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千年の花を  作者: 大岡俊彦
1/5

第一章 千恵と司郎

ある人の思い出を、ここにおさめました。


   1 引っ越しの日


 五月の緑は美しい。

 一斉に新葉を出した、銀杏(いちょう)のトンネルが二人を迎えた。


 陽の光を透かし、きらきらと波のように輝く萌黄色たちを、()()は引っ越しトラックから見つめていた。樹齢九十年の太い幹たちは、ここが歴史ある道だと老肌で語る。

 千恵は窓をあけ、青い香りを胸一杯吸い込んだ。これから住む街の空気を、いち早く自分に満たしたかったのだ。清冽な空気は、左右頭上の無数の若葉からばかりでなく、屋敷の庭の緑たちによってももたらされている。ゆるやかな坂を白いトラックがゆく。並木の影が次々とよぎる。

「さっすが田園調布! いっこいっこの敷地がでけえよ!」

 隣席の夫、司郎(しろう)が観察した。

「いっこいっこのお庭が凝ってるよ、しーちゃん!」

 千恵は同じところの別を見ていた。

 渋澤栄一翁によって設計された、大田区の隅の邸宅街は、赤屋根の駅舎を中心に銀杏並木道が三本、凱旋門とシャンゼリゼよろしく放射状に広がる。翁の哲学からこの地に塀はない。すべて生垣とせよ。垣間見えるのは、屋敷のあるじの工夫を凝らした、広い庭の花だ。まるで色見本帳の競い合い、オレンジ、ピンク、黄色、水色、赤、ラベンダー色。色の名がカタカナなのは、たいてい外国の花だ。千恵は、その一軒一軒に何が植わっているか、のちに記憶するほどの花好きである。春秋のサフィニアはペチュニアの一種だと実物で確認し、夏の百日紅(さるすべり)に上品な白があることを知るのもこの庭たちからだった。あれは万年青(おもと)か、(かき)の木も植えて、日本の植生を再現している庭もある。きっとご主人は、こんな山に子供の頃住んでいたのだろう。

 千恵はいつか一軒家を得たら、庭に好きなだけ植物を植えて、根を生やさせてあげたいと思っている。なにせ夫の司郎はいまだ駆け出しの身、借間暮らしはしばらく続く。トラックの後ろに積んでいる、海沿い倉庫街のアパートから持ってきた鉢植えたちは、今しばらくは窓際の鉢で居させなければならない。

 司郎が出世した。助監督から監督に。学生の頃からカメラを片手に、映画監督になるのだと走り回っていた司郎が、ようやく思い通りのことを出来るのだ(否、司郎に言わせればしばらくは修行らしいのだが)。これまでは会社に自転車で通える距離に住んだが、偉くなったし引っ越そうと司郎が言ったのだ。沿線にまさかの田園調布駅を見つけたのは千恵だ。暑い日の午後、不動産屋を覗いたらいい部屋がぽっかり空いていて、月七万と八千円。偶然だが、それは運命だと千恵は思った。


「あっ」

 大きな(さくら)の植わった、古い邸の前に粗大ゴミが出ていた。

「金持ちは、ゴミも金持ちかあ」と司郎が突っ込む。

 紅い別珍のソファや、アールデコの透かし模様の電燈の傘。古い推理小説の洋館にでも出てくるかのような調度品ばかりだ。

 その中に、花の終わった胡蝶(こちょう)(らん)が捨てられていたのを、千恵は見逃さなかったのである。

 何かの贈答品だろう。豪奢な化粧鉢に針金スタンドがついて、花茎を美しいカーブに見せるための骨としている(贈答品の胡蝶蘭は、百パーセントそうやって矯正骨で花を見せるようになっている。本来長い花茎は陽の方向に向かうのに)。花の落ちた節くれだった花茎が、みじめに針金に固定されたままで、見世物が終わった磔台のようだ。トラックからの一瞬だったから、葉や根の詳しい健康状態までは分らない。でも命の勢いは十分にあった。

 花が終わったからといって、植物を捨てる人が千恵は許せない。

 胡蝶蘭は千年生きるという。環境を整え、きちんと世話すれば来年も再来年も咲く。むしろ贈答用の蘭は、春の花を、無理矢理栄養を与え、ガンガン石油を炊いた温室に放り込まれて年中咲かされる、太らされたブロイラーだ。それがたかが一度の花が終わったからと言って、何も知らない金持ちが捨てているのだ。

「あとで助け(サルベージ)に来るから」

 千恵は、同志にテレパシーを送るように囁いた。


 坂の頂点に至ると、きらめく多摩川が見下ろせ、旧巨人軍グラウンドが見える。その後、千恵は何度も自分の部屋に帰ってくる度にこの美しい景色に満足するのだが、今はまだ声をあげて感動するにとどまった。

 坂の上の角地、築四十年の二階家。一階は駄菓子屋さんで、大家の豪快なお婆さんが店に出ている、その二階部分。シチュエーションと、畳一面の六畳二間を司郎が気に入った。二面採光の広い窓を千恵が気に入った。太陽の光は植物の何よりの栄養だからだ。部屋に入るときガラガラとあける木戸が、紅葉柄の細工硝子なのも千恵は気に入った。


 十二畳に段ボールを積んだだけのこの部屋は、二人の可能性のように広々としていた。

「昔の家の間取りだから、畳が大きいねしーちゃん」と千恵は言った。

「十二畳か。柔道できるなちー坊」と司郎は答えた。

「どりゃ!」と千恵は司郎に柔道組みをしかけた。

「とう!」と司郎も応じる。二人はワルツのように柔道のステップを踏んだ。

「なにこれ?」

 司郎が気づき、二人は足を止めた。押入れとの関係だろう、六畳間と台所の境に半畳の板間があり、パズルの余った駒のようだった。

「うーん、踊り場?」

 司郎は柔道の組み手を、社交ダンスのそれに素早く見立てた。

「よし、ここは我々の踊り場と名づけよう。嬉しいことがあったら、ここで二人は踊るのだ」

 司郎は三拍子で踊った。手を離し尻を突き出し、変なポーズで踊った。

「ヘイヘイ、ここは愛の踊り場!」

 千恵も腰を振り髪をふり乱し、ポーズを取った。

「で、階段の踊り場って、なんで踊り場って言うの? 誰も踊らないでしょ」

「はて」

「あ! こんなことしてる場合じゃない!」

 千恵は「すぐあけるもの」と下手なマジックの字で書いたで段ボールを開け、植物の鉢たちを出した。

「暗かったでしょ。植物さんたち」

 そう声をかけながら、千恵は窓際に観葉植物たちを置き始めた。あの捨て蘭のことも思い出す。

「えーと、それとそれとそれか」

 山と積まれた段ボールから、千恵は確認もせずに三つを選び、ことごとく中に植物がくるまれているものを当てた。

「なんで分かるの?」と司郎は毎度不思議そうな顔をする。

「え? 声を聞くのよ。『見つけて下さい』って」

「聞こえねえよ」

「聞こえるわよ。しーちゃんも大学で見つけたんだよ。モテナイ男が積んである、生協の『誰でも持ってって下さい』コーナーで」

「ムカツク」

 二人は京都の大学で出会った。四歳上の千恵が、司郎に告白してつきあいはじめた。それから十年。司郎は東京に進出し、千恵もついてきた。子供はいない。司郎がテレビの助監督で忙しすぎたからだ。でも「偉く」なったのだから、ちょっとは余裕が出来るよね、と千恵はこれからの生活に期待をしていたのである。

 千恵は素早く鉢植えを出窓に並べ、(とう)籠入り(ハンギング)の蘭を窓に吊り始めた。針金細工のフックでカーテンレールから吊り、その下にも下にも吊ってゆく。広く採光を使う工夫だ。

