38 GE-ZAN
「ユウ、起きて。」
雨戸の閉ったうすぐらい部屋で、いつきはそっとユウを揺さぶった。
寝巻の浴衣をとおして、熱がでているのがわかった。
ユウはなかなか起きなかったが、やがて目を覚ました。
「…いつき…」
「帰ってきたよ。」
「…心配した…」
「…ごめんね、お祭り、結局なんにも手伝えなくて…足は?」
ユウは起き上がった。
「…うん、痛いよ。」
「熱が…。」
「…うん、まあ、なんとかなるさ…いつもなんとかなるもの…」
ユウそういって目をこすった。
「いつき、ごめんね…あんたのことあんなに責めて…ばちがあたったよ…。」
「…別に、いいよ、そんなこと…」
いつきはユウの頭を、菊がときどき自分にしてくれるようにくしゃくしゃと撫でた。
「ね、ユウ、…向う側の世界のことは、だいたいカタがついた。安心してね。もう大丈夫だよ。」
「…そうかい。ありがとう。…力になれなくてごめんね。ここ一番のときに、姫に見捨てられて…入り口も閉じて…」
「…姫には姫の事情があるんだよ、あんたのせいじゃない。」
ユウは首を垂れた。
「…あたし、大きなこと言って、結局なんにも、あんたの力になれなかったね…。」
いつきはユウの熱であつい肩をたたいた。
「そんなことないさ! あんたがここに誘ってくれて、すごく感謝してるんだよ! それになにもかもうまくいったんだ、最後に笑うやつが、一番よく笑うんだ。あんたも笑えばいいよ!」
ユウは少し無理をしたような笑いを浮かべた。
「…不思議ね、いつき。びしょ濡れのくせに、お日さまのにおいがするよ。それに、…なんだろう、このにおいは。」
いつきはぱーっと笑った。
「これは海のにおいだよ。あたしたち、海に行ったんだ! ユウも一緒なら楽しかったのにね。」
ユウは苦笑した。
「…海、か。」
「でもね、また新学期がはじまったら会えるでしょう? 学校で。」
ユウは力なくうなづいた。
「…あえるかもしれないね。」
「そうしたら今度はユウも一緒に遊べるじゃない?」
ユウは呆れて言った。
「なんだい、遊びにいったのかい、あんたは。」
「あはは。」
いつきが笑うと、ユウもつられて笑った。
「…陽介とはるきちゃんがね、よろしくって。学校で会おうねって。」
「…帰ったの?」
いつきはうなづいた。
「…そっか、帰ったのね。」
ユウはふと目をそらした。
そして言った。
「いつき、昔ね、…うちに、ようちゃんて子がいたことがあるの。前に話したよね。」
「うん、聞いたよ…」
いつきが陽介のことを説明しようとするのを、ユウは遮った。
「ごめんね、少し嘘ついた。…そのころから、あたしの中にはずっと奥の院の扉があったの。」
いつきは口をつぐんだ。
「…姫はね…子供が来るといつも、じーっと見てるの…男の子かな、女の子かなって…。ようちゃんはとても可愛い子だったの。人間嫌いでとおってたうちの静が骨抜きにされちゃったくらいのかわいい子だった。…姫はみてたの、ずーっと…。だって姫はね…」
いつきは突然、このとき背筋が寒くなるのを感じた。
背後からなにかが見ている気がした。
なにか、とてもたくさんの、たくさんなだけに、大きな気配が…。
「姫は、いろんな…山にたどりついた…いろんな人間の…いろんな…重たい部分が、いっぱい集まった…そういうものだから…重過ぎて…軽い部分と分離してしまったから…軽くなりたいの…楽になるから…」
この話はいけない、といつきは直観したが、熱にうかされたようなユウは話をやめなかった。
「…男の子のなにかが、効くらしいの。…だから、男の子をほしがるの…。」
「…」
