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ひまわり畑

感想や評価など頂けると幸いです。

 カラッとした風が、山の尾根から吹き降りた。その乾いた風を浴びて、背の高いひまわりたちが一斉に揺れる。揺れたひまわり畑から、水色のワンピースを着た少女が、ひょっこり顔を出したものだから、浩一(こういち)はひどく驚いた。


 麦わら帽子がカサカサと音をたてる。凛とした少女の瞳が、夏のギラギラした陽を浴びて、チラチラと揺れる。ひらひらとなびくワンピースの裾からは、細い素足が覗いていた。綺麗なサンダルが、無慈悲に雑草を踏みつける。その足が、クイと前に出された。

 

 浩一は、思わず後ずさりする。少女は、何の気なしに浩一に告げた。


「ザリガニ捕れる?」


 ひんやりとした少女の肌が、真綿のように柔らかくしなやかな線を描いていた。無表情に近いその面持ちが、浩一の判断を鈍らせる。黙りこくる浩一を見かねて、少女はもう一度尋ねた。


「ザリガニ、捕れる?」


 真っ白な彼女の腕が、スッと持ち上がる。淀みのない透明なその肌が、痛々しいくらいに夏の陽を浴びていた。

 彼女が指し示す先には、小さな小川が流れている。山から湧き出た水は、麓の村の方にまで続いている。そこには、ザリガニだけでなく、メダカやエビ、ドジョウだっていた。


「もちろん、釣れるぜ」


 頬を強張らせ、浩一は少女の問いに答える。にったり、と少女は笑みをこぼした。長いまつ毛が、彼女の瞳を覆い隠す。綻んだ口から、白い歯がわずかに見えた。麦わら帽子からはみ出た長い髪が、サラサラと風に流される。青臭い香りの中に、ほのかな甘さが混じる。妙に鼻を刺激するその香りに、浩一の胸がざわざわと騒いだ。


「お願い。捕ってくれる?」


 柔和な声が、夏のざわめきに溶けていく。遠くの木々に張り付いたアブラゼミの声が、意識の中からスッと消えていった。


 浩一は、コクリと頷いた。


 静寂に囚われた景色の中で、少女の踵が返る。長い髪がふわりと持ち上がると、しなやかな曲線を描きながら、彼女の背中へと張り付いた。


 ひまわりが揺れた。少女は、自分の背丈より高い花を掻き分けるように進んでいく。浩一は、思わず、「待ってよ」と喉を震わせた。


 緑色の世界に黄色い光が差し込む。まばらな陰が、ひんやりとした匂いを漂わせる。それは、土や草のと混ざり合い、浩一の肺を心地のよいもので満たしていく。

 ガサガサと音の鳴る方には、水色の背中が見えた。葉っぱと葉っぱの間から、見失わないように目を凝らす。わずかに見えるその足は、浩一が今まで見てきたどんな足より綺麗で美しかった。


 ひまわり畑を抜けて、小川の畔に出た。低い緑の堤に従いながら、さらさらと水が流れる。夏をまばゆいくらいに反射する水面を、少女はじっと見つめた。膝を抱えてしゃがみ込む。凝らした目は、水草の奥に潜むザリガニに向けられているのだ。


 浩一は、短パンのポケットから、タコ糸を取り出した。ほつれた糸の先っぽは、黒ずみ、ぐちゃぐちゃに絡んでいる。干されたイカの足がその芯を成していた。うまくほつれた糸を解くと、川に垂らしてみせる。穏やかな流れが、すーっと糸を川下に流した。


「釣れるの?」


「おう」


 少女がぐっと、浩一の手元を覗き込むように顔を寄せた。柔い髪が、浩一の頬を撫でる。しなやかな感触が、ピンと張った浩一の肌をくすぐる。胸の糸がぴきりと、張りつめた。それに合わせて、手元の糸が引いた。


 反射的に、浩一は糸を引き上げる。匂いに誘われたザリガニが、干されたイカを懸命に掴んでいた。


「すごい! ほんとに釣れた」


 少女は、手を叩き喜ぶ。屈託のない笑顔が、真っ直ぐに浩一の方を見る。


「べ、別にこれくらい」


 赤らんだ頬の言い訳など、考えられないくらい浩一の脳内に血が通う。パンクした思考回路が、視界を狭くした。キョロキョロと、目を動かしうろたえる。まだ力尽きないザリガニは、右手のハサミでイカを切ろうともがいていた。


