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千年の花を  作者: 大岡俊彦
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第四章 千恵

 司郎は、再びこんこんと眠り続けていた。次目覚める時は、もっと遠くに行ってしまうのだろうか。それとも。

 千恵は司郎の寝顔を愛している。微笑みながら眠る人を、あまり知らない。司郎は眠ることが本当に好きな顔で眠る。純粋無垢な赤ん坊のようで母性本能をくすぐられる。起きてる時は毒舌だったり憎らしい口も利くけど、この寝顔を見たら、たとえ凶刃で刺そうとしても思い留まるだろう。実は、ケータイに彼の寝顔の写真があって、喧嘩したり腹立ったときはこの写真を見つめて、司郎の「本性」を思い出すようにしている位だ。

「少しの間、いってきます」

 二度と北村を私たちの領域に立ち入らせないために。

 千恵は、涅槃の寝顔にキスをした。


 出かける直前に、手紙を残そうか迷った。が、覚悟して死にに行くようでやめた。扉を閉じてから考え直し、「らんをたのむ」とだけ、走り書きを残した。



 ローカル列車の窓を、雨が叩いていた。

 新幹線が名古屋を過ぎた頃、雨が降り出した。


 千恵と北村は、近づくごとに、雨足が強くなってゆく。


 京都は雨が降っていた。


 千恵は新京極の花遊小路で、出刃包丁を買い求めた。

 北村は京都駅につき、ビデオカメラを起動させて録画できるかどうか確認した。

 弓美は舞台の上で、藤岡が書いてきた平凡な台詞を言い、照明と音楽に合わせてダンスをしていた。

 梨花は舞台の上で客席など見ず、後方の演出家席に媚態をつくっていた。


 小劇団「夜明け前は最も暗い(ゴールデンドーン)」の千秋楽は、学生が使用する会館で行われていた。稽古場同様、ここも大正期の煉瓦造りの和洋折衷で、大学に払い下げられた建物だった。藤岡が学生の時以来、公演は必ずここですることになっている。(つた)の這う門の脇には小さな看板があり、公演ポスターには「本日千秋楽」と赤いマジックで大書され、それは雨水を吸って波打っていた。

 その門からは見えない位置に、黒いバンが停まっていた。傘をさした千恵は車の脇に立ち止まり、スモークガラスの中を一瞥した。水滴の向こうの表情は見えなかった。


 看板の向こうに、傘をさした北村が待っていた。

「持ってきたか?」

 千恵はかばんの中から、出刃包丁をちらりと出して見せた。

「そちらこそ」

 北村はビデオカメラを出した。

「あと、盗んだもの返せよ。俺のハートは盗んだままでいいがな」

 北村は、いつもの笑顔で笑った。

 千恵はかばんから、ハードディスクを出して見せた。

 北村は、はじめて本当の笑顔になった。とても醜い貌だった。


 大きくて黒い、鉄の扉が開いた。

 お芝居が終わったらしい。詰めかけた人々が、口々に感想を言いながら出てきた。川の流れのように、北村と千恵の間を流れてゆく。カラフルな傘たちが、二人の間を通ってゆく。

「あの陰からとかが、いいんじゃない?」

 千恵は背後にある、前庭の低木を指した。北村は辺りを見回し、そこがベストポジションであることを確認する。その位置からは、黒いバンは見えない角度だ。

 藤岡や、衣装のままの劇団員たちがお客様たちの見送りをしていた。古い客なのか、弓美と話し込んでいた者もいたようだ。

 全ての客がはけ、団員たちは鉄の扉の向こうへと引っ込んでゆく。

 最後尾の弓美に、千恵は声をかけた。

「弓美さん」

 弓美は立ち止まり、振り返った。

 軋む大きな音を立てて、黒い鉄の扉が閉まった。

 雨の中。

 千恵と弓美の、二人劇場の開幕だ。


 千恵は後ろ手に、刃渡り三十センチの出刃包丁を持っている。北村は木の陰から、興奮しながら録画を開始した。人殺しビデオ(スナッフ・フィルム)は、偽物が多い。合法的に本物を撮れたら、ネットの海に流して課金する仕組みはいくらでも構築できる。人間が残酷な見世物を求めるのは、ローマ時代も現代も同じだ。