「…ずーっとようちゃんをつけまわしてたの…。でも、ようちゃんは、一見女の子みたいだったの。だからわたしと藍ちゃんで、いつも、女の子の着物を着せていたの…だって、姫が…見てて…こわかったから…だから…。ようちゃんはちょっといやがってたの…でも、いやがるときは、ままごと道具にまざってた勺で、泣くまで叩いて言うことをきかせていたの…」
「…」
「…なのに静のやつ気がくるっちゃって…舞なんか教えて…舞のトランスに入ると、姫や…眷属も…すぐそばに見に来るのに…自分がやってるときはなんだか、いて当り前な感じがするの…だから、わすれちゃうんだよ…」
「…」
「なんども連れ戻したのに…静はほんとうに気が狂ったのよ…あんな人間みたいな静、あとにもさきにも見たことなかったもの…」
「…ユウ、」
「…静が寂しがっていたのは知ってるわ…だけど、水森の人間は、だれだって、ずっと、一人なのよ、だれにも理解されないし、いつもみんなから…にげられて…自分の親からも…避けられて…」
「…」
「…でもだからって、何も知らない子を…」
「…」
「…駄目だって何度も言ったのに…何度も…」
「…」
「…ついにけんかになって…そのときも姫は見ていたの…じっと…」
「…」
「…だからあたし、ようちゃんは女の子でなくちゃだめで、あたしたちと遊ぶんだって、舞をしちゃだめなんだって静に言ってやったの…そしたら静はものすごく怒ってあたしを殴ったの。でもあたしを殴ったら、やっと姫の気配に気がついて…慌ててようちゃんを山から下ろしたの。姫は、雑木林のはずれまで、車を追いかけていったよ。でもそこまでだった。
…あのとき静は姫がすぐ近くにいるのに…それまで気がつかなかったの…何もみえてなかったの…ようちゃんが…あんまりかわいくて…夢中になってたの…それに静は、多分、ようちゃんのこと、ほんとに女の子だと思ってたの…静が勘違いしていたから、姫もだまされてたの…静の勘違いがようちゃんを守ってたの…」
「…」
「…静はそのときやっと気がついたの、ようちゃんは女の子でいなくちゃだめなんだってことの意味に…つまり…」
「…ユウ、」
いつきはユウの手を握った。
「…だからずっと、ユウは…ようちゃんは女の子だって、そう声にだし続けて、それを呪文にして…陽介を守ってくれたのね…?」
「あたし…」
「…ずーっと、静さんがなくなっても、ずーっと…。陽介がもう子供じゃなくなっても…。陽介のことが大嫌いでも…。」
「…だって…だって静があんなに…幸せそうなの、みたことなかったんだもの…あたしが…あたしがようちゃんを守らなくちゃって…だって、直人叔父や慎二さんは、…姫がこわいから、見ないようにしているんだもん…姫のこと…なるべく、目をそらして…ぎりぎりまできづかないふりして…おばあも…だから…」
ユウは泣き出した。
「…ユウ、ありがとう。」
「…でも、もうそれもダメになった…」
「ユウのせいでばれたんじゃないよ。」
「…あたしが静の衣装を…だってもうあれしかないし…連中が不機嫌だっていうし…もう、あれしかなくて…」
「いずれにしろもう誤魔化し切れなかったんだって。陽介はもう子どもじゃないもん、でも、だから逆に、もう大丈夫だよ。ユウのおかげで、陽介は助かってたんだね。ありがとう。もう絶対にユウの前で陽介威張らせないから。よくいっとくからね。」
「…うん…。」
いつきはユウをそっと寝かせてやった。
「…ユウ、この夏は、ありがとう。…おばあちゃんに挨拶して、あたしもいくよ。雨が止まないのは、翠さんがあたしに怒ってるせいだから…。」
「…あんたは悪くないよ。…時期だっただけ。…浄化の…。」
「いやあ、どっかなーー??…あのね、ユウ、…一つだけ。」
「…?」
「…慎二さんに伝えて。…えっと、陽介の話だと…」と、いつきは微妙に嘘をついた。「…奥の院に、変な、木がはえちゃったんだって。…それのことなんだけど、一度駆除したほうがいいって、伝えて。」
