
「…」
「…チョコレートと、それからちょうこく」
「それだわ!」
脳みそを焼く思いで懸命に羅列している途中だというのに、お構いなしに貴方は叫びました。
「それ、くれないかしら」
「チョコレート? いいよ」
私はナップサックを背中から腹の前に移動させ、その口を開きました。結局は役に立たなかった木刀を邪魔に思いながら、中身をかき回します。目当てのものは底の方に固まっていました。手のひらをめいいっぱい開き掴むと、くしゃりとビニールが擦れる音をがして四個ほどそこに収まりました。腕を引き抜く過程で一つが指の隙間からこぼれて、再び底に転がってゆきます。
「全部あげるよ」
私はそう遠くない彼女の顔の前に所望されたものを差し出しました。
「ありがとう」
貴方はちゃんとお礼を言う人でした。二袋ほどつまみ取ります。
「食べましょう」
そう提案するとビニールを破り、もう一つも同じように包装を解きました。
「あげるって言ったのに」
「えぇ、だから貰ったわ」
「そうじゃなくて、そんなにお腹が減っていたならもっとあげるよ」
「もう貰ったもの」
「なら一つずつ剥けばいいじゃないか」
「どうして?」
手の汚れないように、小さな包装紙から器用にチョコレートをのぞかせ、それを両の手に持っています。まず右手のものをひと齧りし「おいしい」、続いて左手のものも同じだけ齧って「こっちも」、そう感想を言います。
その後はにこやかにしているばかりでそれ以上は手を付けることは無く、時折「うふふっ」と声を漏らしていました。噛み合わないやり取りでしたが私は苛立つ気すら起こらず、自分の分を剥き、中身を口に投げ入れました。幼稚な甘さでしたが久しぶりの味わいに頬っぺたの内側が少しだけつうんと痛くなりました。親指の腹でその部分を外側から押さえつつ「何で僕がチョコレートを持ってるってわかったの」と意を決して話しかけました。
「教えてくれたじゃない」
「教えてないよ」
私は語尾を強めて言います。貴方は困り顔ひとつせず、明後日の方向を見つめたまま「じゃあこれは何?」と、未だ食い切らずにいる両手に持った半分ずつ齧られたチョコレートを軽く持ち上げました。
「たった今出してくれたじゃない」
「それは、」
「これは何?」
「それは、お菓子だけど」
「ほら、そんなふうに」
また嬉しそうに笑って「教えてくれた」と言いました。私にはその表情をただ一度も向けてくれたことはありません。いつでも虚空に向かってにこやかに笑いかけるのでした。
「寒いわね」
貴方はうっとりして言いました。
「死って美しいわ」
貴方は同じ顔のまま言いました。強力な磁石に引き付けられたかのように私の首はぐりんと回転し、その目には貴方の横顔が移ります。白い肌はうっすらと赤みがかって虚空を前に照れているような、まるで意中の人が目の前に現れたような反応で、目を細め、唇を震わせ、欲しがりな雌の顔をしていました。彼女の匂いが変わります。汗を掻きだしたのか、半袖の中の脇から汗の運ぶ控えめに甘い香りが鼻腔に澄み渡り、くらり、と意識が失われるようでした。周りの寒さも手伝って冷静を取り戻すことができたのも早く、しかし冷たい血が脳に通うつれ今度は股間の辺りがくすぐったく、むずがゆく、痛く、切ない。催していた、尿意ではない。
「死にたいの?」
息を整えて言う。声が震えていた。
「どうして?」
「君が言った」
「言ってないわ」
「言ったんだよ」
「私が死にたいだなんて言うはずがないじゃない」
「死が美しいって」
「それは言ったわね」
「ほら」
「どうして?」
「死にたいって言ってる、誰だってそう連想するよ」
「どうして?」
貴方は無邪気にきょとんと口を半開き、何か思いついたようにぽんと右手のグーを左手のパーに打ち付け、嬉しそうに言いました。
