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Till you die.  作者: 一倉弓乃
37/41

36 KATANA

 田中は真っ暗な闇の中で、地べたに落ちた。

 左右どころか上下すら危ぶまれる、深い闇である。

 田中はしばらく放心して、そのまま地面によこたわっていた。

 濡れた着物が冷たく、重かった。

 じっとしていると、どこか遠くで、まだ雨がふり、雷鳴がとどろいているのが感じられた。

 ばかなことを感情にまかせて喚き散らした、と思った。

 けれども、着物の重さとは対照的に、気持ちはスッキリと軽かった。

 がまんして持っていた重荷を放り投げたような開放感だった。

 田中は起き上がった。

 濡れた重い着物を引きずるようにして、歩き出した。

 田中はここに慣れていた。

 姫もまさか、田中がこんなところを日常的にほっつき歩いているとは思っていなかったのだろう。姫は、「不在」だったのだし、そもそもここは誰かのテリトリーというわけでもない。強いて言うなら、田中のテリトリーといってもいいくらいだった。

 最初にこんな暗闇に落ちたのは、まだ静が生きているときだった。静が廊下のはしに見えたので、声をかけようとついて行ったら、迷いこんでしまったのだ。あとで静が偶然みつけてくれて、命からがら戻って来ることができた。静が言うには、落とし穴のようなところが数カ所あって、一人でぼんやりしていると時々まよいこんでしまうということだった。

 やがて静が亡くなって、初めて一人でおちた時は、田中も震え上がったものだ。

 けれどもそのときも、やみくもに歩いているうちに、いつのまにか回りが見え始めたのだった。

(…ほら、見えて来た。)

 田中は袂をさぐった。大丈夫、護符が一枚入っている。まるで死期をさとったかのように、死ぬ数日前に、静が田中のためにたくさん書いて残してくれたものだった。…つまり、田中があまりにもよく落ちるので。

(なんとかなるだろう。)

 周囲は森だった。

 田中は、森の中の獣道を辿っているのだった。

 そしてこの森も、雨だった。

(雨だ…。)

(初めてだな、ここが雨なんて…)

 しばらく歩くと、山の斜面に、見覚えのある屋敷が現れた。

(…提灯がついてる…)

 なかはばたばたと慌ただしい。

(ああそうか、姫が帰ってきたってことか…)

(まあ、それはそれでよかったんじゃないの。)

(臭いもきえたんだろ、多分…)

(ああ、着物、重いな…)

(脱ぎたいな…でも静さんの着物着てないと危ないし…)

(重い…気持ちに体がついてこない…)

 屋敷の前を通りすぎてしばらく行くと、滝の前に出た。

(滝だ…)

(なんか言ってたな、前は…)

(なんだっけ…)

 耳を済ましてみたが、話声のようなものはしなかった。

(…消えた…)

(呪いが消えた…)

(悲しみが…)

 消息を絶っている妻の名が、ふと頭に浮かんだ。

 …思い出しても、痛みがない。

(…過去になった…)

(…やっと…)

 田中は水に手を差し入れて、すくいあげた。

 きれいな水だった。田中はなんとなく、その水を、飲んだ。

 …みたとおりの、きれいで、うまい水だった。

 そのまま滝をはなれようとしたときだった。

(…?)

(…なんだ?)

 地鳴りのような音がした。

 …近付いてくるようだった。

 田中は身構えた。

 逃げても仕方がないことはここでの体験でいやというほどわかっている。固定された通路である怒りの池を発見してから越えるのにだって半年以上かかっているのだ。 

(…来るなら来いとしか…)

(イベントつづきだな、今回は…)

 田中が軽く目を閉じて呼吸を整えた次の瞬間だった。

「うわっ!!」

 さすがに体は逃げようとした。

 大量の泥水が、大量の木片を載せて、滝のうえから襲いかかってきたのだ。

(逃げても無駄だ、大丈夫、死なない!)

 そう自分に言い聞かせたときはもうその津波のような鉄砲水のような洪水にもみくちゃに呑込まれていた。

(なんなんだこりゃ)

(どうなってるんだ)

(どこの木なんだ)

 ぐるぐるぐるぐるまわって引きずりまわされる。からだを嫌というほどあちらこちらにぶつけた。

(痛い)

(息がしたい)

 勿論息などできない。

(水を吸ったら溺れる)

(どうなるんだ、溺れればいいのか)

(どうすればいいんだ)

(苦しい)

 田中は困難にあったときいつもそうするように、静の名を心で叫んだ。

(助けてください)

( 静さん!)