ユウはうなづき、ぼんやりした目になって、すぐ眠りに落ちた。
+++
おばあちゃんは、奥の間にいた。
あれほどいた氏子衆も、今は大半が帰り、残っているのは、顔見知りのおばさんたちばかりになっている。
いつきが部屋に入ったとき、おばさん達とおばあちゃんは、楽しそうに海の話をしていた。
いつきがつんつんと肩をつくと、おばあちゃんは席をはずし、いつきと二人、廊下に出た。
「…おお、いつき、いい色になったな。」
おばちゃんはそういって、いつきの前髪をふわふわとさわった。
「ほんと?よかった。来たかいがあったね。」
いつきはそう答えながら、なんとなく、おばあちゃんは全部しってるんだなあ、という気がした。
「…田中センセイのこと、ありがとお。…すっかりすがすがしくなったよ。あんな汚いのに神社にいすわられては、かなわんからのう。布団はよごれるし。」
「アハハ、なんかね、すごく気持ちのいいところにみんなで流れ着いて…そこでおしゃべりをしていたんだ…そうしたら、みんなすがすがしくなっちゃったの。」
「…海のそらであろ、今おかみさんたちとその話をしとった。」
「うみのそら?」
「この山にあって、このやまでないところ。いつもはれておってなあ、かもめがおってなあ。川をくだっていくとあるという。」
「…へえ。」
「そこへいくとな、…海に沈めば呪いとなり、空気を吸えば祝いとなる、といわれておる。…田中センセみて本当とわかった。わしも長生きしておるがのう。行った者を初めて見たよ。」
「…うん、そこへいった。…でも、きれいな水だったよ。」
「…そうか。」
いつきは笑ってうなづいた。
「おまえもずいぶん体がしっかりとして、浄められて戻って来た。」
「そう?」
「自分のかみさんには、会えたか?」
いつきは肩を竦めた。
「わっかんない。でもお祈りは上手になったよ。シュウが訓練してくれた。すっごい実践だったから、あっというまに上達したよ。」
「シュウか…。あいつも、静と同じで、昔から半分どっかいっとるやつであったよ。少しは大人になったかのう。」
「なったんじゃないかな。頼りになったよ。」
「そうかそうか。」
おばあちゃんはにっこりした。
そして言った。
「いつき、頼みがある。」
「なあに、おばあちゃん。」
「…山を下りてくれんか。」
やっぱり、といつきは思った。
おばあちゃんは、知らなくても、わかってるんだなあ、と。
「…うん、そのつもり。急だけど、早めにおりなきゃと思って、挨拶にきたんだよ。いろいろありがとう。」
「あまり役に立てんで、すまなかったなあ。」
「そんなことないよ。…ここへよんでくれてありがとう。来てよかった。いろんな人に会えたし、嫌いな人とも、がんばってつきあっていると面白いこともあるってわかったし。…なんだか、ここが故里みたいな気がして、すごく去り難い気持ちだけど…このまま雨が続いたら、よくないと思うから。」
「…ユウもいっとったよ、いつきは不要な力をつかうのをやめたようだと。…それに雨はじきに止む。それは心配いらんよ。」
「…そう?」
「ああ。だが、翠さんに、『きりかえ』のきっかけをあげないといけない。お前が去ることを、それにしたいんだ。…しんぱいせんで大丈夫。この嵐で山は随分浄化された。翠さんも気がおさまれば、またお前を歓迎してくれるよ。あの方は…そうさな、お前が吸って来た、海のうえのそら、光に充ち、力溢れる清浄な大気、それがあの方の肉でない部分の源なのだから。…」
そうか、といつきは思った。
あの海が姫で、あのそらが翠さんだったのか、と。
あの明るくて、気持ちよくて、陽気になっちゃうあの空が、と。
「…おばあちゃん、翠さんによろしく。はるきのした誓いはみんなで果たした、と伝えてほしいの。…陽介がやばいから、はるきと陽介も、先に下山したわ。二人がおばあちゃんによろしく伝えてほしいって。」
