進路調査票の行方について
空は青かった。しかしながら、山の方から薄いオレンジ色が侵食してきている気がする辺り、時刻が窺える。
カラスが大きめの声で鳴く声を聞きながら、私は、校舎の壁にもたれかかっていた。
「葉月」
聞き知ったこの声に呼ばれては、反応しないわけにはいかない。
ゆっくりと首を巡らせると、制服姿の男子が一人現れていた。
染めたこともない真っ黒な髪、同じく混じりけのない真っ黒な目がこちらを見る。彼は立っていて、私は座っているため、すごく見上げることになる。
「こんなところにいたのか」
「こんなところとは昴さん、ここに溜まっているお猫に失礼ではないですかね」
傍らでスフィンクスみたいな座りかたをしている野良猫の前で、野生の猫じゃらしを振り振り、指摘する。
「単に場所を示しただけで、他意はない。というか、なんでこんなに猫がいるんだ」
こんなに、と言うのも私の周りには合計五匹の猫がいた。三毛猫、しましま、茶と白×3。
しましまが、少し離れたところでごろんごろんしている。警戒心の欠片も見えない。
「何でだろ」
首を傾げる。
私も、どうして学校の敷地内の一角に猫が集まっているのか、知らなかったのである。
「餌付けしたろ」
「してない」
とんでもない。彼らは自活しているのである。
野生の獣から、勝手に牙を抜いてはいけない。
「でも、もしかすると……。わたし自身がマタタビなのかも……」
「意味分かんないんだけど」
私もだ。
昴が、少し息を吐く。ため息?
「それより、先生が探してたぞ」
「先生が?」
「進路の用紙、出してないんだろ」
どうやら、我が幼馴染は先生の手先となり、私を探しに来たようだ。
「用紙は?」
昴は立ったままながら、私を覗き込むように顔を傾けた。私と視線が合わなくなったからかも。
「紙飛行機にして飛ばした。彼は青春のシンボルとなったのである」
「彼って、紙に性別あるのかよ。じゃなくて、紙飛行機にしたのか」
「よく飛んだ」
私は、空を見た。紙飛行機が飛び立った空である、と言わんばかりに。
つられて、昴も空を見たと分かった。
飛行機なんて、めったに見ない空。
「昴って名前、きれいだよね」
「……急だな」
「星の名前だっけ」
「大まかにはそれでいいんじゃない」
「昴にぴったりだね」
「褒めてんの?」
「それはもちろん」
スバル、という名前は、綺麗で昴にぴったりだ。
昴は、ちょっと黙った。
「一番星はまだ出てないね」
「そうだな。……空見てても、進路は降って来ないぞ」
話題を逸らすのに失敗したらしい。いけると思ったのに。
「星は落ちてきた感はあるけどね」
何気なく言い、昴の方を見ると、「……うるさい」と今度は彼の方が視線を逸らした。少しだけ顔に赤みがさした。
効果あり。昴は100のダメージを受けた。……ダメージなの?
「昴は、進路決めたの?」
体育座りで、膝に頭を預けて、問いかける。
けれど、まあ、と答えが返る前に自分で答えを見つけた。
「昴は、どこにしろ大学だよね」
「葉月は違うのか」
「うーん、大学か専門学校か……就職も視野に入れてる」
四年制大学、短大、専門学校、または進学はこれ以上は無しで就職、と。
「就職、ってここら辺で?」
「かなぁ」
「かなって。さすがに漠然としすぎ」
そうかなぁ。そうかも。
でも、何も分からないから、仕方ない。
私は、膝を抱えて見上げた昴に、首を傾げて言ってみる。
「昴」
「なに」
「永久就職先を探してます」
「……今は無理かな」
「現実主義者だなぁ」
「当たり前だろ」
とか言いつつ、思わぬ収穫は「今は」かな。
どんな道であれ、自活する道だけは決まっている私は、冗談でありながらも気分がふわふわする。
気分がいいまま、よいしょと立ち上がる。
「では、ひとまず、帰りますか」
と。
立てば昴と、目線が近くなる。とは言え男子である昴の方が背が高いので、どうせ見上げる。
いつそんなに成長したのか、記憶がないぞ昴くん。
「帰ろう帰ろう。こんな田舎じゃ電車を逃すとどうなるか」
「そうだな。──いや待てよ、だから先生が呼んでるって言っただろ」
「あちゃー」
また失敗。
額に手を当てる。
「あちゃーじゃない。もう一時間くらい経ってるから、先生、相当怒ってる可能性あるぞ。葉月、呼ばれてたのにすっぽかしたんだろ」
「怒られると思って」
進路希望調査の紙は、真っ白だ。
ポケットから紙を取り出すと、「紙飛行機になってなかったのか」と言われた。
紙飛行機にして飛ばすと、ゴミになってしまうではないか。ポイ捨て反対。
「とりあえず、行ってこい。先生と話せば決まることもあるだろ」
「えー」
「えーじゃない。……待ってるから」
私が食いついたのは、最後の言葉のみである。
「待っててくれるの?」
「うん」
「一時間かかっても?」
「待ってる」
「二時間経っても?」
「待ってる」
「電車の時間具合が上手くいかなくなってもいい?」
「いい」
「終わった瞬間に電車が行って、さらに一時間待つことになっても怒らない?」
「そんなことでいつ俺が怒った。どれだけ時間かかってもいい、待ってる」
何と、昴は神様だったのか。
慈悲深き言葉に「おぉ……」となる。
それから、ちょっと思い付いて、言ってみる。
「昴、いっそ一緒に話し合わない? 待ってるの退屈でしょ?」
「俺は葉月の親かよ」
「幼馴染です」
紛うことなき幼馴染である。
「あと、彼氏ですね」
「……そうですね」
「頭が良くて、懐が深くて、頼り甲斐もあるカッコいい彼氏その名もすば──」
「いいからさっさと行ってこい!」
自慢の彼氏は照れたようです。
ごろにゃんしている猫と別れ、帰り道をご褒美として、私は先生との戦いに向かうのであった。