( 静さん!)

( 静さん!)

 どんどん息が苦しくなっていき、目の裏がチカチカと明滅しはじめた。肺は焼け付くようだ。またどこかにぶつかる。水、水、水。

( 静さん!)

 木片が石つぶてのように全身を切り刻む。

( 静さん…)

 気が遠くなってきた。

(あ…気が遠くなってきたぞ…よかった…もう苦しまなくてすむ…)

(死ぬのも多分こんな感じだな…)

 田中はなぜかほっとした。

 死のうと思って山中を歩き回っていた時、恐ろしくて、あきらめがつかなくて、苦しくて、死ねなかったというのに…今は…とくに何も怖くなかったし、なんの執着もなかった。

(なんでかな…)

(ああそうか…)

(僕は奇跡を見たんだ…)

(子供のころから一度でもいから見てみたかった本当の奇跡を…)

(だから…)

 そのとき、光の粒をばらまきながら暗闇を歩いて行く少女の後ろ姿が見えた気がした。

(…魔女子さん…)

 少女がふりむいた。

(×××…手をかしてくれ…)

 田中はそのとき、自分でも知らない別の名前でいつきを呼んだ。

 するといつきの目がぎらっと光って、その手が際限もなく伸び、あっというまに田中を掴んで引っぱった。

「ぐっ! げほげほげほ!!」

「ウィリアム!!」

「田中さん!!」

「田中やん!! 大丈夫?! しっかり!!」

「げほっ、げほっ、…」

 折り曲げて水を吐かそうとされるわ背中はめったやたらに叩かれるわ揺さぶられるわ呼ばれるわ、もみくちゃにされて、やっとはあはあと呼吸がもとに戻ると、最後にわあっと子供が抱き着いてくる感覚がおしよせた。

「田中さん! よかった! びっくりしましたよ、いつきさんがいきなり流れに手をつっこんで田中さんを引き上げるんだもの!」

 見ると、はるきだった。

(あー、このこ、なんかふわふわしてあったかいなあ…きもちいいぞお…いいなあ、愛し愛されて育つと、こうなるんだよなあ…)

「尾藤くん…」

「ウィリアム、大丈夫か。俺、わかる?芝浦だよ!」

 急に二枚目にそう言われたので、田中は少し呆然とした。

「…芝浦くん…?じゃ、探し物がみつかったんですか?」

「そうなんだ、見つかったんだよ!」

「やあ、意外と二枚目ですねえ、びっくりしました…」

「ははは、あんたもいつきちゃんとおなじこと言うんだな。」

 そう言われてふと見ると、いつきがきゅっと切れ上がった目をいっぱいに開いて、ニコニコしていた。いつきと山で初めて会ってから今までで、こんな笑顔を見たのは初めてだった。