 浩一への尊敬に飽きたのか、少女はザリガニの方に視線を向ける。見慣れないものを見るかのように、不服そうな顔を浮かべ、首をかしげた。


「それで、釣ってどうするの?」


「どうするって。お前が、釣って、って言ったんじゃないか」


「だって、ここにいる子は、何して遊んでるの? って、おばあちゃんに聞いたら。川でザリガニ捕ってる。って、言ったから」


 少女の瞳は、好奇心で溢れていた。純粋に、彼女はこのザリガニでどう遊ぶのかが気になっているようだ。


「持って帰っても怒られるからな。逃してやるか、戦わせるか。これくらいの小さいやつなら、もっと大きいのを釣る餌に出来るぜ」


「ザリガニで、ザリガニが釣れるの?」


 おう、と浩一は軽く頷く。手本を見せてやろうと、糸先に掴まるザリガニを手で掴み、その腹ほどから身を裂こうとした。


「きゃっ」


 浩一の手の中でもがき抗うザリガニを見て、少女の声が漏らす。手で視界を覆い、慌てて顔を伏せた。


「どうした?」


「どうしたって? どうするつもり?」


 小さな麦わら帽が怯えたように震える。浩一は、力を込めた右手を放した。安心したようにザリガニは、おとなしくなる。


「このままじゃ釣れないよ。餌にするには、小さくしないと」


「かわいそう、引きちぎるだなんて」


「そうかもしれないけど」


 浩一は、困り果て、ザリガニをぽいっと川へ投げ捨てた。


「ほら、もう逃してあげたから、もう大丈夫だよ」


 少女は、安心したように頬をほころばせた。それでも、どこか残念そうに、波紋が広がる川を眺めていた。


「持って帰りたかった?」

「ううん。持って帰っても、育てられないから」


 そう言うと、少女は立ち上がる。長いワンピースが、地べたの草の青い香りをすっと持ち上げた。わずかに傾きかけた夏の日差しが、彼女の輪郭を引き伸ばした。伸びた陰が、浩一を包み込む。麦わら帽子を飛ばされないように、彼女は抑え込んだ。山から拭き降りる風が、水面を揺らす。


「この風、すごく気持ちいいね」


 そうなんだろうか、と浩一は不思議に思う。なんの変哲もない風だ。こんなのは、いつも吹いている。去年だってそうだったし、来年だってきっと吹くはずだ。


「私、都会から来たから、こんな景色もこんな場所もはじめて」

「都会から?」

「そう都会から」


 都会という響きが、無性に輝いて聞こえた。都会とは、どういうところなんだろうか。ビルがある場所。毎日、カレーを食べている場所? そんな仕様もないイメージが、浩一の脳内に浮かぶ。


「都会ってどんなところ?」

「どんなって?」

「ほら、大きな建物があるとか?」

「そりゃ、ビルはあるよ」

「そうかビルがあるのか」

「ビル見たことない?」


 浩一は、恥ずかしそうに頷く。こめかみを短い爪先で擦る、ジャリジャリとした感触が、指の腹から伝わった。


「都会の話、聞きたい?」

「うん、聞きたい」


 つまらないと思うよ。少女は、しおらしく微笑む。浩一は、それでも構いやしないさ、と何度も首を縦に振った。


「そっか。でも、今日はもうすぐ日が暮れちゃうから。また明日にしようよ」


 小さな手が振られた。指と指の隙間から、朱色の光が溢れる。その手の動きに合わせて揺れながら、柔らかな光の筋が浩一に差し込む。ぼんやりとした彼女の輪郭は、どこか神秘的で、ひらひらとなびくスカートの裾は天使のような印象を与えた。空気がわずかに冷えこむ。夕暮れを連れた風が、ひまわり畑を包み込んだ。


「また、明日ね」


 ワンピースが翻る。踵を返した少女は、スキップ気味に駆け出した。山間にある、浩一の村とは反対方向の方へと、彼女は消えていく。


 浩一は、突っ立ったまま、空を見上げた。数羽のカラスが、赤色と青色の境界線を滑空していた。それから、とぼとぼと、歩き出す。小川に沿って歩けば、村にはすぐに帰り着く。だから、浩一は、ゆっくりとその足を進めた。


 少女のことが頭から離れなかった。 

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