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Till you die.  作者: 一倉弓乃
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5 JURIA

 一人息子が出かけて、静かな夏休みが始った。

 息子はいいコちゃんで…手間のかからない物静かな子だったけれども、「イツカキレル」と、母は思っている。

 早く爆発してくれたほうが、大人になるまえに立ち直れるような気がするのだが、でもブチキレた男の子の相手が、自分一人にこなせるのかどうか…それは今一つ自信がない。父親のいる家庭なら、そんなときくらい親父に面倒を押し付けるのだけれど、あいにく、ここの家庭には男親がいない。そういう家庭になることは初めからわかっていたのだけれど、贅沢を言って男をより好みしている場合ではなかったのだ。…それに、自分のところの父親がずいぶん大変な男だったので、父親のいる家庭というのも、それはそれで怖い。そういうところから逃げ出して、エリアに潜り込んで生きて来たのだから…そこいらはどうしようもない。

 多分自分のこういう不安を、息子は見抜いているのだと思う。俺が本気でぶつかったら、お袋がこわれちまうかもしれない、というような形で、心配が共鳴しあってしまっているのだろう。自分の心のツケが、息子にまわっているような気がして、ときどき申し訳なく思う。

 今はとりあえず、衝突をさけるために、二人はなるべく別々に休日を過ごしている。それも息子が自発的にはじめたことだった。

 実は息子とこの家に住むことになったとき、母は改名させられている。息子の父親から「ふさわしくない名だから」と言われた。姓は息子のために、息子の父親の姓を名乗るように言われた。名前は、「おまえはしづ江とか百合子とかそういう名前のほうがよい」と言われて、勝手に「百合子」につけかえられた。けれども本当の名前は、ジュリアという。

 息子がいないあいだは、沢山の猫たちに囲まれてジュリアに戻る、それが母のバカンスだ。

 息子の猫は、息子の部屋にこもったきり出てこない。本当に息子そっくりの猫で、気味が悪いくらいだった。ジュリアは階段の上にその猫・そうせきくんの御飯をそっとおいておく。そうせきくんは、いつも一人でそれをかりかりと食べている。

「ねぇタミちゃん。夏目さんも、おりてきて、一緒にたべたらいいのにねえ。」

「にゃー」

 ジュリアの三毛猫・タミちゃんはとっくに食事を終えていて、ジュリアの膝に甘えている。まわりには食事中の猫がざっと15匹。今日は真夏にしては少ないほうだ。息子がいないので、息子が好きで来ている猫がこなくなってしまったのだろう。

 猫はかわいい。本当は山奥で50ぴきくらい飼いたい。それが目下の夢だ。息子が独立するときは、この家を息子に渡さなくてはいけないことになっている。そうしたら多分手切れ金が息子かその父親かどちらかから出るはずだから、そうなったら山奥に住もうか、と思う。もう都会には飽きた。要らない金もかかるし、近所もうるさい。山奥がダメなら海辺もいい。海辺で醤油でもつくってひっそり暮そうか。昔とった杵柄、魚をさばくのも得意だ。養殖場か加工場で一日ウロコをとばして仕事してもいい。もうきれいに化粧して高い和服を着て生きていることに疲れた。もっとバリバリ野性的に暮したい。体力には自信がある。もともと強かったけれど、息子を産んでますます体力がついた。バイクだって運転できるし、フォークリフトだって運転できる。自分はどこで何をまちがえてこんな息がつまるようなところへ来てしまったのか…。きれいなドレスやお金持ちの男性にあんなに心をひかれたのは何故だったのだろう。今ではすっかりわからなくなってしまった。…空気が吸いたい。おいしい空気が。紫外線で早死にしたってかまうものか。

 ところで最近息子に恋人ができて、これが実にかわいい。以前はいかにもあやしげな大学生と腐ったつきあいをしていた息子だが、今度の子は年下で、すごくまじめそうな子だ。二人で可愛く初恋ムードになっているらしい。

 言い遅れたが、息子は子供の頃から男好きだ。息子は母に隠し通しているつもりらしいが、さすがに3才5才のときのことまでは覚えておるまい、しかし母は覚えている。息子には、よその男に懐いてその男から溺愛されていた時期があった。それをかわきりに、息子は明らかに男好きに傾いた。最近でも部屋の掃除中に普通のエロ本が出てくることなど、まずない。