おばあちゃんはうなづいた。
「あいわかりました。」
「…じゃ、あたし、山道を掃除しながらぼちぼち行くね。」
「すまんなあ。送ることもできん。」
「いいよ。…そういう巡り合わせだったら、また来るね。」
「そうだの。そういう巡り合わせだとよいな。お前がとおったあとは、光の粒がころがっておってのう、どんな掃除より、社がきれいになるよ。…またおいで。いつか。」
「ほんとにありがとう、おばあちゃん。お世話になりました。…あ、月島さんに、よろしく。宿題は…」いつきは少し考えてから、にっこりしていった。「バリエーション、て伝えて。多様性を、世界が要求しているから、って! こういうわたしが世界には必要だからだって!」
「おお、いいとも、つたえましょう。」
おばあちゃんもにっこりした。
「今度はあたしも宿題だしてやる、あの親父。」
「そうですの、ぜひ、そうしてやってください。…それから、はるきさんには、わたしが連絡したら、かならず来るように伝えて下さい。腕の件がありますから。」
「わかった。」
いつきは深々と御辞儀をして、おばあちゃんのもとを辞した。
「おばあちゃん」
入れ代わりに、田中がはいってきた。
洋服姿だ。
「なんですかの。」
「いつきちゃん山をおりるって?ついでにユウさんをドームまで運んでもらいましょうよ!」
「しかし沢はあふれとるし木はたおれとるというし、けが人は無理でしょう。」
「だーいじょーぶ。」
「そうですか?いつきや、よいかの?」
「あっ、そうね、じゃあ田中やんを借りて行くわ。」
「…慎二と車も付けましょう。どうせ荷物もありますから。」
話をする間、いつきは田中を見ていた。
…こじゃれたインテリだ。
汚い居候ではない。
「…いこうか。」
田中はいつきを見つめ返してにっこりした。
海へいこう、とでも言うような顔で。
+++
「…男子組は今どのあたりかな。」
「一の沢こえたかどうかのあたりでしょうね。」
慎二は後ろの席で眠ったユウを抱えて、額を濡れたタオルで押さえて冷やしてやっている。運転は田中だ。
「…一の沢か…先は長いね。」
「多分今頃ホラーよお。」
「…」
「…」
それは予測されたことではあった。
慎二と田中の「女子組でよかった」感が、空気となって車内にたちこめた。
道はあいかわらず川だったが、降りのほうは普通の雨になりつつあった。雷もおさまっている。
最初の倒木にたどりついた。
「じゃ、ちょっとよけてくるわ。二人とも、目つぶってー。」
いつきはバタンとドア音をたてて出て言った。
「…一人で大丈夫かな。」
慎二が言うと、田中は言った。
「まっ、ここは一つ、彼女の言うとおり、目をつぶっといてあげましょう。かいまみはNGですよ。」
「…そうですね。まあ、あの人も、カミサマの一種みたいなものですよね。」
「いやまったく。」
二人が大人しく目をつぶっていると、めりめりめりめりとすごい音がした。
それから間もなくいつきがバタンと戻った。
「はいっ、いいよー。」
二人が目をあけると、みちのわきから木の根が逆さにのぞいていた。ひっくりかえして道のわきの崖からおとしたらしい。
「…じゃ、いきましょう。」
田中も慎二もなにごともなかったふうをよそおい、車は再び発進した。
二本目の倒木も、まったく同様だった。
慎二は唸った。
「わたしとぼっちゃんの絶望感は一体なんだったんだろう…」
「…まあ、気にしない気にしない。」
少し行くと、目立たない小さな鳥居があった。
「あっ、田中やんとめて!」
田中が車をとめると、いつきは勝手におりた。
「これかあ…。」
慎二が窓をあけて言った。
「…どうですか?」