「田中やん、あたしのこと呼んだでしょ。聞こえたんだよ。よかった、呼んでくれて。よんでくれなかったら気付かなかったよ。」

 いつきはその驚くべき奇跡を、またしてもあたりまえのことのようにそう言った。

 田中は呆れて笑った。

 なんと惜しみなく、溢れ出るような…。

「ああ…ありがとう、いつきちゃん。静さんの着物きてたら姫についてこられちゃって…逃げてるうちに、挙げ句、突き落とされちゃってね。…死ぬかと思った…。」

「やー、ごめんごめん、洪水になっちゃってさあ…」

 いつきはそう言ってばしばしと田中の肩を叩いた。

「あいたた…なに、どういうこと?」

 芝浦が肩を竦めた。

「もともとここにはない、力のある木が根を張り過ぎて、今回のことはその力が起こした歪みというのも大いにあるんだ。だからそれをある程度分断しておこうとしたわけ。」

「…あの木か。」

「そう、あの木。」

 はるきが言った。

「…いつきさんが、バーンとばらばらにしてぶはっと火をつけちゃって大火事になって…」

「ええっ?! そ…そんな大雑把な!!」

 いつきが口をとがらせて言った。

「…すぐやばいとおもったのよお?それで、水があったなーって思って、ひっぱったのよ。」

「そうしたら今度は洪水に…」

「ひっぱりすぎちった。」テヘ、といつきは舌を出した。

 …助けてくれたのも確かにいつきだったが、死にかけたのもどうやらいつきのせいだったらしい。テヘ、ときたもんだ。

 はるきが、田中の表情からすべてを読み取ったらしく、ぶっ、と噴き出して笑い始めた。

 田中も釣られて笑った。

 4人でげらげら笑い、すっかり気分がよくなった。

 気がつくと、あれほどびしょ濡れだった着物が乾いている。雨降りなのに、だ。

「…じゃあ、あとは、やるべきことは?」

 田中が訊ねると、3人は顔を見合わせた。

「できればこの洪水はとめたほうがいいと思うんだけど、まあ、無理かなーって、話してたところ。」

「じゃあ、あとは帰るだけだね?」

「そうなの! でもさ、シュウが…あ、シュウっていうのは芝浦君のことよ、シュウがね、出口がとじたみたいだっていうの。見つからないって。それで困ってたの。」

「ああ、そうなんだよ。」

 田中は言った。

「芝浦くん、弟を呼んで鍵あけるのに利用したでしょ。それがどうやら、弟さん、正気にもどっちゃったらしいよ。それで閉じたんだ。」

「…セイか。」シュウは額を押さえた。

「出口のことは心配いらないよ。僕、出方わかりますから。」

 おおっ、と3人は沸いた。

「さすが田中やん!」

「実は期待してたんだよ、ウィリアムが来てくれたら良いのになーって!」

「頼りになるなあ。」

 田中はちょっと照れた。こんなに必要とされたのは生まれて初めてだ。

「ねえ田中やん、今向こうはどうなってるの?」

 いつきが訊ねた。

「…さあねえ。向こうとこっちは時間感覚がちがうからね。下手すると浦島太郎だよ。」

「アッ、それ知ってる!! 相対性理論のやつでしょ?! 陽介に馬鹿にされながら習ったんだから! その民話!」

「…魔女子さん、日本人なら普通だれでもしってるんだよ?」

「だぁってあたし外人だもーん。」

「はーい、はーい、僕帰国子女でーす!」

「だあ!もう、尾藤くんも知らないの??」

「しってまーす。」

「裏切り者っ!! 」

「ギャハハハハ」

 …とにかく滅法陽気な4人だった。

「…まあそれはともかく、僕がこっちに入り込む直前は、童子舞いがおわって、突然の雷と土砂降り、ユウちゃんがひな壇からおっこちて、足折って…」

「えーっ!もうはじまってんの! 前夜祭、終わってるの?!」

「終わってるって言うか、中断ね。」

「ユウが足折ったって…じゃあ、舞いは? 」

 いつきが青くなって言った。

「…ピンチヒッターが立つらしいよ。」

 田中はことさらにとぼけて言った。

 いつきがポン、と手をうった。

「陽介ね?」

 はるきが愕然とした。

「えー!!」

「…あいつ、子供のころ、静さんに滅法かわいがられてた時間があったわけでしょ。人間関係全般不得意な静さんが子供にたいしてできることといえば…」

「…舞をおしえたりー、衣装きせつけてみたりー、…ってことか。」

「てこと。あいつ、できるのよ、ちょいと思い出しさえすれば。…でも大変だわ、早くかえんなきゃ…。」

 いつきは突然右往左往しはじめた。

「どしたの、急に…」

「あいつにそんな代打打たせたら、あとで一体何要求されるかわかんない…軍用ヘリ一台とか、戦車とか、要求されてもあたし無理だもん…!!」

「あんたらどういう友達なんですか…」

「メカマニアと軍人! …帰る! 田中やん! すぐかえる!!」

「…まあ待って。実は…向こうも大雨になっていて…しかも、あの山のなかで、なぜか流木でけがをしている人が…」

「洪水なの?」

「洪水までは いってないんですけどね…。」

「…マズイ。」

 シュウがうーんとうなった。

「洪水をとめなくちゃいけないね。多分、こっちのが、向うの接点から流れ出したんだろうな。」

「…洪水をとめるなんて、無理だよ。どうやって?」

「…無理でもやるんだ。」

 シュウはそう言った。

「3人とも、少し場所をうつそう。ここじゃ分が悪過ぎる。もっと上流へいこう。」

「…ついでにもう一ついっとこうかな。」

 歩きながら、田中は言った。

「なに。」

 いつきが顔を上げた。

「…久鹿くん、姫に狙われてる。…舞なんかやったら、ひっぱっていかれるぞ、多分。」

「…舞手が嘉納…?」

「それだ。」

 いつきがギャ-な顔になった。

「もう間に合わない?!」

 シュウがふりかえった。

「いつきちゃん、間に合わないとか、無理だとか、言うのやめなさい。」

「えっ。」

「間に合いますように、できますように、力をかしてくださいって言うんだ。わかったね。」

「う、うん。」

「大丈夫、たすけがあるよ! 頑張ろう! 間に合うよ、必ず、だ。洪水も止まる。君の力が一番大きいんだ。君が信じてうたがわなければ大丈夫だよ! 天が君の望みをかなえる! まず信じるんだ。」