「右見て左見たらもう窓にジャングルが。そこは俺の仕事机スペース」

「なんの為にこの部屋に決めたと思ってんのよう。よし、お茶にしましょう。うーん、ソレ」

 千恵は司郎に、素早く指示を出した。

「待ってよ。テレビの位置とかまだ決めてねえ」

「中央に決まってるでしょ。しーちゃんはテレビの仕事なんだから、我家の大明神のように真ん中に。無機物の接続とかは任した」

 つまり千恵は、有機物担当だ。花とか食べものとかお茶とか。服は木綿しか着ないから、それもだ。司郎は機材などの固いものや電気の通るもの担当である。司郎は指された段ボールを開けた。中から新聞紙にくるまれた古陶器たちが顔を出す。古セーターやマフラーがクッション代わりになっている。ぐい呑み、イタリアの花の絵皿、青磁の小皿にガラス鉢、手で作る一点ものの陶器たち。割れた陶器を金のゴムバンドで留め、植木鉢代わりにするほどの、千恵は陶器好きでもある。

「その下。私は整理整頓の天才だから」

 立体テトリスのように、セーターとマグカップと急須と茶筒と、紅茶パックと漫画本が組まれていた。司郎はその下から、いつものペアのマグカップを発見した。

「なんだよ、どうせ割れるものばっかり……」

 と、手が滑った。

「あっ!」

 がちゃんという音とともに、司郎のマグは畳の上で粉々になった。元土だった面が、鋭く顕わになった。

「しーちゃん動いちゃダメ!」

 司郎は裸足。千恵はガムテを別の段ボールから一発で引き当て、ぺたぺたと破片を集めた。

「……ごめん」

「割れたものは、しょうがない。……これ、西部講堂のバザーで買ったお揃い。覚えてる? しーちゃんがまだうちの下宿に泊まりに来る前に買ったんだよ?」

「ごめん。……くっつくかなあコレ」

 司郎は破片を組み合わせて、元通りに組み上げようと試みる。

「壊れるから、だいじにするの」

 千恵はやさしく微笑んだ。

 司郎は今でも、このことをよく覚えている。



 夕食の買い物に駅前に出た千恵は、帰り道に銀杏並木の桜の邸の前で、「捨て蘭」にしゃがんで挨拶をしていた。

「うちへ来るかい? 『わん!』……って犬かい」

 楕円形の葉は濃緑で分厚く、緑の根も太い。モザイクウィルスにもカイガラムシにも侵されていない、健康そのものの子だ。

 部屋に帰ると、段ボールの林の中に仕事机と椅子だけは組まれていて、書き物をはじめる司郎の姿があった。

「もうお仕事?」

「だってこのコンテ面白くねえんだもん。ちょっとでも面白くしなきゃ許せないよ。そうじゃなきゃ、こんなヌルイのでいいんだ、と皆が思っちゃう。それじゃいずれ全体の質が低下する。この小さな戦場ですら面白いものをつくらなきゃ、業界は熱を帯びないんだ」

 司郎から出る青い炎が千恵には見えた。司郎がなにか使命感にかられて手で創っている、その横顔を見るのが千恵は好きだ。卓上ランプのアンバー光が暖炉に照らされたように司郎の横顔に陰影をつくり、阿呆な踊りより百倍イケメンに見えた。思わず千恵は司郎の椅子に、無理矢理尻を入れて二人で座った。

「なにすんねんデブ」

「だって格好いいんだもの」

「あ、それ。くっつけたけど、水は漏れる」

 コタツ机の上には、ボンドで修復したマグカップが置いてあった。

「丁度いい。漏れないと詰まる」

 千恵は買い物袋から、拾った蘭を取り出した。飾り鉢(贈答用の胡蝶蘭は見栄えを良くする為、複数の個体をぎゅうぎゅうに詰め込まれて根詰まりしていることが多い。どこまでも最初から見殺すつもりなのだ)から蘭の本体を取り出し、根を傷つけないよう、継ぎ接ぎのマグカップに植え替えをはじめた。

「もしもしそれは何ぞ」

 司郎はペンの手を止めた。

「捨て蘭です。まだ夜は冷えます。蘭は元々南国出身です。放っといたら風邪ひいて死んでしまいます」

「いや、そうじゃなくてさ」

「蘭は千年生きるのよ? 環境と世話さえ整えれば、毎年毎年、千年以上も花を咲かせるの。その可能性を持って生まれたのに、今年の花が終わっただけで殺されるのはおかしいよ。馬鹿な金持ちが、そんなことも知らずに捨ててるのよ?」

「いやそうじゃなくて、これ以上ウチに植物さんを増やすのかい?」

「……」

 出窓にはハイビスカス、シクラメン、ベコニア、ゼラニウム、ガジュマル。最近は多肉植物にも手を出した。計六つの広い窓には、吊られた胡蝶蘭、カトレア、デンドロビウム、シンビジウム、オンシジウム、デンファレ。もっとも、この時期は一通り花は終わって緑の葉だけになり、並木の銀杏と同じく新葉を吹き出す時期で、司郎にはどれがどれか区別がついていない。蘭が多目であるものの、四季に花が咲くように注意深く選ばれた植物たち。

「花から元気を貰える部屋にしたいの」

「……まあ、今更ひとつ増えたくらいで、どれがどれか分からん点では同じか」

 司郎は諦めてため息をついた。

 千恵は喜んで、新参者の葉をお辞儀させた。

「ふつつかものですが」

 司郎の机のすぐ脇のスペースが、新人の場所になった。

「しーちゃん覚えててね。この子も千年生きるの。こんなに小さいのに、私たち人間とは全然違う時を生きるいのち」


 千恵はこれから、二人のラブラブ生活がはじまると信じていた。

 だが現実は違った。相変わらず司郎は仕事に追われ、あっという間に時が飛んでいった。千恵の不満の日々は積もってゆき、「あの時の蘭が咲いた!」と千恵がはしゃいでも、司郎は気を払ってくれなかった。

 それは淡いピンク色の、小さな女の子のような花だった。



   2 異変


 朝目覚めたとき、隣に愛する人がいない。そんな朝を迎えるのなら、どうして一緒に住む意味があろうか。

 まるで主人に置いてけぼりにされた犬だ。「必ず帰るから」と御主人は笑うけど、そのまま帰って来なかったハチ公は、銅像にまでなってまだ待っているではないか。


 その日も、隣で寝ていた筈の司郎は、朝すでにいなかった。

 最初の夜は畳に布団二枚分しか引いてなかったから、「旅館みたいで不安だよう。前の家に帰ろうよう」と千恵は冗談を交えて不安がり、司郎の暖かい手を取り眠ったものだ。その見慣れぬ天井も日常になって馴染んでくると、千恵の不満と不安が顔を出すことになる。司郎のテレビディレクターの仕事は夜討ち朝駆けで、まとまって眠れることが殆どない。深夜まで起きて待っていても、少し話せて、朝は司郎が先に出ていくことがしょっちゅうだ(電車の中も睡眠時間に数えると司郎は言った)。深夜から夜明けにしか会えない、キャシャーンと白鳥のスワニーのようではないか(元ネタのジークフリートよりも二人はこっち派だ)。それでも最初の頃は「先に仕事に行くぜ。その美しい寝顔に愛してるブチュー」などとふざけた置き手紙が枕元にあったものだが、司郎も慣れてきて、千恵を起こさないようにそっと出るようになった。

 千恵はいつも一人で、畳まれた布団の隣で起きることになる。


 今日は良く晴れ、窓一面に吊るした蘭たちに、太陽は極上の栄養を与えていた。千恵は彼らに「おはよう」と挨拶し、窓を半分開けて風を入れ、霧吹きで空中の籠に水やりをはじめた。

