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千年の花を  作者: 大岡俊彦
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第二章 千恵と弓美


   1 マーブルは決まっているか


 最初はただのうっかりか、酷かったとしても軽い記憶障害だと思った。千恵は「賢き妻」として、夫の司郎の病気を未然に防ごうとした。

 千恵は柱の日めくりカレンダーを縦二つに裂き、右を今日の日付、左を三日先の日付に破り、司郎と自分の「距離」を把握しようとした。それが四枚破り、七枚破り、何枚先に破るべきか分からなくなってしまった。


 推定一カ月先、私は死んだ。

 ゆうべの司郎の気の狂いようが演技だとは思えない。もし自分が司郎を失ったら、と想像力豊かな千恵は思わず考えて身震いする。その壮絶なるひとりぼっちに耐えられる自信はない。それを司郎は今、未来で味わっている。

 千恵はあの夜、自分が死ぬのはたいして怖いと思わなかった。司郎と千恵という分かち難い魂が、引き離されてしまうことの方が恐怖であった。



 北村は、昨日取りつけたばかりの監視カメラの映像を眺めていた。深夜の台所で、マグカップが割れ、司郎が泣き叫ぶさまを観察していた。

 千恵は自らのコレクションの中から品の良いえんじ色の陶器を選び、熱い紅茶を注いだ。天然ハチミツを少し入れ、買い置きのフレッシュを注ぐ。白いマーブル模様が回転しながら、複雑な模様を描いていく。決して同じ軌跡を描かない、この世にひとつの模様が千恵は好きである。人はこういう時、無意識に好きな何かにすがりたくなるのだろうか。

「つまり、私は死ぬの。……雨の降る夜、病院で」

「……こないだ、一か月ぐらい先という予測だった。つまりこの夏あたりか?」

「分からない。司郎の『加速』はどんどん早まっていった。夏か、秋か、今年か、来年か。……いずれにせよ、『その日』が来て、司郎は今絶望の中にいる」

「どこの病院か、病気か、事故か」

「それも分からない。今私は、健康だとは思うけど」

「……まだ奴は、寝てるのか?」

 北村は、閉じられた襖を見た。昨日来た同じ部屋の、同じ場所に座ることになるとは思っていなかった。コタツ机のウサギは、貼られた花より遥か先のカエルの頭の隣で、倒されて横になっていた。

 千恵はうなづいた。紅茶の中のマーブル模様は深い赤と白の二色から、ミルクティー色の均一へと変わってゆく。北村は言った。

「未来は決まっていると思うか? つまり、運命はあると思うか」

「? 何を聞きたいの?」

「……大きく分けると、科学では、未来は決まっていると考える派と、未来は決まっていないと考える派がある。……近代まではごく無邪気に、未来は物理法則で計算可能だと信じられていた。『ラプラスの悪魔』という全知全能の存在を仮定し、彼が全宇宙の全粒子の位置と運動量を知った瞬間、全粒子の運動方程式を解けると。つまり過去から未来まで確定させられると」

「……今は、そう考えられていない?」

「複雑系といってね。実は粒子がみっつ以上になると、急に運動方程式を解く難易度が跳ね上がることが分った。数千、数万になると最新のコンピュータシミュレーションでもお手上げだ。たとえば台風の進路を、全空気と水粒子の運動でシミュレーションして、進路予測に役立てようとしたことがある。結果は、初期値敏感性バタフライ・エフェクトの発見だ。ほんの少し初期条件が変わるだけで、未来は全く変わってしまうことが分かった。この模様のようにね」

 北村は、マーブルの混ざった紅茶を指した。

「つまり、現代科学では未来は確定できない。運命もないと、考える」

「ロマンティックに過ぎるかも知れないけれど……」

 千恵は冷めかかった紅茶に口をつけた。ハチミツが均一に溶けていなくて、上澄みは苦かった。

「私は、司郎と出会ったのは運命だと思ってるわよ。偶然は、神さまの意志だとも」

 北村は反論する。

「つまり、君はそれを認めれば……運命は決まっている、即ち、自分の死が未来に確定していることを、認めることになる」

「……」

「だが人には自由意志がある、自由に行動できると我々は思いたいよね? 自分の意志や行動まで決まっている訳ではないと。だからひとつ行動するたびに、未来はパラレルワールドに無限に分岐して行く、という考え方が生まれた。風間はそのうちのひとつの未来、ひとつの世界線にいる、と考える。だがこれでは、奴が次々に預言を当てたことをうまく説明できない」

「……最近の未来は大体似通ってて、遠くの未来ほど分岐の遠ざかりがはげしいって考え方は?」

「量子力学的な考えだと、それが妥当とも言われてるね。風間の預言は当たった。近くの未来、工場の爆発も宝くじも、晴れも雨も相場も当てた」

「……そんなパラレルワールドって、どこにあるの?」

「それが多世界解釈の最大の欠点だな。だが第一、『未来がどこにあるか』という問いが矛盾だよな?」

 千恵は紅茶を飲み干した。底にどろりとしたハチミツがたまっていて、鼻に甘すぎた感覚が抜けた。

「……理屈はどっちでもいいわ。どうせ人は死ぬんですもの。わたしは、司郎を助けたい。孤独の中で苦しむ司郎を救いたい。それはつまり、私の死を避けるように、未来を変えればいい」

「未来改変をしたら、奴の脳の中の『未来』はどうなる?」

「……分からないけど、その時こそ『未来病』が治るときかも知れないわよ? 映画みたいにピカーッと光ってね」

「先日の精密検査の結果が出てからだが……奴の預言は単なる偶然で、脳の病気かも知れない」

 正直、北村は返答に困った。こんな話、学界でもSFでも聞いたことがない。

「虫の報せや預言者は、世界中に例があるでしょう? 彼らはひょっとすると司郎みたいに、未来と脳が一瞬繋がったりするのかも知れないわよ」

「……」

 北村は雲をつかむような思いだ。治療法が知られている、既知の何かにすがりたかった。

「科学的には、脳が未来に行くことはない」

「でも科学ってのは、多数の検体と統計と検証の結果でしょ?」

 千恵は思わず元理系の司郎の言葉を借りて反論した。

「一万回サイコロを振ることは研究出来るけど、たった一回しかサイコロを振れない人生を判断するのは、向いてないわよ」


 そのとき、襖がからりと開いた。気絶したように眠っていた司郎が起きてきたのだ。

「ちいいいいい坊おおおお! 生きてたのかあああああ!」

 司郎は再びゆうべのように取り乱し、再び千恵を強く抱き締めた。

「ちょっと待ってよ! 私はまだ生きてる! 生きてる!」

「あ。……いや、違う。これは夢だな?」

「?」

「だってちー坊が生きてる訳ないもの。これは夢だ。そうだよ。俺、夢の中でちー坊に会ってるんだね?」

 司郎は自分で納得し、落ち着いて千恵の隣に正座し、あらためて千恵をまじまじと見た。北村は席を立った。

「とりあえず俺は戻る。既知の症例を、徹底的に検索してやる」

「おう北村じゃねえか。夢の中でお前に会ってもしょうがない。帰れ帰れ」

 司郎は右手をぞんざいに振った。



   2 千年咲く花


「膝枕」

 北村を帰すと、司郎は千恵に子供のように甘えてきた。千恵は正座し、両膝を司郎に預けた。

「ああー。これだよこれ。あったかい。ちー坊の匂い。リアルぅ。これがちー坊の膝枕だよ。太い太股だから枕が高くて、首の痛くなる膝枕」

「なにそれムカツク」

「でもそれがいいんだ」

 司郎はうっとりして目をつぶり、千恵の太股を撫でた。千恵は司郎の髪を撫でた。

「ねえしーちゃん。わたしがいなくなって、何日ぐらいたつの?」

 こうなったら、司郎に詳細を聞くしかない。なるべく情報を集めて、本当に未来にいる司郎だろうが、脳の病気による妄想世界に生きる司郎だろうが、その孤独の牢獄から救わねば。

「……わかんない。……わかんないよ。時間がどれだけ経ったかなんてわかんない。時間の進み方が、分かんなくなった」

「お仕事はどうしてるの?」

「しばらく休職したよ。でも、朝起きて隣にお前がいないんだ。その意味が分からない。お前の布団は押入れに入れた。その代わり、骨壺と祭壇を置いてる。葬儀場で貰った組み立て式のやつ。あ、遺影がなくてさ。お前、写真撮らせてくれなかったから。お前のケータイの中も俺の写真しかなくてさ、横顔の写真があったから、辛うじてそれを使ったよ。最近の遺影ってjpegで納品できるのがなんかリアルでさ」

「ごはんはちゃんと食べてるの?」

 千恵は司郎が心配になった。故郷の母親みたいな台詞だと思う。

「うん。いつものパスタ屋とか、回転寿司とか、ミセスの焼肉屋とか、天然出汁のラーメン屋とか洋食屋とか。ザーサイの中華とか、最近見つけた銭湯の近くの中華とか。ラーメン食べるなら栄養のために玉子つけてねって君に言われたのを、忠実に守ってるよ。こないだ何名様ですかってバイトに聞かれて、普通に二本指出してさ、そうだ、ちー坊いないんだ、って思って。……一本出すのが、辛かった」