「うん!」

 いつきはおおきくうなづいた。

「わたしは戦車一台くらい用意できる、わたしがだめでもラウールがきっと…」

「ちがうでしょーっ!!」

 げらげら笑ってはるきがツッコんだ。


+++

 シュウが3人を連れて行ったのは、流れがすこし細くなっている場所だった。

「ここならイメージしやすい。」

 4人は岸辺に陣取った。流れはゴウゴウと音を立てている。

「…まず、水をきれいにしよう。みんな目をつぶって、この泥水がすべてすきとおっているところを想像して。想像したら、流れる水を透明にしてください、と祈ってくれ。ウィリアムは大丈夫?」

「え、なにがですか。」

「祈る相手いる?…尾藤くんとさっきだいぶもめたんだけど。」

「いますよ。僕は。」

 あっさりと田中が言ったので、はるきは思わず、きいた。

「…田中さんて誰に祈るんですか?」

「ぼくはねえ、研究のフィールドワークのときは、イェイツに祈ってるよ。」

「イェイツ…?あの、アイルランドの、詩人ですか?」

 はるきは意外に思い、確認した。

「そう。僕のなまえは田中・ウィリアム・バトラー・孝太郎っていうの。ばぁさんがイェイツのファンでね。」

「へー…。」

 祈る相手としては変わり種だ。

 田中は察したのか、ニヤリとした。

「…山にいるときは必ず静さんに祈ってるよ。静さんが一番頼りになるでしょ。」

「ちがいない。」シュウはシビアな顔でうなづいた。「水守の連中はここでは圧倒的だ。」

 最後に田中はいつきに笑いかけた。

「でも今度から命が危ない時はいつきさんに祈ることにしたよ。」

「いいよ、また聞こえたら助けてあげる。聞こえるように祈ってよ?さっきのは完璧だったわ!」

「わかりました。」

 そのやりとりを聞いて、はるきはなるほど、と理解した。

(聞こえるように祈る、か…)

 いわれてみれば当り前だ。きこえなければ届かない。

「じゃ、祈ろう。」

 シュウが言うと、4人はそれぞれ目を閉じた。

 はるきは少し理解した。

(祈れるかどうかも、信頼関係の問題だな…)

(疑り深いと、お祈り一つまともにできないんだ…)

(たとえあやしい亡くなった神主でも、田中さんみたいに、無心の信頼をよせていれば、充分祈りの対象になるってわけだ…)

(…僕が選んだ対象は…「善なるもの」、か…)

(僕は…)

(許してない)

(愛してない)

(裁定し評価し…)

(断罪しているだけだ…なにもかも…) 

(相手を信じてないっていうのは、つまり自分を信じていないってことなんじゃ…)

(そうだ…僕には空白の時間が…神隠しの空白が…)

「…尾藤君、お祈りが下手になってきているよ。分析している暇があったら、願って。」

 シュウにいわれて、はるきはあわてて、気持ちを切り替えた。たしかに分析している。祈っていない。

 と、近くから、まるでなにか立ち上るような気配が発せられたのを感じて、はるきは思わず目をあけた。

 田中だった。田中から、なにかうすい靄のようなものがたちのぼっている。よく見ると、いつきはぼんやり光っていた。シュウは姿が薄くなっている。

(うわー…)

「尾藤くん。」

「あっ、はいっ、はい。」

 はるきはあわてて目を閉じた。

(そうか、あんな感じか…)

はるきは願った。流れる水を、澄んだ色にかえてくださいと…。

「よし、通じたぞ。」

 目をあけると、水が澄んでいた。木片もなくなっている。

「ほー…これは…すごい。こんなことができるとは…」

 田中は心から感心している。

 シュウが言った。

「…さて…あとは水量をどう減らすかだな…。」

「減らしてくださいと祈ってみる?」

「それしかないな。」

「いや、待って。」

 いつきが言った。

「…もし、向うの世界との接点から水がながれでているなら、そこからどんと出したほうが、水がへると思うわ。こっちでエネルギーがたかまっているんだもの、向うにエネルギーをながしたほうがいいじゃない。むこうの世界に元気が出るわ。お山はここんとこ不調だったんだし。」