「怖いのね」
ピーマンが嫌いなのね。
逆上がりができないのね。
算数が苦手なのね。
誰々ちゃんが好きなのね。
したり顔で、そんなふうに、日常の会話と同じ温度で言います。秘密を暴いてやったぞというふうに、隣の貴方はきゃっきゃと勝手に盛り上がっていました。
私は怒って、今にも彼女の正面に周り、肩を掴み押し倒してやろうと考えていました。そして言うのです、ざまあみろ、と。私をからかった罰であると。そうやってどさくさに紛れて、体に覆いかぶさりたい。
いざ、いざ。
いざ、と号令をかけるも私の体は微動だにしません。それでも動けるようにと、頭の中でひどく残忍なことを考え体を温めるも、冬の空気がたちまち体を冷やしてしまいました。熱が無ければそもそも四肢が動きません。脳だけが冴えるのです。冷えた脳は唇を動かし、肺を縮めました。
「怖くないの?」
「どうして?」
余所見をされながらのその返答にまた振り出しに戻ったかと思われました。しかし、貴方は新しく言葉をつなげてくれたのです。
「ジェットコースターに乗ったことあるかしら?」
「…あるよ」
相変わらずの話の飛びようでしたが折角出来たチャンスを無駄にはしまいと、なるべく素早く答えました。
「私は無いの」
「嫌いなの?」
「わからないわ」
「遊園地に行ったことは」
「何度かあるわ」
「何に乗る」
「観覧車、たまにメリーゴーランド」
「何故、ジェットコースターに乗らないの」
「それは」
貴方は言い淀みました。
「怖いからよ」
照れ隠すようにはにかみました。
「乗らないわ、見ているだけ」
「見ているだけで満足なの」
「見ているだけで満足よ」
貴方は膝を抱えなおしました、まるで寒がるように。手にしていたチョコレートは私が余所見をしていた時に食べきってしまったのか、床に包装紙が二つ力なく横たわっていました。
「観覧車から見るの」
思い出し笑いを周囲に投げかけています。私は想像しました。乗客を乗せたジェットコースターが猛スピードでくねくねと曲がりながら走る様子、レールが敷かれているためこの先どんな動きをするのか読めてしまいますがそれを俯瞰できるのは楽しいでしょう。こうして思い描くだけでも自然と頬が緩むものでした。
「違うわ」
貴方は表情を変えずに言います。
「観覧車は嫌い?」
「嫌いよ」
「そうなの」
私は違う聞き方をします。
「観覧車は楽しい?」
「たまに楽しいわ」
「それはどんな」
「やっぱり頂上かしら」
「何が見えるの」
「とてもレアなの」
言って、膝を抱える腕の力を強めます。「何だか今日は疲れるわ」貴方はほうっと息を吐き出しました。体外に放出された空気はたちまち白く染まります。面白がって何度も吐いていました。正面に、左に、左上に、天井に。
「死って美しいわ」
また、同じことを言います。
「だって、無駄がないもの」
今度はそう付け加えました。
「安心がない。
「不安がない。
「感謝がない。
「興奮がない。
「冷静がない。
「焦りがない。
「不思議がない。
「幸福がない。
「不幸がない。
「緊張がない。
「責任がない。
「憧憬がない。
「意欲がない。
「恐怖がない。
「勇気がない。
「快感がない。
「後悔がない。
「満足がない。
「不満がない。
「無念がない。
「嫌悪がない。
「恥がない。
「軽蔑がない。
「嫉妬がない。
「罪悪感がない。
「殺意がない。
「期待がない。
「優越感がない。
「劣等感がない。
「怨みがない。
「孤独がない。
「苦しみがない。
「悲しみがない。
「悩みがない。
「諦めがない。
「絶望がない。
「救いがない。
「増悪がない。
「愛しさがない。
「空虚がない。
うきうきしながら貴方は言った。私は意識を持っていかれないようにその催眠術じみた言葉の羅列を聞いていた。