「……そう」

 千恵は司郎の髪を、一層優しく撫でた。

「どうしてかな。お前といたときの習慣を、俺は変えたくないんだよ。なのに、痩せる為に通ってたプール、潰れちゃったんだよ。映画も見に行かなきゃいけないやつ、お前と行こうぜって言ってたやつが一杯来る。……今でも七時一分に、必ず起きるんだ。勝手に目が覚める。君がいなくなった時刻だよ。必ずその時間に起きて、俺は君のjpegにおはようと言うんだ」

「それ以外、なにをしてるの?」

「何もしてない」

「何もしてない?」

「ずっと座ってると、夜になることもある。ただ呼吸してる。朝になるまで君とよく喋ったよね。朝焼けが出るまで、ゼミの続きをまだしてるって言ってたよね。今は朝焼けが出ても誰もいない。何も起こらずに世界が飛んでゆく。その間、俺は……ただ、生きてる」

 司郎は遠くを見た。こんな司郎の目を見るのは初めてだった。出会ってから十五年以上一緒にいたのに、こんな目の司郎は見たことがなかった。

 千恵は司郎の額に自分の額を重ねた。

 立場が逆だと想像した。司郎が死んで、自分一人永遠に残されることを。自分一人が、広い十二畳の中に、永遠にぽつりといることを。

 どうしてカエル大明神は何もしてくれないのだろう。こんなに祈っているのに。ぽろぽろと涙が出てきて、司郎の顔に落ちた。

「泣くなよちー坊。俺は今ちー坊の極上の膝枕で、至福なんだからさ」

「うん。……ごめん。ごめんね。……それで?」

「それで、もなんもないよ。それだけ。ただ時が過ぎてるのさ」

 司郎は千恵の両膝を抱きしめた。千恵は司郎を抱きしめた。

「あ、蘭!」

「? 何?」

 司郎は膝枕から起き上がり、窓一面に吊り下げられた籠の蘭の葉たちを見つめた。

「蘭は、ちゃんと水やりしてるよ!」

「え?」

「だってちー坊があんなに大事にしてたじゃないか! でも水やりの仕方が分かんなくてさ。『東京の冬はカイロ並みに乾燥する』とか言ってたのは覚えてるけど、この時期のことなんか分んなくて。下駄箱の空きスペースに詰め込んでた『趣味の園芸』すっごい調べて、育て方を調べながらやってるよ! でも週何回水やりしなきゃいけないとか、書いてなくてさ」

「籠の中の水蘚(みずごけ)が乾いて、ちょっと置いたら」

「その『ちょっと』が分かんねえだろ。塩梅がさ。水のやり過ぎは根腐れ起こすって言うし」

「よしよし、ちゃんと初心者コーナー読んだんだね」

「でも園芸書は全部花の写真ベースじゃんか。アレは普段は葉っぱと球茎バルブと根っこの生きもんだろ? 花の時季以外は緑色の生き物なんだから、それベースで見分け方とか世話の仕方教えてくれねえと分かんねえよ!」

「なんかしーちゃんが、車の見分け方分かんないって言ってる私みたい」

 司郎は立ち、窓の蘭たちを観察した。

「でもさ、新しい根や葉が出てくると分かるんだよ。こいつらは命なんだってね。水やりをするとさ、蘭菌っての?、の匂いがすごくするんだよ。ああ、こいつら喜んでるんだなあって。学校の先生みたいだよ。こいつらはちょっとずつしか成長してなくて、目を離した隙に根とかちょろっと伸ばしやがって、でも毎日観察してなくちゃそれに気づけなくて。『雑草という名の草はない』って昭和天皇の言葉をちー坊が尊敬してた意味、やっと分ってきたよ」

「……なんか、よしよし」

「いのちを君は残したんだって思うと、一個も枯らせらんない」

「……」

 千恵は司郎に、蘭のうんちくをひとつ教えてあげようと思った。

「ねえ。蘭に寿命はないって説、信じる?」

「ハア? 嘘でしょ。命でしょ? あるでしょ、寿命」

「それがね。動物の寿命って研究されてるけど、植物のことはよく分かってないのよね。蘭ってのは、球茎バルブ単位の生き物でしょ?」

「うん。オンシジウムとかデンドロビウムとかは、球茎バルブの横に新しい球茎バルブをつくって、そこから根や葉を出して、また横に球茎バルブをつくっていくよね」

「よく出来ました。ちなみに胡蝶蘭は、縦に葉っぱと塊茎バルブを足していく。つまり、旧い体に新しい生命を継ぎ足す原理で生きてるのよ。植物全体にそういう傾向あるけど。蘭って着生植物だから、余計体が自由っぽいよね」

「着生植物?」

「昔、宝来公園の(くすのき)の枝の上に生えてる草、指さしたでしょ? アレは蘭じゃないけど、熱帯のジャングルでは、枝の上とかに根を絡めて、枝の上の風通しと湿気を根から吸ってるんだよ。窓に吊ってるのは、なんとかその環境を再現しようとしてるの」

「そうだったのか。たしかクラゲってさ、成人したらまた一回幼生に戻って永遠に生きる、っていう説あるよね? 同じ体だと劣化するから、新しい体を作れば劣化しないってことか」

「そういう原理かも知れないね、永遠のいのちって。縄文杉なんて四千年生きてる訳だし」

「たしかに」

「五十歳まで確認されてる株が胡蝶蘭は現存してる。でもその原理で生きてる以上、寿命がない生き物だって言われてるんだよ。この子たちは、千年花を咲かせるって話したでしょ?」

「覚えてる。……ちょっとずつ、波のように動いてるんだねこいつら。この窓を撮影して早回ししたら、こいつらの波が撮れるな」

「そうかも。波のような、永遠のいのち」

「永遠なんて、見たことある奴いねえだろ」

「永遠の愛だって、見たことある人いないよ?」

「そりゃそうだけどさ」

「しーちゃん」

「?」

 いつもの会話のテンポに戻ってきたところで、千恵が聞いた。

「私の死んだ日のことは、思い出したくない?」

 司郎は、蘭を触りながら再び遠い目に戻った。

「また喘息の発作が起きちゃうよ。……しばらく、思い出したくない」

 千恵は、無理に司郎に聞くのは諦めた。代りに、未来に何が起きているのかについて明らかにすることにした。



   3 遥かなる砂の丘


「ランチ、アンド、映画! ランチ、アンド、映画!」

 司郎は自作の歌を歌い、小躍りしながら緑の銀杏並木をゆく。ヘンテコな歌を作詞作曲して笑わせることは、田園調布に越してから司郎に突如目覚めた才能だ。いつだったか千恵が、カキフライが亜鉛を多く含み精力回復に良いと食事に出したら、「ちんこびんびんカキフライ」というハードロックを創作しやがった。千恵は替え歌までは出来るけど、司郎は詩と曲が同時に降ってくるらしい。合間にドラムやギターの真似を入れてくるから、彼の脳内にはロックバンドがいるのだろう。CMのような小ネタソングにいいのではと千恵はよく言ったが、実際に仕事で使ったのは見たことがない。どうやら彼のリラックスが必要なようだ。つまり、司郎が自作の歌を歌っているときは、気分良く千恵に聞いて欲しいときである。


 その後、千恵がなだめたりすかしたりしながら聞いたこと。

 Xメンの続編は結構いい。

 「びっくり寿司」は潰れた。いつも店の前で「びっくり!」ってフリだけしてたが、一度も中に入ることもなく、駐車場になってしまったこと。

 司郎の会社が移転するらしい。

 胡蝶蘭をひとつ枯らしてしまい、身を切られるように落ち込んだこと。

 千恵は学生のとき、観葉植物を研究室のデスクにプレゼントしたけど、二週間で枯らしやがったことを思い出した。植物の世話や、女の気持ちの世話はこの人には無理なのだ、と諦めてはいる。だが司郎は懸命に胡蝶蘭を生かそうとしている。千恵の遺影の前に彼女の青磁器の蓋つきコップを置き、毎日水を満たして、カルキ抜きの汲み置き水代わりにして、四杯分たまったら水やりのタイミングとしているそうだ。そもそも枯らした株はウィルスで調子が悪かったものに、カイガラムシにつかれたことが詳しく聞くと分かった。濡れたティッシュで傷めないように拭き取るまではやったものの、葉裏や茎元まで確かめなかった為、急速に弱ったようだ。

 司郎は、寝て起きるたび、更に未来へ遠ざかり続けている。秋の気配が空気に混じりはじめ、ツクツクホーシたちの鳴き声だけになり、白の百日紅は花の終わりを迎えようとしているらしい。

 自分がいなくなったあとも、世界は続く。どんな人にとってもそれは事実なのだろうけど、実感として考えたことなど一度もない。何百年、何千年先のような曖昧なイメージなら湧く。けれど田園調布の樹や花たちは「その日」のあとも生き、街は少しだけ変わる。少しだけ現在と違うパラレルワールドのようだと、千恵は思う。


 司郎が並木道の途中で立ち止まった。外交官用の館の隣の、沈丁花(じんちょうげ)の垣の白い家の前だった。花を終えた、ミディ胡蝶蘭(ミニ種)の鉢が捨てられていたのである。

