3 DOME-Y
それまでは陽介と神社へ出かけても、植物ばかり調べていた春季だったが、さすがに、Y市滞在中からは少し興味分野がかわった。レポートが被るのを避けるため、わざと神社仏閣や遺跡についてつっこまないようにしていた春季だったが、そうも言っていられなくなった。
幸い陽介は聞けばなんでもすらすら答えてくれる便利辞書みたいな人物で、春季はY市に入って一緒に来たのがこの人で助かったとつくづく思うことが多くなった。
「…先輩、これは、何て読むんですか。」
「ねぎ。」
「…どういう意味ですか。」
「うーん、神社で神様まつって働いてる人のことだよ。」
「…先輩、これはキュウジですか。」
「いや、これはグウジって読むんだよ。宮司さんも、神社で神様まつって働いてる人。宮司さんはね、偉い人。」
「…これはジンショク?」
「いや、シンショク。」
「む…難しい…。」
「そうね、ある時代に流行した漢字の読み方らしいよ。今とは少し違う読み方らしいね。…漢字って輸入した文字だからさ、中国から。何期かに分けて入って来てるからね。」
「へえ。そうなんだ。」
「仏教系はまた仏教系でちょっと読み方あって、あれもまた時代が分かれてるらしいんだよ。」
「へええ。…あ、先輩、これ、これ。」
「なに。」
「この鳥居、太い縄がついてますよね。これみたいに、昨日見た岩にも、なんか縄が巻いてありましたよね。これって何なんですか?」
「ああ、しめ縄。」
「しめなわ…?」
「…んー、ここから向こうは神様の領域ですって印。聖と俗とをわかつ境界線なんだってさ…もともとは大陸起源のものらしいって話なんかで読んだけど。みだりに踏み荒らして穢すなってことでつけるわけ。だから神様がやどりそうな立派な岩にも巻いてみたりすんの。」
「神様が宿りそうな立派な岩って…岩に神様が…ご宿泊ですか?」
「うーん、昔、神社の建物をたてる文化がまだあまりなかった古い時代には、シャーマンのような人や、修行生活をしているような人が、儀式のときだけ臨時の斎場を作って宗教的儀式をやっていたんじゃないかと言われてるんだとさ。その場合、その臨時の場に儀式のときだけ神様を呼ぶわけなんだけど、『この木に神様おりてきますから』とか『この岩におりてきますから』みたいな感じで自然物を利用しらしいんだ。ヨリシロとかいうのね、そういう岩とか木とかを。で、その神様がその木や石にやってきて、儀式の間とどまってくれることを、宿るという言い方するわけ。
その…なんつーかなあ、理屈はそういうことなんだろうけど、…日本人て、そもそも岩とか木とか、多分好きだし、畏敬もってるのかもしれないね。そういう素朴でかわゆい性格なのヨ。わあっ、すっげえ、でっけえ、って素直に驚くし、こええ、って素直に怯えるし、よくでかくなったなあ、って素直に感動するのヨ。自分を圧倒するパワーが怖いっていうのもあるし、好きだっていうのもあるわけヨ。でかい岩なんてさ、こわいじゃん、ころがってきたら。でもなんか登ってなついてごろごろ言ってみたいじゃん。お日さまあたってたらあったかそうだし。」
「はあ。」
「…だから、縄巻きオッケーなの。神様がそこに降りてくるってファンタジーがオッケーなの。そんで、拝まされてもオッケーなの。拝みたい気持ちが、カミ様以前に、多分あんの。…かわいいっしょ?」
「…なるほど。」
「拝みたいから神様なのヨ。きっとね。」
「…神様だから拝むんじゃなくて、拝みたいから神様なんですか。」
「俺はそう思ってんの。個人的に。」
「先輩説ですか。」
「そう。久鹿サン説。」
「なるほど。」
春季は軽くうなづいて、さらりと流し、先を続けた。
「…あと、その、しめなわ、ですか、しめなわ、によく紙がからまっていましたけど…ここのはきれいですね、これが原形なんだ。この紙はなんなんですか?」
「なんだかしらないけど『四手』って名前だったと思うよ。昔は木綿や麻を使ったらしいんだ。昔、垂れるって意味の言葉で『しづ』っていう動詞があってそれの活用形らしい。…ゆふっていうのは楮って植物…和紙をつくるのにも使う繊維の多い植物なんだけど…。…そのコウゾの皮をはいで、その繊維を蒸して水に浸して、裂いて糸にしたもんだよ。だから布製だったのかな?…なんで垂らすのかは俺は知らん。目立たせるためとか飾りとかいうことかもね。神社のサイトとかみても『このように飾ってください』ってかいてあったりするし。一説によると雷をかたどったって説もあるそうだけど。」