 と、司郎からの着信が鳴った。

「どうしたのしーちゃん。忘れもの?」

「めし行こうよ! ランチランチ!」

「はい?」

「なんかさ、今日小道具打ち合わせだと思ってたら違ってた! ぽっかり空いたから、自由が丘ランチしようぜ! ついでに映画行こうよ! ランチアンド映画!」

「はあ。またうっかり? ちょっと待って着替えるから」

 いつも司郎はどこか抜けていて、しかも思いつきで休日の予定を決める。千恵はそれに振り回される格好だ。それでも文句を言わないのは、やはり彼が好きだからだと思う。今日は大方、司郎はあそこのパスタの気分ではないか。いやバナナ餃子の店か。あと渋谷の映画館もチェックしておかなければ。何を見たいと言うだろう。デビッドリンチの新作か、それとも流行を抑えたがるか。半ば映画を見るのも仕事ですし。

 千恵はいそいそと銀杏のトンネルを行き、電車に乗って隣駅の自由が丘へと出かけた。

 二人の住む田園調布は金持ち住宅街だから、学生街ベースの生活パターンを持つ二人にはあまり合わない。飯屋が充実し、点在する花屋に恵まれ(千恵は巡回しては新しく安い花を買ってくる)、雑貨屋天国で、年に何度も学園祭のようなイベントのある自由が丘に二人はよく出かける(お気に入りは、年二回来る火吹き男だ)。電車を降りると、ベビーカーに乗せられた可愛い赤ん坊がいて、千恵は手を振り笑いかけた。それと同時に、たまらない寂しさと不安に襲われる。

 自由が丘駅のロータリーでは、ブロンズの女神像を囲んで、ベビーカーを押す自由が丘マダムたちがランチの店を決めている。恋人たちが手を繋いで歩く。陽光が降り注ぐ自由と平和の丘。千恵はいつも、これは映画のロケではないかと思う。「『田園調布に住むディレクターが、京都時代の恋女房と自由が丘へランチ』という嘘くささ」と司郎はいつも自虐する。文字だけオシャレ。実態はちんちくりんな、小太りとデブなのにね。

 どこかのティッシュ配りとフリーペーパー配りが、今日も笑顔で振る舞っている。千恵は学生時代ティッシュ配りのバイトをしたことがあって、中々受け取ってくれない辛さを知っているから、全部受け取る。

「引いた!」

 偶然は神の用意した運命である。千恵はそう考える。千恵はそれを「引く」のが上手い。つまり運命の声を聞くのだ。「そうすると毎日が面白くなる、ビッグトゥモロー的な知恵だろ」と司郎は冷めているが、この「引き」を早速司郎に見せなければ。

 司郎は既に、白い石柱の上にちょこんと座っていた。千恵は誰かが自分を探しているのを見るのがとても好きだ。千恵は背後から忍び寄り、後ろから尻を割り込ませた。

「なにすんねんデブ」

 司郎は笑う。

「引いた!」

 司郎に褒めてもらおうと、千恵はフリーペーパーを見せた。表紙には「脳にイイ!街特集」という良くわからない文句が踊り、その「表紙の人」が北村(きたむら)医師だった。

「おう、北村じゃん」

「なんか北村さん、最近タレント化してきてるよね!」

 ある日千恵が突然テレビをつけて「引いた」。「しーちゃん、北村さんテレビ出てる!」と司郎を呼びに行った。最初は脳のコメンテーターだったのが、徐々に出番が増えてきた。「テレビに出たら医院もひと儲けですよ、病気が増えた訳でもないのに」とこないだの番組でも冗談を言っていた。

 北村和宏(かずひろ)は、司郎の大学の同期だ。同じ研究室にいたのだが、司郎は突然テレビの裏方へ、北村は突然家業の北村医院を継ぐと言い出し、二人とも大学の専門とは全く関係ない人生を送っている。

「相変わらず眼鏡の奥は笑ってねえなあ。変な顔」と司郎は北村を評した。

「相変わらずちー坊は引くねえ」

「へへへ」

 千恵は犬のように嬉しがる。尻尾が千恵にあれば千切れんばかりだろう。司郎の人生に必要なものを指摘ポイントする、ポインターだと千恵は自称している。さて今日のランチと映画をポイントしなければ。

 そう千恵が思ったとき、司郎のケータイが鳴った。ボールを取り上げられた犬のように、千恵はなった。

「もしもし。……え? 今日十三日でしょ? アレ? 今日何日?」

 千恵はため息をついた。司郎はいつもうっかりしている。

「今日は、と、お、か、です」

 司郎はカバンから慌てて予定表を出し、日付を確認した。

「まじか。三十分で行くわ」

 この後のデートの予定が、司郎のうっかりで消えた。千恵は司郎を見た。きっと殺気がこもっていたと思う。

「何で十三日だと思ってたんだ? ごめん予定間違えた。会社に戻んなきゃ」

「ぶう」

 千恵は豚になった。

「ぷっぷくぷう」

 可愛く拗ねてもみた。

「……不満は今度聞く。今、皆を待たせてるみたいで」

 司郎の仕事の顔は、千恵は嫌いだ。

「また『あっ』で済ませるの? しーちゃんはいつか『あっ』で車に轢かれて『あっ』死にするの?」

「こんど埋め合わせするから」

「今度っていつ」

「……暇ができたとき」

「それっていつよ? 私はずっと家で正座して待ってるの? もう待てないよ! 周りの幸せそうなベビーカーを見て、しーちゃんは何とも思わないの? 私はただ幸せになりたいだけなのに! ねえ、花はなんの為に咲くの?」

「……実を結ぶ為です。てか、それ、今言うことかよ」

「じゃいつ言うのよ? えっちしてって! 私は風間(かざま)千恵という名前の、一人の人間です。藤原俊成の(むすめ)とか菅原道綱の母みたいに、私が歴史に残る名前は『風間司郎の妻』じゃないんです!」

「……」

 司郎は言い返せず、ケータイの時計をちらりと見た。

「……言いすぎました。ごめんなさい。おしごとがんばってください」

 千恵は犬のような顔から、「風間司郎の妻」になって微笑んだ。

 ベビーカーを押した幸せ族たちが、一人残された千恵の隣を過ぎていった。



 あとから思えば、この日のケンカだっていつもの毎月来るイライラだったと、冗談に流せたのだ。そうではなかった。これから起こる運命の、千恵の記憶にある限り、これが第一日目だったのである。


 その夜は、千恵は司郎に謝ろうとずっと待っていた。今日は水曜日だから、早く帰るなら自由が丘でごはんを食べ、クラゲの名のストリートミュージシャンを二人で聞こうと思っていた。電話しても留守電のままで、「いつ電話しても同じおばちゃんが出て、しーちゃんに会わせてくれないの」と愚痴を言いたい。

 十二時テッペンを過ぎ、深夜二時を過ぎ、早朝といえる四時半になった。

 司郎が「あっ」とうっかりして車に轢かれて死ぬのを想像し、千恵は心配になった。そんなことない。でも、ない訳でもない。人生には三つの坂がある、上り坂、下り坂、まさかだ。大体、自称「埼玉の至宝」なる千恵様が、あんなちんちくりんの司郎に惚れるのだってまさかなのだ。ずっと京都の学生で暮らすと思っていたら、司郎にくっついて東京暮らしになったのも、まさかなのだ。偶然は存在しない。全て神の御定めになった運命だ。司郎の「あっ」が運命でない保証はない。

 一人で余計なことを考えていると、ぐるぐる嫌な事ばかりだ。千恵はカエル大明神に祈りを捧げることにした。「カエル大明神様、司郎を無事お帰しください」と。雑貨天国自由が丘には、ヘンテコなカエルの置物がちょいちょい売っている。最初にデザインの面白さで集めていたら、家じゅうカエルだらけになり、それはいつしか「カエル」と無事「帰る」を語呂合わせにしたカエル大明神という設定になっていた。トイレにも台所にもテレビの上にも、緑やブルーや黄色や、陶器や木彫りやプラスチックの、キャラっぽいものからキモカワ造形まで、大小さまざまのカエル像が鎮座することになった。

