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千年の花を  作者: 大岡俊彦
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第三章 千恵と北村

   1 黒い服の男


 朝、千恵が扉をあけると、ケータイのカメラで家を撮る人たちがいた。千恵が見ると、彼らは撮っていないふりをした。昨日のテレビを見て、場所を特定しにきた連中だろう。下衆な暇人だ。しかしテレビが下衆な興味本位なのだからしょうがない。いずれ名前や会社名も特定され、ネットに晒されるかも知れない。司郎が「治った」として、二人がこれから生きていくとして、それは非常に面倒な障害になる。

 並木道を急いだ。赤い屋根の駅舎の前、半円状の噴水広場でカメラを構えている人もいた。千恵はカメラの素人だったが、その角度から撮れば昨日のテレビと同じアングルになることはすぐに分った。

 北村医院へ、千恵は怒鳴りこむつもりだった。私たちの映像をテレビに売り、晒しものにするとはどういう了見か。


 荏原にある、北村医院は総合大病院である。清潔な外見に、最新の機材とエースが集まり、地域貢献もして、人々に慕われている。

 それがどうだろう、今日の医院には不穏な空気が漂っていた。

 黒服の男たちが、玄関前にずらりと並んでいた。だが何をするでもなく、ただ直立して後ろ手を組んでいるだけだった。強面の屈強な男たちである。SP? ヤクザ? 通院している人たちが恐る恐る目を合わせないように、しかし柱の影からは好奇の目で盗み見しながら、受付のロビーへ入ってゆく。彼らは敷地の中に入ってくる狼藉は働かず、ただ公道に立っているだけで、余計不気味だった。

 何故だか巨大な機材が、クレーンで運び出されていた。大きなトレーラーに積まれて幌を被せられる。あれはアニューなんとかいった、司郎を検査した機械のような気がした。黒服の男たちと関係があるのだろうか。

 北村に会う為指定された七階へゆくと、エレベーターの扉がひらいた先は、がらんとした何もない階だった。

「え?」

 カーペットだけが敷かれた、空のオフィスのようだった。辺りの窓は広く、荏原の街並みを見下ろせる。勿論真新しいオフィスの訳もなく、大きなものがそこに置いてあった跡や、パーティションの跡や、むき出しのコードの跡が床に刻まれている。真新しいというよりも、夜逃げしたオフィスのようだ。千恵は周囲のパーティション跡の感じから、司郎が精密検査を受けたのはこのフロアであったことを思い出していた。表に運び出されていた大きな機材は、やはりその時のものだと確信した。


「やあやあやあ千恵さん」

 機材を運び出す業者の人々に指示を出していた北村院長は、例の営業スマイルで振り返った。眼鏡の奥がひとつも笑っていない、疑似笑顔だ。

「ちょっと改装中でね。あの最新式アニューリズムフロウ、結構な買物だったんだけどなあ。実に惜しい」

「どうして……」

「あ、ちょっと高額の即金が必要になってねえ」

「どうして、テレビ局に私たちを売ったの!」

「あ、そっち? ……あれ? オンエア昨日だったのか」

「どうして……」

「落ち着いてくれよ。俺は売り飛ばした訳じゃないよ。似た症状が全国にいないか、募集をかけてみたのさ。公開捜査みたいなものだ」

「……色々調べてくれてるんじゃなかったの?」

「その一環だよ。学術的にはデルタ波の件は手詰まりだった。睡眠の研究なんて全然進んでいない。脳科学は思ったより無力だよ。そこで、テレビの力を借りたのさ」

「だからって私たちの家を公開することないでしょう!」

「モザイクかけてって頼んだ筈だけど。ディレクターが煽情的に演出したかったのかね。それは謝る。でもさ、そのことで問い合わせが十件来たそうだよ」

「……えっ」

「で、その尾鰭からアメリカに同様の症状があるって辿れたんだ。学術論文を今取り寄せ中だが、グッドニュースだ。……手術で治るらしい」

「手術で……治る?」

「脳梁切断などの脳外科手術ロボトミーは前世紀に大分失敗したから、刃物で切ったりせずに、超音波メスと薬物を組み合わせるらしい」

「本当なの? ……本当に……本当に治るの?」

「勿論。風間はSFタイムスリッパーじゃなかった。脳の病気で、しかも治せる。症名は、クロニカル・デジャヴ」

 千恵は膝から崩れ落ちそうになった。どれほどこの言葉を待っていたことか。どれほどこの言葉にすがりたかったことか。

「……ただ」

「ただ?」

「保険なんか利かない。何百万じゃ利かない。何千万単位だ」

「何千万……」

「その金を作ってた、訳じゃないけどさ」

 北村は手を広げ、がらんとなったフロアを指した。

「……ほんとうなの? ほんとうに司郎は治るの? 未来に脳が行った訳じゃなくて?」

「そうだ。だが流石に全額出すのはキツイよ。いくら預言者風間どのと、治療費全額持つ代わりに預言で儲ける、って約束はしたけどさ。日本で一番最初に治した名誉は頂くつもりだが」

「……費用は一生働いて、返します」

「無理だろ。売れっ子タレントにでもなれば別だけど」

「……」

「そこでひとつ、提案がある。俺の夢を叶えさせてくれないか?」

「夢?」

「愛とか夢は金で買えないだろ。プライスレスなのを俺にくれ」

「……どういうこと」

「君を、一晩抱かせてほしい」

「……は?」

「悪くない取引だろ? 言うのもおこがましいが、俺は人生の成功者だ。医院も大きくした、テレビも出てる、政財界ともつきあいがあるし、内緒の話だが芸能人とも寝た。でもさ、今の地位や金で買えないものがあるのさ。若い頃に手に入らなかったものだ。親友に取られた好きな人。すなわちきみだ。俺の人生で唯一手に入らなかったものが、きみなのさ」

「…………」

 千恵には一ぺんに情報が入りすぎて、頭の中で整理しきれなかった。一晩寝て取引? それでアメリカで手術して治る? 妄想の未来が消滅する?