チョイと聞けばこのようにスラスラとどこまでも返事が出てくる。有り難いことこのうえなかった。
「先輩、エリ…いや、学校のそばに、稲荷ってあるんですか?」
たまたま通りかかった土地の人がいたので、春季は「エリア」という言葉を途中で呑込んだ。陽介はその通りすがりの人が去ってから言った。
「…たくさんある。あまり目につかないようにしてあることが多い。…ビトウ家の裏あたりにも確か一つあったと思う。勿論、教団がさわってなけりゃの話だけど。」
春季の家は学校のドームから『渡り廊下』を通ってエリアに入ってすぐのところにある。春季は学校中でもっとも学校の近くに自宅がある生徒の一人だ。
「…僕はそういう古い文化を残しておくことには基本的に賛成ではあるんですけど、…でも、普通そういうものって消えてしまいがちでしょう?よくそんなに残っていますね。やっぱり土地の人はみな大切にしようと思うものなんですか?…エ…いや、あのへんの人たちの性格を見るに、そういうふうには思えないんだけど…。ほら、皆清潔好きで、基本的に勝ち組さんで、新しいもの好きで、派手でお金のかかった大きなものが好きで…小さな小さな古いお社を大事に維持しつづける可憐な信仰心とは、縁がないみたいに見える。」
「オー、言ってくれるねえ、春季。でもそりゃたしかにおっしゃるとおりだ。」
陽介はそう言って笑うと、茂みからこちらをじっとみていた猫に、しゃがんで手をさしだした。猫に無視されると、背負っていたかばんのポケットから煮干しをだした。猫はやっと陽介を見た。春季もかってに陽介のかばんのポケットに手をつっこみ、煮干しをとった。二人で煮干しをちょいちょい動かしつつ根気よくしゃがんでいると、そのうち猫がおそるおそる出てきた。鯖白のきれいな猫だ。多分神社で飼っているのだろう。
「…オイデオイデ~。おいしいよ。」
春季の声に促されるように近付いてきた。手を開いて掌をみせると、匂いをふんふん、と嗅いで、それから煮干しの粉をちょっと舐めた。その手に春季が煮干しをのっけると、ぱっとくわえてとことこと茂みの近くまで運び、ごりごり食べた。
「…おまえはなんで猫にモテるのかねえ。」
ちょっと不服そうに陽介は言った。春季はにこにこして言った。
「…先輩はどうして年上の男にモテるんですか。」
「…モテねーよ、別に。」
「じゃ、僕も別に猫にはモテないどえっす。」
「アホ。」
「きひひ。」
陽介が煮干しを投げてやると、猫ははっしと前足2本で見事にキャッチした。
「おー。」
二人が小さく歓声を上げると、猫は煮干しをくわえて茂みの奥へ潜ってしまった。
手を軽く叩くようにして払い、立ち上がって、二人は鳥居から出た。
道路にひとかげはない。二人は繁華街のある方角に向かって歩き出した。
しばらくしてから陽介が言った。
「…稲荷が残っているのはな、やたらないじり方すると、祟るからなんだよ。」
春季は思わずばっと振り返って陽介の顔を見た。
「…」
陽介は真面目な顔をしていた。
「…これは面白い話…っつったら語弊があるけど、そうね、興味深いって言えばいいのかな…。…稲荷の元締めっていうか、本家みたいな団体があるんだけど、…これはれっきとした宗教団体なんだけど…だれもひとことも祟るなんていわねーの。祟りますか?ってきいたら、神様はそもそも祟りません、て言われるらしい。…その点は翼光教団とか斎のいた神殿とかとはまったく違うな。でも世の中のヒトはみんな、祟るかもっつーのは、しってんの。そういう民間伝承みたいなの、ものすげいっぱいあるし。それに、稲荷のお使いのこんこん様は、憑くっていうし。だから小さい古いおやしろ大切にすんの。」
「…祟るって…え、憑くって、一体どんなふうに?」
「…憑くのはね、いろんな…精神障害に似ているらしいよ。癲癇ふうだったり、多重人格障害ふうだったり、ソウウツふうだったり。昔はそういうのを一括して『きつねが憑いた』って言ったもんらしい。」
「…へえ、昔は精神障害は、神様のお使いがのりうつったせいだったんだ?」