 司郎はしゃがみこみ、葉の裏や根の状態を確認し始めた。

「大丈夫。元気みたいだよ?」

 千恵は目を丸くした。顔ごと丸くしたかもだ。

「どうしたの? 拾うんでしょ?」と、司郎は笑う。

「しーちゃん。……一体どうしたの?」

「どうした、って?」

「こないだまでちょっと拾って来たら『ウチには何匹いると思っとるんだ。これが猫だったら猫屋敷だぞ。蘭屋敷だろウチ』って言って、花屋の『持ってってください』コーナーから拾うのすら拒否してた癖に」

 あの司郎が。花を拾うのは欲求不満の象徴だと言って、「不満げの花が咲く。欲求不満の花が咲く。不満げ咲く道恨み道」と、曼珠沙(まんじゅしゃ)()の演歌の紹介のように揶揄していた、あの司郎が。

「ちー坊は、捨て鉢を見捨てられないんだろ?」

 まるで別の未来に、司郎がいるみたいだった。それほど強く、私の死が彼を変えてしまったのだろうか。

「鉢重たいから、帰りにする。とりあえず今日はランチアンド映画で!」

 自由が丘でランチアンド映画が中止になって怒った日から、随分と経った気がしていた。司郎は夢の中で、死んだ自分とランチアンド映画を果たしに行くのだと思っている。

「ランチ、アンド、映画!」と繰り返して行進する司郎に、千恵は「リベンジ!」と合いの手を入れて踊った。

「ランチ、アンド、映画!」

「リベンジ!」



「また、鳥取砂丘行こうね」

 パスタ屋のランチの、フリードリンクのアイスティー二つを持ってきた千恵に、司郎は無造作に言った。

 洒落た赤土の壁の、水色の額縁に、いろいろな国の写真が飾ってあった。そのひとつの砂漠を司郎は見ていたのだ。千恵は驚いた。

「え? 勝手に行ったの? 鳥取砂丘! 一人で? ずるいよしーちゃん!」

「え、なんで? いたでしょちー坊? 四十九日までは魂はその辺にさまよってるって聞いて、慌てて京都から鳥取砂丘まで、行ったじゃん。一緒に魂はいたよね?」

 千恵は話を合わせた。

「あ、うん。いた。いたよ私。魂として、いた」

「そうだよね? いなかったら辛すぎるよ俺。一人で砂丘まで行って、一人で砂の丘登って、一人で写真持って夕日見て号泣してさ。そういえば千恵は砂漠を緑化したいとか、学生の頃言ってたのとか、色々、思い出してたよ」


 約束の地。

 人にはいつか、行きたい場所がある。聖地といってもいい。いつか行きたいが今は都合がつかなくて、だが人生で行くべき場所。運命というものがそこに行くチャンスを連れてくるまで、そのタイミングは訪れない。そういう心に秘めた特別な場所の事を、いつしか二人は約束の地と呼ぶようになった。

 鳥取にある遥かなる砂の丘は、千恵にとっての約束の地である。

「ホラ、忙しくて、結局新婚旅行とか行けなかったじゃん。だから新婚旅行したのさ。京都へ、砂丘へ、魂を連れてったんだ」

「うん。……ありがとう」

 京都の学生カップルにとっての聖地は、鳥取砂丘である。こう聞くと意外な顔をする人が多い。京都というからには有名な清水寺地主(じしゅ)神社(縁結び神社)や(ただす)の森(下鴨神社境内)や鴨川土手や哲学の道、誰も知らないマイナーな神社仏閣が聖地ではないかと思うだろう。それは外に住む者の幻想に過ぎない。自転車やバスで十五分で行ける場所など聖地ではないのだ。憧れとは常に、「すぐに行けない所」に立つ蜃気楼だ。

 京都でつきあう学生カップルは、もちろん葵祭や祇園祭や五山の送り火や鞍馬の火祭や吉田節分祭に、手を繋いで参加する。詩仙堂や鈴虫寺や東福寺や八坂神社にも詣でる。だがそれは聖地詣でではない。京都カップルにとって最も難易度の高いのが、鳥取砂丘デートなのである。何故なら彼氏がクルマ持ちで、朝早くに彼女の下宿に迎えにゆき、助手席で爆睡する女という暴挙に耐えながら、孤独な運転を続けて四時間、という極めて厳しい行程が必要だからだ。勿論、帰りも同じ時間がかかる。

「そこまで行ってもイベントも何もないただの砂の丘だよ?」と、司郎は全否定だった。林間学校で行って、上って下っておしまいだったと経験をぼやいてくれた。

 千恵は学生の頃、諸先輩から「彼氏に鳥取砂丘へ連れてってもらった」という話を聞き、そのたびにウットリしたものだ。千恵は埼玉出身だから古都にそもそも憧れがあった。何千年も前から京の盆地に鎮座する神様に、「我々はつがいとなりましたので、ご報告いたします」「よし、許す、永遠に栄えよ」などとすることに憧れていたのである。ところが現実の京都は、その想像のスケール外だった。山背(やましろ)盆地の神々などまだ生臭い、出雲や伊勢でも若造だ、京の若者はそれより何万年も前(一説によれば十五万年前)から砂漠である丘をご神体とするのだと。人類がいようがいるまいが、そこはすでに砂漠だったのだ。「鞍馬の山には草木一本にまで天狗がいる」という逸話に倣えば、砂丘の砂の一粒一粒に神がいる。千恵は遍在するその神に、司郎と報告しに行くことを想像していた。わたしたち、つがいとなりましたので報告いたしますと。しかし現実には、司郎の足は中古自転車流星号であり、千恵は先輩から譲られた赤い自転車五右衛門号であり、二人のバイト代で鳥取一泊は遠すぎた。

「ちー坊の部屋さ」と、司郎は千恵の思いを切って話を続けた。

「まだ誰も入ってなかったね。大家さんが掃除したんだろうね、洗剤が窓に置きっぱなしになっててさ。向かいの路地で小石拾って投げたけど、誰も出てきやしねえ」

 京都で千恵が住んだ部屋は、大学の司郎の研究棟から一ブロック離れた二階屋だ。司郎がすぐにでも泊まりに来れるようにと決めた部屋だ。案の定、ホイホイに引っかかるように司郎は布団の中に入ってきて、千恵はそのたびにときめきを覚えた。二階の南向きの曇りガラスに司郎は小石を投げる。それが合図で千恵は階段を下りてきて、共同の玄関を開ける。その小石は、夢の始まりの合図なのである。

 二人で東京に出てきて十年、一度も京都には帰れなかった。「京都は逃げない」と千恵は言ったが、それは強がりからだ。未来には、あの部屋には誰も住んでいない。それは不思議な感覚だった。

「わたしも幽霊として出てくればよかった?」

 千恵は場を明るくしようとしたが、逆効果だった。司郎は再び哀しそうな目をした。

「出てきてくれよ。マジでさ。会いたいよ」

 司郎は千恵の手を握った。この手がほどかれるなんて、想像したこともなかったのに。「ずっと一緒」なんて、あの狭いシングルベッドの中で言った癖に。鳥取砂丘にも連れてってくれなかった癖に。

「あ、でも、広瀬(ひろせ)さんに会わせてくれたのは絶対ちー坊だよね? だってあんな偶然、俺じゃ引けないもん! 運命の偶然も引き寄せるのは、お前の『引く』力だよね絶対!」

「はい?」

 下宿の向かいの電柱に、演劇のチラシが下がっていたというのだ。司郎の憧れの、一年先輩の舞台女優、広瀬弓美(ゆみ)が、一人芝居をするという告知だった。

「広瀬さん、って……あの広瀬さん?」

「そうだよ! あの人まだ京都で芝居続けてたんだよ! いやあびっくりというか、やっぱりというか、良かったというか、灯りを灯し続けてた灯台守というか……」

 広瀬弓美は、司郎の映画サークルの一年先輩であり、同時に劇団にも所属して演劇をしていた美人だ。美人と司郎は言うが、千恵から見れば齧歯類のちんちくりんに見える。色は白いけど、女としての魅力溢れるというよりは、月光のような暗さを放っている気がする。陽気で獅子座の自分とは真反対な暗い女。でもそれがいいと言って、学生時代に司郎は何度か公演に千恵をつきあわせた。その度に司郎は脚本がダメだの演出家が分かってないだの言っていた。京都学生街ではコント劇団が人気で、そっちのほうが千恵は楽しかった。二百円や三百円の木戸銭で見れる学生芝居のこと、そういえば、東京に出てきてからすっかり忘れていた。

「まだ芝居やってるの? 劇団で?」

「みんな京都からいなくなるからね。フリーって書いてあった」

 京都は学生の街である。だから皆四年でいなくなる。その後プロになった者たちはごくごく一握り。四年でなく八年居座る剛の者もいるが、どちらにせよ学生たちは新陳代謝していなくなる。劇団も、オリジナルメンバーがいなくなれば解散だ。