「みんな時間を稼いでいるんだわ」
それって無駄なことよ、貴方は興奮して言った。
「今もそうね、結局みんな怖いのよ」
「君は」
「もちろん怖いわ」
いつもの通り、余所見をしながら言う。
「わくわくするわね」
貴方はにかっと、闇に似つかわしくない眩しい笑みを虚空に見せます。その顔が私に向けられることはとうとうありませんでした。「そろそろかしら」貴方は言います。
「お別れよ」
貴方は立ち上がると階段の先、一階と二階の間の踊り場を見つめました。
「息を吸うことを止めれば誰だってきれいになれるわ。だから吐くことを止めないで、要らないものは体の外に出すの、吸った分だけ吐き出すの。生きている間は仕方がないわ、でも最後には必ず吐くのよ」
彼女の餞別ともつかない助言を聞きながら私は立ち上がりました。うん、と頷き闇に濡れた階段を一段ずつ力強く踏みしめます。
「約束よ」
最後に聞いた貴方の声は、可愛らしい女の子の声。
私は後ろ髪を引かれる思いで、踊り場で一度振り返りました。
貴方は未だそこに居たが、既に私に興味を失って余所見をしていた。その顔は真顔だった、怒っているようにも見えた。そこには皴ひとつ浮かんでいない。初めて見る表情だった。貴方らしくない、しかしそれも貴方である。もうすぐ失われてしまうであろう、本当の貴方のその一部。
その表情のまま、玄関より向こうに広がる闇をきっ、と睨んでいた。
だめよ、と。
懐中電灯が再び明かりを灯したのは丁度三階に差し掛かった時でした。貴方を失ったためか再びこの闇に恐怖し、えいやっ! とほとんど祈るような気持ちで懐中電灯のスイッチをはじいたのです。ほぼ同時に飛び出した光は夜をかき分けて前進し私のために道を作ります。それに従って今度は後ろから教室に侵入しました。
後ろの壁にはロッカーが何十と張り付いています。私は一度足を止め、体をさすりました。そうやってロッカーに懐中電灯を向ける勇気が湧くまでの時間稼ぎをしていると、床に黒い点を発見したのです。点といっても人の頭をほどの大きさがありました。暗がりに目が慣れてきたことともあり、その床と比べると一段と濃い黒に気づくことができたのでした。私はその場で右足を軽く上げます。もしもそれがこちらに這い寄ってきても問題なく踏みつぶせるようにです。私は勢いよく光をそれに当てました。結果は「なんだ」と間抜けな声が漏れてしまうほどにありふれたものでした。
サンリオのキャラクターがプリントされた体操袋でした。拾い上げ、見ると『迎町玲子』と白い長四角の背景にマジックで書かれています。同じクラスの女子ものでした。先ほど股間に感じた違和感が舞い戻ってきました。しかし上手く発散する方法を知らない私は、これを持ち主のロッカーに戻すより他にできることは無いのでした。そうやって自然に密集するロッカーに光を当てたのです。数秒後に自分がしたことに気が付いてびくっと体を揺らし後ずさります。兎に角は、結果オーライとして、体操袋に記された名前に対応する箇所を探していました。隅々まで懐中電灯で照らしてみると他にも床に落ちている体操袋やカラフルに彩られた牛乳パックなどが幾つかあり、ロッカーが舌をチロリと出しているようにも見える格好で何やら小物がはみ出していたりと、辺りはずいぶん散らかっている様子でした。まるで己の醜態が恥ずかしいというように私はそれらを片付け始めました。そうはいっても手元には今にも壊れそうな懐中電灯があるだけで満足に整理することなど出来ません。散乱しているものを近くのロッカーに押し込むだけで精一杯で、またあまり力を入れすぎてしまうとこの極端に狭いスペースの背面が突き抜けてしまいそうで冷や冷やしました。皆いちいち持ち帰るのが面倒くさいのでしょう。