「そゆこと。…祟るのはね…つまり、怪我したりとかね。病気になったりとか。家族に不運がつづいたり、最悪、死んだりね。…ドーム以前の時代に、都市開発とか再開発とか言って古いものを一掃して、全部新しいきれいなものにしようって時代があったの。そんころね、稲荷さん、よく撤去されたらしいんだけど、その当時の祟りの話がいっぱいあるんだなあ。いじろうとした工事関係者が次々事故にあったりとかしてさ、実際中止になった工事もあったっていうからさ、資料しらべてみたら、ほんとに中止になってるんだな、これが。…あと、取り壊そうとしたら祟りがあったから、仕方なく移動して設置しなおしたって話もあって、これを見に行くと、新しいお社が屋上にあったり地下にあったりするわけよ。路地の奥なんてかわいいもんでさ。そこだけ避けるようにしてビルたってるとこもあったりするんだなあ。」
「…そ、そんな力のあるカミサマなんですか?」
「そうなのヨ。それにその、本家のカミサマの正体もよくわかんないんだ。どうやら、どっかから降臨したらしいね。…こんこん様じゃなくて、牙向いた狼が境内の入り口守ってたりして。謎なのヨ。」
「…」
春季は口をあけてぼんやりした。
「…日本人て、平気なんですか、そんな…よくわからないもの、拝んで。」
「…教団には負けるけどな。」
「…まあ、それは否定しませんけど。」
「…『なにはともあれ拝んどけ』って感じなのかもしれないけどね。」
「なにはともあれ拝んどけ、か…。」
春季は頭を掻いた。
「…まあ、片っ端から勝負ふっかけるより、平和主義ではありますよね。」
しばらく歩くと、賑やかな通りに出た。
突然陽介が立ち止まって、手招きするので行ってみた。
先に路地に入った陽介は、何か水場と思しきところにしゃがんでいた。そこには石をくりぬいた鉢のような物があり、こんこんと沸く清水をいっぱいにたたえていた。その周辺だけが、沸き返る夏の陽気が嘘であるかのように涼しい。
「…わき水ですね。」
「…何か像がある。ほら。」
陽介が指したところには確かに昔は何かのレリーフが存在したらしい痕跡が残っていた。
「なんでしょう。ホトケ様の一種でしょうか。」
「…か、もしくはカミサマかな。たいてい水関係は弁財天ていう…まあ仏教関係の仏というか神というか…。うーん、でも女じゃないかもなここのレリーフは…。」
「…どこにでもいるんですね、カミサマ。」
「…そうね。…水、少しもらおうか。」
陽介がそう言ったとき、近所の家の裏門がひらいて、主婦とおぼしきおばさんが出てきた。
陽介は顔を上げて立ちあがると、頭を下げた。春季も続いて下げた。
「こんにちは。」
「…あんたら、何処の子?」
「あ、神社や鳥居の写真とったりして歩いてるんです。…関東のほうから来ました。」
陽介は静かに言った。
「ああ、そうなの。物数奇だね。…ま、たまに来るけどね、醤油の研究家だの、わらべうただの。古いまちだから。…それにしてもあんたたち、若いね?学生じゃないの?」
「はい。学生です。夏休みなので宿題帳でなく、自由研究を選択しました。」
「ああそう。物数奇ね。」
オバチャンはもう一度同じ台詞をくりかえした。
「…あのう、このわき水は、昔からあるんですか?」
「あるけど。」
「ここに、何か彫ってあったみたいなんですけど、何が彫ってあったんでしょう。」
「えー?」
オバチャンは言われてみて覗き込んだ。
「あー、…それはね、ここいらの、水の神様だと思うわ。」
「弁天様ですか?…水天?」
「弁天様とは違うよ。水天てなに?聞いたことないねえ。…ああでも、詳しくはあたしもしらないけどね、ここいらの古い井戸なんかには、その神様のしるしがよくあるのよ。」
「へえ…お名前なんかも、あるんですか、その水の神様は。」
「ああ、ナントカのなんとか彦とかミコトとかいうやつね、あると思うけど、おばさんはわかんないわあ。…神社さん行ったときにでも、ついでにきいてみたら。別の神社さんでも教えてくれると思うよ。」
「そうですか。ありがとうございました。…あの、ここの写真とって、お水少しいただいてもいいですか。」
「かまわないよ。…じゃ、あたし買い物だから。」
「あ、スミマセンでした、おひきとめして。」
陽介が頭をぺこんとさげたので、春季も慌ててさげた。
「ありがとうございましたー…。」
オバチャンは「宿題がんばってねー」といいながら、出かけて行った。