「集団に所属してなくて、フリーで小劇場を回るって手もあるんだねえ」

 司郎はいつも会社を辞めて独立したいとこぼしている。有能な者はフリーランスでやるのだと。それに踏切らないのは怖いとも言っていた。今の「フリー」という言葉に、いくばくかの羨望と尊敬が含まれていたのを、千恵は聞き逃さなかった。

「広瀬さんと……会ったの?」

 千恵の「広瀬さん」には、いくばくかの嫉妬とむかつきが入っていた。

「ううん。まだ公演は先だもん。でも」

「でも?」

「見に行くよ。もう一回京都行きたいし」

「……」

 未来の女。手がかりがひとつ、生まれた。



   4 未来通信


「その広瀬さんに会いに行くだって? どういうつもりで?」

 北村医院の院長室で、千恵は自分の考えを話した。北村は狼狽し、怒り始めた。

「反対だ! 時系列が変わってしまうだろ!」

「……タイムパラドクスってやつ?」

「未来ではまだ風間と広瀬さんは会っていない。いずれ会うとも言っている。それまでに君が先に会うことで、未来が変わってしまうかも知れない」

「私が死ぬという未来が変えられるなら、何でも良いと思うけど。それに、未来は変えられるんでしょ? 未来の司郎がそのときどうなってしまうかは、分からないけど」

「……ここで科学の議論をしてもしょうがないが……」

「ひとつ、実験をしてみようと思って」

「実験?」

「ウチの籐の箪笥に、メッセージを入れる。未来に影響しないように、手紙とかじゃなくて、司郎と私にしか分からないモノがいいと思う。で、司郎に未来で箪笥を開けてもらうの。現在の司郎が箪笥に触っていないことは、監視カメラで証明できるでしょ?」

「それで何をするつもりだ」

「司郎のいる未来が、私たちの直結する未来で、司郎の妄想じゃないって証明する」

「……」

「精密検査の結果は、出たんでしょ?」

 北村はカルテや書類を机の上に並べ、苦い顔をした。

「所見は特に認められません。医学的には異常がない。つまり、健康と診断します……」

「じゃ、病気じゃ、ないのね?」

「そうだ」

「良かったあ……」

 千恵は良く分からない言葉で書かれた、沢山の紙を見た。何が書かれているか分からないけど、司郎は異常ではないと保証する言葉が嬉しかった。

「ただひとつ、この脳波のところが」

「……おかしいの?」

「異常というか、ちょっと奇妙なんだ。数ヘルツ付近……デルタ波と言うのだが、多めに出ている」

「それってどういう意味?」

「デルタ波は、熟睡中に出る」

「?」

「検査中寝てたってことだ。しかし奴は普通に覚醒し、我々とも話していた」

「夢の中で私と会ってる、と司郎は現状を認識している。それと関係が?」

「夢をみているレム睡眠ではそれは出ない。俺はこの手がかりから調べようと思う」

「未来通信を成功させるわ。未来と繋がれるって証明する」


 ランチアンド映画の、ここ二、三日は最高だった。まるで学生時代に戻ったかのようだった。映画は素晴らしかったし、蘭の鉢も結局拾ってきて、うちの仲間入りを果たした。

 二人は自由が丘の銭湯へ行った。

 京都の千恵の下宿は、京都らしく風呂がなかった。二人は自転車で銀閣寺湯によく行った。銀林堂の本屋で待ち合わせ、大黒堂で買物をするか、白川通りを下って歩道橋の下のすじ肉うどんを食べるか、白川通りを上がって蛸安で大きな蛸焼きをほおばるのが、最高の幸せだった。だから今でも銭湯に行くのは、ただほっこりするだけでなく、二人の幸せを思い出させる。

「銭湯態勢をとれ!」と司郎は言い、片膝をついて肩を流すふりをして、「カコーン」とエコーをつける。一度千恵が笑ったら、何度でもやってくる。


「ビバ風呂!」

 自由が丘の銭湯を出た二人は、互いにヘンテコなポーズを決めあい、親指を立てた。

 この帰り道に司郎と歩くのは、千恵の至福のひとつである。真っすぐ長い道が、風に吹かれて心地よい。

「あ、広瀬さんの芝居、良かったよね!」

「なんだ、結局また京都行ったのか」

「ちー坊の遺影も一緒に連れてったじゃん」

「……で?」

「ん? 怒ってる?」

「だってあの人の芝居、嫌いだもん。暗くてさ」

「そこがいいんじゃん。『私は暗い川を上ってゆくのです。それは冷たく暗い川でした』」

 司郎は身振りで芝居の真似をした。

「しかし一人芝居って難しいね。自分で台本(ホン)も書かないといけないしね」

「そうなんだ」

「はじめて書いた、って言ってたよ。何年もかかって書いたって」

「だいぶひいき目に見てないすか。脚本ガーとか演出家ガーとか言ってた癖に」

「そうかな」

「そうですう」

 自分の言葉に棘が生えてるのが分かって、千恵は自分でも嫌になった。司郎は唐突に言った。

「あ、呪い干しでしょ?」

「はい?」

「籐の箪笥に入れたものの答え」

「あ……」

「あんなもの入れんなよ。箪笥開けて号泣しちゃったろうが。ただでさえ、夏祭りでタダで配ってた団扇が必ず二枚セットで置いてあったこととか、タオルが二枚セットになってたこととかで泣いてんだよ。あんなもの、大事にしまっとくなよ」

「……愛の象徴、って言ったでしょ」

 ひとつのハンガーに、二人のパンツをペアで干す、千恵独自のおまじない。司郎は黒魔術だと揶揄した。二人にしか分からない暗号は、たしかに現在から未来に届いた。

 千恵は未来の女――広瀬弓美に、会いに行く決意を固めた。



   5 劇団の事情


 うす暗い半地下の稽古場で、広瀬弓美はうんざりしていた。

 発声やダンスやストレッチや、過去の台本を読み合わせすること自体は反対ではない。基本の反復は重要だし、後輩たちに経験を積ませる育成のチャンスでもある。問題は、作家兼演出の藤岡(ふじおか)(すぐる)が、もう三週間も台本(ホン)を上げていないことだ。

 否、台本が遅い劇作家なんて掃いて捨てる程いる。弓美は台本が遅いことを表向きの理由にして、彼に不快感を表明したいのだ、と自分でも分っていた。

 劇団の人間関係は、濃く、狭い。弓美は藤岡に請われてこの劇団に移り、演出家と主演女優として意見を闘わせ、十年来の恋人として蜜月期を過ごし、倦怠期になって心移りをされた。二十歳そこそこの新人、西山(にしやま)梨花(りか)に寝取られたのだ。寝取られた、ではまるでオバサンが若い女に嫉妬しているみたいでみっともない。新鮮な方に興味を割かれ、古株の扱いに困った、と妥当に心の中で言い換えてみる。

 ダンスの振り付け中も、藤岡は露骨に梨花の腰を抱いて指導していた。周りの役者は見て見ぬ振りだ。そういうのはベッドでやれ。ここはとある物語を物語る為に集結し、肉体をそこに貸す覚悟でいる者の場だ。

 劇団「夜明け前は最も暗い(ゴールデンドーン)」は、コント集団「7」の所属だった藤岡が独立してつくった、新しい劇の集団だ。個性的な役者を引き抜き、何でもやった。大学の研究棟屋上からスクリーンを垂らして無断映写し、枯れた蓮池に水を張って、二月なのに飛び込んだ。鴨川土手を掘り起こして納涼床舞台をつくり、逮捕者を出したこともある。学生集団であることを盾に、無茶のし通しだった。それもなにも、藤岡の書く台本(ホン)が、光を放っていたからである。藤岡が大学を中退し、バイトしながら社会人劇団になる頃には、彼の語る物語から光が薄れていった。時を同じくして、弓美と彼はぎくしゃくしはじめたと思う。冷たい目で非難する古い女より、崩れた作劇でも分からずきらきらした目で見る信奉者の方が、彼には心地よかったのだろう。


「十五分、休憩しょうか」

 藤岡は手を叩いて宣言した。ダンスのダメ出しを早速梨花にしはじめ、彼女の汗を拭ってやっている。この半地下の澱んだ空気が嫌になり、弓美は外の空気を吸いに出た。

 煉瓦づくりに瓦屋根の、和洋折衷の洋館型の建物は、学生サークル棟として利用されている。古くからあるのだろう、庭は広く(すぎ)や楠がとても大きい。自転車が埋めるように置かれ、裏庭は巨木たちの呼吸音と管楽器の遠い練習音しか響いていなかった。