私は自分のロッカー付近を照らしました。持っていた可愛らしい体操袋をその右隣に投げ入れます。ついでに自分のロッカーも整理しておくことにしました。飛び出している牛乳パックなどを押し込み、そうだっ、と手をぱちんと叩いてナップサックを開きました。彫刻刀の入ったケースを取り出します。どうせ明日も使うのですから今置いておけば翌朝のランドセルが少しは軽くなるでしょう。私はジグソーパズルでもするように、ロッカーの中のものを引き抜いては収まりがいいようにと工夫していました。
いまいち上手い具合に入りきらず、一度全部出すことにしました。改めて見ると、奥の方にあった体操袋がまるまると太っていることに気がつきます。暗がりに紛れてその体型をごまかしていたのです。昼のことを思い出しました。放課後に卒業制作の作業を手伝いたくない一心で慌てて着替えたのです。その時にきちんと畳まずに詰め込んだのでした。中身の体操服をくりぬくように取り出します。一緒に、しわくちゃの紙屑も出てきました。私はその紙屑を拾い上げると誰かの机の上に持ってゆき、丁寧に広げるとあまりの自業自得さに苦笑しました。ようやく夜の学校にやってきた目的を果たせたのです。私はのんびりとガラクタをロッカーに詰め、点けっぱなしの懐中電灯を拾い上げました。後は、ここを出ていくだけでした。
『下へ』ではなく『一階へ』。目的を更新します。
ここは三階である。
声にします。
ここは二階である。
声にします。
ここは一階である。
声にします。
下駄箱の前に立つ。
同じ規格のシューズが何十足と並んでいる。
その群れの中の孤独な運動靴を手に取る。
代わりに今しがた脱いだシューズを置く。
これでみんな仲良しだ。
硬く靴ひもを結ぶ。
玄関より先の闇に向かって踏み出した。
闇の中グラウンドを駆け抜けます。渡り廊下の途中で職員室の電気が消えていることが確認できました。懐中電灯は切っておきます。人影は見えませんが、丁度戸締りをしている最中だったりするかもしれないのですから。ここまで来て見つかりたくはなかったのです。行きとはまるで勢いが異なり、地上の砂を巻き上げながらの急ぎの下校でした。
南門は固く閉じられていました。私の身長が倍あったとしてもそれすらゆうに越える規模のものでした。とてもよじ登れる高さではありません。目の大きい金網の向こうを側を見ることができました。道路ひとつ挟んだ歩道には自動販売機がぽつんと立っており、商品の下のボタンだけを緑色に光らせて不気味に佇んでいました。私はそれから目を逸らすと踵を返し、校舎に向かってまた走ります。校舎とにこにこ教室とをつなぐ渡り廊下を切断するように横断し、西門に向かいました。来た時と同様に閉まっていましたが、越えられない高さではありません。金網から向こう側の様子を伺います。残っていた教員のものと思われる車も、人も在りません。私は門に飛びつき、手と足を金網の目に食い込ませます。しゃん、しゃん、と私の挙動に合わせて音が出ました。その音が気になって仕方がありません。
焦り、集中力は続かず、足を滑らせた私はお尻から地面に着地しました。勢い余って足で門を蹴ってしまい、どしゃんと大きな音が鳴ります。あまりの痛さに涙が滲みます。心細くなり「おかあさん」と力なく口から漏れました。ここはまだ校舎側の地面です。後を引く痛みに急に現実へ引き戻されたようで、日付と時刻、孤独、一刻も早く脱出したいのにも関わらず痛くて曲がらず伸びない足、この状況を誰かに押し付けたいくらいに絶望していました。目を閉じてしまいそうになりながら、これではいけないと私は頻りに荒く息を吸います。肺臓を揺らし心臓を揺らし、その振動が全身に送られます。ぎぎぎと関節を鳴らしながら膝を伸ばしゆっくりと立ち上がりました。冷静に、まずナップサックを門の外に放り投げ体を軽く、動きやすくします。慌てず、最小限の動作で金網を鳴らしながら、門の上辺に右腕を掛け右足をかけ、またがるところまで来ました。