「どんとながして洪水になったらどうする。」

「ならないようにながしましょう。」

「どうやって。水は向うだってぴちぴちに満水だぞ。」

「確かにしけっぽいからな、あの山は。」

「…じゃあ、霧にならない?霧にして、風でとばすの。」

「…まあ、水のままよりはいいか…?」

「もっと思いきって転換できませんかね。」

「たとえば?」

「…鉱物とか。」

「…イメージするのが困難だ。」

「…生き物は?鳥とか…」

「良い考えだが、下手なものおくりこむと生態系が崩れるぞ。」

「小さな魚はどう?川に流せるんじゃない?食料にもなるわさ。」

「だから生態系が…」

 いつきが決意したように言った。

「やっぱり水のまま流そうよ! あれだけふかふかの土だもの。まだ多分保水するよ。」

 決定した。

「…接点て、どこなんだろう。」

「境内なのは間違いないよ。境内にいた連中が怪我してたから。でもそれ以上は見当もつかない。」

「…とにかく、やろう! いいか、この流れが、むこうの見えなくなっているところで、神社の鳥居に流れ込んでると想像するんだ。」

 シュウのことばにはるきはうなづいた。いつきはもう目をつぶっている。

「そして、水がむこうにつきぬけることで、むこうに輝きが溢れるところを想像するんだ。」

 いつきがうんうん、とうなづいた。

「さあ、水を向うに届けてくださいと祈ろう。」

 4人は目を閉じた。


+++

「…衣装を急激に乾かすのは無理です。縮んだり、おかしくなっちゃいますよ。染みだって…ちゃんと抜かないと、ひどい泥染みですよ。」

 頼子はそれを聞いて、そうですか、というと、その手伝ってくれている奥さんに礼を言って帰した。

 そのあと考え込んだ。すると、ユウが言った。

「…静の衣装があるわ。」

「…ユウ!」

「緊急事態だもの、仕方ないわよ。なによ、退屈しのぎに一さし舞え、なんて、何様よ。…男装でいいわよ、男装で!」

「ユウ、でかい声だすな。足折って舞のできなくなったやつの言うことじゃない。」

「なによ、みんなかわいい子見て雨の退屈しのぎたいだけでしょ! 舞いなんか幼稚園のお遊技だと思ってるんだから!」

「静かにせい、ばかもんが!」

 ユウと、頼子のケンカを、月島が止めた。

「いや、待て、ユウちゃん、言いたいことはわかるし、事実そうなんだけど、…俺達は基本ヨソモノだから、こういうときは大人しくしてないと、何されるかわからん。頼むから良い子にしてくれ。」

「そうだ、月島さんのいうとおりだ、役に立たん神職は、追い出されるぞ。」

「もう…まっぴらよーっ!!」

 ユウは癇癪をおこして喚いたが、足が折れていたので走って行くことは出来なかった。布団の上できいきい泣いた。

 月島がげっそりして顔を背けた。

「…男装は妙案だ。…しかし…縁起が悪過ぎる。」

「…うむ…。…でもまあ、子供ではありませんからの…」

 頼子も唸った。迷っているのだ。

「…昼飯でもだしてみるか。」

「…おばあちゃん、もう御飯じゃごまかせないよ…」

「…酒ならどうじゃろ…」

「…」

「…だめか。」

「…刀探して来る。」

 月島は代わりに決断してそう言い、立ち上がって出ていった。

 頼子も仕方なく、部屋を出ていった。衣装を探しにいったのだ。

「…で、あんたはここで何してるのよ。」

 ユウは冷たく陽介にたずねた。陽介は、うっ、来たな、と思った。

「…なにって…よばれたから来ただけだが。」

「出てってよ!」

「…お前って…キレると小夜そっくりだな。」

 ユウがぴたりと泣き止んだ。

「あの女もきいきいきいきい泣きやがってよ、揃ってアホか?おまいらは。」

 ユウの額にビシッと血管が浮き上がった。

 陽介は心の中に耳センを用意した。

 そのあとユウは嵐のように荒れ狂い、およそ思い付く限りの罵詈雑言を陽介に浴びせかけた。陽介は、外の嵐にチューニングを合わせ、ユウの癇癪を黙って受け流し続けた。…ちなみに、陽介は母親違いの兄がよくこうなるし、多分気付かないだけで自分もたまになっていると思われるので、癇癪は病気の発作の一種と解釈している。嵐が通り過ぎれば、憑物がおちたように静かになるのも知っていた。