 そんな調子だから、息子には女友達もちゃんといるのだけれど、あまり期待はしていない。その子はジュリアにとっては魅力的な女の子で、みているとなんだかつまっていた鼻がとおったような清清しさを感じるのだけれど…息子は、母の好みを考えて、あの子を連れて来たのかもしれない。

 ジュリアは息子は別にホモでもいいので、好きな相手と幸せになってほしいきがする。ジュリアはそういう人生とは、縁がなかったから。…いつも食べることと寝る場所が最優先だったから。…セックスもそのための便利な商品でしかなかったから。

 …猫まみれになって物思いにふけっていると、電話がなった。

「はいはい、ただいま。」

「にやーん」

 …別に久鹿家の跡継ぎが陽介で絶えたとしても、ジュリアの知ったことではない。

「もしもし、久鹿でございます。」

「陽介です。」

 …当のそいつからだった。

「あら陽介さん。こんばんは。今日はY市でしたか?」

「はい、まだY市にいます。」

「健康ですか?」

「はい、大丈夫です。」

「…何かございましたか?」

「…今大丈夫ですか?」

「ええ。」

 画像は届いていない。音声だけだ。…息子は気難しい。別段気にもとめなかった。

「…実は、ちょっと…春季が、俺の古い知り合いと称する人物と、列車内で会ったらしいのです。」

「…?春季さんが、陽介さんの知合いに、ですか?」

「ええ。俺が子供の頃に会っているのだそうです。背がたかくて、髪はながくて、金持ちそうな男らしいんですが。」

「あら…?そういう方、私存じておりますけど…。」

「だれですか?!」

「安西先生のおぼっちゃん…。」

 勢いこんだ息子はがっくりしたようだ。…安西の倅というのは、例の大学生のことだ。息子に女遊びをいろいろ指導してくれたらしいが、息子にとっては苦行でしかなかったようだ。

「…ええと、目は切れ長で、鼻は細くて、色の白い男だそうです。」

 …安西はぱっちりした大きな灰色の目をしている。ハズレだ。

「…年はおいくつくらいかしら…」

「…老人ではないそうです。」

「陽介さんが子供のころというと…10年くらい前ですかしら…?もっと前?」

「それもわからないのですが…ただ、俺の名を知っていたそうです。」

「…列車って、どちらの?」

「S市とT市の間です。」

「S市とT市…さあ、私はそちらの方には行ったことがございませんし…」

 母は困ってそういい、黙った。すると、向こうが電話を替わった。

「おばさん、今晩は。尾藤です。お世話になってます。」

 息子の年下のカレシが電話に出た。

「こんばんは、春季さん。」

「…先輩がちっちゃくってとってもかわいかったころ、まんまと騙した男の名前を教えて下さい!」

 そう言われてみると、思い出したことがあった。ああ!そうかそういうことか!と母は思い、コロコロ笑った。

「まあ、春季さんたら! うふふふふ!」

「…」

「あそこのお父様だわ、きっと! ずいぶん長い間、陽介を女の子だと信じていましたもの。」

「え…」

 え、と息子の声も重なった。次の瞬間、パチリと画像がオンになった。男の子が二人で画面をのぞきこんでいる。

「まあ。なかよしさん。」

 足下に何かがぶつかってきたので見ると、そうせきくんが足の回りをうろついていた。かがんで、そうせきくんを抱き上げ、電話に出してやる。

「はーい、そうせきくん、陽さんですよ~。」

「にゃー」

「おっ、そうせきくん、元気か。…いや、それはともかく、お母さん…誰ですか、それは!」

「…実はわたしもお名前やらご住所やらは存じないのです。昔、陽さんと二人で1ヶ月ほどお世話になっていたところの方なのですけど。」

「名前もしらない人のところに一ヶ月も滞在していたんですか、俺達は。」

「…ええ。お父様の秘書の方がお世話してくださった滞在先でしたから。ここなら絶対に大丈夫とおっしゃって…。そのかわり詮索しないという約束でしたから…。」

「大丈夫って…?」

「…ほら、浩一さんが、誘拐されたとき。危ないからって、緊急避難したんですよ、わたしたち。」

 息子は食い入るような目でこちらを見た。

 …浩一というのは、陽介とは母親の違う兄だ。ようするに本妻の息子で、誘拐されてボコボコにされたことがある。思い出すだけでもゾッとするような出来事だった。避難している間は生きた心地もしなかったものだ。浩一は1週間ほどでかえってきていたが、手足の骨が折れていて、体中に火傷や打撲のあとがあったと聞いている。不謹慎だが、うちの陽さんでなくて本当によかった、と母は今もしみじみと思っている。