 弓美は体ごと、ゆっくり振り返った。

「千恵さん」

 千恵は言った。

「ごめんなさい。千秋楽の芝居、見たかったけど間に合わなくて」

「いえ。……わざわざ京都まで、何をしに?」

 千恵は傘を捨て、出刃を弓美に見せた。

「馬鹿! 早すぎるだろ! もっと引きつけてからだよ!」

 北村は慌てて画面をズームし、出刃をアップにした。

「……それ、お芝居の小道具じゃないわよね?」

 弓美はあくまでも冷静だ。

 千恵は自分の腕をその刃で軽く引いた。たちまち鮮血が滲み、雨と混ざってゆく。弓美は顔色を変えた。千恵は悲愴な覚悟で言った。

「私、あなたを殺さなきゃいけないの」

「……どうして?」

「あなた、司郎が好きなんでしょ? キスしたところ、見せつけてくれてさ」

「……それが、何か」

「あなたが死ねば、司郎のいる未来は消滅するのよ!」

 千恵は包丁を振りかぶり、一度、二度、三度、弓美に切りつけた。間合いが遠かったのか、弓美は慌てて下がって躱した。

「馬鹿! 距離が遠いからだ! 距離を詰めろ!」

 北村はビデオの画面に夢中だ。黒いバンがゆっくり近づいているのも気づかずに。

 弓美は辺りを見回した。武器になりそうなものはなかった。千恵は包丁を腰だめに構えた。

「長い角材は、全部舞台のセットに使っちゃったもんね!」

 後ずさった弓美の背後は、煉瓦の壁だ。

「なにしてんの!」

 その場に梨花が、割って入った。撤収の途中、小道具箱を抱え偶然通りかかったらしい。

 計画が狂ったと、弓美は嫌な顔をした。千恵はためらわらず、弓美に体当たりする。

「危ない!」

 梨花は体を張って千恵を止めた。千恵は梨花を傷つけないようにしたつもりだったが、間に入った梨花の二の腕に刃が当たり、ぼとぼとと赤い血が白い衣装から漏れた。

「誰か! 誰か来て!」

 梨花の大声に、劇団員たちが走ってきた。

 ややこしいことになってきた。千恵は大声で彼らを制した。

「近寄らないで! 私はこの女を殺すの!」

 藤岡も来た。梨花の血を見て、思わず彼女へ駆け寄っていた。

 弓美は自虐的に笑った。刃物を向けられているのは私なのに。


「決着をつけましょうよ。どちらが風間くんにふさわしいか」

 弓美は両手を広げた。

 千恵は白刃で切りかかった。

 弓美は千恵の手首を抑える。もつれた二人は砂利の地面へ倒れた。転がり、千恵が馬乗りになった。千恵は出刃を逆手に持ち替え、真下に突き刺した。

「この角度じゃ見えん!」

 千恵の背中が邪魔になり、北村のビデオにはその瞬間がうつらない。

 カメラの画面から目を外したそのとき、屈強な黒服の男たちが、両脇から北村の腕をがしりと掴んだ。

「なんだ! ……なんだ? 離せ! くそっ!」

 暴れても暴れても、北村の力よりも強かった。石畳にカメラが落ちた。

「なんなんだよお前ら! 離せ! 離せよ!」

 柱の影から黒い服の小柄な男が現れ、大きな拍手をした。

「赤木!」

 馬乗りの千恵は立ち上がった。出刃は、弓美の脇の砂利に突き立てられていた。

「いい芝居を見せて貰った」と赤木は笑った。

「女は誰でも大女優だな」

 千恵は肩で息をしていた。髪に睫毛に服に、雨が染みている。

「一世一代の、大芝居だったわよ」

「お前ら……お前らで、俺を嵌めたのか!」

 暴れる北村を見て、赤木は千恵と弓美に言った。

「ありがとう北村確保に協力してくれて。あと、残りの動画なんてどこにもなかったぞ」

「嘘……」

「口だけ野郎の煙幕だったな。まあ、結果オーライだ」


 千恵は弓美の手を握り、彼女を起こした。

