二人だけの場所
洞窟の幅は、次第に屈まなければ進めないほど窮屈になっていった。浩一の後方で、赤子のようにハイハイする少女のスカートが地面を擦る。茶色い汚れが、膝の辺りにこびりついていた。
「洋服、大丈夫?」
汚れたりしたら、彼女は怒られたりするんじゃないだろうか。今さらそんなことが心配になってきた。
「平気。たまには、汚れるくらい外で遊びなさい、って昨日もお父さんに言われたところだから」
「でも、洗濯する母ちゃんは、大変だろうな」
そんなことを言いながら、普段の自分がどれほど服を汚しているのだろうか、と考える。胸に走った痛みの要因が罪悪感だということに浩一自身は気づかない。「っな」と同意を促すように声を飛ばすが、後方をついて来ているはずの少女から返答はなかった。土をこする布の音だけが背後から聞こえている。
狭まり続ける穴を進むと、穴の先に小さな光が見えて来た。真っ白い光が小さな穴の輪郭をなぞり、差し込むその光の向こうを隠す。やがて、視界一面が光に覆われた。暗闇に慣れていた目が、シャバシャバと光を嫌う。眼球の奥にチリチリとした痛みが走った。心地よいその痛みに慣れ始めると、カーテンが一気に開かれたようにあたりが拓けた。
「すごい」
少女が思わず声を漏らす。あまりの驚きにそれ以外の言葉が出てこないようだった。
「すごいだろ? 子どものうちにしか来れない場所。大人になったら来ることが出来なくなっちまう」
「うん、綺麗」
パラパラと、光の粒子が天井に空いた大きな穴から降り注いでいた。青白い光が、洞窟内の壁をサファイアの原石のように染める。二人の足元には、天色の透き通った水面が広がっていて、天から降り注ぐ光の筋がその底にまで届いていた。
澄んだ空気を少女は、肺に目一杯吸い込む。吐き出された空気が、水面の淀みを微かに揺らした。
「本当にすごい」
少女は湖畔にしゃがみ込む。湿気た土が、彼女のサンダルに弾かれめくれ上がった。かがんだまま、少女は天井を見上げる。十数メートルはある穴の向こうには、小さな空と大きな入道雲の一部が見えていた。
「綺麗な水」
少女は、光の筋をなぞるようにして視線を下げた。透き通った水に興味が湧いたのか、少女の指がそっと水の中に入っていく。掬い上げた水が、指の隙間からポツポツと滴り落ちて、小さな波紋を生み出す。少女が勢いよく手を返すと、水は一気に手のひらからこぼれ落ちた。その衝撃で、小さな泡がブクブクと生まれすぐに消えて無くなる。
「たぶん、こいつら川の水じゃないかな」
「川の水?」
「そう。ザリガニ釣りしただろ? あの川の上流がここなんじゃないかな」
ほら、と言って浩一は水辺の奥の方を指さした。
「あそこから水が湧いてきてるだろ?」
浩一が指さした辺りはちょうど光が差し込み、その水底があらわになっていた。大きな岩と岩の隙間から、わずかに水が吹き出ていているのが分かる。
「あの川の水は、ここの山から流れて来てるんだ。だから、この池の水が地下水であの川に繋がっているんじゃないか。って、姉ちゃんが言ってた」
「それじゃ、ここが里のあの綺麗な景色を作ってるんだね」
少女の双眸がゆらゆらと水面を見つめた。その透き通った美しさは、この綺麗な地下水に限りなく近いと浩一は思った。
「それでさ、都会の話をしてくれよ」
「こんなところにまで来て、都会の話なんだ」
あまりにかけ離れたこの景色を見ながら、都会の話をすることは少し難しいよ。少女は口端を緩め、クスクスと声を漏らした。
「もったいぶらずにさ、教えてくれよ」
お尻が汚れてしまうことを一瞬躊躇したが、浩一は少女の隣に腰を下ろした。
「仕方ないなぁ、」
少女の目が細まる。色っぽい唇がわずかに開いた。小さく吐かれた息が、少女を女へと大人びさせる。つま先に掛けられた体重のせいで、サンダルの先に土が乗っていた。彼女の細い指先にも茶色い汚れが付着している。
静かな風の音が、洞窟に響き渡った。漂うひんやりとした空気に包まれながら、静寂というカーテンが二人だけの世界を作り出す。ゆらめきながら降り注ぐ温かな光が、穏やかに過ぎる時間の輪郭を柔らかく包こんでいった。
都会というところは、騒がしいところらしい。人がたくさんいて、忙しなく、何かに追われるように働いている。大きな道路の大半がアスファルトで覆われて、車から吐かれるガスが土と混ざり合い独特の匂いを漂わせている。街の中心には十階建ての大きな建物が立ち並んでいて、百貨店という場所では浩一が食べたことのない洋食が食べられるのだ。大きな道路が宙を走り、大きく真っ赤なタワーが夜の街を照らす。