「私は、……私は、司郎との幸せな生活に、戻りたいだけなのに」

 絞り出した言葉は、千恵の本音だった。輝く若葉の季節。桜屋敷で拾った胡蝶蘭。そんな日に戻り、永遠に司郎と幸せになることだけが、千恵の望みだというのに。

「ごめんね。色々一杯言って、気持ちが整理できないだろ。一週間待つよ。三人でアメリカに飛ぼう。返事を聞かせてくれ」

 北村はエレベーターのボタンを押した。一階に降りていたエレベーターが、上がってきた。

 千恵は黙って乗り込んだ。

 北村は扉を閉じた。閉じる直前、例の笑顔を見せた。



「お前、こんな時に女口説いてんじゃねえぞ」

 柱の影から黒い服の男が顔を出し、蛇のような目で笑った。

「やだなあ赤木さん。仕事は仕事、女はプライベートですよ。別腹別腹」

 赤木と呼ばれたその小柄な男は、煙草に火をつけながら言った。

「天気予報に六千万は、突っ込みすぎたな」

「せっかく預言者、見つけたと思ったのになあ。当たれば赤木さんとの縁も円満切れたのに」

「ふん。その前からそもそも自転車操業だろうが」

「また堕胎児の臓器、流しますよ」

「やり過ぎたから、今上の目が厳しくなってんだよ」

「でもまだこっちには虎の子の、預言者秘蔵映像がある。これで一儲けしなきゃ」

 赤木は紫煙を吐いた。

「そういえばお前、堕胎児の臓器が足りねえって、看護婦大量に孕まして数合わせたことあったな。そのころから女好きとマッチポンプ体質か」

「女なんて、やっちまえば言うこと聞きますからね。それより、下の若手さんたち下げてくれませんか。みんな不気味がって、ウチの評判が落ちる」

「落とす為にやってんだろうが。これは脅しっていうんだよ」

 赤木と呼ばれた黒い服の男は、窓際にゆき一階の黒服たちを見下ろした。

「逃げんじゃねえぞ。もう監視がついてることは分ってんだろ?」

「……冗談はよしてくださいよ赤木さん」

「……やくざの冗談は、笑えねえのが基本デフォだ」

 北村は愛想笑いした。目が笑っているか笑っていないかは、赤木にとってはどっちでも良かった。



   2 交換条件


 怒鳴りこみに行って口説かれて帰ってくるとは、千恵は思いもよらなかった。否、口説かれたというより、悪魔の契約を提示されたというべきか。

 一晩目を瞑れば、司郎は助かる。だがこれを司郎が知ったら何と言うだろう。頭を撫でて「よしよし、よく目を瞑って我慢したね」と褒めてくれるとでもいうのか? それは墓場まで持っていくべき秘密だ。死ぬ覚悟すら出来ていた千恵の、その覚悟が急にぐらついた。

 家に帰ると起きてきた司郎が、窓の蘭たちに水やりをしてくれていた。

「あ。……ありがとう」

「オッスちー坊。しかし夢の中でちー坊にまだ会えるなんて、俺は幸せ者だなあ」

 それは妄想なのよ。脳の病気なの。私は死んでないし、京都にも一人で行かない。そう叫んで司郎を抱きしめたかった。しかし千恵は何から話していいか分らず、頭の中がグルグルしていた。

「司郎の今日の天気は?」

「今年は記録的な大雪だよ。京都に行くのも、積雪八センチを乗り越えてかなくちゃ」

 その冬の京都は、幻。司郎の脳の病気なの。そう揺さぶって説明したかった。だが頭の中がグルグルするだけで、「今日は、ランチアンド映画アンド銭湯にいこう」と言うのが精一杯だった。


 夜。千恵は手を繋いで司郎と眠りにつこうとした。

「しーちゃん愛してる」

「知ってるよ?」

 千恵は司郎にキスしようとしたが、長いことしてなかったので、タイミングが分らなかった。



 弓美の滞在しているホテルの呼び鈴がなった。

 ドアの前には、藤岡が立っていた。

「どうしたの? ……何故、ここが」

「ちょっと、話、させてくれや。部屋、入っていいか?」

 そうやってすぐに土足で入ろうとするこの男の感覚が、弓美は毎度好きになれない。

「……下に喫茶店があるので、そこで」


「すまんな。制作の木下(きのした)に聞いたんや、滞在先。友達んとこ世話になっとるんやったら、そっちに泊まったらええのに」

 藤岡は喫茶店のテーブルでも、他人の事情に立ち入る物言いをする。

「半ば、仕事みたいなものなので」

 セラピストに近いのかも、と弓美は今回の奇妙な千恵の依頼のことを思っていた。演劇療法という治療法もあるくらいだ。芝居や役者は、ときに人の心を癒すことがある。

 自分の死なない条件について分ったから、この仕事は終りかも、と千恵からは言われていた。千恵さんが死なず、風間くんの「病気」が治り、自分は京都の芝居の世界に戻る、おそらくそういう結末になる筈だった。弓美は今回の滞在に自分の原稿を持ってきていたが、結局何ひとつ進まなかった。風間司郎が褒めた未来の「台本」、その眼鏡に叶うだろうものを書き連ねる自信は、今もなかった。

「どうしてわざわざ東京に来たの?」

 弓美は千恵に影響を受け、この世にひとつしかないマーブル模様がコーヒーに広がっていくのを眺めていた。それは向かいの席の藤岡と、目を合わせたくなかったからかも知れないが。

「お前に会いに来たからに決まってるやないか」

「……何の為に?」

「冷たく言いなや。俺はな、お前とやり直したいんや」

「え。今更?」

「お前はやっぱり俺の創作の女神や。お前とケンカしとった時の方がええもん書けたわ。否定されんのは辛いけど、その方がええもんになるんや。イエスマンで固めたら、新しくはならへんのや」