「途中……本気で殺したらどうなるかなってちらりと思った」

「演技はね、本気じゃないと面白くないのよね」

「ふふふふ」

「……でも、やくざを巻き込んでひと芝居打つなんて、私にそんな度胸の台本が書けるなんて思わなかったわよ」

「でも、はじめて最後まで書けた台本でしょ?」

 千恵は笑った。弓美は雨と汗で濡れた額を拭った。

「もっとも、闖入者のアクシデントで、後半全部台無しになったけど」

 梨花とは藤岡と抱き合っている。千恵はようやく笑う余裕が戻ってきた。

「臨機応変。人生は、常にアドリブよ」


 北村は六人の男に押さえつけられ、無理矢理黒いバンに連行された。車を見た北村は、自分の行く先を観念したのか、抵抗するのを諦めた。

「ちょっと、あの女と最後の話、させてくれよ」と赤木に請うた。

 赤木は無言で許可した。

「千恵! 教えてくれよ!」

「……何?」

「俺に、何が足りなかった? 俺は人生の成功者だ。金もある。地位も名誉もだ。もし運命が違ってて、俺が先に風間よりアンタに出会ってたら、運命は変わったか? 俺の告白は成功してたか?」

「いいえ」

 千恵は即答した。

「たとえそうだったとしても、私は必ず司郎を見つけて、結婚してたと思う。……私はね、司郎とならホームレスになっても二人で生きていきたいって思ったのね。お互い果物を両手一杯持ってあげにいく、猿になるの。あなたとはそうは思わない。私は、司郎の中身が好きなの。あなたは何の中身もない。……私は、風間司郎の妻」

「ははは。中身ね。……中身は、いくらで買えるんだろうね」

 千恵はハードディスクを出し、北村に見せた。

「壊れるものは、だいじにしないとね」

 千恵は手を離した。石畳で壊れる筈だった。

 偶然。

 その真下は、石畳と砂利道の境目だった。偶然、ハードディスクはその真ん中に落ち、偶然、予想を超えた方向へ跳ねた。

 北村の方へ。

 北村は最後の希望のように手を伸ばした。

 黒服が取り押さえ、しかし北村の指がわずかに触れ、ハードディスクは車道へと転がった。


 ほんの偶然がなした、一瞬の出来事だった。

 千恵は思わず車道にそれを追った。

 弓美が叫んだ。

 急ブレーキをかけたが、雨の路面で減速しきれなかった大型車が、千恵を跳ねた。


 偶然はない。全て神の定めた運命である。

 そう考えるならば。

 次の瞬間、千恵の肉体は空高く舞い上がった。空中で逆さまになった光景の中、後続車がハードディスクを粉々に轢いているのを見て、千恵は安心した。


 走馬灯なるものが、死にゆく者には見えるという。千恵は、極端に時間の進行がゆっくりに感じ、逆さまの空中で司郎とのことを思い出していた。


 ゼミの催し物で、大学のE号館で出会ったこと。学園祭の立て看板を毎日描いてた日のこと。二本の缶コーヒー。ヘンテコなデュエットで意地を通しあい、大爆笑したこと。鴨川で見た夕日とユリカモメ。波の音。東京に出てきて、忙しくてすれ違ってばかりだったこと。司郎が出世した日のこと。胡蝶蘭ばかり拾っては集めてきて、沢山のいのちを救ったこと。

 ケンカしたあの日。司郎との日々を、取り戻そうとした日々。約束の地。私たちより長く生きる、千年の花。


 運命は変えられない。

 だとしても、私たちがそれをどう思うか、つまり、意味を変えることは出来る。

 千恵は司郎を守った。それが意味だ。



 千恵の体は、雨で濡れた固い地面に叩きつけられた。









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