「…それ、誰ですか。その秘書。」

 息子は言った。

「さあ、わたしはちょっと…。」

 母は首をかしげた。

「…その、どこかのうちのお父さんというのは、…他に何かわかることはないんですか?」

「…そうですねえ、確か陽介さんと年のちかい娘さんが二人いたように思いますよ。」

「娘が二人…」

「ええ、かわいらしいお嬢さん。一人は元気な子で、一人は大人しい子でしたよ。よく陽介さんと一緒にあそんでくださって。お嬢さんたちの名前は失念してしまいましたが、奥様は確か…ソニアさんて方だったと思います。」

「ソニアさん…」

「ええ。肉じゃがの上手な方でらしたけど…あと、エンドウの御飯の炊き方をおしえてくだすったんですよ。良い方でした。」

 すると春季が言った。

「おばさん、そのソニアさんの夫ですが…外見は、やはりさっき言ったようなようすでしたか?」

「…どうでしょうねえ、切れ長でカギ鼻で、着物の似合うひとでしたけれど。痩せていて、背はたかかったと思いますよ。髪はみじかかったですねえ、当時は。」

「何のお仕事をしている人、とか、そういうことは…?」

「…なんだか事情があって、ずっとおうちにいらっしゃる御様子でしたよ。ですからお仕事のことはお聞きしませんでした。」

「家で日がな一日ですか?一体何を…?」

「さあ…。御推薦いただくだけあって、広いおうちでしたから…。ソニアさん以外の方とは滅多に顔を合わせませんでしたし。ちょっと目を離すと陽介さんもすぐ迷子になってしまって…。よくそこのうちのお嬢さんが探して来てくれたものです。」

「あの、近所にはなにかありませんでしたか、大きな建物とか…」

「ございません。…というか、あまりよくはわからないのです。私と陽介さんは、そこのお宅に閉じこもっているような有り様でしたから。…なにしろ事情が事情でしたので、隠れさせていただいていたわけですから…。おそろしくて外になんて…。」

 そこで一旦話を区切り、そうせきくんを抱きなおしてから、言った。

「…で、春季さんは、御会いになられた方とどんなお話を…?」

 春季がつまったので、息子が言った。

「…いや、昔はかわいかった、とか、そんな話らしいです。」

「そのとき陽介さんはどうなさっていたの?」

「…寝てました。」

「あらまあ。うふふ。」

 母は笑った。

「…そこのうちのお父さん、変った方だったんですよ。自分の家族が苦手だといって、よく私と陽介さんの食卓にやってきて、一緒に御飯をいただいたり…。陽介さんのことずいぶん可愛がってくださいましてねえ。陽介さんもとってもなついて。お父様ができたみたいで嬉しかったのでしょうね、久鹿のお父様はいつもお忙しい方ですから…。一緒におうたを謡われたり、子供用のきれいな着物を貸して下さったり、陽介さんとはとっても楽しそうでしたけど…でも、御自分の娘さんたちとは目も合わせないのです。…陽介さんお膝でよく眠ってしまって。そうすると足が痺れるまで、ずっとだっこしていてくださって。いい方でしたわ。お優しくて。」

「…着物、ですか。」

「ええ、着物というかなんだか、牛若丸みたいな。」 

「…?」

 春季は首をかしげて、陽介を見た。陽介は眉をひそめた。

「…牛若丸みたいな…?」

「ええ、そうです。牛若丸みたいな。」

「…珍しいですね、今どき。」

「ええ。私も実物に触ったのは最初で最後でしたわ。…御参考になりまして?」

「…ありがとうございます。」

 二人は並んで頭を下げた。

「…あとはお聞きになりたいことは?」

「…いえ、とくにありません。」

「そうですか。じゃ、よい御旅行なさってね。ああ、そうそう、スケジュールというか、宿泊場所がかわったりしたら、一応御連絡くださいね。お父様から問い合わせが入ることがあるかもしれませんので…。」