 タクシー音が聞こえた。司郎が帰ってきたのだ。下駄箱に靴を入れる音、階段を上ってくる足音に、千恵は犬のように待つ。結局正座するのが嬉しいのか私は。

「しーちゃんお帰り。きょうはごめんなさい。あのね」

「寝かして」

 目が開いているのか開いていないのか分からない司郎は、ぼろぼろだった。風呂に入る元気もなく、ただ畳に横になった。

「冷たい畳最高……」

 このまま気絶されては風邪を引きかねない。早く布団に入れてやらねば。

「でもさ、おかしいよ。絶対みんな変だよ」

 司郎は今日の不満を寝転がったままぶちまけた。

「その打ち合わせは三日前にやったろ。なんでもう一回やるんだよ」

「? 何があったのしーちゃん」

「おかしいよ。この前出した書類はまだ出てないってデスクに言われるし、そのデータ、パソコンの中にないし。まあそれはうっかりでもいいよ。でも今日やった打ち合わせは、絶対やったよ。カメラの配置もレンズの話も、香盤ひっくり返す話も逆順で撮る話も、三日前にやったよ。なんでみんな初めてみたいな顔すんのさ!」

「なんかまた勘違いしてるんじゃないの?」

「そんな訳ねえよ。三日前に全部やったよ!」

 憤慨したまま、司郎はなんとか布団に潜り込んでくれた。だが目をつぶって二時間後、司郎のケータイがけたたましく鳴った。

「わ! しーちゃん、電話鳴ってる!」

 朝の六時半に何事か、いや、仕事の呼び出し以外にないだろう。

「寝さしてよお。今日休みでしょお」

 司郎は寝ぼけながら不満を漏らす。

「とにかく出ないと!」

 千恵は充電中の電話を司郎に渡した。

「はいもしもし。……え? 何言ってんすか?」

 電話の向こうは怒鳴り声だ。

「そんな馬鹿な。それ(・・)三日前にやったじゃん(・・・・・・・・・・)

「寝惚けるのもいい加減にしろ!」と怒号が、千恵の枕元まで聞こえて来た。とにかく電話の向こうは大変なことになっているらしい。司郎は無理矢理起き上がり、支度をはじめた。

「なんか分かんないけど、行ってくる。……ぜってえ、おかしい。タクシー捕まるかな」

「何があったの」

「今日撮影だって」

「撮影? え、ちょっと、監督が寝坊したってこと? ていうか、私聞いてないし」

「そりゃそうでしょ」と、半分目を開いてない司郎は答えた。

「だって撮影は、三日前にやったもの」

「……はい?」

「……自分で何言ってるか分からん。とにかく行ってくる」

 司郎は家を飛び出した。

 「それは三日前にやったこと」と、司郎はもう三回も言った。単なる健忘なのだろうか。それともいつもの「あっ」なのか。うっかりごときで、撮影なんて大変なことを「すでにしたこと」に記憶が改竄されるだろうか。そうではないことが、翌日に分かった。



   3 デジャヴ


既視感デジャヴ?」

 今日は撮影後の休みなので、司郎は昼過ぎまでたっぷりと寝だめした。それから二人で遅めのランチへ出かけることにした。駅へ向かう緑の並木道で、司郎は昨日の異常について話し出した。

「デジャヴって……あのデジャヴ?」

 千恵は司郎の言葉を鸚鵡返しにする。

「そうだよ。『それは既に経験した』って感覚だらけなんだ。ハイ本番。ヨーイスタート、カットオッケー。全部三日前にやった撮影だよ。ヨーイスタート、いや、こういう感じでもう一回、イイネオッケー。なんでもう一回おんなじことやんなきゃいけねえんだ? でも、やってないってみんな言うんだ。おかしいよ。既に俺は体験してるよ絶対。仕事デジャヴなんだよ俺」

 自由が丘のいつものパスタ屋で、特製マンマのナポリタンを食べた司郎は、神妙な顔でまた言った。

「むっ。このパスタは食べたことがある。またもやデジャヴか」

「それ先週も食べてたでしょ!」

「ならいいが……」

「デジャヴってのはさ、もっとなんか、初めて行った筈の外国の街なのに何故か涙が止まらなくて、生まれ変わる前住んでたから、とか、髪をかきあげる動作に見覚えがあって、それは前世の恋人だった、とか、もっとロマンティックなものに使おうよう」


「アレ? 未来のちー坊だよ」

 駅前で太めの女性を見た司郎が、千恵に振った。

「ひいいごめんなさいいい。もう菓子パン夜中一気食いはしませんんんんんん」

 巨漢の女性ほど、色白で、ひっつめ髪に地味な眼鏡をかけ、似たような服を着て、何故だか千恵の感じに似ている。あれは未来の私が現在に未来からタイムスリップして来ている、とある日千恵が言って以来、二人は同じコントをやる。

「あれは未来の私がタイムスリップしてきて、現在の私に警告をしてるのです。放っといたらこうなるぞ、と」

 司郎は毎度げらげら笑う。

「未来のちー坊、ちょいちょい来すぎだろ」

「それは何度過去に警告しても、毎度私がやけ食いをする未来があり……」

 未来の私、未来はどうですか。太ったかも知れないけど、司郎は愛してくれてますか。子供はいるの? 今私が太らなければ、あなたの未来は消えますか。

 と、電気店のテレビの前で司郎が立ち止まった。

「あ、コレ、びっくりしたよね。突然ドーンと爆発するなんてさ」

「?」

 テレビのニュースでは、化学工場の火災を、女性レポーターがカメラに向かって報告している。

「爆発でパンツ見えそうになるんだよね。惜しかったあ」

 その瞬間。

 どん、という音とともに、背後のプラントに閃光が走り、画面が白く飛んだ。

「ひいっ」

 千恵は思わず悲鳴をあげた。赤黒い爆炎が轟音を上げて画面を覆った。爆風が周囲に破片を飛ばし、レポーターの髪とスカートを巻き上げる。

「ああー。やっぱ見えないや」

 司郎はテレビを下から覗こうとしている。

 千恵は画面を見て心臓が飛び出た。深呼吸を一度して、司郎に尋ねた。

「ねえ司郎。……どうして爆発するの、分かったの?」

「? これ録画でしょ?」

「見てよ!」

 右上には「LIVE」の文字が出ていた。キャスターやスタッフ達が右往左往している。

「これ生放送よ! どうして知ってたの!」

「……三日前に、見た」

 千恵は必死で考えた。司郎に一体何が起こっているのか。三日前に、今日を経験したとでもいうのか。


「しーちゃんは……まさか、三日先の未来から来たの?」

 自分でも、SFと現実の区別がついてないと思う。



   4 三日先の記憶


 あまりにも馬鹿げた考えだと思う。「奥さん、ウチの旦那、三日先の未来からタイムスリップして来たんスよ」なんて、微笑んで言えばいいのだろうか。UFOの仕業だなんて言うときのインチキな顔つきで言えばいいのか。現実味がなさすぎだ。

「えええ嫌だよう」

 ぐずる司郎を、千恵は引きずって心療内科に連れていった。本屋で仕入れたにわか知識によれば、「過度のデジャヴは、記憶障害または統合失調の前駆症状」という記述を複数みつけたからだ。早期発見なら治療も出来るかも知れない。病気じゃないなら、それはそれで安心できる。

 しかしどこのお医者も、「疲労の蓄積による、一時的な記憶の錯乱や過誤では。睡眠をまずはぐっすり取ること。睡眠は記憶の定着に役立ちます」と、似たり寄ったりのアドバイスをするだけだった。少なくとも、聞いたことのない妄想癖のようなものだと。否、勘違いで済ませられるものか。司郎には三日先の記憶がある。仕事の記憶も工場の爆発も、「既に経験したこと」として話した。これも記憶の錯誤? 勘違い? うっかり?