 弓美は自分でも気づかないうちに笑みがこぼれていた。だが理性が否定する。都合が良すぎるわこの男。

「口だけでは、なんとでも言えるでしょう?」

「……なんや、梨花と別れたらええんやろ」

「清算もせずに私を追ってきたの?」

「なんや。二兎を追う者っぽいな。一兎はもう置いてきた。こっちの一兎の方が大事やさかいな」

 藤岡の顔に嘘はなかった。もっとも戯作者というものは、息をするように嘘を吐く。いや、真実と虚飾の区別など、最初からついていないのかも知れないけれど。

 その時藤岡のケータイが鳴った。

 藤岡は相手の名前を見て無視し、一端はケータイをしまった。

 しかしもう一度鳴った。藤岡はまた無視した。

「どうぞ、出てください」と弓美は返した。

「いや、しかし」と藤岡は動揺した。

 三度目の着信だ。藤岡はばつが悪そうに電話に出た。

「もしもし」

 その相手とは、当然といえば当然だが、西山梨花だった。

「なんで東京いったん?」

「何で知ってんねん」

「私、木下さんに聞いたんよ。弓美さん追っかけてったんやって?」

 変に度胸が据わっていて、藤岡は空恐ろしかった。どこか反響のいい所で彼女がしゃべっていて、エコー気味でそう思ったのかも知れない。

「すぐ帰るやん」

「いつ?」

「すぐや」

「じゃあホンマにすぐ帰って。うち、手首切ってん」

「はあ?」

 藤岡は思わず立ち上がった。

 さきほどから梨花の声にエコーがかかっていたのは、恐れた藤岡の幻聴ではなかった。梨花はバスタブの中で手首を切り、電話をかけていたのだ。

「はよせんと、真っ赤になる」

「今すぐ風呂から出ろ! 迎えに行く!」

 電話を切った藤岡に、弓美は冷たく言った。

「痴話喧嘩をするつもりはないわ。どうぞ、もうひとつの兎を追って下さいな」

 藤岡はコーヒーを一気飲みし、荷物を抱えた。

「なあ……芝居って何や?」

「はい?」

「俺は分らん。芝居って何や。俺は、その話をお前としたかったんや」

「急にそんなこと言われても……」

 弓美はこの会話を打ち切ろうと思ったが、ひとつだけ彼に聞きたいことがあった。

「ひとつ、演出家に聞きたいことが」

「?」

「ある役が未来の死を預言されたとする。その女優は、舞台を降りてしまってもよいか?」

「降りてどうすんねん」

「未来を変えようとする」

「何の為に? ストーリーを語る為の表現やったらかまへんやん。単なる発狂とちゃうんやったらな。それは何を語る為や」

「……自分が生きる意味があるって言いたい為、かしら」

「ほんなら簡単やんけ。一所懸命やったらええんや」

 藤岡は立ち、レシートを取った。

「お前は俺をもう必要としてないかも知れんが、俺がいないと手首切る位、俺を必要としてる女もおるんや」

 弓美は素直に藤岡の「解釈」に感心していた。

「あなたは、才能のある人だったのね」

「知っとるわ。むこうの兎が落ち着いたら、改めて話しようや」

「……台本が上がる約束の日に、帰ります」

 尤も、もう東京にいる理由はなくなったので、ホテルを引き払おうとは考えていた。弓美はやはり自分の一人舞台の台本を、最後まで書き終えようと思った。


 藤岡と入れ替わりに、赤い派手なスポーツカーが、爆音とともにやってきた。風間司郎の主治医、北村院長だった。ロビーの人が気づいてサインを求めているのを見て、そういえば彼は有名人でもあったことを、テレビをあまり見ない弓美は思い出していた。

「良かった。連絡しようと思っていたんだ」

 と、藤岡が立ち去った席に北村が今度は座った。

「試したいアイデアを、思いついたんだ。まだ東京にはいるんだろ?」

「……なんでしょう。私はもう用済みかと思って、京都へ帰ろうと思いますが」

「『役』をもうひとつ、演じてくれないか」

「……はい?」

「いいかい。千恵さんから聞いたかもしれないが、風間はクロニカルデジャヴという一種の脳の病気ということが判明した。彼がいる『未来』は、彼の脳内の妄想にすぎん。それを目覚めさせるには、一種のショック療法が有効だと思うんだ」

「でも彼は、私の書いた台本を知っていたのよ?」

「同じ本や映画を見ていて、影響を受けた、という偶然はあり得るか?」

「……ないとは言い切れないけど……」

 弓美が強く自分のオリジナルだと言えないのは、自分の台本に自信がないからでもあった。

「だから彼と、キスをしてくれ」

「はい?」

「彼の『妄想の未来』では、妻を失い君に助けを求めているんだろう? 君が彼を肉体的に受け入れる、またはその後こっぴどく振れば、彼の心の傷は更にショックを与えられる。一度つくられた脳内の亀裂は、勝手には自己修復しない。地震のように揺さぶることで動かすんだ」

「……キスすればいいの? こっぴどく振ればいいの?」

「傷を上書きできる方だ。女として、どっちだと思うか」

「人によるでしょう。男としてはどっち?」

「……人によるな。学生の頃のつき合いだと、振られた方が傷が深そうだが」

「私は彼から幸せを引き出した方が変わりそうだと思いますが」

「任せた。彼を助ける為だ。やってくれるか? 金なら出す」

「……私はお金の為に芝居をやっているのではないのです。納得できることをするだけです。それで本当に彼が『治る』の? 逆行催眠は彼に大きな負担をかけたと聞くけど」

「波が起きた。これを攪拌する」

「……分かりました。でも私、京都へ帰ろうと思っていました。千恵さんにもそう言ったし。最後の挨拶という体でよいかしら。その後が心配なので、期限まで残ることに変更になりそうですが」

「高級ホテルでもどこでも泊まらせてやるさ。俺は親友を助けたい。ついでに珍しい症例を克服したいという名誉心もあるけれど、風間の心の方が大事だ」

 弓美は残ったコーヒーを飲んだ。

 北村は、前に停めた自分の車を見た。黒い車がすぐ後ろに停められ、中の黒い服の男がこちらを見ていた。赤木の配下の「監視」は、あからさまにやるようになってきていた。



「京都へ帰る前に、風間くんに挨拶したい」と弓美は千恵に言い、二人の部屋にやってきた。

「おっ! 弓美さんだ!」と、司郎は無邪気に手を振った。

 千恵は台所でお茶を淹れることにして、しばらく二人にしてあげようとした。監視カメラのスイッチも切り、好きな曲でも聞いてようとヘッドホンを被った。

 司郎の「未来」が本当だとしても、弓美さんがのちのち司郎の助けになるかも知れない。それが病気の妄想だったとしても、もはや自分は「遠い過去」として認識されているのではないか。どちらにせよ、司郎の「未来」は、千恵には遠すぎて手を触れることが出来ない。

「あ、コバラスキーさんがロシアからいらっしゃってますよ」

 司郎は空席を指して言った。

「?」

「ああ。これは二人の符牒みたいなものでね。小腹すいた、という表現」

「ふふふ」と思わず弓美は演技でなく笑った。

「擬人化によって、現実を異化するのね」

「そう! そうなんだよ! やっとこれ分かる人が現れたよ! あと風呂沸いたらピロリンて鳴る奴を『フローネ』って名づけて、フローネは今日はお暇させますよ、とかね」

「いいじゃない」

 司郎は調子に乗りはじめた。

「あとね、俺が早く家に帰ったら、『主人が早く帰ってきてしまったわ! 窓から逃げて! とうしゅたたた! あらお帰りなさい、いそいそ』と彼女が言わなきゃいけないことになってたり、それは風魔忍者の末裔の長兄という設定で、二階の窓から逃げた音をさせながら、まだ天井裏に潜んでいるという設定なんだ。あと、俺が夜中書き物してたら彼女がお茶持ってきて『ああごめんなさいばしゃーん』って書類の上に茶をぶちまけるふりをして、『私はどうしようもない女です』『そんなことないさ』『えっ……』『愛してるんだ』『えっ』と花園に倒れこむコントとか、彼女が欲求不満のときは『全裸で田園調布を走り回るぞ』とか『巨大化して街を壊すぞ』とか脅迫して、俺が銀杏にもたれて『可哀そうに』と煙草を吸う小芝居をしたり」