よせばいいのに、私は校舎を振り返ったのです。
もう我慢ができなくなって、そこからは自由落下します。地面に向かって飛び込むように落ちました。ナップサックがクッションの役割を果たしたことで頭以外全身を地面に打ち付けただけで済みました。すぐに立ち上がるもよろけてまた尻もちをつきます。ナップサックを引きずりながら四つん這いの姿勢で学校から離れるのでした。何とも無様な下校スタイルですね。
家までの長い道のりに疲れ、田んぼの側のあぜ道に座り込んでいた。冷たい風を遮ってくれる稲は数か月も前に刈り取られていて、私は寒さに震えている。ナップサックを手前に持ってきて、三角座りをした膝上に掛けた。色々ロッカーに置いてきたおかげで薄い生地でも柔らかく、少しだけ気がまぎれた。そういえば木刀が見当たらず、何処に忘れてきたのかと過ぎたことを巡らせていた。地上を越えた、底での戯れを。
今にやっとわかった。
私でなくてもよかった。
私が特別なのではなかった。
助けてくれたのではなかった。
やさしさではなかった。
「見逃してくれたんだ」
それはもう気まぐれに。
10
大木の周辺に沿って地面を掘り続け『逆ドーナッツ』が完成しそうな頃、がつん、とシャベルの先から手のひらに何な硬い感触が伝わった。タイムカプセルだっ! 俺は興奮して「ユウキっ」と短く叫んだ。
優基さんはあれからずっとシャベルが地面を打つところばかり眺めていた。背は曲がり、膝に右ひじをついて顎に手をやり頭を支えている。酷く寂しそうに映った。「歳をとるってやだね」軽はずみにそう言ってしまったことが悔やまれる。
「あったのか」
俺の報告に優基さんは特に驚くこともなかった。実はあらかじめ自分が準備していたのだというふうに。
「待って、今掘り出すから」
暗くて見えなかったとはいえ既にタイムカプセルに一撃くらわせてしまっている。これ以上ダメージを与えたくなかった。優基さんはゆらりと立ち上がりこちらにやってくると、地面に置いてある点けっぱなしにしていた懐中電灯を拾い上げ手元を明るくしてくれた。周りの土を削り、丁寧に掘り出す。徐々に露になる。ブリキ製の缶のようだった。贈り物なんかで使われる上等なお菓子が入っていそうなデパートで売っているアレである。全体の形が想像できるくらいに(横に広い四角柱である)まで地面から飛び出したそれをせっかちに両手で掴み、引き抜こうと足を踏ん張った。
「かしてみな」
ぞくりとするほど冷酷な声が背中でした。俺は強がって仕方がないというふうに退いた。
優基さんは大きな手で缶の端を掴み、ふんっ! と掛け声と共に引っ張った。ギュッ、キュッ、と缶の表面と長い年月を経て固まった土とが擦れて音を立てる。「わっ」と叫び声がして、優基さんが目の前から消えた。後方によろめいて尻もちをついている。その手にはお菓子缶が握られていた。
「わはは」
優基さんは衣服を泥で汚しながら子供みたいに無邪気に笑った。
「何してんだよ」
「はは、いやぁすまない」
まだ笑い足りないようにひぃひぃと呼吸をしている。その力の抜けた手からお菓子缶をすり取った。
地面に置き、懐中電灯を向ける。塗装は剥げ落ち、下の黄昏色が見えていた。どこかしっくりくる形だと考えていたら、いつも使っている据え置き型のゲーム機とほぼ同じ大きさであろうと合点がいった。
蓋と入れ物の境界は布テープで覆われている。何かの拍子に口が開いてしまわぬようにと気遣われたと思われるが、地中ではその何かもないだろうに。昔の人の行いを迷惑を感じながらぼろぼろに傷んだテープに爪を立てた。