 四件目の心療内科の寒々しい廊下で、千恵はしばらく待たされていた。カバンに入れたままのフリーペーパーでも読もうと思ったが目が滑る。外の空気でも吸おうと、診療所の外の駐車場に出た。

 白いコンテナ植えのミニ薔薇バラが、手製のアーチに絡められていたのを、来た時にチェックしていた。夏が来れば可憐な花が咲くだろう。流行りの黄色だろうか、白だろうか。ベタに赤かな。世話の手間のかかった植物には、たいてい主の願いがこめられている。この主は、何を思って世話してるだろう。

 と、小うるさい排気音を立てた赤いスポーツカーが、狭い駐車場に停まろうと入ってきた。車の排気音は嫌いだ。排ガスは植物に悪い。人間にもだ。千恵は空気の清冽な田園調布の街並みを愛している。山手線の内側の空気には絶対住みたくないと司郎にも言った。赤いスポーツカーはオープンカーで、司郎が見れば「これはホニャララだな」と車種を特定するのだろうけれど、千恵にはどれも同じに見える。カエルの目をしたやつはポルシェだと最近ようやく覚えた。どれがどれか区別がつかないと司郎に言ったら、「俺だって花の区別がつかねえわ」と返された。花と車はまるで違う、と言ったら、車と花はまるで違うと返された。

 オープンカーの主は、ケータイでやかましく話しながら片手でハンドルを回している。

「その件でしたら大丈夫ですよ。なんせ俺、もうすぐ本出すんですよ! タレント本みたいなもんですし、バカ売れする予定だから、印税でそれ補填します! あはは。ええ、先方の所にはもう来てまして」

 こっちが見えているのだろうか、轢かれちゃかなわんと千恵は体を逃がした。

 ごん。低いコンテナが目に入らなかったのだろう。赤い車は、つぼみすらまだのミニバラを、アーチごと左後ろでひっかけて倒してしまった。

「やべ! 轢いた?」

 車の主は運転席から振り返った。人影がいることは目の端で見ていたのだろう。

「あ。……引いた」

「轢いた?」

 千恵は、「引いた」。右手にもったフリーペーパーの「表紙の人」。車の主は偶然にも、司郎の同期の脳外科医だった。

「北村さん」

「轢いてないよね? ……って、アレ? 黒川さん?」

 北村は素っ頓狂な顔をして千恵の旧姓を呼んだ。司郎よりも幾分体格が大きく、威圧感のある顎の骨を千恵は思い出していた。


 五日後。静かな緑の並木道を、赤いスポーツカーがCMのように走ってきて、排ガスを一通りまき散らし、北村が司郎と千恵の部屋にやってきた。各心療内科のカルテを、事前に取り寄せて読んで貰っていた。

「スゲエな」

 北村は窓一面を覆った、胡蝶蘭たちの籠植え(ハンギングバスケット)を見て感想を漏らす。引っ越しの日以来、千恵は沢山の蘭を拾ってきては徐々に増やして、司郎に「ちー植物園」と揶揄されている。

「風間は?」と北村は尋ねた。

「まだ隣で寝てる」と千恵は、襖の奥を指す。

「記憶混乱の整理のために、寝かした方が良いと。……睡眠不足の続く仕事だし、丁度いい機会と思って」

「……成程」

 北村は鞄からカルテのコピーをコタツ机に出し、座った。

「見せてもらいました。各先生たちの所見も妥当だと思います。俺が問診した訳じゃないけど、精神的な病理の傾向じゃないと思うよ。ありていに言えば、本人の勘違い、記憶違いじゃないかと思うんだけど」

「私の心配症なら、それでいいんだけど」

「大体、SFじゃないんだからさ、なんだよ三日先の記憶って」

「こうは、考えられないかな。未来から来た男、タイムスリップってのはSF過ぎるから……」

 千恵はコタツ机の上に、カエルとウサギの小さな人形を出した。手塗りのアンティーク調で、雑貨屋で気に入って買ったものだ。ちんちくりんで驚いたカエルの顔が司郎に似ていて、その横の小太りの白ウサギも、色白な千恵を連想させた。

「昔々、ウサギさんとカエルさんは、仲良く暮らしておりました」

 昔話風の語りをしながら、千恵はウサギとカエルを持ち、トントントンと歩かせた。

「ところがある日。何の因果か……」

 千恵はカエルの頭をきゅぽんと外して、頭だけを三歩進めた。

「カエルさんの脳だけが、三日先にタイムスリップしてしまったのです」

「……」

 千恵はカエルの頭側に立ち、残されたカエルの胴体とウサギを見た。

「カエルの脳から見れば、すべて三日前に体験した出来事。『それは三日前にやった』という司郎の感覚の説明がつく。既視感じゃなくて、本当に体験しているとしたら、三日先の記憶が本当にあるとしたら。つまり、司郎は三日先の脳を持ってるとしたら」

「……どうやって? 脳が未来にタイムスリップして?」

「脳科学者の意見を、聞きたいんだけど」

「……馬鹿馬鹿しい。そんなこと、科学的にあり得んだろ」

「それに類する病気って、あるの? 妄想の酷いやつとか、統合失調とかではないんでしょ?」

「……」

 千恵は部屋の中央のテレビを点けた。ダリアの写真を表紙に貼った手帳を出し、三日前のメモを見た。

「オー四つの瞳が、ニッコニコ」

「?」

「04の、132525」

「何?」

 テレビ番組がCMに変わり、「宝くじ抽選会」がはじまった。

「はあ? ……当たり番号だってのか?」


 三日前、自由が丘を歩いていて、駅前のロータリーの宝くじ売り場の前で、司郎が突然「メモして!」と叫んだ。咄嗟に千恵は手帳を出し、鉛筆を持った。

「えーっと……0……4……13……25、25」

 司郎は思い出すように数字の列を言った。

「? ……オー四つの瞳がニッコニコ」

 数字を書きながら、千恵は語呂合わせした。

「それだ。その語呂合わせで覚えてた!」

「なにそれ。まさか当たり番号?」

「爆発、当てたろ。ていうか俺は前に見てたんだ。その当たり番号も、ちー坊の語呂合わせも、前に見た」

 二人はすかさず、銀色の小さなボックスと赤くはためくのぼりの前に並んだ。しかし同時に「あっ」と言って諦めた。


「……宝くじって、好きな番号買うシステムじゃないからね。その番号、当たるかどうか見てみてよ」

「……『三億円の預言者』ってことか?」

 北村は全く信じていない。千恵は当たって欲しくなかった。むしろそんなものは司郎の妄想で、脳科学の専門家に、「これはヤコフ=クロイツェルト病である」なんて難病の名前を言って欲しかったのだ。

 テレビの中では華やかな八人のバニーガールがスポットライトを浴び、八台の射的を回した。もちろん生中継である。

「これが当たる確率って……」

「十の八乗、……って四乗が万の……一億分の一か」

 会場が暗くなり、ドラムロールが響き渡った。期待感を煽る演出が、千恵には不安しか煽らない。

 運命の矢が放たれた。一瞬で機械が読み取り、八桁の数字が示される。アナウンサーが叫んだ。

「今回の三億円は……04組の!……」

 千恵はそれに重ねて言う。

「オー四つの……」

「13……」

「ひとみが……」

「25、2……」

「ニッコニ……」

「5!」

「コ」

 偶然は神が用意した運命である。千恵はそう思う。報酬だろうが試練だろうが、それは神の意志でありメッセージだ。千恵は幼い頃キリスト教の洗礼を受けた。彫の深く背の高いローランド神父さまから、キリスト教のその考え方を習い、それは千恵の人生観の基礎になっている。