「面白いコンビなのね」

「自慢のコンビだよ! 伝統芸能並に練られてるから、コントの終わりは『伝・統・芸・能!』で締めたりね」

「ふふふ」

「ねえ弓美さん」

「?」

「せっかく夢の中なので夢を叶えたく。膝枕、いいですか」

「はっ。はい。どうぞ」

 弓美は戸惑いながら両膝を彼に貸した。

 司郎は目を瞑った。しばらく堪能する間もなく、「違う」と言った。

「違う?」

 司郎は起き上がり、「キスをしていい?」と聞いてきた。

 覚悟はあったので、彼を受け入れようと弓美はうなづいた。

 膝枕のあたりから、千恵は我慢できず監視カメラのスイッチを戻していた。そうして、司郎が弓美にキスする場面を、見てしまった。


 ばたばたと出てゆく音がした。

「千恵さん!」

 見られた、と弓美は思った。

 司郎はまた「違う」と言った。

「膝枕が快適で、唇も弾力があって心地良い。でも違う、ちー坊と違う。俺は太股が太くて首が痛くなる高い膝枕じゃないと幸せになれないし、唇がもうちょっと薄くて、触れたら壊れそうじゃないと幸せになれない。尻も胸も垂れてないし、たまに洗ってないときにする頭皮の匂いもぜんぜん違うよ。……君は千恵じゃないし、代わりじゃない」

 弓美はこの言葉を千恵に伝えたくて、窓を開け名を呼んだ。姿は見えなかった。


 千恵は北村のケータイにかけた。弓美からコールがあったが無視した。

「今晩、私を迎えにきてよ」



   3 タワーの夜


 赤いスポーツカーを運転しながら、北村は上機嫌だ。弓美に頼んだ「芝居」が功を奏したのか千恵に確認したかったが、それを聞くほど野暮でもなかった。助手席に獲物が乗っているという結果だけで充分だ。自分の全能感を限りなく満たしてくれる女。北村はそういう女と、それを成す自分が好きなのである。後部座席には、白い胡蝶蘭の花束が大ぶりの束で積まれていたが、千恵は思ったほど気に入らなかったらしい。

「胡蝶蘭の花束、気に入らなった? 好きだって聞いたから、結構奮発したんだけど」

「私ね、司郎から花束もらったことないの」

「そうか。びっくりしたか?」

「……水を差せば、数週間はもつわよ」

「流石、詳しいね」

「あの」

「何?」

「お酒、のみたい」

 酩酊したかった。前後不覚になりたかった。千恵は生来酒が強く、泥酔したことなど一度も経験がない。司郎が先に酔払う為、介抱するのも面倒だったし。学生の飲み会や駅で、潰れている女子に数人の男子が群がって介抱するのを見ては、「私もああなってチヤホヤされたい」と司郎にこぼしたものだ。とくに司郎の助監督時代は、散々飲まされてのタクシー帰宅だった為、洗面器や水を用意したり、酒臭い息と尻を触る手を躱すのが面倒だった。もっとも、その時勢いで抱かれていれば、今頃子供もいたかも知れない。

 酩酊したかった。意識不明の暗闇に体をただ浸す。千恵はそう決意していた。


 高層ビル上階の、夜景の見える高級レストラン、ということまでは覚えている。ワインを空け、屋上のバーでウイスキーを飲み干し、ようやく天地が回ってきた。席を立つと足下が斜めで、北村が慌てて抱え千恵は体を預けた。体格が司郎よりもがっしりして大きく、上着が煙草臭かった。そういえば北村は、千恵が昔好みだった馬面だ。今は司郎の丸い顔とタレ目の方が安心するけど、昔は自分より背の高い馬面が憧れだった。

 タクシーで二人は、北村のタワーマンションに着いた。

 四十二階までゆくエレベーターで腰をまさぐられ、玄関に入って唇を奪われた。北村は咥え煙草だったのだろう、ヤニの刺激臭を含んだ舌が千恵の舌に絡まってきて、千恵の脳はようやく痺れてきた。

「私のどこが良かったの?」

「弱いのに、張りつめているところ」

「ふふふ」

 胡蝶蘭の花束と、千恵の服が寝室の床に落ちた。


 天地がぐるぐる回っている。ずっと司郎に触られていなかったから、どこを触られても気持ちよかった。酩酊って楽しい!と思い、波に攫われた。


「レイプが何故悪か?」と、千恵は学生時代司郎と議論したことを思い出していた。司郎は無邪気に言っていた。

「痛いなら暴力だけどさ、気持ちいいならいいじゃん」

「それが駄目なの! 女は、快楽を与えてもらう男を選ぶ権利があるの!」

「?」

「感じたことが嫌悪になるの! 体は正直だから快感なだけ! 『意図しない快感』こそが女にとって暴力になるの! 女は、意図するときに、意図する人から快感を受けたいの! それ以外は全部自由権の剥奪なの!」

 電気が走る。声を上げる。千恵の心は哀しいのである。体が心の自由に出来ないことが、哀しいのである。


 ふと正気に返るとそこは暗闇で、間接照明の当たる天井が見えた。自分はベッドに横たわっていることが体感覚で分った。そして身体の上に北村が覆い被さっていた。眼鏡をしていないから、最初誰か分らなかった。

「あ」

「何?」

「なんか違う」

「?」

「でも懐かしい。……司郎とこうしたの、随分前だから」

「……」

「あ、続きを。どうぞ」

「……」

 北村にとっては最悪の間だった。

 このタイミングで、旧友の顔を浮かべさせられるとは思わなかった。いつもなら「盗む」ことに興奮する男が、余計な想像をしてしまった。北村の中心が急に萎えた。北村は焦った。焦れば焦るほど、徐々に力をうしなった。

「あ。……ごめんなさい。そういうつもりじゃ」

「……シャワー浴びてくる。水飲んで酒抜けば立つよ」

 北村はばつが悪そうに、シャワールームへ消えた。千恵は自分の間の悪さを呪い、火照ったままの体でベッドから起き上がった。


 間接照明で部分的にしか見えないが、大きな本棚とソファーとテーブルしかない、大きくてシンプルな部屋だった。メイドサービスに頼んでいるのだろう、独身男の部屋というよりモデルルームのようだった。司郎がよく「映画に出てくる部屋がスタイリッシュで奇麗なのは、美術スタッフが掃除しているからである」と教えてくれた。成程我々の部屋は放っておくとカオスに飲みこまれる。干し終えた洗濯物は、畳の上に放置しておくといつの間にかそれを中心に洗濯物の玉になり、妖怪洋服玉へと成長する。そう言えばゴミ箱がいつもどこかに行ってしまうから、司郎は「さまよえる(ロプノール)」と名づけたっけ。

 テーブルの上には北村の分厚い眼鏡と、火のついたままの煙草が灰皿にあった。白い灰が煙草一本ほどの長さで原型を保っていて、その間だけ私たちは裸で体液を混ぜ合わせていたのか、とあらためて嫌悪感が湧き上がってきた。口をゆすぎたい。

 ノートパソコンがあり、映像データがハードディスクからkazamaというフォルダにコピー中であった。遊園地で、弓美と司郎が映っていた。「キスしていいかしら?」と弓美が言ったあとの司郎の表情が、とぼけてるのかにやけてるのか分らない顔で、すぐにあの日のことが思い出された。