「…おい、廊下の向うまで聞こえて…」

 襖を開けながら止めようとした誰かの声も、罵声にかきけされた。 

 陽介がふりかえると、タケトだった。水泳パンツにパーカーという、いっそのこと天気にぴったりな格好だった。

「…リゾートですか。」

「いんにゃ、水球の。…きがえがきれてさ、車に、コレ、たまたまつんであった。」

二人はお互いの声を拾うために、耳に手を当てて会話した。

「…ユウちゃんは、どしたの。」

「…満水みたいだったから、ダイナマイト仕掛けて決壊させました。」

「…水門開けて放水すればいいだけなのに、なにもダイナマイトしかけなくても…」

 そのうち、疲れたらしいユウは、ぱたりと静かになった。

 そしてふらふらと布団に倒れこみ、そのまま眠った。

「…眠ったね。」

「…ふう。…出ましょうか。」

 陽介はタケトと一緒に部屋から出た。

「あーくらくらする。すげえ声だなまったく…耳もとで鈴ふられたみてえだ。」

「ああ、あの鈴だろ、舞の。あれってずっと耳もとで振ってると、トランス状態になるんだぜ。」

「あ、やっぱり。そうですよね。」

「ユウちゃんの声でもトランス誘発?」

「同じトランスならむしろ教会の鐘の下で正午を迎えたほうがましかも…。」

「…みんなは?」

「月島さんとおばあちゃんはじきに戻ってきますよ。あとの連中は不在。」

「どこいってんの?」

「さあ。コノヨならぬとこじゃないすかね。俺は体力ないから、おるすばん。」

 タケトは笑って聞き流した。 

「…音曲がいるってきいたから来たんだけど、装束どうしようね?乾いてないよ。もう楽器守るのに必死でさ。参った。」

「楽器、無事ですか。」

「おかげさまで。」

「よかった。不幸中の幸いですね。」

「うん。…あ、ねえ、あの猫は、どうしたの。…」

 タケトは遠慮がちにきいた。

 陽介は、タケトが猫と楽しそうに遊んでいたのを思い出した。

「…退屈ですか?」

「いや、そうじゃなくて、雷におびえてるんじゃないかと思って…。」

 陽介はけっしてタケトが大好きではなかったが、このときばかりは、なんて優しい人なんだろう、と思った。

「大丈夫みたいでしたよ。」

「そっか。ならいいけど。」

 タケトはそう言って鼻を掻いた。

 陽介はきいてみた。

「…氏子さんたち、雨のこと、縁起悪いって言ってるってききましたけど?」

 タケトはフーンと言った。

「まあね。まあ、あいつらはいつもあんなだから。」

「…前の神職って、ほんとは、追い出したの?」

 タケトはじろっと陽介を見た。

「…なんにでも首つっこむな。関係ないだろ。」

「…大雨がやまなくて?」

 陽介がさらにカマをかけると、タケトは言った。

「ひいじじどもの時代のことなんざしらねえよ。ドームができるできないでごたごたしてたんだろうし、俺はなにもきかされてないから、それ以上聞くな。」

 タケトは御親切にも、更にこう言った。

「田中さんにもきくなよ!」

 陽介は大人しいようすをよそおって、すみません、と言った。あとで田中にきけば多分わかるに違いない。だが、確認するまでもないように思えた。

 廊下の向こうから月島が戻ってきた。

「…部屋にいればいいのに。」

「ユウさんが眠ったので。」

「ああ。じゃあこっち。…おまえもだパンツ男。」

 月島はぞんざいに手を振ってタケトを招いた。タケトはムッとしたようすでついてきた。しかし、さすがに、刀を持った月島は怖かったようで、なにも言い返したりはしなかった。