 千恵は深いため息をついた。

 北村は何度も手帳とテレビ画面を見比べた。既に確定した事実を、何度も何度も確かめた。

「何だこれは? 何かのトリックか? ……いや、本当なら、百万でも一千万でも出して、この番号持ってる奴探し出して、買い取りゃ良かったんだよ!」

 三億の預言は当たった。そしてそれは司郎が「既に経験した」と言っている。

 そのとき襖がからりと開き、寝起きの司郎が姿を現した。

「おう? なんだよ北村じゃねえか」

「おう。久しぶりだな風間」

 北村は癖になっている営業スマイルをつくった。

「あれ、三回生の時だったかな。ある日突然クラスの奴のアパートに、裏ビデオのチラシが一斉に配達された事件あったな。あれ、名簿売ったのお前だろ」

「ははは。何年かぶりの再会に、随分な挨拶じゃねえか」

「……あれ? この話、前にしたよな?」

「お前にとっちゃ、……三日前にか」

「三日前?」

 寝起きの顔のまま、司郎は右手で指折り数えた。一、二、三、……四。

「四日前だろ」

「四日……前?」

 その言葉を聞いた千恵は、カエルの頭をもう一歩進めた。



   5 預言者


 水色の検査着を着せられ、借りてきた猫のようになった司郎は台に寝かされ、棺が火葬場に入れられるように真っ白なメカの中に入ってゆく。

「SF映画みてえ」と司郎は無邪気に感想を漏らした。

 CTスキャン、MRIをはじめ、荏原にある北村医院は最新の脳外科検査をするための装置が揃っている。これはアニューリズムフロウといって、リアルタイムで脳内血流分布を3D化出来る機械だと説明を受けた。「ウチには最新の機材とエースが揃っている」とテレビで聞いたようなことを北村は言った。マシンをオペレートするのは出町柳(でまちやなぎ)医師。いくつかの専門的な問診のあと、司郎は脳ドック、人間ドックに入れられることになる。

「どうせ脳を一ミリ単位でスライスして、何も分かりませんでした、ってなるんだろ? AKIRAみたいにさ」

 その様を暗い隣室のガラス窓ごしに眺めながら、千恵も「SFみたい」と同じ感想を漏らす。CTの断層写真を見て、司郎も千恵も「パラパラマンガみたい」と同じ感想を漏らしたばかりである。

 問題は、先日より悪化していた。

「五日先に、なったって?」

 隣で見守る北村が言った。

「またぐっすり寝かせたのね。寝て、起きたら、司郎の中の日付が一日分遠ざかった」

「今日は二十日だから、奴の脳内は二十五日ってことか。どうやって確認を?」

「公開された『ファイナルデスティネーショントライブ~運命の日:ゼロ』を見たって。二十五日初日」

「……」

「糞映画だって」

「マジか」

 司郎はぐるぐる回るマシンに乗せられ、どうにでもして、という表情になっていた。


 「こころの病気」と言われる症状のいくつかは、「弱い精神の持ち主が患い、心を前向きに正しくすることで治る」と誤解されている。だがそうではない。脳科学が解き明かした最近の知見によれば、「こころの病気」のいくつかは「脳の異常」によってもたらされる。灰白質の血流異常、海馬の機能損失、ドーパミンレセプター(D2やD4)異常などの、器質的もしくは機能的異常によって、鬱や統合失調症(の一部)が引き起こされているという。脳は唯物的には、複雑な化学反応プラントだ。化学反応が「思考」だとすると、化学物質の不足または過剰によって、「ふつうの反応」が進まなくなることがある。原因やそうなる仕組みについては未解明だ。心因性ストレスや偏った栄養、極端な睡眠不足による脳内疲労物質が除去しきれないことなどで、化学平衡が元に戻らなくなった、とする説もある。遺伝による体内化学物質のバランスの傾向も遠因だ。統合失調を発症した人の家族には、似た症状が現れる確率が高い。最近では、「猫を飼う人は統合失調のリスクが上がる」という統計が出て、猫の寄生虫が人間の脳内に感染する説も出ている。

 「こころの病」は、部分的集合的には「脳の病」である。こころがどこにあるか、という哲学的な問いは脇に置いておいても、脳を検査すればある程度、心が異常を来たしているかどうかは、(分かっていることについては)判明するというものだ。

 「未来の記憶がある脳」という仮説を立てるにあたり、北村は既知の何かの組み合わせで説明できないか考え、エースの出町柳医師と協議した。既視感デジャヴが記憶格納障害(海馬の異常)という説も込みで、あらゆる「脳の病」の可能性を探ろうと思ったのである。

「どうだね?」と、画像解析をはじめた出町柳に、北村は尋ねた。

「詳しく解析してみてからですけど……パッと見、普通の人と変わった所が見受けられないです。脳の内部を覗いて、これは○月○日の脳であると断定出来る訳でもないですしね」