「うーん、痕跡もないね! どっからみても普通! でも、ありがとう、鳥居! それから、中の方!」
いつきは手を合わせ、御辞儀した。
慎二が言った。
「…まあ、ぼっちゃんに姫が仕掛けた罠もこの鳥居でしたけどね。」
「あそっか。でもまっ、細かいことはいいってことよ! 助かったのも事実さね!」
いつきの大雑把さが、二人には「おおらかさ」に見え、心地良かった。
間もなく、杉のトンネルに入った。なんとなく、雰囲気がかわった。
20分ほど走ると、道が水に浸かっているところがあった。それでもだいぶ水は引いている。
いつきはとめられた車の中からそれを見て少し考えたが、くるっと後ろを振り返り、「慎二さん目をつぶっててね。」と言った。
慎二が言われたとおりにすると、いつきは言った。
「じゃ、田中やん、GO!」
「はーい。」
田中はすっかり信頼しているようすで、言われるままに水に向って車を発進させた。
「それっ」
「…」
水音は一切しなかった。
「…慎二さん、もういいよ。」
慎二が目を開けると、車は普通に走っていた。浸水場所ははるか後ろになっていた。
「…」
「…」
「…いけそうですね。」
「…もっちろん。」
車のなかに、あの海のような和やかな雰囲気が満ちた。
ふもとまで、田中の運転ならば、あと10分ほどだ。
+++
月島を先頭に、陽介、はるき、そして最後にシュウが続く形で、4人は裏庭からハイキングロードに出た。
道はぬかるんで、あちこち水たまりができており、その水たまりにまだ雨粒がいくつも環を描いていた。
ただ、歩けないということもなかった。不思議と水がはけている。
「…直人さん、ちょっと。」
シュウがうしろから声をかけた。
月島は立ち止まった。
シュウは二人を追い越して、月島の近くへいった。
「なんだ。」
月島がたずねると、シュウはひそひそ言った。
「…一の沢から三の沢までの間を、なるべく一気に行ったほうがいい。あの間はとにかく危ないから。」
「…上流か。」
「…ちょっとズルしてもいいんじゃないの?緊急事態だし。」
「…というと…」
「…二の滝。」
「…入れるか? 水量がましてて無理なんじゃ。」
「…でもあそこは安全だし、早いよ。」
「…」月島はさほど長くは悩まなかった。「行こう。」
シュウがくるっとふりかえった。
「二人とも、祈って、はやくつきますようにって。」
「祈れないやつは経か真言でも唱えてろ。ひっぱるからついてこい。行くぞ。」
「心配ないよ。後ろからも押すからね。」
隊列がもとに戻り、月島は歩き出した。その歩みは次第に速くなり、あっというまに飛ぶような速さになった。
どうやってるんだろう、とはるきは驚愕した。はるきは家族で山越えをしたことがある。同じように隊列をつくって、長男を先頭に、父を最後にして歩いた。だが、小夜と夜思が脱落しかかり、小夜は仁王が、夜思は父が背負って歩いた。勿論、もっとずっとちいさいころの話だが…。
(ぜんぜん楽ではないな…でも不思議とこのおそろしい早さについていける…)
運動音痴の子が100Mを走るときより、遥かに早いスピードだった。確かに歩いているのに、むしろ…
(全速力ではしっているみたいだ…)
あっというまに一本目の橋についた。
月島はそこでふりかえった。
「ここからペースをあげるぞ。誰かとすれちがっても顔をあげるな。それから、声もかけるな。二の沢で道を折れる。ついてこいよ。」
まだペース上げるきか、とハルキは思い、少し心配して陽介をみたが、陽介は真剣な顔でうなづいている。
(いけるのかな、先輩…体力ついたな…)
一行はまた歩き出した。
いよいよ空をかけるがごときスピードとなった。
(そうか…ミドリさんが入ってたときもこのくらいのスピードだった…向う斜面までほんの一時間もかからなかった…)
(どうやって歩いてるんだろう??)