テープは缶とほぼ完全に接着していて、もはやその一部になっていた。蓋と入れ物の間にありそうなくぼみに適当に当たりをつけて親指の伸びた爪を食い込ませる。前後に引き、がりがりと削った。カッターナイフが欲しくなった。持ってきたナップサックの中身はガラクタばかりである。
一辺も終わらないうちに、つん、と親指の先端が痛んだ。ライトにかざすと爪の内側には血張り付いていた。数十年前のちゃちな布テープは恐ろしく硬く、大した出血でもないのに酷い痛みだった。霊柩車でも通りかかったかのように、素早く親指を守るように隠した。
「かしてみな」
そうやって優基さんはまた冷たい息を吐く。缶を抱えるとおもむろに爪を立てがりがりやりだした。鋭利な刃物で林檎の皮を剥くようにするすると封印が解かれていく。見事なものだった。あっという間に布テープの化石をこしらえ「わはは」と嬉しそうに声を荒げた。目の前に鍵の外れたタイムカプセルが無言で差し出される。
「…ありがと」
優基さんは俺に開けさせてくれた。少しだけ遠慮するが堪えきれずに手をかける。親指の痛みを忘れるくらいに、まるで当事者のように心臓がうるさく鳴った。
はじめは白、一拍遅れて色とりどりの文字が俺の目に飛び込んできた。
白色の背景に描かれた未来の自分へのメッセージ、支離滅裂な記号。それらはただの紙切れだったが、ひとつひとつに人格があるように感じられた。
「この中に私は居ない」
ぽつり、と優基さんは言った。
それは楽しみにしていたことを行動に移す矢先のことだった。
「どういうことさ」
意味は何となくわかって聞いた。何故彼の手紙が無いのか。
「私たちが作ったものではない、これは二組の卒業制作なんだ」
「…嘘だ」
俺はそう言い終わるや否や不意打ち的に缶の中を漁った。『三藤』『優基』の文字を探した。しかし見つからない、後ろの優基さんは余裕そうに立っているだけである。どうやら本当のことらしい。
「奴らが、奴らがあまりにも楽しそうに木の周りで騒いでいるもんだから、埋めるのを手伝わせてもらったのさ」
「じゃあ、ユウキ達の卒業制作は」
「体育館の時計の下にでっかい絵があるだろう、それさ」
期待外れもいいところだった。俺は優基さんを睨んだ。
「思い出したのはついさっきなんだ、本当だよ」
それから「本当にすまなかった」とうつむきながら続けた。俺はこれ見よがしに、はぁ、とため息をついてみせた。
「ちぇっ、ユウキの手紙でも見つけてやろうと思ったのに」
「やっぱり何か企んでいたんだな」
「当然」
二人はくくっと笑った。まるで十年来の悪友同士がするように。しばらく小刻みに息を吸って吐いて、呼吸を整えてから「戻そうか」と優基さんが言った。彼は丁寧にタイムカプセルを元あった場所に置いた。
俺はシャベルを取って、大木を中心にドーナツ型にできた空洞の外側に溢れた土を戻していった。優基さんもトンボを持ち、今度は本来の使い方で前後に動かし手伝ってくれている。
がりがり、ぞりぞり。
その音に隠れて、俺は言った。
「ねぇ」
「…何だ」
彼は気が散るというふうにそっけなく返事をした。手は止めてくれず、ふんっ、ふんっ、という掛け声が聞こえる。
「父さんのことなんだけど」
「イツキか」
「うん」
「それで」
「ほんとは悪口なんか言ってないんだ」
「そうか」
「今まで聞いたことなんかないよ」
「そうか」
「お前は賢い、お前は兄貴に似たんだって」
「そうか」
後は何を言うべきか、言葉に詰まっていると「そんな、ことか」と息切れぎれに返ってきた。ことごとくすげなく言い返されて、後はうなだれるしかなかった。
一通り穴は埋まった。明日の朝になれば地面の色が違うことに気づく者も出てくるかもしれないが大ごとにはならないだろう。悪ガキ達に掘り返されないよう、念のため靴の裏を地面に強く打ち付け固めておく。