 そこに、千恵が待っていた。

「えっと……風間……千恵、さん?」

「あ。ごめんなさい。約束より早く来ちゃったんで、稽古終わるまで待とうと思ってたんですけど」

「あ、今丁度休憩時間で」

「じゃ、どうぞ」

 千恵は稽古場へ戻るよう促した。

「いいですよ今でも」

 弓美は一分たりとも、あの空気に戻りたくなかった。

 千恵は、ショートボブで色白の弓美を見た。稽古の直後だからか頬が上気していて、本人でも気づいていない色気があった。司郎がこういうのが好きなのは、分らなくはない。

「あの。……学生時代、風間に何度かお芝居に連れてかれました」

「あ。ありがとうございます。……風間くんは、元気かしら?」

「メールで、お伝えした通りです」

「といっても、文面では良く分からなかったんですが……脳が未来へ行く……病気?」

「どう、説明すればいいかな……」

 千恵は考えを巡らせて背すじを伸ばし、身振り手振りをはじめた。

「私は暗い川を上ってゆくのです。それは冷たく、暗い川でした」

 司郎のやって見せたのを、なんとか真似しただけだ。うまく出来てるのかすら分からない。が、さっきまで不審と警戒の目だった、弓美の顔が変わった。

「どうしてそのことばを知ってるの?……」

「……司郎が、見たって。未来で、あなたの書いた一人芝居を」

「……」

 頭では「理解」したつもりだったが、心で分かるには時間がかかる。

「だってその台詞、まだ誰にも見せていないのよ?」

「ほめて、ましたよ。良かった、って」

 弓美は今まで書いたこともない台本なるものを、何年も前から見様見真似で書き始めていた。書けない藤岡の助けになるかと思ったのだ。だが一幕ですら書き終えられなかった。白紙を前に言葉ひとつで耕作してゆく大変さと偉大さを、弓美は肌ではじめて感じた。

 その台詞は、幕開けの一行だった。何か月も呻吟して、ようやく最初の台詞を書きなおしたところなのである。何人も役者が出入りする芝居は難しいから、人数を絞るべきと考えていた。だがさらに登場人物を一人に出来ることに昨日気づいた。一人芝居になると。最初は藤岡と劇団の為だったかも知れないが、独立という可能性にも弓美は気づいたのである。それが今朝。

「……信用、します。風間くんが、私が未来に書いた一人芝居を見たってことを」

「良かった」

「で? 東京に行って風間くんに会って、私は何をすればいいかしら?」

「そのことなんですが、『役』を演じてもらえないでしょうか」

「役?」

「はい。司郎は未来で、おそらくあなたのことが気になっています。好きなのかもです。そこで、あなたが司郎を好きだと演じて、彼の心をほぐして欲しいんです」

「……?」

「目的は、その時点で過去にあった事件、現在の我々からすれば未来に起こる事件、……私が死ぬという事件の、ことのあらましを知ることです。今彼は、私の死に関する記憶がトラウマのようになっていて、私じゃ彼の心をひらけないんです。だからあなたなら、と思って」

「……もし。もしよ。その作戦が成功して、いや、成功させるつもりで私が行くんでしょうけど、それであなたの死が避けられたとして、風間くんのいる未来は消滅するの?」

「消滅したら……脳の中が現在に帰ってきてくれるかも知れない」

「……」

 とそこへ、藤岡が煙草を吸いに出てきた。

「台本はいつ頃あがるの?」と弓美は聞いた。事実を確認したかったのだが、藤岡は責められていると受け取った。

「あと二十ページが白紙なんや。大女優のアドリブで、もたしてくれや」

「無茶言わないで。……それとも本気なら、私も準備しますけど」

「あと……こんくらい」

 藤岡は、二本の指から、まだ火のつけていない煙草を抜き、弓美に示した。

「二週間なら。……二週間なら、私は東京へ行けます」

 弓美は千恵に返事をした。この困り顔の髭男から、しばらく離れたかったというのも、あるかも知れない。



   6 エチュード


 駅からの並木道を歩きながら、千恵は弓美に質問をした。

「女優さんに、聞きたいことがあるんですが」

「はい。……私で、答えられることなら」

「台本に自分が死ぬことを書かれていると知った女優は、どうしますか?」

 弓美は返答に困った。それは、今の千恵の立場のたとえであることは明らかだった。

「……正直に答えれば、未来の死を知らないように演じる、としか。その役は未来を知らないでその時点で生きている訳だから」

「そりゃそうか。じゃ、その役が預言者や医師に、死を確定的に予言されたら?」

「……台本に書かれていることから、読み取ります」

「そっか。……広瀬さんも、運命主義者なんだねえ。台本は、運命なんだ」

 千恵は銀杏の葉の隙間から透かされた太陽を見ていた。そういえば、最初にこの道を来たときによく似ている。季節は巡る。私自身を抜きにして。

「台本に書かれていないことって、どこまでアドリブでやるの?」

「どこまでって……台本によっては厳格にアドリブを許さないこともあるし、『ここ、アドリブ』ってわざわざ明記してあるのもあるし、台本が同じでも演者や演出家によって異なるし」

「じゃ、その台本じゃ納得しないって舞台から客席へ飛び出すアドリブも、あるにはあるのね?」

「……台本と、演出家次第では」

「そっか。ここ(・・)の演出家は、そんなアドリブかましたら何て言うかなあ」

 銀杏並木の終わり、桜屋敷の前までやってきた。桜屋敷というのは千恵が勝手につけた名で、門柱の左右に仁王門のように巨きな桜が植わっているところからだ。千恵は左右の桜を京都に倣って、右京と左京と名付けた。最初は右京は左京と同じくらいの巨木だったのだが、虫食いが進んだか強風の日半ばから折れてしまい、左京の三分の一ほどになってしまった。しかし桜は外皮から新しい枝を出すので、樹勢はそれから回復しつつある。家主は粋を解する人で、夜桜の時期は一発のライトを放って、暖かにライトアップしてくれる。田園調布に突如現れる幽玄だ。千恵は左京右京を愛している。あと何度、この桜を司郎と見れるのだろうといつも思う。

 そこから坂を下りて上れば、駄菓子屋の二階が二人の住処だ。

 紅葉柄の細工硝子の木戸を開け、弓美は二人の部屋に一歩を踏み入れた。

「お邪魔……します」

「アレ? 広瀬さん? ちー坊、広瀬さんまで俺の夢の中に現れたよ!」

 司郎は素っ頓狂に弓美を迎えた。

「どうぞどうぞ。この夢はさ、まだちー坊が生きてた頃の部屋なんだ。まだちー坊の匂いのする、二人の部屋。あ、でもちー坊は怒るかな。俺と二人きりで作った部屋に、他の女が入ると。ねえ?」

 司郎は無邪気に千恵に聞いた。千恵は苦笑いして小さくうなづいた。

「さて」

 弓美は司郎の座る九十度左に座った。「口説く」席である。


「ちなみに」

 弓美は桜屋敷の前で、千恵に正直に告白していた。

「私、アドリブは苦手なんです」

「えええ? 人生なんて、アドリブの連続じゃん!」

「そういうのが苦手だから、多分、台本に書かれたことをやるのが得意なのかも知れません」

「えー。臨機応変にやるだけじゃん。ちがうの?」

「エチュードなら、多少は」

「?」

「練習用に、役の設定で自由に演じてみることです。その設定内でアドリブでお話を進めてみる方法論。……だとして、設定と目的を、確認させて下さい」

「えっと……。あなたは未来のいつ時点かの弓美さんで、既に劇団を独立して一人芝居を書き終え、公演も成功させた。その後司郎はあなたを気にしている。たぶん好き。だからあなたも司郎が好きなふりをして、夢の中に現れる。彼の心を許させて、過去を聞き出すことが目的」

「…………やって、みます」


「広瀬さんは京都にいるかと思ったら、夢にまで現れるなんて! 俺、広瀬さんが深層心理的に好きなのかな?」

 司郎ははしゃいで弓美に話しかけた。

「そうだと、いいけれど」

 弓美は微笑んだ。正直な所、弓美は風間司郎のことを嫌いな訳ではない。恋人、としては考えたこともないけれど、作品づくりに真面目だった所は、同じものづくりの同志としては一目を置いている。尊敬の心を微笑みに変えるのは、難しいことではない。

「え? まじ? やっべ両想いじゃん!」

 司郎ははしゃいだ。と、千恵の目線を感じて言った。

「そんな怒るなよ。嫉妬すんじゃないよちー坊」

「別にいいいい」

 千恵は少しむくれた。弓美の前だから頬までは膨らまさなかった。

「一人で世界に放り出されてさ。今俺は海で溺れてるんだ。何かにつかまらないと死んじゃいそうなんだ。……広瀬さんなら、お前も知ってるだろ。俺はお前と出会うより前に彼女に出会ってたんだ。俺の片思いさ。それを成就したっていいだろ。むしろ、お前の知らない人より、知ってる人のほうがいいだろ」

「それが浮気の言い訳?」

「浮気ってのはさ、いるときにすることだろ。お前、いないだろ」

「……」

 エチュードの第一ラウンドは、「配役」を間違えた。千恵は同席してはならない。二人きりでやるべきだ。千恵は「お茶を淹れてくる」と席を立ち、台所に下がって居間で二人にした。北村が残した監視カメラの映像を、台所でモニタできるからだ。千恵は、しばらく台所に引きこもり、「二人芝居」の第二ラウンドを観察することにした。


「あーあ。ちー坊怒らせちゃったよ。……ごめんね広瀬さん。折角来てくれたのに変な気分にさせちゃって」

「あの。……私は、代わり?」

「?」

「千恵さんの、代わり?」

「……深層心理的には、そうかもね。代償行為? ラカンとか、そういうの広瀬さんの方が詳しいから分析でもしてくれよ。ここは夢の世界だから夢占いでもいいさ。俺は溺れてる。いやもう深海に沈んでるのかも知れない。必死で浮いてる棒切れをつかもうとしてるのさ。嫌なら波に乗ってふいっと避けてくれていいよ」