「逆に、何か見つかる可能性はあるか」

「うーん、現象の異常に対して、対応する物理的異常も大きいと予測するのが普通ですけど……」

「ほんの小さなボタンの掛け違えも、世の中にはある」

「まあそうです。データは採れました。あとは詳しく解析してからです」

 司郎はマシンの中から声をかけてきた。

「俺の異常な天才性が、脳を見ても現れていたかい?」

「いや、並だね」と北村は返した。

「ふざけんな藪医者。並って牛丼かい」


「さて」

 待合室で座っていた司郎と千恵の所へ、北村が一抱えの雑誌や新聞をもってきた。どさりとテーブルに置き、ぱらぱらと広げていく。

「預言者さまよ。これから世界に何が起こる?」

「はあ?」

 千恵は不安になった。

「なんのつもりなの? 工場の爆発や、宝くじじゃ証拠が足りないって言うの?」

 千恵は苛つき、次に北村の真意を理解した。

「まさか」

「なんだよ、ひと儲けするつもりかよ」

 司郎は千恵よりも旧友の北村を知っている。北村は笑った。

「なんでもいいよ。俺はテレビ局や財界に人脈がある。タレントやってんのもその為さ。色々あるぜ。何か儲けられるなら、その預言で」

「そんなこと司郎に……」

 怒った千恵を、司郎が制した。

「検査費とか治療費とか、無料で。儲けは折半な」と。

「話が早い」と北村は営業スマイルで笑う。千恵は昔からこの北村の笑顔が嫌いだ。別のことを考えている顔に見える。

「でもなあ。一々そんなこと覚えて生きてねえしなあ」

 司郎はスポーツ新聞や株価を見ながら呟く。

「じゃ何で宝くじなんて覚えてたんだよ?」

「あれはちー坊、……ヨメの語呂合わせで、たまたま覚えてただけだよ。数字の羅列を一々記憶して生きていく人間はいねえだろ」

 司郎はスポーツ新聞を見て言う。

「あ、阪神は連敗」

「預言しなくても分かるわ」

「亀田は防衛」

「それも予測できる」

「この映画は、糞で、こける」

 二十五日公開の映画の広告を司郎は指さした。千恵は覗きこんで吹いた。

「そんなの私でも分かるよ! ただキャストが並んでこっち見てるだけじゃん! 本当に面白い映画なら、ストーリーのほうを宣伝するもの」

「成程」と北村は感心した。

「あ、そうか。そういうの、一般の人は見ただけじゃ分かんねえのか」と司郎は、自分が多少業界人であることを自覚した。

 待合室のテレビで流れているワイドショーを、司郎はふと見た。

「アレ、きのうか? 謝罪会見でハゲ一列並んで頭下げて、フラッシュが光って、ストレートフラッシュになったやつ」

「なんだそれ?」

「なんだっけ。ああ、ここの食品会社」

 司郎は日経新聞の株価欄を指した。

「いいぞ! 他は!」

 北村はメモを取る。

「うーん……覚えてねえなあ」

「なんだよ競馬とか大相撲の結果は?」

「賭博ばっかじゃねえか」

「一攫千金だろ」

「うーん……」

 司郎は両腕を組んだ。ここ五日に起こったこと。そんな都合のいい記憶があるわけがない。北村は、ふと窓の外を見て気づいた。

「今日は晴れか?」

「ん? いや、土砂降りだね」と司郎は何げなく答える。千恵は驚いた。

「何言ってんの? こんな青空を見て……」

 言いかけて気づいた。司郎の見ている空が、五日先の空であるとしたら。北村はメモを取った。

「サンキュー。……今日の天気が雨か晴れか確定するだけで儲かる業界も、世の中にはある。ついでにこの四日分の天気も頼むぜ。どうせ精密検査の結果が出るまで待ちだ」


 五日後。

 司郎の預言どおり、窓の外は土砂降りの雨が降っていた。

 北村医院の院長室で、北村は大笑いして電話をしていた。机の上の新聞にはA食品の謝罪会見の写真が躍り、禿げ頭の一列が頭を下げていた。

「はっはっはっ。株価大暴落で、しかも今日の巨人戦の払い戻しの何千万、損失せずに済んだでしょう?」

 電話の相手は、傘もささずに横浜球場の前にいた。黒い服を着て、その襟を立て、蛇のような目で北村に言った。

「ドーム球場じゃねえのを言ってきたのは、こういうことか。で? 株価はどこで仕入れたインサイダーだよ」

「はっはっはっ。預言者さまと、知り合ったんですよ!」

 北村は、電話では見えないくせに営業スマイルで笑った。

「……赤木(あかぎ)さん?」

「……他に、預言は?」



   6 歳時記


 精密検査の結果が出るまで、千恵と司郎は二週間待たされた。司郎の有給が入社以来たまっていたので長期的に休むことにした。どのみち現状では、過去にやった事をもう一度やるストレスに晒されるだけで、迷惑も多々かけるだろう。

 「自宅療養」といっても、することがない。千恵が録りためていたドラマを消化したりして過ごすことにした。尤も、司郎ははじめて見る番組の展開をたいてい「覚えて」いた。千恵と司郎は、あらゆる本屋やネットで「未来の記憶を持つ脳」について調べたが、答えなどどこにもなかった。

 北村が手配して、映像関係の人たちが、監視カメラを二人の部屋に設置しに来た。司郎の何げない発言や挙動が、何か「病気」の手がかりになるかも知れないから、と北村は説明した。

「ホントかよ。俺の発言の中の『預言』を探すためじゃねえの?」

 と司郎は毒づく。

「とりあえず、こないだの折半な」

 と、分厚い封筒を北村は懐から出した。千恵はその封筒の中を見て声をあげた。司郎は現実的に額を見積もった。

「スゲエ。監督一本やるギャラより、全然儲かんじゃん」

「で、次のご宣託は? 五日後に、何が起こる?」

「そのことなんだけど……」と千恵が割って入った。

「一週間先までは把握してたけど、どんどん『遠ざかってる』みたい」

「……何だと?」

 手帳に書かれた司郎の「天気予報」と、実際の天気の切り抜きの対応表を、千恵は既につくっていた。

 先日まで「五日先」だった司郎の「脳内記憶」は、六日先になり、七日先になった。ずれている。それがどんどん「先」にずれている。


 居間のコタツ机の上には、カエルの胴体とウサギがそのままに置かれ、はるか向こうにカエルの頭が置かれていた。周囲に、春と夏の花の写真が、雑誌から切り抜かれてセロテープで貼りつけてあった。

「何だこれは?」と北村が尋ねる。

「歳時記」と千恵は答えた。

「この街には、色んな金持ちが工夫を凝らした庭をつくってるから、たいていどこかで花が咲いてる。花の咲く時期は決まってるから、司郎がどの花を見たか分かれば、特定できるかもと思って」

「……ふむ」

 北村はその花を眺める。司郎は諦め気味に言った。

「今日は七月二十八日でちー坊の誕生日、みたいな特別な日じゃない限り、今日が何月何日かなんて一々覚えて暮らしてねえし」

 千恵は机の上の花をひとつずつ指しながら言った。

「宝来公園の外来種の黄色の杜若(かきつばた)の時期を越えて、駅前の高島屋の包装紙みたいなボルドーの大薔薇が咲いたかどうか不明。坂を下りたセブンイレブンの隣の、白のエンゼルトランペットも咲いたか不明。九品仏(くほんぶつ)(さぎ)(そう)も、公園手前の坂下の紫陽花(あじさい)もまだ咲いてないのは確定だから、梅雨時期ではないと。三角屋敷の黄色いミニバラや、ガラスの温室のお屋敷の生垣の赤いクレマチスも、時計(とけい)(そう)も不明。多摩川の連翹(れんぎょう)雪柳(ゆきやなぎ)も不明」

「そんな一々花の名前とか、覚えてねえし」

「いつも歩きながらこれは(すみれ)よ、とか辛夷(こぶし)よ、とか花の名前教えてたのに!」

 千恵にとって、この街は花で地図をかける街だ。

「……とにかくワインおじさんのお屋敷の(うめ)の実はまだだし、黄色いお屋敷の白い百日紅もまだだから、梅雨や夏までには、まだ遠ざかっていないかと」

 たしかに、今この花の写真を全部裏返し、名前と時期を一致させろと神経衰弱をしても無理だと北村は思った。花の区別は、色程度しか不可能だ。結果だけを捉えることにする。

「つまり、一か月は先ではないと」

「……それぐらいしか言えない」

「……加速してるのか?」

「それも分からない。どんどん遠ざかってるのは確かだけど、そのスピードが測定しようはないし……。でも花で分かるのは一年までよ? 一周しちゃったら……」

 千恵は司郎の顔を見た。

「追いつけるのかな」

「……」

 北村は立ち上がった。

「データは継続して収集しよう。風間、長期予報でも金になりそうなネタは受け付けるぞ」

「今のところ第三次世界大戦も起きてねえし、UFOによる侵略戦争もない」

 司郎の冗談は、深刻になり過ぎてもいいことはないという主張の裏返しであることを、千恵は知っている。心配性の千恵を落ち着かせる無意識であることも。



   7 雨と晴れの日


 今日は、雨が降っていた。大量の洗濯物を抱えた千恵が言った。

「もう。司郎予報、全然当たらなくなったね」

「今年は冷夏、とかの気象庁予報も全然当たんねえけどな」

 千恵は洗濯物を部屋干ししはじめた。司郎が「明日は晴れる気がする」と言ったのを真に受けたのだ。きのう「一か月先」にいたとしても、今日は「三日先」とか「一日先」まで、戻ってきてくれるかも知れない。そう希望的に思っても、現実はそうではなかった。

 窓に下げた籐籠の蘭たちにぺたりとへばりつけるように、濡れたTシャツなどをハンガーで干してゆく。三面の窓も同じくだ。蘭は南国原産の植物だ。雨季に夜の霧が湧く、湿気の高い所で進化した生き物だから、空中に生やした根から空中の水蒸気をとりこむ性質がある。水やりしなくても、こうやって水を与えることが出来るのである。いわば霧吹きと洗濯物干しを同時にやる、千恵なりの工夫だ。

「なんぞそれは」

 司郎が千恵の干しているものを見て言った。

 ひとつのハンガーの右半分に司郎のパンツ。左半分に千恵のパンツ。

「願いを捧げているのです。二人のえっちがありますようにって」

「黒魔術かよ。呪い干し」

「ひどい」

 千恵は洗濯物を干し終えると、司郎の隣に座った。

「きょう司郎は、晴れ?」

「うん。いい天気だよ」

「日差しが濃く強くなってきて、まぶしい感じ?」

「そうだね。もう春の日差しよりキツイね。ちー坊なら日焼け止めのクリーム忘れたら大変なことになるだろね」

 色白の千恵は、強い日差しに日焼け止めは欠かせない。目の色素も少し薄く、斜めから見たら茶色に透き通っている。色の白いのは七難隠すというが、司郎は七難あるのかよと文句を言った。