 千恵は何げなくその映像を見ていたが、その前はどういう流れだったのか思い出したくなり、キーボードに触ってみた。フォルダにロックがかかっていて、セキュリティ画面がすぐに起動しパスワードを要求してきた。千恵はパスワードをshirouやkazamaなどと打ってみたが駄目だった。

「北村さんにとって、司郎は何?」と、シャワールームの北村に千恵は聞いた。

「……決まってるじゃないか。親友だよ」

 best friendやfriendも弾かれた。本当に北村が司郎のことをそう思っているか、怪しいものだと千恵は以前から思っていた。いつも眼鏡の奥の目は、見えなかった。

 思い出した。弱いのに、張りつめているところ。司郎は自分のことをそう弓美に言ったのだった。さっきの北村の口説き文句は、それだったのか。

「ねえ。さっきの口説き文句、結構グッと来たんだけど」

「何が?」

「弱いのに、張りつめてる……雑誌にでも載ってたの?」

「オリジナルだよ」

 ディスプレイには、「あと一回でロックします。パスワードを英数字で入力してください」という文字が出ている。

「英数字……数字……」

 まさかね、と千恵は思いながらひとつづきの数字を入れてみた。

「嘘」

 そのまさかだった。千恵の中の疑いが、確信に変わった。


 フォルダは開き、中のものが閲覧可能になった。監視カメラを取りつけた日付から昨日のものまでがハードディスクに入っており、それがコピー中のようであった。ご丁寧に、テレビ局売約済みは別フォルダに整理されていた。

 千恵はその横のファイルを見て驚いた。司郎のカルテに混ざり、「潜伏先」とあったからである。開くとそれはアメリカ各地のホテルのリストだった。

 千恵はコピーを中断させ、逆にそれらをハードディスクにコピーしはじめた。


 二人がいるタワーマンションの階下では、黒服の男が待機している。そこへ赤木がやってきた。

「女を連れ込んだんだって?」と赤木は男たちに聞き、彼らはうなづいた。

「全く。何やってんだ」

 赤木は尖塔を仰ぎ見た。電気のついてない、北村のその部屋は把握していた。


 カラリとシャワールームの扉が開いた。北村は「自信」を取り戻していた。

「眼鏡をしない方が、いい男よ」

 千恵はそう嘯き、裸のまま机の前の椅子に座り、脚を組んだ。パソコンのモニタを体で隠そうとしたのだ。

「……そうかい?」と北村は答えた。

 眼鏡は背後の机の上。万が一モニタを見られても「コピー中」の文字はその距離からは見えていない筈だ。

「再開する前に、確認したいことが」

「あ、ゴムはつけるよ」

「そうじゃない。気になるの。……私たち、アメリカのどこへ行くの? 滞在先や病院、研究者の名前や担当のお医者さんを教えてよ」

 千恵はそう言って北村の顔を真っすぐ見た。

「どうしてそんなことを?」

「気になって、集中できない。事前にイメージしておきたいの」

 千恵は北村の顔を注意深く見ていた。嘘をつき慣れている男か、表情は変えない。嘘か本当か、目を見ただけでは分からないかも知れない。

「コロラド州の……バーンスタイン研究所。研究者の名は、リッケルト・フォン・フォーエン教授。担当医師は決まっていないが、おそらく、キャリー・グロック医師だと思う」

 北村の目だけを見ていた。千恵の目を真っすぐ見ていながら、千恵の後ろを見た気がした。それはパソコンより後ろのもの。自分の胸に視線が外れることを、女なら良く知っている。自分の目でなく他のものを見る瞬間のことを。視力的には見えていなくとも、無意識にそちらを見たのだろう。

 千恵は思わせぶりに立ち、北村に形の良い背中と尻を見せた。

「私、背中にキスされると感じるんだけど」

「ふふ。さっきも凄い声だったよ」

 北村は好色な目になり、彼女の背中に舌を這わせはじめた。

 千恵は背中で彼を遮りながら、パソコンの後ろにあるものを見た。大きな本棚だ。医学の専門書らしき本だらけだった。そこにバーンスタイン、リッケルト、キャリーなどの名を素早く見つけた。これらを継ぎ接ぎしたことを千恵は確信すると、灰皿の端の、火のついたままの煙草と、天井を見た。

 ポン。

 コピー終了の音が鳴った。

 千恵は右手でハードディスクを引き抜き、左手で火のついた煙草を持ち、机の上に素早く上った。

「な、なんだよ」

「動かないで! 雨が降ってデータが飛ぶわよ!」

「ハア?」

 左手の煙草が天井のスプリンクラーに近づけられた。自動検知ランプが赤く点灯し、ゆっくり明滅をはじめた。

「オイ、よせ。何するんだ」

「下がって!」

「よせよ」

「本当にやるわよ!」

「わ、わかった!」

 北村は三歩下がった。下がった弾みに、床に落ちたままの胡蝶蘭の花束をくしゃりと踏んだ。

「ひどい」

「あ。ごめん。花を踏んだ」

「違う。『切り花』がひどいの。私は司郎から花束を貰ったことがないのは、彼が私が鉢植えしか認めないのを知ってるから。植物は大地に根を張ってはじめて生きる。それは、彼らの一部を切り取った死体の山に過ぎない。ひどいわ。生首をくくっただけよ。そんなもの、一生いらない」

「ごめん。そこ怒ったのか」

「さっきの固有名詞は、本棚から継ぎ接ぎしたでっち上げね? バーンスタイン、リッケルト、キャリー。潜伏先って何? 私たちを売り払って、一人だけアメリカのホテルを転々と逃げようとしてたってこと?」

 ここに至ってようやく北村の顔色が変わった。

「見たのか?」

「パスワードは、04132525。オー4つの瞳がニッコニコ。どういうこと? 親友ですって? 馬鹿みたい。司郎は金づるって意味よね?」

「……見たのか?」

「どこからが嘘なの? 司郎が親友ってところから? 脳の病気ってところから? 私を好きだってところから?」

「違うよ。違う」

 北村は、「いつもの」笑顔になり千恵を見た。

 もう千恵は、ひとつも信じなかった。煙草はセンサーに押しつけられた。

「あともうひとつ司郎なら知ってる。……私、煙草嫌いなの」

 大音量の非常ベルが鳴った。

 部屋中に、どっと水飛沫が降り注いだ。

「畜生!」

 北村がパソコンを庇う前に、天井からの洪水が先に浸した。火花が走り、ばちんといった。

 千恵は素っ裸のまま、玄関に置いたかばんを持って廊下へ出た。


 地上では、赤木と黒い服の男たちが一服していた。非常ベルが鳴り響き、その後全裸の千恵が走って出ていった。

「……なんだよ、未遂かよ」

 赤木は苦笑いする。

 その数瞬あと、今度は全裸の北村が走って出てきた。

「あの女を追ってくれよ!」

「なんでだよ。お前のヘマだろうが」

 間抜けにもゴムをつけたままの男根がぶらりと下がっている。

「動画データを全部盗られた! バックアップは潰された!」

「はあ?」

「つまり金のネタ、全部盗られたんだ!」

 赤木は走って通りに出た。


 東京、夜中の六本木の住宅街にタクシーが通る筈がない。と、この辺りの住民か、降りて料金を払っているところに千恵は出くわした。

「お金はありますから、今すぐ出してください!」

 ずぶ濡れで全裸の千恵は、客を引きずり出して後部座席へ飛びこんだ。

「私を逃がして!」

 運転手は、厄介な事件に巻き込まれたと渋い顔をした。

 後方から、黒服の男たちが走ってくるのが見える。その最後方に赤木がいた。一瞬千恵は、蛇に睨まれた蛙のようになった。蛇が顔に棲む男。「本物」が一人混じっているのを千恵は見た。