「わかりました。…そちらは何もないですか?」

「ちびちゃんたちはみんな元気ですよ。」

 母はにこにことそうせきくんを画面に見せた。

「…そうせきくんを頼みます。」

「ええ。じゃ。」

「はい、おやすみなさい。」

 電話は切れた。

 懐かしいことを思い出したな、と思った。

 …母は実は秘書の名前も知っているし、その謎のお父さんの仕事も知っている。ただ、場所をしらないのは本当だ。目隠しされて車で連れて行かれたからだ。そういう怪しい場所だったし、怪しい家だった。陽介には言わないほうがいいだろう。再会したならなおさらだ。

 …たしかに面倒見のいい男だった。そりゃ子煩悩といってもいいくらいだ。だが陽介はあの男とは何の関係もない「よそのこ」なのだ。そういうのは子煩悩とは言わない。

「…そう思いますでしょ、夏目さん?」

「にゃー。」

「…さすがにお風呂にいれてあげるとは言いませんでしたけど…。でも…足はよく弄んでましたし。」

 …陽介がたびたび屋敷内で行方不明になっていたのは、間違いなくあいつだ。…向うの娘がいつも青い顔で陽介を引っぱって連れ戻してくれた。陽介は女の子に連れられて戻ってくると、いつも疲れ果てていてすぐに眠りこんだ。子供達で鬼ごっこでもしているのだろうと思っていたけれど…。

 …滞在も終わりに近付いたある日、その娘が父親と何か大げんかになった。何があったのかは知らないが、そもそも壊滅的だった親子関係がそこで粉砕したのは間違いない。だがそんなことはどうでもいいのだ。ジュリアには関係ない。ただ…。

「…夏目さん、聞いて下さい。陽介さんたら、その親父のこと、かばって泣いたんですよ。陽さんが迷子になったら探してくれたのはいつもその女の子だったし、陽さんにおもちゃかしてくれたのもその女の子だった。なのに陽さんは…その女の子の味方じゃなく、その妙な親父の味方をしたんですよ。女の子はずいぶん傷付いて、陽さんのことぶって。そしたらお父さんが女の子をぶって…たいそうな修羅場でしたのよ。わたしはびっくりして慌てて陽さんをひっぱりよせましたけれども…幸いどの子も怪我はありませんでしたけれども…。」

 そういって、そうせきくんを撫でた。

 …慣れていても、親が子供を殴るのを見るのはいやなものだ。ジュリアは自分の頬に軽く触れた。鼻が曲るかと思うほど、子供時代ぶたれて育った。…本当に、嫌なものだ。そうとも、久鹿は「百合子」を殴らない。それだけでも儲けものだ。ジュリアは、殴られる生活から解放されたのだ。…ときどきそれを自分に言い聞かせないと、うっかり忘れてまたびくびくして暮しているときがある。

「…陽さんは、変な人です。私にはよくわかりません。」

 そうせきくんはジュリアの手から身をよじって逃れ、たーっと階段を駆け上がっていった。

 陽介は家に帰るのを嫌がった。その妙な親父と涙の別れになった。それでも結局、その男が、陽介をどうしても帰すといってきかなかったから、予定を繰り上げて帰って来たのだ。

 …そう、陽介が男の子だと気付いた途端に帰すと言い出したのだ。「陽ちゃん」は、女の子だと思っていたらしい。

 …まるでわが子を人買いに売る女のように、彼は泣いていた。陽介も帰りの車でいつまでも泣き止まなかった。家に戻ると陽介は3日ほど熱を出して寝込んだ。そして見舞いにきてくれた自分の本物の父親の顔を見て、「…おとーさんて、はげてましたっけ??」と宣って、久鹿に「お前らが心配かけるからはげたんじゃい。」と言われた。

 …陽介が、自分の父親の一番好きなところは、今でも「禿げた頭」なのだそうだ。

 あの男に再会したのか…と母は眉をひそめた。

 勿論ずっと陽介が男の子だと気付かなかったという事実は、彼がペドファイルではなかったことを物語ってはいる。だが…春季が同行しているのは幸いだったかもしれない、そう思った。

「…いつきちゃんが一緒ならもっと安心なのだけど、まあそういうわけにもねえ…。」

「しゃー」

 野性的な返事にふと下を見ると、大きなヤマネコが見上げていた。母は笑った。

「まあどんぐり。お返事してくれたの?ありがとう。」

 足でちょこっと前足をふむと、どんぐりは「なにすんの~」という顔で数歩逃げ、もういちど「しゃー」と鳴いた。

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