「大丈夫。……まだ、凪みたいだから」

「……あのね、俺、電車に何度も飛び込もうと思ったんだ。ホームで電車待ってんじゃん? 電車来るじゃん? ふうっと吸い込まれそうになる時あるのね? その度、いかんいかんって、柵とか柱に必死でつかまるのよ。ちー坊がよく言ってたから。自殺したら生まれ変われないって」

「それって……」

「来世でちー坊に会えなくなるのは、やだろ。……だから、俺、生きなきゃいけないんだ」

「……あなたは、ほんとうに千恵さんを愛してるのね」

「愛してる? 漫画とか映画の中の台詞だろそれ。愛ってさ、明治時代に人工的に作られた訳語なんだよ。日本になかった、輸入概念なんだ。Loveを愛って訳したから、男女も隣人も神も、同じ愛って言葉になっちゃったんだよ。別の訳語があったけどすたれたんだよなあ。あ、この話ちー坊から聞いた話なんだけど、Loveを『ご大切』と訳したんだって。俺はちー坊を、ご大切に思うのさ」

「……千恵さんは、愛されて幸せだったのね」

 千恵は台所でこの言葉を聞いていた。「愛してるなんて陳腐で言えるかっ」と司郎は、愛してるなんて全然言わなかった。ご大切に思っていたなら、毎日そう言えよな馬鹿。

 弓美は司郎の心をどうやって切り崩すか考えあぐね、話題を変えた。

「そういえば、私の芝居、ほめてくれたみたいで」

 まだ出来てもいない自分の「話」について話すのは、なんだか変な感覚だ。

「そうそう! アレ一人で書くのって、大したもんだよ! 何か下敷きがあったの?」

「いえ。その……適当よ」

「適当ってこたないだろ! 昔の小説っぽい匂いがしたよ。安倍公房とか、そんな感じ!」

「私、愛読者だって言ったことあったっけ?」

「やっぱそうか。ビンゴだ!」

 台本のことに触れるのは、弓美は危険だと感じた。タイムパラドクスになるからだ。小説家のパラドクスと呼ばれる有名なものがある。「完成した小説を読んだ男が過去に戻り、まだ書いていない作者にネタバレしたら?」というものだ。それを聞いて作者が書いてしまえば、そのアイデアはそもそも誰のものか? という矛盾だ。

 このまま台本の話を続ければ、小説家のパラドクスに陥ってしまう。思いつかず苦しんでいる話の続きや、結末を聞きたい誘惑にかられた弓美は、眩暈から思いとどまった。

「あの、……芝居のほうはどうだった?」

「アンケートにも書いたけどさ、相変わらずの安定感だよね。いつも、稽古は長いんだっけ?」

「いつもは長いけど、今回は……そうでもないかも」

「どうして?」

「えっと、自分で書いたから」

「あ、そりゃそうか」

 弓美は適時の嘘にハラハラしながら会話を進めていく。やっぱり私、アドリブ向いてない。きちんと台本を書かなくては。でも今書けなくて困っているのである。藤岡への苛立ちは、ただの浮気だけでなく、書けない奴はみっともないという、半ば自分へ向けた苛立ちでもあるのだと自己分析した。

「暗い川を、私は一人で上ってゆくのです……」

 司郎は弓美の言い方を真似てみた。いかにも自分の発声のようだと、弓美は不思議な気持ちになる。

「きみの芝居は、いつも張りつめてる。そこがいい」

「そう……かしら」

「それがね、ちー坊に似てる。だから、昔から惹かれるのかも知れない」

「ありがとう」

 千恵は、こんな意外なことを司郎の口から聞くとは思わなかった。私は司郎のそばでスライムが溶けたみたいにリラックスしていた筈だけど。

「人間は、誰もが不安なんだと思う。自分が受け入れられるかどうかについて。……ちー坊はさ、子供の頃養子に出されそうになったことがあるんだってさ。実家が貧乏でね。それがトラウマにでもなってるのかな。彼女は『捨てられてしまうもの』に敏感なんだよね。駅で配ってるティッシュやフリーペーパー、スーパーの半額コーナー、古本や古陶器や古着やバザー。まあ、貧乏性なのかも知れないけどさ、なんでもかんでも拾っては再利用しようとするんだよ。『捨てないで、まだ使えます』って言ってるって。そこの籐の箪笥も、そこの植木鉢やガラス鉢もハンガーも、山ほどの陶器も、引っ越し段ボールも胡蝶蘭も、捨てられたものを拾ってきたのさ。あ、俺も大学生協の『誰でも持ってってください』コーナーで拾った、って言ってた」

 くすり、と弓美は合いの手を入れた。

「そこギャグじゃねえし! だから彼女は、自分がいつも『役に立つ』って言いたいのね。俺のポインターになってくれたりしたのもその為だと思う。『役に立つから捨てないで』って、無意識に不安なのかも知れない。だから彼女は無意識では張りつめてるんだ。弱いのに、張りつめてる。……きみの芝居も、なんとなく同じ匂いがしたんだ」

「……ありがとう。私も、彼女も、認められたいってことかしら」

「うーん、言葉にすると平凡だけど、そういうことかな」

「ちなみに」

「?」

「私とはじめて会った時に、もう私に惚れてたと聞いたのですが」

 ぶっと司郎は紅茶を吹いた。

「誰に聞いたの? 言ってないよね?」

「そのときに、そう感じたの? 張りつめてるって」

「そんなの、超能力者じゃねえから分かんねえよ! 最初はビジュアルで好きになるに決まってるじゃん!」

「はあ」

「でもさ」

「でも」

「好みのルックスってあんじゃん。多分俺の好きな人は、そうやって不安を張りつめることでおしとどめようとする、そういう目線の人なんじゃないかと思うんだよ」

「……」

 弓美は自然と司郎の手に、自分の手を重ねた。「芝居」としてやったことではなかった。心が通じた感覚があったからだろう。逆に、司郎はびっくりして手を引いた。

「なんだよ、広瀬さん、夢の中だからって、俺の妄想通りに動かないでよ! 気持ち悪いよ!」

「きもちわるい?」

「広瀬さんは、そうやって俺をじっと見たりしないよ。いつも俺なんか見ずに、もっと高みを見てる人でしょ?」

「買い被りすぎよ」

「なんかさ、俺、自分の好きな人はすごい人だと思うから、そんな人が俺を好きになると思ってないのね。だからその人から来られると逆にひいちゃう」

 千恵は我慢しようと思ったが、台所で大声を上げてしまった。

「じゃ、私とはどうなのよ!」

「アレ? ちー坊、いたの? ちー坊は俺に勝手に告白して、俺と勝手にデートの約束を取りつけて、肉食的に迫ってきたんじゃん」

「それなりに私だって勇気出したのよ!」

「分かってるよ。分かってるから、応えたんじゃないか」

「……」

 このエチュードのセッションに、何か意味があったのだろうか。司郎の千恵への深い理解を知り、喪失感を増しただけではないのか。弓美は分からなくなってきた。しかし弓美と司郎の心は、少し深い所で触れたような感触はあった。


 次の日も、次の日も、千恵は弓美と司郎を会わせた。彼女の宿代は千恵が持ち、渋谷の東急デパートの屋上や自由が丘でデートをさせてみたのである。途中で急に司郎が「遊園地デートだ!」と思いつき、今日はそのまま遊園地へ来ていた。


 いつも司郎は思いつきで行動する。慌てて北村に連絡を取った。北村はビデオカメラと盗聴マイクを持ってきて、その記録を録ることにした。ついでに、それをモニタしながら千恵が指示を出せるよう、小さなイヤホンを弓美に仕込んでおいた。

「どうなんだ風間は?」と、北村が千恵に聞いた。

「そろそろ踏み込ませようかと」

 司郎はずっと煮え切らないため、弓美に大胆に迫ってみるよう指示してみた。弓美はベンチに座る司郎の隣に座った。

「キスしていいかしら?」

「は、はい?」

「私、あなたのことが好きになったみたいなんです。いいでしょう?」

「それはマズイよ」

「何が?」

「ちー坊が怒る」

「あなたはどう思ってるの? 私のこと」

「そりゃ、好きですよ。昔から」

「ではキスをしましょう」

「いやいやいや、やっぱ無理だよ。不自然でしょ! もっと自然にこう……」

「あなたの心に千恵さんが、まだいるの?」

「……そう、だろうね」

「千恵さんは、病気で亡くなったの?」

 思わず千恵は体を固くした。

 司郎は首を振った。

「……まだ『他人』に言えるほど、整理出来てない」

 司郎はベンチの上で心を閉ざした。千恵の「死後」どれくらい経つのか不明だが、司郎の心は現実を進めることを、いまだ拒否している。


「なだめてもすかしても、強引に切り込んでも、司郎が傷つくだけか……」

 千恵と弓美は作戦会議を喫茶店でしていた。

「すいません」

「謝らなくてもいいんです。そもそも私の無茶苦茶な頼みなんだから」と千恵はため息をついた。

「……私、思ったんですが」と弓美は切り出した。

「なんでしょう」

「こんなに彼と深く話したのは初めてなんですけど……風間くんは外から分からないほど、繊細な人なんですね」

「そう? そうでしょ?」

 千恵は自慢げになった。好きな人のことをはじめて褒められたかのようだ。

「ああ見えて、ちんちくりんだけど、心が繊細なのよね。しかもつくるものの理想が高くて、青っ白い炎が出るのよ! 人の気持ちに敏感で、ベルベットのように優しく心に触れて……」