後ろからシュウに、つんとつつかれた。
はるきは気がついた。
(あっ…僕また分析してる…)
その後は無心に祈りながら歩くようにした。そうすると、苦しさが薄れて、非常に楽になった。
そのうち、はるきはおかしなことに気付いた。
足音が多いのだ。
うしろにはシュウしかいないはずなのに、さらにもう一人だれかが歩いているようだった。
振り返りたくてむずむずしたが、我慢した。ふりかえらないほうがいいのは明らかだった。
月島もきづいているらしく、ますますペースが上がった。だが、ペースをあげても当然、解決にならない。
気付いていないのは一番必死な陽介だけだ。
やがて、2つめの橋が見え始めた。
ナニカの直前を歩くシュウはどんな気持ちなんだろう、とはるきは思った。
怖いだろうか。
それとも、なにかもっとべつの…。
橋の手前で、月島は沢にそってまがった。水が増えていて、周囲にあふれだしているありさまだったが、月島は「ここだ」という確信をこめて足をふみだし、その水と草の下にはたしかに強固な道がついているようすだった。
陽介があとにつづいた。
はるきは、曲がるときに思わずシュウの後ろを確認しようとした。
だが、まるでそのタイミングをまっていたかのように、シュウがはるきの背をぽーんと押した。
「!」
はるきは沢のわきの道に飛び下り、足場を確認してから急いで振り返った。
シュウが素早く橋を渡っていくのが見えた。はるきの顔を見て、ちょっとニコっとした。アイドルみたいな爽やかな顔だった。
その後ろを、なにか女のようなものがまっすぐについていった。
呆然とするはるきの手を、ひきかえしてきた月島が強くつかんで引っぱった。はるきは抗議するように月島をみたが、月島は歯をくいしばり、しかりつけるように睨んで首を左右に振った。
…はるきは理解した。
シュウは、最初から囮になるつもりだったのだ。だからこの道を提案し、最後を歩いたのだ、と。
月島に突き飛ばされて、一番前に出された。
はるきはもう何も考えないようにつとめて、一心に沢のわきを登った。道は、よくみるとちゃんと見えたし、歩いてみると思ったより水をかぶっていなかった。
うしろから月島にどんどん追い立てられた。シュウの応援するような押しとは違い、脅しつけるような激しい追い立てだった。
獣のような勢いで、身を屈めて、3人は一気に沢のわきを登った。
どれくらいのぼっただろうか。時間的にはそれほどたってはいなかったが、さすがのはるきでも、膝ががくがくした。
気がつくと、滝の前にたっていた。
みごとな滝だった。
シュウのことがなければきっと随分感動していたことだろう。
「…ふたりとも、こっちだ。」
月島が口をひらいた。
はるきは言った。
「直人、シュウは…」
「…やつはもともとこっちに戻ってくる気はなかったんだろう。もうこっちの人間じゃない。…見ただろう、弟より若くなってた。」
「…」
「…いっちゃったんですか、シュウ。」
陽介が息をつきながら雨や汗をぬぐって言った。
「…あんな…どうなるんですか?」
「大丈夫、そのうち姫もまちがえたと気付くさ。…慎二の服がよかったな。本人がいなければ意外と騙せるもんだ。姫も翠さんも目の見え方が人間とは違う、ありていにいうと、悪い。なんか別のもので識別してるんだろう。」
陽介はかりたままの慎二のデニムとポロシャツを見た。
「…洗って送ります…。慎二さんにお礼を…。」
「…伝えとこう。」
月島はさらに二人に来るようにと手招きした。
とどろきながら落下してくる水のうしろの崖にはりつくようにして、流れの裏を見る。
「…これはきついな。だがいけなくもない。二人とも首をしっかりおちつけて、一発でくぐれ。折るなよ。手本を見せる。ついてこい。」
…首を折るなよ、などというのも、珍しい注意だ。武道場以外できいたことがない。
月島をみていると、ほんとうにふっと滝の中へ消えたように見えた。 はるきがあれっと思っているうちに、陽介は躊躇せずにまったく同じように消えた。はるきも慌てて、勢いよく岩壁につっこんだ。
意外とあかるい洞窟だった。
滝の裏側はこんなふうになっていたのだ。
はるきは何となく記憶があるような気もしたし、とても珍しいような気もした。
「よし、もっとこっちへ来なさい。
…あらかじめ言っておくが、ここはいつでも使えるというしろものじゃない。今日は本来なら祭の中日だから、多分使えるはずだ。
…それから、同乗者がいるかもしれない。別に挨拶したり、愛想ふらなくていいから、大人しく下をむいて黙って行く。いいな?」