「とにかく出して!」

 千恵は自力でドアを閉めた。黒い服の男たちは車にすがり、窓をバンバン叩いたりドアをねじ開けようとする。

「早く!」

 男の一人が懐から黒く固いものを出した。火花と大きな音と、窓ガラスが粉々に割れるのは同時だった。もう一発を千恵に狙い定めようとする。運転手は蒼白な顔でタクシーを急発進させた。

「住宅街で実弾使うなよ」

 赤木は舌打ちする。

「伏せて!」

 鋭い音とともに、リアウィンドウが真白になり、粉々の破片となった。

「曲がって!」

 裸の背中に細かな破片を被りながら、千恵は叫んだ。

「馬鹿野郎! ナンバーと会社名覚えとけ! そっちからカチこむんだよ!」

 銃を撃ち足りない顔の若手を、赤木はどやしつけた。もう一人の若手が車を回してきたが、おそらく手遅れだ。


 タクシーは中原街道に入り、猛スピードを出していた。横も後ろも窓のなくなった車に、激しく風が入ってきた。

 後方に追手がいないのを確認し、右手にきつく握ったままのハードディスクを確認すると、千恵はかばんからケータイを出して司郎にかけた。

「はいもしもし?」

 司郎がまぬけな声でほんとうによかった。日常の声だ。

「着替えとお金用意しといて! いまから姿くらますから!」

「はあ? ……どこに行くの?」

 千恵の頬は冷たい風を浴びていた。

 誰もいない場所へ。

 答えは、ひとつしかない。


「鳥取砂丘!」


 約束の地へ、運命が会わせる日が来た。



 赤木が北村の部屋に戻ると、水浸しになった部屋には、誰一人いなかった。

「あンの野郎……どさくさにまぎれやがって!」



   4 約束の地


 東京から夜行列車を乗り継いで、二人は約束の地、鳥取砂丘を目指していた。

 狭い四人掛けコンパートメントの固い椅子で、二人は寄り添い、手を繋いで眠った。千恵が司郎の肩に頭を預けると、司郎の匂いがした。それで安心して、千恵は深い眠りに落ちた。

 窓から夜明けの光が水平に差しこみ、千恵の意識はまどろみから醒めた。

 目を開けると、隣に司郎がいた。

「おはようちー坊」

「おはようしーちゃん」

 千恵は自分の額を、司郎の肩にこすりつけた。

「一体どうしたのさ? 急に鳥取砂丘に行くだなんて。夢の中で新婚旅行なんて、浪漫飛行だけどさ」

「……しーちゃん。私、謝らなくてはいけないことがあります」

「何?」

「恋愛の神様を、裏切ろうとしてしまいました。でも未遂です。でも、裏切ろうとしたのは事実です」

「? 浮気?」

「だっ……だって、しーちゃんだって、弓美さんとキスしたじゃない!」

「アレ? 夢の中でキスしたの、よくちー坊知ってるね」

「だって……目の前で見たもの!」

「ちー坊の魂は、まだそのへんにいるのかなあ。……でもさ、俺、違和感しか感じなかったよ」

「違和感?」

「膝枕もキスもさ、ちー坊と違う、ってやつしかなくて、全然良くなくて」

「……」

 千恵は司郎の肩に再び額をこすりつけた。

「……私と一緒」

「なに?」

「結果的一穴主義者」

「モテナイってこと?」

「うん」

「ふざけんな」

 二人は手を握り、再び眠りに落ちた。



 青い空。

 快晴。

 砂漠の黄色が、真白く目に染みる。空気がべたべたで、足が沈む。足底が熱い。鼻の中が砂っぽい匂いになる。手が乾く。

「来いいいいいいいいいいいいいたあああああああああ! とっ……とり……鳥取鳥取鳥取……砂ああああ丘ううううううううううううう!」

 千恵は真白な丘へ、両手を広げて走っていった。

「走んなよ! 砂浜だぞ!」

「ぎゃあっ!」

 千恵は足元を取られて派手に転んだ。すぐに顔面砂まみれで起き上る。

 泣いていた。

 痛い。

 生きてる。

 ここは約束の地。


「ラクダ乗るー!」

 千恵はわがままを言い、観光ラクダに乗った。

「ラクダくさーい! 結構高ーい!」

 ラクダの背中を千恵は撫でた。

「丘のぼるー!」

 下り坂を千恵は走ってゆき、その向こうに見える巨大な丘の、頂点を目指した。

「水買っときゃ良かった! いや、ポカリか!」

「な? ちっちゃな丘だろ? どこが砂漠だよ。巨大砂浜レベルだろ」

「関係ないの! ここは約束の地なの! リアルなの! 想像上の生き物じゃないの! どんなしょぼくてもキツくても、これはしーちゃんと来た、本物のリアルなの!」

 八合目から千恵はダッシュする。足を取られながら懸命に走った。砂が靴に入ってくる。


 頂上からは海が見えた。

「トップ・オブ・ザ・ワールドおおおおおおおおおおお!」

 千恵は両手を挙げた。

 北からの強い海風が二人をあおった。この風が砂を巻いて、この巨大な丘をつくったのだ。


 神さま。わたしたち、つがいになりましたので、ご報告いたします。


 千恵は両目を瞑った。ようやく、この言葉を叫ぶことができた。



 砂の丘の上で、二人は風に吹かれて座っていた。

 海の向こうは靄にかすれているが、冬場の空気の良い時なら半島も見えるかも知れない。海はまるく穏やかで、深くて濃かった。

「しかしさ」

 ようやく息の落ち着いた司郎が言った。

「何で鳥取砂丘なんだよ。砂漠の映画に出てくる、ターバン巻いた濃ィィオッサンが好きだからでしょ?」

「そうなの! 濃くて哀しいタレ目で長い睫毛がバッサバサで! 黒いターバンが風になびいて、馬が走って鞭でぴしゃーん!って」

 司郎は周りを見渡した。

「なんにもないじゃん」

 千恵は笑った。

「なんにもないから」

 ああ。そうだったのか。こんなにただ真っすぐな思いを、どうして生きてるときに理解してあげられなかったのだろう。司郎は、千恵の瞳を真っすぐに見た。相手の瞳の中に自分が見えるときは、二人が真っすぐ見ているときだ、と千恵が付き合い始めによく力説していたことを、今頃になって思い出していた。