「収穫、収穫」といいながらカメラをひっぱり出す陽介の横で、春季はそのすり減ってみえにくくなったレリーフの痕跡をしげしげとのぞきこんだ。
「…顔も姿もあったもんじゃないですねこりゃ…。」
「管轄の神社ききゃよかったな。そこへ行けば全身像とかありそうじゃないか。どっか別の神社にでも聞いてみるか。…土地のオリジナルな神様かもしれない。面白い。」
陽介は写真をとるまえに、なぜか両手を合わせて軽く頭を下げた。それから写真をとりおえ、手で水をすくった。
「わあ、地下水だな。冷たい。」
それから口に運んだ。
「…うん、ウマイ。甘いよ。」
「味つきなんですか?」
「地下水ってかすかに味があるんだよ。慣れないとなかなかわかんないけど。水にも土地柄があってさ…」
何かどこかで聞いた話だな、と春季は感じた。
「どれ…」
春季はこぼれ出る流れで軽く手を洗い、水をすくって飲んだ。
「…あ、おいしいかもしんない。うん、食堂の水と、味、違う! ああ、なんかこういう飲み物のみたかったんですよね、ジュースとかもううんざりで…」
二人がひそひそやっていると、先程の向かいの裏口から、おばあさんが出てきた。陽介が気付いて丁寧に御辞儀すると、おばあさんは言った。
「お水いただいてるの。そう。たんとおのみ。病気がなおるお水だよ。」
「すいません、神社の写真とったり言い伝え集めたりしにきたんですが、ここのお水がとてもきれいでついいただいていました。…病気がなおるんですか?」
陽介の尋ねには答えず、おばあさんは独り言のように言った。
「あんたたち、エリアからだろ。…あすこは水が死にかかっとるとこも多いって…様がおっしゃってたから。おいしいお水のまなきゃいけないよ。」
「え、誰が、ですか?なに様?」
春季は思わずききかえしたが、おばあさんはもぐもぐいって、そのまま裏口に引き返して行ってしまった。
「…聞こえました?先輩。」
「…いや、聞こえない…けど…」
陽介はとまどったように答えた。
それからおばあさんが消えた裏口の位置を確かめ、春季をひっぱって表口へまわってみた。
「…庭の奥に鳥居がある。見えるか?」
「…みえます。あの、ヒバのかげですよね。…おうちの、専属カミサマでしょうか。」
「うん、氏神様ってやつね。ご先祖の霊や、家の守護神を祭ったりするんだ。」
「…ここ、普通のおうち、ですよね…?」
「わからん。ひょっとしたらこのへんのモトの地主さんとかの可能性もなくはない。…ドーム時代に入ってから、家族のだれかをドームに入れるために、土地を切り売りしてる家も多いからな。だとしたらあの泉の実際の管理はここのうちがしていたのかもな。」
「…」
「…あんまり覗くのも失礼だ。行こう。」
二人はそこをあとにして、再び通りを歩きだした。
「…先輩、列車にいたとき、言いましたっけ。」
「なにを?」
「…先輩の昔の男にも、エリアの水を飲んでるやつは匂いでわかるって、いわれたんですよ。」
「…だから俺の昔の男とかいう言い方やめろっつーの。」
「だって向こうがそういったんだもん。」
「…ふーん、その方、多分水に敏感な方なのかもね。」
「…」
車が通った。
二人は久しぶりに車をみた気がして、思わず二人そろってじーっと見送った。
それから、春季は言った。
「…彼の言ったことが本当なら…彼自身もカミサマだってことでしょう?質の悪いものや小さいものは寄ってこられないって…。」
「…うーん。…まあ、そゆことかな。」
古くなってひび割れたアスファルトの道は赤外線が厳しくはねかえってくる。二人は並んで歩きながら、照り返しに目を細めた。
「…先輩カミサマと付き合ってたの?子供のとき。」
「…おぼえないけど。」
「でも彼は先輩がちいちゃかったときはうんとかわいかったって。」
「…。」
「目を覚ました先輩が自分のことを忘れていたらつらいから起こさないでって。」
そう言葉で言うと、なぜか春季はじわっと泣きたいような気分になった。
…自分でも奇妙に思った。
「…だからってデキてたとか思うのも変だって気がするけど。」
陽介は言った。
「…じゃどういう仲だったんですか?」
春季は尋ねた。
陽介は首を振った。
「…わからん。…気になるなら、お袋に電話してきいてみるか?俺はおぼえてなくてもお袋なら覚えてると思うぜ。」
「先輩は気にならないんですか?」