ラジオでしか聞いたことのない景色に、次々と色が加えられていく。少女の話を聞けば聞くほど、都会には夢が溢れていて、輝かしい未来を感じざるを得なかった。
「すごいや」
「全然、すごくないよ。きっと、今に日本中がこんな風になるんだ、ってお父さんが言ってた」
「ダメなのか? 見たこともない景色が日本中にできる。すごくワクワクするけどな」
浩一の鼻息は荒かった。SFの本に書いてあるような未来が現実に迫ってきている。そんな高揚感が、全身を震わせるほど興奮させた。
「どうかな。私にとっては、ここが見たことのない景色だから」
少女は、寂しげに辺りを見渡す。麦わら帽子から覗く髪を、細い指で耳殻にかけた。わずかに見えた項に纏わる色気が、彼女が女であることを強く主張していた。
「ここが、都会みたいになってもいいの?」
双眸が真っ直ぐに浩一を見つめる。逃げることを許さない黒い眼差しに浩一は捉えられた。天から吹き下りてくる冷気が、浩一の背筋をビシリと伸ばさせる。ひんやりと垂れた背中の汗が貼り付いたシャツに吸い込まれた。
「ここは無くなってほしくない」
浩一は、正直に答えた。その答えに満足だったのか、少女の口端がニタリと釣り上がった。
「私も無くなってほしくないな。こんな素敵な場所、だけど、お父さんが言うには、どこもかしこも都会になってしまう。そうなったらここも無くなっちゃうんだよ」
言葉には寂しさが宿っていた。少女の細い指先が泥濘んだ地面を這って、意味のない曲線を描いた。
「ここは無くさせないよ」
激しい浩一の声は、天へと突き抜けていくようだった。握りしめた拳が、自身の手のひらに爪で傷をつける。その痛みなど気にならないほど、他の痛みが胸の中を飛び交っていた。
「ずっとあってほしいね」
「ずっとあるよ。ずっとだ」
ずっと。その響きは、随分と幼稚なものだ。このまま時代から隔離され、風化することも無く留まり続けてほしい。そんな祈りに近い。それでも確かな決意が、言葉に込められていた。ここを無くさせやしない。約束なんだという決意が、浩一の瞳に潜んでいた。
「お母さんも、この景色を見たのかな」
些細な瞬きから生まれた揺れが、少女の瞳に浮かんだ水滴を揺らす。天から差しこむ光がプリズムのように反射した。長いまつ毛がその双眸を隠す。少しうつむいた少女は、涙を隠すようにその顔を組んだ腕の中へしまった。
「どうしたの?」
浩一の声は、洞窟の中で静かに反響した。どうしようもない無力感が浩一を攻め立てる。隣にいるこの子の肩を擦ることさえ出来ない、意気地のない自分が不甲斐無かった。
少女は、浩一の問いに、腕の中で首を振った。彼女の二の腕に麦わら帽子のツバがカサカサと擦れて、白い肌がほんのりと赤らんだ。その奥に見えた彼女の耳は、真っ赤に染まっていた。
浩一は息を飲んで、膝を抱えた腕に力を加える。だけど、浩一の腕は彼女のように赤くはならない。よく焼けた肌が、ひんやりとした膝の皮膚を締め付けるだけ。血の気を失った肌がほんのりと白んだ。
「夏は嫌い」
腕の中に顔を埋めたまま少女がつぶやいた。嗚咽を隠したその声はわずかに震えている。サンドレスに落ちる青白い光が、真っ白な生地を純朴な碧に染めた。洞窟内に立ち込める空気は、やけにひんやりしていて夏のそれではない。
「夏は、嫌いなの」
「分かったよ」
浩一の言葉が鋭く尖った。そんな風に言いたかったわけじゃない。優しくなれない歯がゆさを噛み締めた幼い歯が、ギギっと音を立てた。
「ごめんなさい」
少女は顔を隠したまま、細い腕で顔を拭った。朱色に染まった頬が、その隙間から垣間見える。腕に付着した涙が淡い光を放った。洟をすすり、少女は言った。
「思い出しちゃうから。だから夏は嫌いなの」
無垢な少女の笑みが、浩一を真っ直ぐ見つめた。真っ赤になった瞼が、ピクピクと小刻みに震えている。アーモンドの形に細んだ目の奥で、寂しさを潜ませた瞳がチカチカと揺れていた。
「何を思い出すの?」
手触りのいいガーゼのような声で、浩一は尋ねた。太陽が雲に陰って、洞窟内から光を奪っていく。
「お母さん」