 風はいつの間にか緩やかで、千恵の長い髪をやわらかく泳がせた。

「亜麻色の 長い髪を」

 司郎の口を歌がついて出た。

「風がやさしく つつむ」

 千恵が返歌した。

「乙女は胸に白い」

「花束を」

 ムード歌謡でもユーロビートでもない、それは二人の調子だった。

「羽根のように 丘をくだり やさしい彼のもとへ

明るい歌声は 恋をしてるから

バラ色のほほえみ 青い空 幸せな二人はよりそう

亜麻色の長い髪を 風がやさしくつつむ」

 二人は立ち上がった。司郎は千恵の意図を察して、一人で海の方へ向かって丘を走って下ってゆく。

 波打ち際まで行って、司郎は両手を広げた。

 千恵はすう、と息を吸い、大声で続きを歌った。

「乙女はァァァァァァァァァ羽根のォようにィィィィィィィィ……」

 そう歌いながら、一気に丘を駆け下りていった。

「丘を下るうううううううう……」

 走るさまは羽根のようではない。

 けれど心が羽根だ。

 千恵は両手を広げた。このまま飛べるかと思った。

「彼のもとへえええええええええええええええええええええ!」

 千恵は全力で跳んで、司郎の胸に飛びこんだ。

 はずみで二人は砂に倒れた。

 それを波が洗った。

 火照った体に冷たかった。

 幸せだった。


 小さくて汚いビジネスホテルの、狭いベッドの上でも、裸の司郎と裸で抱き合うだけで、千恵は快感で気を失いそうだった。「天才肌」と千恵が呼ぶ、その肌はまるで千恵用にオーダーメイドされたかのように、細かく凸凹まで合っている気がする。司郎の呼吸に自分の呼吸を合わせるだけで幸せだった。

 司郎はは千恵に覆いかぶさった。

「なんか懐かしい」と思わず司郎は言った。

 まさか自分と同じ感想を漏らすとは、と千恵は笑った。

「なつかしい」

 千恵は目をつぶった。



 波が、何度もなんどもおしよせた。



   5 崖


 まどろみの中、千恵は白い朝を迎えた。

 目を開けると司郎の顔があった。

「おはようしーちゃん」

「おはようちー坊」

 千恵は司郎に額をこすりつけた。

「なんだよ。匂いでもつけてんのかよ」

「しゅりしゅりしゅり。あのね、四足歩行の猿が、どうして二足歩行の人間になったか、知ってる?」

「それ、前聞いた。でも聞く」

「ある日四足歩行のメス猿がね、果物の沢山成ってる木を見つけたのね。おうちで待ってるオス猿の為に、両手で持てるだけの果物を抱えて、持って帰ろうと思ったわけ。で、両手がふさがってるから、思わずトトトーッて、二本の足で歩いたの。これが人類初の二足歩行。猿が人間になった瞬間」

「前も思ったけどさ、誰もその瞬間見てねえだろ」

「ふふ。でも私が一番好きな話」

 司郎はあくびをした。

「もうちょっと寝ていい? 昨日は張り切りすぎた」

「ばか。おやすみ」

 千恵は司郎の頭を撫でた。

 ほどなく、司郎は静かに寝息をたてはじめた。

「……朝ごはん、つくらなきゃ」


 あの黒い服の男たちから身を隠さなければならない。弓美も巻き込む訳にはいかなかった。電波で場所を特定されないよう、千恵は用心を重ねて隣県までゆき、公衆電話から弓美にかけた。

「ということで、弓美さんも逃げて下さい。京都へ隠れて下さい。以後、ケータイも解約するし、連絡を絶ちます。ほとぼりが冷めるまで、身を隠そうと思います」

「……それで、どうするの?」

「分らないけど、二人で転々としながら、司郎が治る方法を探します。北村の言ってることは全部嘘だったと考えます。学術書を探したり、夢で預言する人とか、そういう人を地道に探して話を聞いたりしようかと」

「あ、蘭の水やりはやっておきましたから」

「ありがとう。あとは大家さんに定期的にお願いするとして……」

「あと、名刺、貰ったんだけど」

「?」

「今朝、千恵さんの家の前に、黒い服の男が立ってて……」

「えっ!」

 千恵は、あの夜一人だけいた「本物」のことを思い出していた。

「背が低くて、痩せてて、目だけは鋭くて、顔に蛇がいる感じの……」

「ええ。赤木一美(かずみ)、と名前だけ書いた名刺を渡されて」

「何かされなかった?」

「いえ、何も。……ただ『北村が騒ぎで姿をくらました。彼を探している』とだけ」

「北村……を?」

「ええ」

 彼が北村を探している。おそらく、金絡みで?

「どちらにせよ、これ以上彼らと関わらない方がいいかと。では、しばらく連絡も取れないと思いますが。……色々有難うございました。お芝居の成功を、祈ります」

 千恵は電話を切った。

 寂れた日本海沿いの町は、北風がきつかった。目に入った八百屋で玉ねぎを買い、近所の食料品店を教えて貰った。貯金は無限にある訳ではない。目立たぬ所で住みこみで働かせてもらいながら、司郎の「治し方」を見つけるしかないのだろうか。

 千恵は海岸をしばらく歩いた。この浜は、鳥取砂丘に繋がっていると思うだけで、胸が締め付けられた。


「司郎ー。そろそろ起きてよお。朝ごはんつくるよー」

 ベッドでこんこんと眠る司郎を千恵は起こした。しかし彼は眠り続け、千恵の呼びかけに反応しなかった。

「しーちゃん! 起きて!」

 揺すっても叩いても耳元で言っても駄目だった。

「しーちゃん! ……しーちゃん?」

 司郎は、眠り続けたまま起きなかった。

「しーちゃん!」



 まる三日、司郎は眠り続けている。かつてまる二日眠ったことがあったが、その時司郎の中の時計が随分進んだ。今回もそうなるのだろうか。それともこのまま起きないのだとしたら。

 千恵は、コタツ机のカエルの頭を思い出していた。ウサギを置いてカエルの頭がどんどん「先」に進んでしまったら、その先にはコタツの端……崖が待っている。つまり、司郎の脳内の「時」が、寿命より先に行ってしまったら? 脳だけが死ぬのか?