勝手に持ち出したシャベルとトンボを倉庫に片付けに行き、その合鍵も元の場所に戻した。タイムカプセルといいこの合鍵といい、土に埋めてしまえば自分達がしたことが全て許される気がした。
さっきから、優基さんはずっと余所見をしている。
プールに、体育館に、南門付近は長らく見つめていた。
「悪いけど、先に帰っていてくれないか」
俺は何も言えなかった。うん、と頷くだけだった。「怖いんだ」と、たったそれだけ言えれば良かったのに。
「早めに帰って来てよね」
実はまだ使ったことのない一生のお願いをした。「あぁ」と生返事が返ってきた。
宅とお別れをし、私は今グラウンドを歩いている。懐中電灯は彼に持たせた、私には必要がないからである。暗い中を散歩した。後ろから影がついてくる、別に気になるほどのことでもない。
実をいうとタイムカプセルを前にして楽しみにしていたことがあったのだが、直前で躊躇した。人にやられて嫌なことはしてはいけないと小さい頃に習ったものであるし、そもそもそんな世俗的なイベントに参加したかどうかすらも怪しいのである。土に返してしまった今となっては確かめるすべもなく、また掘り起こそうにもシャベルを担ぐのが面倒だ。それに倉庫の鍵の隠し場所も、もう忘れてしまった。じきにもう一つの場所も忘れてしまうだろう。
私は南門を出ると、目の前の道路を横断すべく縁石を跨ぐ、車は来ない。見えなくとも夜の空気が手に取るように伝えてくれる。
そこには無数の緑色の目を持つ自動販売機があった。ポケットから小銭を出す。値段が見えない。手に出した持ち金も丸い形のものばかりで判別できず、あるだけを投入し適当なボタンを押した。
がこん、がこん。
調子が悪いのか変な音がする。最後に、がこん、という音を聞いてから取り出し口を開いた。手に取ってぎょっとした。
酒である。缶ビールだった。
小学校の前に、それも特殊なカードや顔面を機会に読み取らせるまでもなく買えてしまう。これは相当に古い機械のようだった。おかしくてからから笑った。じゃらじゃらと釣銭が落ちる音がしたが聞こえないふりをした。
来た道を戻る。校庭に入ったところで、影が復活した。どうやら校外まではついてこれないようだった。私はグランドの真ん中あたりで校舎を背に座り込み、側に缶ビールを置いて後ろ手をついた。足を延ばす。これでもかというくらいにくつろいでやった。
懐かしかった、何もかも。
我々がここを卒業してから一年後、教員の一人が逮捕された。若い男性と聞いた。物言えぬ低学年を中心に男女問わずいたずらをしていたらしい。それと窃盗、夜な夜な体操服など児童の私物を漁っていたらしく自宅からいくつものコレクションが出てきたという話も聞く。どこまでが本当のことかはわからないが、いずれにせよそれからこの学校は衰退し始めたのだった。在籍する児童の数も年々少なくなってゆく。だからもう見逃してはくれないと思った。宅は無事に帰れただろうか? 町田玲のように飲まれてしまってはいないだろうか? あの少年は私が壊してしまったものの成れの果て、最期にそれだけを守りたかった。
グラウンドの闇がじわりじわりと濃くなってゆく。やがて周りの黒と判別できるくらいに明確な境界ができる。きゅる、きゅるり。巨大な楕円の影は私の下で気持ちよさそうに揺れ、鳴いている。缶ビールを開けようとする、手が震えている。
ぷしゅり。閉じ込められていた空気が外に飛び出す音がした。口をつけ、ごくりっ、ごくりっ、とわざと大きく何度も喉を鳴らす。そのまま全て飲み干してしまった。なんの、私は母に似たのだ、これくらいどうということはない。そうやって、強がるそばから頭を揺らしている。
酔っているのに冷静で、現実なのに夢のよう。
熱を帯びる体を冷たい空気が優しく抱く。
その温度差があまりに心地良くて、たまらず息を吐いた。
「お酒臭いわ」
了