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なんとなく、思い出しました。

作者: 栩堂光

昔から知っていたその感覚に、答えと名前をつけることは未だに難しい。難しいけれど、理解していたいと思うのは、無意識のそれに愛を持っているからだと考える。


教授の声が聞こえる。

ああ、多分今講義が終わったんだ。



まず顔を起こす。時計の長い針がいつの間にか一周している。時刻は五時五十七分。

最初の十五分から先の記憶がないので、睡眠学習には失敗したらしい。突っ伏していた上半身を起こし、目を擦りながらあたりを見ればどうやらレポート提出の時間のようで、次々と生徒が席を立っていた。こればかりは提出しなければならないので俺も重い腰を上げる。


ふと窓の外へ目をやると、申し訳程度の小雨が降っていた。道理でなんだか身体がだるいと思った。それにおそらく、外は天然の蒸し器状態だ。夏の雨の日はどうにもテンションが上がらない。とは言え日頃の全てをテンションでどうにかしているわけじゃないんだが、いつもよりも何かしら行動を起こす意欲が削がれているのは確かだ。

昨日寝る前にホチキスで留めたレポート用紙を教壇へはこぶ。その間に、くうっと腹の底が縮むような感じがして、昼間食べたものが胃の中から完全に消化されたのがわかった。


かといって



「なあ、この後メシ行かね?」

「今日はパス」



そういう気分でも、ない。

腹は空いているはずなんだが、不思議と食事がしたい気分じゃなくて。さっきの縮む感じとは別に、今はぐっと、腹の底が手のひらで軽く押さえこまれているような感じがする。なんだろう。これは、精神的な飢えからくるものなんだろうか。じゃあ何に飢えてるかと聞かれれば、そりゃあ首をかしげるしかない。


さっさとレポートを出して荷物をまとめていると、メシの話を持ちかけてきた彼女持ちとは別の、サークルのやつが声をかけてきた。



「めっちゃ寝てたけど」

「寝てたな」

「写し要る?」

「くれ」

「あとで写メって送るわ」



それじゃ、といなくなったそいつは、サークル連中の中で一番のいい奴だった。

お互いにこの後の講義はない。帰って家でメシ食って寝て、明日のサークルでまた会うんだろう。


よっこいしょ、なんてわざとらしくリュックを背負って、俺は部屋を後にする。


廊下に人はまばらだ。この時間は帰宅したやつと、まだ講義受けてるやつと、することがなくて適当にたむろしてるやつとに分かれる。この大学で月曜に活動を入れているサークルは少ない。そしてそれはうちも例外ではない。



「おつかれさまー!」

「おー」

「じゃあ行こっか!今日はお泊りだもんねえ、楽しみ〜!」



…ああ、そういえば。


合流した彼女は俺の姿を見て分かりやすく笑顔になり、腕を引っ掴んで歩き出す。男の家に泊まることが楽しみだと言うこの女については既に色々と察している。証拠はないが、バニラの匂いとやたら見栄えの良いテカテカした唇と、バサバサのまつ毛で何となく察している。そこまで鈍いつもりはない。一昨日くらいに断る理由も特になかったから付き合い始めた相手だ、あまり深く考えない方が吉。

思えば、そうやってフラフラするのにサークルの奴らが咎めることはない。お利口さんにしていて損するか得するか、そういうのを判断する上で身勝手に口を出せるような年齢を超えたと知ってるからだ。大人に片足を突っ込んでいる俺たちがお互いに対して唯一出来ることがそれであると。言わば暗黙の了解だった。


バスを乗り継いで降りて、それから徒歩で自宅に辿り着くまでの所要時間、約二十分。今夜ははレトルト飯を適当に食べるとして、明日の朝飯がないので帰り道である大通り沿いのコンビニに寄った。そういえばそろそろ無くなりかけているゴムも調達しなければならなかったのだ。危ない。億が一にでも訴えられたら勝てる要素がどこにもない。



「あ、ねえこのプリン食べたい!いい?」

「俺が奢るの前提かよ」

「えー、だめ?」

「札で財布パンパンなくせしてよくやる」

「そこは男らしく買ってくれるところだよお…けちー」



税抜き324円のフルーツの盛られた、いかにも女に食われたいとアピールしている童貞臭極まりないプリンアラモードを買う気は、当然だがない。そして頬を膨らませている彼女は無駄に美人だった。

おにぎりやらパンやらを適当にカゴへ突っ込んで、雑貨コーナーでゴムも突っ込んで、思い出してコーラも突っ込んで、さて会計をするか、って時に。


インスタントのコーナーに座っていたそいつに、ふと目が留まった。

おそらくコンビニで手に取られることは少ないであろう、「五種類の具入り!」と外装に大きく書かれたインスタント味噌汁。税抜き572円。



「…あー、」



じゅわり、口の中に滲む唾液。

あのサークル1いい奴が作った、レンチンされた白メシと、見たことない赤い味噌汁と、実家の親もなかなか作らないだし巻き卵。


いつぞやのレポート地獄明けに食べたそれらの味が、ただのインスタント味噌汁の、更に言えば外装を見ただけで、味蕾と空腹中枢に殴り込みを仕掛けてきた。

…あんなにメシ食う気分じゃなかったのに。

くるくるこぽこぽと胃が鳴いている。その鳴き声の言う通りに、インスタント味噌汁をカゴの中へと放り込んだ。レジ台にカゴを乗せるとうろうろしていた彼女が戻ってきて俺の買うものを覗き込む。



「なんで味噌汁?」

「なんでもだ。突然無性に食べたくなる味って、あるだろ」



どこかで聞いた、しかし当然の話だけれど、俺たち人間の体は今まで自分が食べてきたもので出来ている。そうやって作られた俺の身体はきっと俺の意識による記憶よりも沢山、食べてきたものを覚えていて、それに飢える。俺の知らないところで、俺の全神経を使って思い出して勝手に欲しがってしまう。


でもそれはおそらく。食べた食事が栄養と排泄物になるのと同じように、何かを得るたびに何かを失ってきた俺たち人間の心が、無意識に発しているサインなんじゃないかと思う。もう一度還りたい、とか。まあその辺の想像は適当そのものだし、俺の意識から切り離されたところで勝手に反応してるから、どう考えたって分かりっこないんだが。分かりっこないんだが、そう思うことで納得する部分があるので腑に落としておいた。


ポニーテールで目測Bカップの女店員から渡されたお釣りを尻ポケットに突っ込んで、自動ドアを目指す。クーラーの効いた店から出る直前まで、まともに自炊してみようか、なんてクソ真面目なことを考えてみたりした。



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