 嫌な予感がする。このまま司郎は目覚めないのではないか。

 千恵は迷い、相談できる医師がいないか考えた。鳥取の病院に入院させる? しかし誰がこの「未来病」について理解できるというのだろう。北村のパソコン内から奪ってきたデータで、信用されるものだろうか。

 司郎の寝息や鼓動、脈拍は安定している。しかし植物人間とはこういうものなのではないか。医学の知識のない千恵は判断できない。脳波を取ったら何も反応しないかも知れない。

 千恵は事情を知る、司郎を精密検査してくれた出町柳医師に相談することにした。


 今度はさらに隣県の奥までいってから、電話をかけた。

 出町柳医師は今日はオフらしく、自宅の電話で繋がった。

「……バイタルが安定して、覚醒しないということは、昏睡ということですかね。意識レベルが気になります。叩いても揺すっても起きないんですね?」

「ええ」

「今後、急変ということもあります。近くの病院に入院するべきです」

「……でも、足がついたら困ります。私たちは逃げてるんです」

 出町柳の持つ受話器を、もうひとつの手が奪い、話を乗っ取った。

「どこへ逃げてるんだ? ウチのエースをそこへ派遣させようか?」

 しわがれた声の、それは北村だった。

「……『潜伏先』は、そこなのね」

「アメリカのリストも取られたし、第一空港は奴らが張ってるさ。おっと、切るなよ! 風間を『治す』方法を思いついたんだ!」

「は? まだ嘘をつくの?」

「違うよ。論理的に考えるんだよ」

「何?」

「弓美を、殺すのさ」

「……はあ?」

「考えてもみろ。『風間のいる未来』が来なきゃいいんだよ。弓美がいる未来がなければ、風間のいる未来もなくなるだろ」

「それで……治る?」

「ピカーッと光って奴が目覚めるかは知らん。少なくとも矛盾が起こる。ピカーッと光って、死ぬかも知れんが」

「何……何よそれ。そんなことある訳ないでしょう?」

「裏から手を回して、早くに釈放するようにしてやる。それに」

「それに」

「アンタの奪ったデータは、全部じゃない。こっちにストックがまだある」

 千恵は電話を切った。

 今後、北村を野放しにしていたら、再び何を利用されるか分らない。既にネットには我々の名前まで特定されている。私たちの未来を確保するには、どうすればいいのだろう?


 千恵は部屋に戻り、眠り続ける司郎の髪を何度も何度も撫でた。

 と、司郎がゆっくりと目を開けた。

「しーちゃん。しーちゃん!」

「ああ。……ちー坊。ちー坊じゃないか。久しぶりだなあ。夢でちー坊に会えるのは。嬉しい。夢の中のちー坊は、歳を取らないねえ」

 司郎はゆっくりと起き上がり、千恵を抱きよせて後ろから抱き締めた。

「ちー坊の飼い方マニュアル。ちー坊が泣いてるとき、どうして泣いてるかを聞いちゃいけない。だって言葉に出来ない感情でどうしていいか不安なんだから、言葉に出来る訳ないもんね。こういうときは『大丈夫』って後ろから抱き締めて言うんだ。『大丈夫。もう我慢しなくていいんだよ。たとえ世界中を敵に回しても、僕はきみの味方だよ』って」

「私……泣いてた?」

「涙は流してないけど、泣いてるように見えたから。……きみが生きてるときはうまく安心させられなかった。今度はうまく出来たかな」

「うん。……うん。出来たよ」

 千恵は司郎の腕に頭を預けた。

「あ、久しぶりにちー坊の膝枕、してよ!」

「膝枕?」

 千恵はベッドの上に正座し、司郎の頭を膝に乗せた。

「ああああ。これこれ。これだよ。太股がぶっとくて、頭が痛くなる膝枕。首が痛くなる膝枕」

「なにそれムカツク」

「でもそれがいいんだ」

「……」

 千恵は司郎の髪を撫でながら、思い切って聞いた。

「しーちゃん。久しぶり、って……いつぶり?」

「もう忘れたなあ……だいぶ前だ」

 千恵は唾を飲み込んだ。

「司郎。いま、いくつ?」

「ははは。もうすっかりオジンだね。きみの倍以上も生きたよ」

「……?」

 司郎は眠りこける度に、遠くへ、遠くへ行ってしまう。

「八十かな、ことし」


 その先は、崖だ。



   6 月の砂漠を


「そんなの……無茶よ!」

 弓美はケータイに千恵の着信があって驚いた。もう連絡しないと別れたばかりで、解約するといった番号からかかってくるとは思わなかった。

 その日のうちに、弓美は京都に帰ってきていた。藤岡の台本の約束の日まで、自分なりに台本を書こうかと考えていた矢先のことであった。

 月が出ていた。千恵は一人砂丘に出かけ、誰にも聞かれないように弓美に相談をもちかけたのである。

「でも北村を野放しにしない方法はこれしかない。もし……もし司郎が元に戻って、私たちの生活を取り戻せたときに、何事もなかったように暮らしていけない。私は、二人の暮らしを取り戻したいだけ」

「それで……私に台本を書けと」

「段取りは、先ほど話した感じで。あとは任せた」

「そんなにうまく行くかしら」

「台本次第、かも知れない」

「……」

「大丈夫よ。弓美さんなら書けるわよ。未来で司郎が褒めてたんだから。大丈夫」

「……」

「私は、北村と赤木さんとやらをを呼び出す」

 月が出ていた。そういえば、司郎と踊り場で踊った時も、月が出ていた。あれからどれくらい経ったのだろう。遠い過去のような気すらした。


 千恵は深呼吸し、北村に電話をかけた。

「おやおや。弓美を殺す気になったかい」

「……人殺しビデオは、金になる?」

「ほう」

「ハードディスクも持っていくわ。未来が変わったら、返す。ついでに人殺しビデオでも撮れば、テレビ局に高く売れるんじゃないの?」

「ははは。ナイスアイデアじゃないか」

「あの怖い連中を連れてくるんじゃないでしょうね?」

「馬鹿言え、むしろ追われてるんだよ。……いつやる?」

「弓美さんはお芝居の為に帰った。それが終わるまで、待ってあげるのが人情ってものでしょ」

「じゃあ、千秋楽が終わったあとか」

「ええ」

「場所は……京都か」

 千恵は心臓を刺されたのかと思った。

「京都へ一人行き、死んだ」と司郎の預言した言葉が、否応なく思い出された。だがあの言葉は、北村は聞いていない筈だ。ラベンダーオイルでマッサージ中にこぼれた、二人だけの言葉の筈だ。

 司郎の「未来脳」は治るのだろうか。

 治るとしたら、その引き金は自分の死ではないか、と千恵は秘かに思っていた。死の運命が待っていようと、それを避けることになろうと、千恵が思うことはひとつしかない。司郎と二人で生きてゆくこと。


 月が出ていた。下弦の月を過ぎ、新月が近づいていた。

 砂漠の果てに、京都が見える。



 千恵は、運命に挑む決意をした。







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