 千恵は司郎の手に、自分の手を重ねた。

 窓を叩く雨が、千恵の手に黒い雨の影をつくっていた。暗く沈んだ蒼い千恵の手が、目に痛いほど金色で暖かい光が降り注いでいる、司郎の手に重なっているさまを想像した。

 千恵の今いる部屋は、雨が降っている。

 司郎の今いる部屋は、晴れている。

 まるでこの部屋が、二人の重なった手を境目に、真っ二つに別れているように感じられた。千恵には全身に雨の影が落ちていて、司郎には全身に太陽の光が注いでいる。

「えっちして、ってケンカしたから、司郎は私から遠ざかっているの? 司郎は私から逃げて、遠くへ行っちゃうの?」

「うーん。多分、違うよ」

 千恵は机の上のカエルとウサギを眺めた。カエルの頭はウサギを置いて、随分と遠くへ行ってしまっている。胴体はすぐそばにいるのに。

「ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ? 早く帰ってきてよ。カエル大明神に何度もお願いしてるのに」

 カエルの頭の先は、机の端である。このままカエルの頭だけがどんどん進んでいくのを千恵は想像した。ぽろりと机の端という崖から落ちて、胴体だけが残されるとしたら。

「寿命の日まで脳が行っちゃったらどうなるの? 脳死?」

「うーん。そうかもねえ」

 司郎は穏やかな顔をしている。千恵に心配させまいとしているのだろう。それは千恵にも分かっている。

「大丈夫だよ。マヤの滅亡も、恐怖の大王も来ていない。世界は破滅してないし、二人はラブラブさ」

 司郎は千恵の手を握り返した。千恵は、あったかくて、すべすべして、肉厚で肌理の細かい司郎のこの手がとても好きだ。しっとりと千恵の体に馴染むのだ。まるで最初から千恵に合わせて司郎の手がつくられたかのように、細胞のひとつひとつが引力で引かれるような感触だ。

 晴れの日の司郎が、雨の日の千恵にやさしくキスをした。

「時空を超えたキッス」

「……」

「俺、時をかける中年」

 司郎は笑った。千恵にとって、司郎は太陽だった。



   8 踊り場の月


 寝苦しい夜だった。千恵は真夜中に起き、台所で水を飲んだ。ペアのマグカップは残り一つだからそれは司郎に譲ることにして、スナフキン柄のコップで飲んだと思う。

 司郎も起きてきてトイレへ行く気配がした。こんなとき、北村がつけた監視カメラも動いているのだろうか、と天井に取りつけられた小さなガラス玉を見て千恵は思った。プライベートも何もあったものではない、と。

 司郎は冷蔵庫を開け、ボルビックをペアのマグに入れて飲んだ。と、司郎は千恵を見てそのマグを床に落とした。ぱん、という乾いた音がして、ペアのマグはこの世から存在を消された。

 静かな住宅街に、その音が響き渡った。次の刹那、それより遥かに大きな声で、司郎は叫んだ。

「ちいいいいいいいいいい坊おおおおおおおおおおおおおお!」

「? ちょっと、夜中よ。あと破片が……」

「良かったあああああ! 生きてたあああああああああああああああ!」

「……はい?」

「ちー坊! ちー坊! ちー坊! あああこの匂い! 生きてる! 生きてるよ! もう俺を一人にしないでくれよ!」

「え。……何なの? 何なの?」

「やっぱ夢だったんだよな! だってちー坊はここにいるもの!」

 司郎は千恵を力強く抱き締めた。肋骨が折れそうだ。

「痛い! 何? 何なの?」

 司郎はごめんと言って、次に千恵の頬に、唇に、額に激しいキスを浴びせた。司郎は自分の頬もビンタする。

「これ、夢じゃないよね! 夢じゃないよね?」

 司郎の異常とも言える状態に、千恵の警戒警報は最大級の音を出している。こんなに理性を失った司郎を、千恵は見たことがなかった。司郎はいつも私より安定している。だから安心なのに。それが土台ごと揺らいでいる気がした。

 断片的に漏れた言葉。一か月以上先の未来。そのときに、私自身に起こったこと。

「……ねえ司郎」

 千恵は静かに司郎に聞いた。しーちゃんと呼ばないとき、千恵の言葉は真剣の重みをもつ。

「なんだよちー坊!」

「私……あの……まさかさ……」

 千恵は、想像したくもないことを言う決意をした。

「なに?」

「……私、死んだの?」

「うわああああああああああああああああ!」

 司郎は絶叫し、パニックになった。過呼吸になり、喘息の発作が出始めた。ヒュウヒュウと壊れたふいごのような喘鳴が見る間に強くなり、その場に崩れ落ちた。

「待って! 吸入器取ってくる!」

 千恵は司郎のカバンを探り、吸入器を司郎に咥えさせ、プシュリと薬を吸入させた。

 司郎は東京で仕事を始めてから、小児喘息を再発した。ストレス性なのか、東京の悪い空気のせいなのか。空気の清浄な田園調布に越したのも、半分は司郎の健康を気遣ってのことだった。以来喘息の発作は一度も起きていない。何年振りかのそれは、今告げられた衝撃的事実よりも千恵を心配させた。

 台所の片隅で、司郎はうずくまって時を待った。千恵もぺたりと座り、司郎を抱きしめていた。喘息の発作は怖い。呼吸が出来なくなる。神様、司郎をまだ連れていかないでください。

 司郎の呼吸は、次第に落ち着いてきた。司郎はふたたび、千恵をやさしく強く抱き締めた。

「……ねえ。やっぱ、これ、夢だよね?」

「夢?」

「だってちー坊、生きてる訳ないもの。夜中、病院で雨が降ってやだなあと思ったら突然心電図が乱れ始めて、看護婦さん呼びにいって、心臓マッサージ朝までして、今心電図が振れているのは揺らしてる振動に反応してるだけって説明されて。……何度も何度もちー坊の名を呼んで……。葬式も出したし、棺の釘を打つ前にアディオスのキスで生き返らなかったし、香典も整理して、宛名の名簿までつくったもの。骨だって拾ったし、灰まで全部拾ったもの。『ではそろそろ』って火葬場の人に言われて、まだ骨残ってるから全部拾わせてくださいってパニックになりかけたもの。全部骨壺に入れてくれるシステムって知らなくてさ……」

「……」

「これは夢だよ。ちー坊に夢で会えるなんて、最高じゃん。部屋から出てくる長い髪の毛は全部君のだから、ガムテでぺたぺたやって集めてるよ。ちん毛は俺のだけど。あ、もうやけ食いしても太らないよ? 好きなの食べなよ。かゆみ止めと寒い時用のバンダナと、暑い時用の『風』って書いた扇子と、小腹減った時用の椪柑は、棺に入れたけど、そっちに届いてるよね?」

 司郎は千恵をやさしく抱き締めた。そのやさしさは、嘘をついてなかった。

「あ、そうだ!」

 司郎は千恵の手を引き、立ち上がった。

「踊り場で踊ろう!」

「え?」

「結局あれから、一度も二人の踊り場で踊ってなかったじゃん! いいことがあった時は、二人で踊ろうって決めてたのに!」

 司郎はぎこちないステップで千恵の手を取り、台所と寝室の間にある、わずか半畳の板間へと導いた。


 月が出ていた。月光に照らされた二人は、抱き合って板を踏んだ。司郎は社交ダンスの真似をしておどけた。千恵は司郎の胸に顔をうずめた。

 BGMも何もない、二人が板を踏む音だけがぎしぎしと響いた。

「司郎」

 千恵は司郎の胸で、もう一度彼の名を呼んだ。

「なんだいちー坊」

「私は、……私は、いつ、どうやって死んだの?」

 司郎は答えず、やさしく抱き締めただけだった。


 月は朧で、満月だった。

 二人の板を踏む音だけが、響いていた。









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