「別に。ガキのころのことなんて覚えてなくてあたりまえだろ。」
「…」
「なにふてくされてんの。」
「べつに。」
二人は暑くて長い道を歩いて、宿に戻った。
+++
Y市で二人が利用したのも、ホテルではなく、旅館だった。この旅館は畳敷に障子・襖、縁側と廊下のある二階屋…という、規模こそ違え、いかにもどこかでみたような作りの旅館だった。だが陽介がここを選んだのは、自宅に似ていたからではなく、…
「お帰りなさいませ。暑い一日でございましたね。お風呂、つかっていただけますよ。」
「はい、じゃあ食事のまえにさっそく。」
「どうぞごゆっくり。」
…温泉、だった。
「春季、汗、洗い流してから飯に…あれっ。」
陽介は春季をみて、拍子抜けした。
春季はあせっかきで、ちょっと暑いとすぐに滝のような汗をかく。それをよく知っていたので、温泉やバスルームの充実した宿ばかり選んだのだが…。
「…おまえ…今日、汗、かいてないね…?」
「…あ、言われてみれば。」
「うん…でも風呂はいるよな?」
「はいります。先輩とのお風呂は目下僕にとって一番の幸せ。」
「背中流してやるよ。」
「はい…でも、言われてみると確かに変です。…なんかあんまり暑くないような…。あんなバリバリのアスファルト…なんで平気なんでしょう??」
「…向こうたってから、俺達元気ではあるけどね、活動的といえば、まあそうだし。…なんか、体の調整がうまくいくようになったのかもね。ストレス少ないのは確かな気がするし。」
「そうですね。」
幾分首を傾げながらも二人で温泉に漬かった。重曹泉だかですこしじわじわと刺激があったが、上がってみたら肌がすべすべになっていた。
「わーっ、すごい、すべすべです、センパイ。」
「すげーなこれ。」
そこの宿ではもう一つ嬉しいことがあった。
二人が浴衣姿で縁側で涼んでいると、「ニャオン」とやけに響く鳴き声がして、大きな三毛猫がごろーんと縁側を渡って歩いてきたのである。
「キャー、センパイ、ニャオンです、ニャオンですう。」
「おお、ニャオンだな。」
「ニャオーン、おいで!」
春季が呼ぶと、宿の三毛猫はまたニャオンと大きな声で鳴いて、春季のそばまでゆき、それから陽介のほうへやってきて、ちょっと顔を見上げ、結局二人の間に入って、ごとろんとねそべった。
「ニャオーン。おっきい三毛猫。」
春季は喜んで、その背中を撫でた。
宿の仲居さんが食事を運んできて、あら、と目をとめた。
「木綿ちゃん、ここにいたんですね。…すみません。」
二人は慌てて手をふった。
「いえいえ、いいんですよ。よかったらずっと貸しておいてください。」
「そーなんです僕達猫に目がなくて…。もめんちゃんていうんだ。なんなら一緒に寝ます。」
もめんちゃーん、といいながら春季が撫でると、木綿ちゃんはニャオンとまた大きな声で鳴いた。
「おっきな声ですね、この子。」
「ニャオンてなくでしょう?近所の子供には『ニャオン』て名でよばれているんですよ。」
仲居さんはニコニコ話してくれた。
「センパイ、木綿ちゃんと記念撮影しましょうよ!」
「おお、そうだな。」
「撮りましょうか。」
仲居さんが言ってくれた。
お願いしてカメラを渡し、二人で木綿ちゃんを挟んで、記念撮影した。
宿の夕食は薄味で、暴食に疲れた胃に優しかった。
時間がくると宿の人は蚊帳をつってくれた。古いものだろうと思われたが、色は白っぽく、きれいな錦のふちどりや飾り紐と、葵の模様がついていた。
「…外門にセキュリティいれていますから、縁側あけたままでも大丈夫ですが、もし暑かったら戸を閉めて、クーラー使って下さい。」
と言われた。
枕許の灯りだけにすると、蚊帳のある景色は幻想的で、…蚊帳の中はまるで別世界のように見えた。薄明かりにうかびあがる花の柄がなんともいえず美しい。
「…布団が高そうに見えるな、この蚊帳。」
「…センパイ、雰囲気台なし。」
木綿ちゃんはとっとと自分のねぐらに帰ってしまったので、二人で蚊帳にもぐりこんだ。
いくらなんでも蚊帳をつって冷房なしは暑いだろう、と思っていたのだが、不思議と涼しかった。それは春季も気になっていたらしく、
「…暑くないですね。案外風がとおってるのかな。」
と、ぼんやり言っていた。
縁側の戸があいていたのでなんとなく憚られて、その日は温泉上がりのすべすべ肌を味わうのは遠慮した。