 不意に千恵は言葉を止めた。

「?」

「弓美さんも、司郎に惚れた?」

「……いえ」

 そう百パーセント言い切れるか、弓美には分からない。さっきは演技でキスしようとしていた。だが演技とは、百パーセントの嘘では出来ないものである。何か芯をつくり、その周りに増幅されたものをつくってゆく。自分の心をコントロールしている自分と、心の自分が、今弓美の中で危うく溶けかかっていることを弓美は自覚している。むしろ、「いえ」と答えた自分が演技ではないかと、自分で疑う。



   7 巻き戻す時間


 その夜は、司郎が「司郎鍋」をつくる、と言い出した。司郎鍋とは、テキトー飯しかつくらなかった千恵(司郎はそれを悪魔デビルめしと呼んだ)に、ある日司郎が切れて「こうやって作るんだよ!」とつくってみせた鍋のことである。

 出汁味噌ベースの大きな味噌汁を想像すると大体近い。鍋底に、表面に包丁を入れた(旨味が出やすくなる)羅臼昆布、その上に牛蒡と白菜など根菜と油揚げを下煮してベースを作る。じゃが芋を入れその出汁を染みさせ、野菜をなんでもかんでも投入(千恵はインゲンと小松菜がお気に入り)、黒豚を片面焼き、または鶏の皮面だけ焼いて脂を落としてから投入。出汁味噌を崩しながら溶かす。春菊またはミツバまたは水菜を上にどっさり積み、しなった頃に、刻み九条葱と大根おろし、旭ポン酢で頂く。あまりの旨さに「司郎子、結婚してくれ。仕事なんて辞めて家に入れ」と千恵がプロポーズしたという一品である。 千恵が褒めたので、弓美にも褒めて貰いたいのだろう。

 田園調布のスーパーで、食材を買い揃える司郎を横目に、千恵と弓美はフルーツを選んでいた。弓美は無邪気に二人の馴れ初めを聞いてみた。

「どうやって、風間くんを好きになったの?」

「えっと、最初は同じゼミだったの。教養でね。で、ヘンテコに面白いこと言うし、酔わせたら面白いから、風間さん面白いーって言ってただけなのね」

 ある年末のコンパのこと。工事中のベニヤ板の狭いカラオケボックスで、ゼミの皆と歌ったときだ。「亜麻色の髪の乙女」とタイトルが出たので、司郎と千恵が同時にマイクを取って立った。

「被ったってこと?」

「いいえ」

 千恵は当時流行の、島谷ひとみバージョンの「亜麻色の髪の乙女」、司郎はヴィレッジ・シンガーズのオリジナル版を歌うつもりだったのだ。酔っていたのでその時どっちバージョンの前奏が鳴っていたかは定かではない。

「亜麻ああ色のうううう」と司郎が甘く太い声で歌えば、「長いッ髪をッッ!」と千恵はダンサブルに割りこむ。お互いがお互いに譲らなかったので、ユーロビートとムーディー歌謡が「風がやッさしッくつつうううむううううう」でハモらざるを得ず、爆笑を取った。そのペースで、意地で二人とも一曲歌い切り、それがはじめてのデュエットだった。

 弓美は、ムーディーかつダンサブルな司郎を想像して一人笑った。

「意気投合、というやつかしらね。リズムが合うって大事よね。まあその時は単なる面白い人って感じだけだったんだけど」

 学園祭の一か月前。司郎は自分の監督した自主映画の立て看板を描いていた。文字だけじゃなく、アクリルで絵を全面に描く「映画っぽい看板」をだ。立て看板の場所取りは熾烈だから、先に真っ白な看板で場所取りだけして、あとから脚立でペンキ職人よろしく毎日絵を描いていたのである。

「毎日少しずつ完成してくるの見てたら、だいぶ気になるでしょ」

 そういえばそんなことやってたなあ、と弓美は懐かしく思い出していた。

 冷たい雨の日も司郎は傘をさして描いていた。雨でアクリルを溶かして、にじみをつくり淡い背景を描いていたのだ。缶コーヒー二本が脚立に置かれた。横顔を見に来た、千恵の差し入れだった。

「その時から深く話すようになって、あとはトントン拍子で」

「彼らしいわね」

「でしょ」

 千恵は思い出して笑った。そうして、その笑顔で弓美に言った。

「私ね、もしかしたら……」

 笑顔が突然曇った。

「あれ? ……私、助からないのかな。……私、後釜を育ててる?」

「……?」

「私、司郎の引継ぎを、あなたに頼もうとしてるの?」

 突然、千恵は大粒の涙をぼろぼろとこぼしはじめた。

「あれ? あれ?……」

 弓美は慌てて千恵に何か言おうとした。

 そこへ司郎が、空気を読まずに滑り込んできた。

「阿波尾鶏の軟骨つくねゲット!」

 司郎は千恵が涙を流してるのに気づいた。

「どうしたの? ケンカしたの?」

「ホントしーちゃんは空気読めないんだから!」

 千恵は涙を拭い、手に持った桃を司郎の籠に入れようとした。

 そこで手が滑った。

「あっ」

 熟した桃は磨かれた床に落ち、ぐしゃりと音を立てた。

「あーごめんなさい、勿体ない……」

 弓美は桃を拾った。

「しょうがない。時間は、巻き戻せないのだし」

 籠に入れられた潰れた白桃を見て、千恵はさらに大きな声をあげた。

「ああっ!」

「?」

「しーちゃん! キャトルミューティレイション!」

「はあ?」と司郎が答えた。

「戻せるよ! 時間! UFOにさらわれたとか言ってるやつ! テキサスとかでさ!」

「?」

 千恵はUFO番組のナレーションのように語り始めた。

「一見何もなかったかのように見えるテキサスの夫婦が、体に異変を訴え始めた。おかしいと思った医師が催眠術をかけると、失われた彼らの記憶が! それはUFOにさらわれた夜の記憶だったのだ……! じゃんじゃーーーーん!」

「? ……逆行催眠?」

「それ!」

「?」

「しーちゃんの精神を、こっちまで戻すのよ! 台本を、巻き戻すの!」



   8 逆行催眠


 逆行催眠というのは、心理療法的には退行催眠という。過去にうけたあまりにも酷い心的ストレスを、脳は封印して「なかったこと」にする機能がある。無意識が行う為、本人は気づかない。傷があまりに大きいと顕在意識に影響し、本人の気づかない所で精神をおかしくさせてゆく。本人には制御できず、原因が不明なのだ。退行催眠は、催眠術によって得た変性トランス意識下で、無意識が行った心的抑圧を目に見えるようにし、そのことと現在の影響を結びつけることで、過去の原因の影響を調べる方法だ。

 村井(むらい)診療所の前で、司郎は千恵に言った。

「逆行催眠でどんどん古い過去に遡ると、0歳、-1歳……ってなって、前世の記憶が出てくる人もいるらしいねえ。前世で俺はやっぱちー坊と夫婦だったね?」

 千恵は答える。

「前世で私は司郎に非道いことをしたから、今司郎にべったり世話してあげることで、カルマを果たしてるのよきっと」

「で、どうする? 俺がUFOにさらわれてて、銀色のチップ埋めこまれてたら」

「……そのUFOを、撃ち落す」

 昭和の古い木造建築の、杉板の白い外壁が印象的な心理療法所だった。「赤ひげがいそう」と司郎が言った。昭和のつくりだから庭が広く、庭師が整えている。赤い実のなる南天(なんてん)が鬼門のトイレと、裏鬼門の玄関に植えられていて、千恵は時代を感じた。

 黒い木張りの廊下を進むと、北村と心理療法士の村井が出迎えた。千恵は、北村に紹介された村井に尋ねた。

「で、どんどん巻き戻していけば、司郎は現在に『帰還』できるんですか?」

 村井は答えた。

「それは分りません。そもそも過去のトラウマに触れて、余計辛い目に遭うこともあります」

「よく、過去のトラウマを思い出して、向き合う、とかあるじゃないですか」

「思い出すことが重要ではないのです。そこに向き合う方が、何倍もエネルギーがいります。私たちは向き合うことのサポートが、どちらかといえばメインです」

 司郎が言う。

「催眠術がどうやってかかるか、科学じゃ解明されてねえらしいな。まあ、針や全身麻酔が何故かかるかも分かってねえらしいし」

「民間療法でも効果が出りゃ、なんでもいいさ」と北村はドライだ。

「てことは、トラウマに触れることは危険?」と千恵は心配した。

「やってみないと分りません。傷は痛いものです。様子を見ながら徐々にやるしか」

「うわごとにすらヒントがあるかも知れん。ビデオを既にセットしておいた」と北村は確認する。

 千恵はうなづいた。仮に「現在」に戻って来れないとしても、自分の死に関する情報が、司郎の口からもたらされる可能性はある。


 暗い部屋の深いソファーに、司郎は体を沈めされられた。全身を包むようになっていて、リラックスしないと駄目なんだな、と司郎は理解した。北村はビデオの暗視スイッチを入れると千恵とともに部屋を出、司郎と村井は二人になった。蝋燭の火が揺れて影をつくり、アロマが焚かれた。