二人はうなづいた。
月島は、岩壁のつきあたりをぐっと押した。
気がつくと3人で暗い道を歩いていた。月島が陽介の手をひき、陽介がはるきと手を繋いでいる。
ずっと前方に、ぼんやりとした背の低い灯りで、足下だけが照らされているみちが見えた。
月島に言われたとおり、足許だけをみて歩いた。
そうしているうちに、その灯りが生き物…かなにか…であることに気がついた。30~50センチほどの高さで、なめし革のような表面だ。それぞれ似通った同種の個体で…なんといえばいいのか、変な形をしている。閉じたかさを持ち手を下にして立てたようなシルエットだが、実際もっと複雑に生物的な立体で、見る角度のせいで、閉じた傘のシルエットのように見えるのだ。しかも、顔らしきものがついていて、どうやら、意思もある。
(…)
気持ち悪い、と思わないよう努力した。
思ったら腰が抜けそうだ。
むこうのほうにざわざわと集団がいた。何かの順番まちをしているようだ。どうも、先に神社を発っていた氏子さんたちの一部のように見える。みなぬれねずみだが、祭り用の晴れ着をきていた。
陽介の手が震えている。
怖いのだろう。
なぜか3人が近付くに連れ、ざわめきがひそひそ話にかわった。
気のせいではなく、みんなはるきの左手に注目している。
闇の中ではるきの左手が、燃えるような光を放っているのだった。
はるきは極力なにも考えないようにした。
順番待ちの最後に並び、しばらく待った。
だんだん待ちの行列は減っていった。
最後に3人の番がまわってきたとき、他には3人の客が残っているだけだった。
男が2人と女が1人。男の一人は、素足に草鞋をはいている。みたことのある足だ、とはるきは思ったが、足下だけでは、それ以上何もわからない。
エレベーターのような、ロープウェイのようなもののゴンドラがやってきて、扉がひらいた。
6人は黙って乗り込んだ。
扉が静かに閉る。
ゴンドラはゆっくりと闇の中を動きだし、無気味な道の灯りは遠ざかっていった。
同乗した3人は黙ったままだ。なんとなく、はるきの腕の光をさけているような、陽介の刀については訳知りであるような雰囲気を漂わせている。
しばらくたって、ゴンドラが止まった。
扉がゆっくりと開いた。
月島は3人にまず譲り、3人がおりると、陽介とはるきを連れて、降りた。
はるきと陽介の背中をすこし押すようにだきかかえて、3人を追い越した。
すると男の一人がいった。
「…ちゃん、またおいで。それまで、預けておくよ。」
陽介の緊張が伝わって来た。
女がほほほほほと笑った。
「今年の舞手はかわいい子だこと。ねえ、直人。つれて、こっちに早くいらっしゃい。ねえ。みんなずーっとまっているのよ、直人。」
月島はふりきるようにして、はるきと陽介を急がせた。
後ろを女の笑いがついてくる。
耐えられなくなったとき、突然、黙っていた最後の一人が進みでて、3人を力強くどん、と突き飛ばした。
バランスをくずして振り返ったはるきは、その人物の顔をみた。
他の二人より圧倒的に背が高く、はるきの目にはまるで典礼するユダヤ人のような姿に見えた。四角い小さな典礼帽をかぶり、典礼衣装をまとい、手にトーラーの巻き物を持っている。掘りの深い顔だちと、大きな両眼の強い印象は、アジアで見ると異質だった。ましてこんな場所では…。
(天狗…)
翠さんの残した知識が、それをそう呼ぶことを教えてくれた…。
…気がつくと、明るいところへ出ていた。
月島が、大きく息をついた。
はるきも陽介も、気がつくと月島にしがみついていた。
「…着いたな。」
われにかえって周囲を見回すと、…周囲は緑の田んぼがつづく田園地帯だった。
わずか数秒で、暑さのあまりだらだらと汗が流れ出した。
「ここは…」
「駐在が近い。知り合いだから車を借りよう。」
「駐在??」
「ほら、あそこがウィズリーの店だ。」
「あっ」
「あれっっ??」
月島はようやく二人から手を放した。
雨はまったく降っていない。降っていた気配すらなかった。
「…山はところどころに抜け道があってね。普段は使えないんだが…混み合う日は臨時であくんだ。…で、どこへおくる?どっか近いドームでいいかな。」
「…そうですね、列車がとまるところなら、どこでも…。」
「じゃ、いこうか。…そうだ、勾玉をあずかろう。神社に返しておくよ。」
はるきと陽介は首にずっとかけていた大きな勾玉をはずし、月島に渡した。
3人は滝のような汗を拭いながら、やっとおちついて歩き出した。