光の温もりを失った空気が辺りを、ぴんと張り詰めさせる。身を震わせてしまうほどの寂しさと切なさだけが、彼女の言葉を織りなしていた。浩一は静かに頷く。落とした視線の先で、水面の淀みにほんのり大人びた幼い少年が映っていた。
「どうして、都会から田舎に来てると思う?」
「おじいちゃん、おばあちゃんに会いに?」
「ううん」
少女は、首を横に振った。膝を抱えていた彼女の手から、ふっと力が抜ける。つま先で支えられていた重心が後ろに傾き、少女のお尻が地面についた。汚れることなど気にしていない様子で、手を大きく後ろにそらし、その細い体躯を支える。
「お母さんに会いに」
艷やかな唇がそう告げた。陰っていた太陽が顔を出し、また光が差し込み出す。鮮やかな彩りを取り戻した洞窟内に、ポツリと一輪の花が咲いた。柔らかい少女の笑みが、黄色い麦わら帽子の色に染まる。
綺麗だ。浩一は、この瞬間を表す言葉をそれしか持ち合わせていなかった。心でつぶやいた感情が、表に出ていないか心配になる。悲しげな少女を、どんな顔で見つめればいいのか浩一は戸惑った。
「――お盆だから」
言葉は途切れ、彼女は唇を噛み締めた。涙をこらえるためなのか、その事実を口にしたくなかったからなのか。浩一は、優しい声で問いかける。
「お母さんは、ここの人だったの?」
「うん。お母さんは、ここで生まれて、ここで育ったんだ。戦争が終わって、東京で先生をしていた時に、同じ赴任先でお父さんと出会ったんだって」
「それじゃ、ここのひまわり畑をお母さんも見ていたんだね」
「うん。ひまわり畑も、小川のザリガニも、綺麗な空も、澄んだ空気も。全部。きっとお母さんが見ていたもの、感じていたもの。でもね。私は、お母さんの声も、温もりも何も知らない。顔も写真でしか見たことがない。肌は、どんな白さだったんだろう、声はどんなだったんだろう。私のことなんて呼んでくれていたんだろう。ここに来るたびに、そんなことを考えちゃう」
頬を伝った涙が、細い彼女の輪郭を滑り落ちていった。顎先からこぼれる雫が、胸辺りに小さなシミを作る。
「ここだって、すごく素敵な場所。でもね。ここで綺麗な景色を見るたび、お母さんと一緒だったらなんて声をかけてくれたんだろうって考えちゃう。昔、あんなことがあったんだよ、ここでこんなことをしたんだよ、って。ザリガニ釣りもカブトムシもお母さんがしてたことらしいんだ。だけど、やっぱりダメだね。涙が出ちゃう。ここは、どこにもいないはずのお母さんがいるから」
景色というものに、誰かの記憶が居座り続けるということを浩一は始めて知った。いないはずの母と織りなす思い出が少女の胸を締め付けている。彼女の母が過ごした景色を、彼女自身も好きになれれば。そうあるべきだ、と浩一は思った。
「ここは、戦争が終わってから、雨と風で崩れ落ちた場所なんだ。だから、君のお母さんはこの場所を知らないと思う」
「お母さんの知らない場所?」
「うん。ここに君のお母さんは来たことないと思うよ」
少女の双眸が大きく開かれた。長いまつ毛が光の筋をチラチラと弾く。潤んだ瞳の奥で、優しい感情が瞬いていた。
「だから、ここは二人で見た僕らだけの思い出だ」
浩一の頬は真っ赤に染まっていたはずだ。照れ隠しに、その頬を指先で掻いてみる。少女の瞳には、先程までと違う色の涙が浮かんでいた。
洞窟から出れば、太陽はすでに傾き始めていた。夕凪が連れて来た切ない空気が、視界に映る世界を包み込み始める。汚れたスカートを気にもせず、少女は全身を広げながら真っ赤な陽の光を集めた。
「本当に洋服、大丈夫?」
「平気、平気」
心配する浩一を余所に、少女は元気一杯の笑みを浮かべた。なんとなく、彼女の母がどんな人だったのか、分かった気がした。
「来年もまたここに来る?」
少女は、浩一を一瞥してしおらしく微笑むと、下り坂を軽く駆け出した。
「待ってよ」
浩一の呼び止める声に、少女は悪戯に口の端を吊り上げながら振り返る。
「きっとまた来るね」
その瞬間、木々が激しく揺れた。麦わら帽子のツバとスカートの裾を少女は押さえる。ドワっと鳴る風が、遠くの方から吹き抜けていった。夏のざわめきが、切なさを弾け飛ばすように景色に彩りを添える。
夏はまたやってくる。麓に見えたひまわりたちが嬉しそうに小さく揺れていた。
なんとなく思いついてる短編の中のひとつです。連載している方の合間があれば書いていこうかなって思っています。
感想や評価頂けると嬉しいです。読んでくださりありがとうございました。