「銀の懐中時計でも揺らすんすか?」と司郎は尋ねる。

「そういうクラシックな人もいるでしょうけど、私はヘミシンクというノイズを使います」

 コンポから、ラジオの雑音のような、周期性があるようなないような音が流れてきた。幽体アストラルボディ離脱の研究をした、モンロー研究所でつくられた音で、瞑想訓練に使う人もいるそうだ。

「では目を閉じているか開いているかの中間くらいにしてください。体をしめつけるベルトも緩めましょうか……」


 北村と千恵は、廊下の奥の待合スペースにいた。明り取りのステンドグラスが千恵は気に入っていた。

壁には小さなガラス張りの温室があり、ジャングルのグロテスクな珍花が育てられていて、千恵はテンションが上がった。いっとき、千恵は食虫植物に凝ったことがある。蝿捕草(はえとりそう)(うつぼ)(かずら)など日本で手に入りやすいものをとくに集めた。蚊退治にならないかと思ったからだ(のち、ミントが蚊を避けると知り、沢山植えては何でも料理に、たとえば茹でた蕎麦にも入れた)。そのグロテスクさに、別の基準の美しさを見出したからでもある。学生時代に、京都植物園に千年に一度級の巨大ラフレシアが来たことがあり、司郎と見に行った。腐臭を出して虫を引きつける食虫花、と千恵は期待していたのだが、実際はただ腐臭を出すだけの大きな花に過ぎなかった。その不気味な外見を「ぶつぶつがキモチワルイ」と司郎は感想を漏らし、千恵はそれを逆に美しいと感じた。大体、花は美しいから良いのだろうか? 花は、近くで見れば見るほどグロテスクなものである。遠目に目立つ色だから、美しく見えるだけなのかも知れない。それは、生命すべてに言えることなのかも知れない。

 自動噴霧装置がきしんだ音を立てて動き始めた。これ欲しい、と千恵はその様子をグロテスクで毒々しい花たちから目を移して思っていた。

「しかし……このタイミングで言うけれど、まさか黒川さんと偶然再会するとは思わなかったよ」と、北村が千恵の隣に立って言った。

「偶然も、あるものねえ。もっとも私は引きはいい方だけど」と千恵は世間話に応じた。

「まさか風間と結婚してるとは思わなかったよ。昔から仲は良さそうだったけどさ」

「籍入れただけで、いわゆる結婚的な儀式、なんにもしてないけどね。まあ、事実婚というか」

「……まさかあのとき、俺を二秒で振るとは思わなかったよ」

「……私は司郎が好きだったので」

 千恵は目を合わせなかった。学生時代のこの話題は、なるべく避けてきたつもりだった。司郎には一応当時「北村さんが言い寄ったけど一秒で断った」と報告はした。それで何もかも終わりだと千恵は思っていたが、十年も前のことを蒸し返してくるとは。

「俺は結構真面目に、黒川さんに惚れてたんだけど」

「……私は、司郎が好きだったので」

 次に何を言われても、同じ台詞で目を合わせずに言うつもりだった。一方的な三角関係をここに持ち込まれても、困るだけだ。

 とその時、診察室で司郎の叫び声がした。千恵は走った。


「しーちゃん!」

 司郎は叫び、暴れていた。

 村井が抑えるので精一杯だった。喘息の発作も起こしていた。

「なんでだよ! なんで死んだんだよ! なんで目覚めないんだよ! 一緒に家へ帰ろうよ! もう病院に一週間もいるの飽きただろ? 家へ帰ろうよ! 手術は終ったんだから、麻酔から目覚めろよ! 一生分お前の名前を呼んだよ! 俺の半分がもぎ取られた! 俺を一人にしないでくれよおお!」

 はげしい咳込みと言葉が乱れ、千恵が受け取った言葉の大意はこうであった。千恵はかばんから吸入薬を出し、司郎に吸わせた。

「しーちゃん! 落ち着いて! 私はここにいる! 生きてるから! 生きてるから!」

「ちー坊! なんで俺はお前を一人にしたんだ!」

 司郎はそこで気絶した。



   9 ラベンダーの香り


 大事をとって、夕方まで村井診療所で過ごし、二人は家に帰ってきた。

 失敗だった。時を巻き戻すことを、司郎の無意識は極端に拒否した。ブラックホールの特異点に近づくように、無限大のエネルギーを必要とし、特異点、「千恵の死」を超えてそれ以前に戻ることを拒否したのである。

 千恵は司郎を布団に寝かせ、背中にラベンダーオイルをたっぷり塗って、マッサージをしはじめた。

 元々司郎が、千恵が腰を痛めたときマッサージしてくれたのがはじまりで、二人は互いのマッサージをよくした。司郎の按摩はゴールドフィンガーで、千恵はうっとりした。気づいたら朝で、「時間どろぼう」と千恵はほめてけなしたものだ。千恵はツボの古本で勉強し、司郎が喘息気味のときは、決まって肺兪(はいゆ)という肩甲骨中央の高さの背骨のツボと、その周辺の脇筋が凝っていることを経験的に知った。それをほぐしてやると楽になることも。

「あああ久しぶりだようちー坊のあんまああああ。これがないと背中が楽になんないよううううう」

 やはり背中全体が張っていた。これじゃ血もリンパも循環しない。流れないドブ川になってしまう。

 千恵は司郎の両足首を左右に十回ずつ大きく回してほぐし、足底外縁部、小指から踵までをこすってほぐしてあげた。普段地面から受ける反対のベクトル、つまり外側から内側にこすると気持ち良い。末端から中央に効かせる方法だ(諸君も自分でやるだけで気持ちいいからやってみたまえ)。

「ごめんね司郎。無茶だった。心の傷を癒すのは時間なのに、それを巻き戻すのは最悪だったかも。許してね……」

「はうううう気持ちいいいいいい」

 ラベンダーオイルを使うのは千恵のオリジナルだ。タイマッサージなどでは滑りを良くする為に油を使うが、それをリラックス安眠効果のあるラベンダー配合にしたのである。植物の知恵である。西洋の薬草ハーブの成分は、水溶性のものはお茶にして、油溶性のものはオイルに溶かす。これらの成分は自然治癒力を高めることがある。自然治癒力自体、科学では解明されていないもののひとつだ。医者は「治す」のではなく、自然治癒するように体内の化学平衡を整えることしか出来ない。治すのは結局自分のいのちだ。千恵は植物、いのちの力を、睡眠時間がわずかだった司郎によく貸した。

 司郎がふと囁いた。

「ちー坊。なんで一人で京都に行ったの?」

「え?」

 千恵はもう一度その言葉を聞き返したが、司郎はマッサージとラベンダーの複合効果で、深い眠りに落ちていた。

「…………」

 逆行催眠そのものは失敗だったが、副産物を得た。

 私は雨の降る夜、病院で死ぬ。

 私は手術のあと一週間、麻酔から覚めず、死ぬ。

 私は司郎を一人にして、いなくなった。

 私は一人で、京都に行った。

 これだけの言葉。これが、司郎の残した手がかり。


 つまり、私一人で京都に一生行かなければ、悲劇を回避できる。



 その夜、テレビを何気なくつけた千恵は驚いた。

「しーちゃんしーちゃん! 『引いた』!」

 それは「アンビリーバブルファイルX」という世界の不思議な現象を集めたバラエティー番組だった。「ファイルナンバー95 三日先から来た男」のタイトルが躍り、千恵は慌てて司郎を呼んだ。

 二人はテレビの前に正座し、固唾を飲んだ。再現ドラマがはじまり、番組のナレーションが高らかに解説をはじめた。

「東京都に住むKさんは、ある日耐えがたい頭痛を訴え、記憶障害と診断された。だが彼の証言から、驚くべきことが分かったのだ。彼は宝くじの番号を当て、川崎工場の生中継中の爆発事故も言い当てた」

「ん?……」

「なんと彼には、三日先の記憶があったのだ!」

「これって……」

 千恵の不安は的中した。

「Kさんの住む街、そしてこれが家」と紹介された映像は、モザイクこそかかっていたものの、我が家と田園調布駅だったからである。

「知ってる場所がテレビに出るとテンション上がるよね」なんて司郎が呑気に言っているが、そんな場合ではなかった。「実際の映像」と称して暗視カメラで撮られた台所、司郎がマグカップを落として割り、千恵を抱きしめたあの夜が映し出されていた。

 脳科学者として、のうのうと北村院長がテレビの中で解説していた。

「北村さんが……私たちを売ったの?」


 悲劇の運命を脱したと、一時は千恵は思った。自分が死なない未来は見えた。だが司郎の「治し方」はいまだ何も見えていない。


 夜の闇が、二人の運命を覆いはじめていた。








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