 途中でおばあちゃんも合流した。

「あれま、タケトさん…セクシーな格好で。」

「上脱ぐともっとセクシーよ?」

「いや、そのままでいいですよ。…他にきるものは…」

「ないよ。」

「…なにかさがしましょう。浴衣くらいはあると思います。」

「…浴衣で音曲?」

「…ビキニパンツよりはよいでしょう。」

「ま、ね。…それは何の衣装?」

「舞の。男装用の。」

「…月島がやんの?ちょっと老け過ぎだよ。」

「いえ、ぼっちゃんです。」

「…ヤバイだろ。」

 タケトは急にヒソヒソ言った。

「…御承知です。」

 タケトはぱっと陽介のほうを振り返った。

「そこまでやることないぜ、一宿一飯じゃあねえけど、まあ、そんなところなんだから…」

 陽介はこたえた。

「…困ってるんでしょ、手伝いますよ。」

「ばっか、地元のやつらは怖がってだれもやらないんだぜ?!」

「大丈夫でしょ、雨の間の余興みたいなものだって、ユウさん言ってたし。」

「余興で死んだらうかばれねーぞ。」

「ハハハ、そんときは静さんにあえるんじゃないんですかね?」

「あんなやつに会ってどうすんだよ。」

 陽介はチラっとタケトを見て、笑顔とは言い難い形に口を曲げた。

「…俺の実の父親は忙しいひとだったから、俺はいろんな男を親父代わりにしてきたんだけど…」陽介はそういうと、袂の勾玉を握った。「…ここのとーさんは、ひときわ印象的だったらしいね。男に冷たいうちのおふくろが、なんだかんだで結局思い出したくらいだから。」

「…」タケトは警戒した様子で黙った。

「ところが俺はね…顔がさ、おもいだせねーんだよなー。悲しいことに。」

「…二人とも、部屋に入れ。」

 月島が遮って言ったので、陽介とタケトは部屋に入った。陽介は振り向いて、タケトに「冗談ですよ」と言ってやった。背中を押して促した月島の手が、妙に硬く感じられた。

「ぼっちゃん、こちらへ。着付けます。」

 頼子が招いた。

「…舞の所作はほとんど同じです。刃の返し方だけ、月島さんに、今ならってください。…月島さん、着替えている間にやってみせてあげてください。」

「…おばあちゃん、」

「何ですか。」

「…静が、これをよこしたんです。」

 そう言われて、頼子は手をとめて、月島のもっている刀をよくよく見た。

「…はて、たしかに、見覚えのない柄で…」

 …おばあちゃんはとぼけているが、月島の言葉の無気味な意味に、タケトと陽介は気付いていた。

 (…寄越したって、どう言う意味だ。)

「…中は。」

 おばあちゃんがさらにとぼけて言うと、月島は抜いてみせた。

 タケトはぞっとしたように身を引いた。

 刃からなにかがざわっとたちのぼったような感じがした。

「…真剣じゃないか…。」  

 タケトがぼそぼそ言った。

 しかし…真剣か真剣でないかの問題ではない。

 ぞっとするか、しないかの問題だ。

「…シロウトさんにいきなり持たすのは、危ないんじゃないかな…」

 タケトはさらにぼそぼそ言った。

「…それは問題ない。ようちゃんは居合をやってて、刀の扱いは知っている。…だが、こんな刀、ここにあったか?…鞘は見たことがある気がするが…鞘と中味が、どうも合ってない。座りが悪い。」

「…ちょっと、坂下のじいさん呼んでくる。うちじゃわからんから。」

 あきらかに、タケトは逃げた。さっさと部屋から出ていった。

「…まあ、みずもりの家宝といったものではないですなあ。」

 おばあちゃんはそう言うと、また陽介に衣装を付け始めた。

 月島は刀を鞘に収めた。

「…どうします。タケミツもどっかにあると思いますが。」

「…静がもってきたなら、何かわけがあるのでしょう。使ってあげましょう。あの子は、ぼっちゃんにけっして悪いようにはしないはずです。」

 月島はうなづいた。

「わかりました。」

「…ぼっちゃん。」

 頼子に呼ばれて、陽介は頼子を見た。

 皺の中から、まなざしがまっすぐに陽介を見据えていた。

「…ぼっちゃんのことは、静がお守りいたします。ですから…」

「…大丈夫です。」

 陽介は言った。

 なぜかわからないが、陽介は、自分が大丈夫だという確信があったのだ。根拠のない確信だった。

 月島が、刀の返し方などをひととおりみせてくれた。

「…この際、見物人と君自身に怪我がなければ、柱や御簾には目をつぶろう。でもできれば衣装もきらないでほしい、高いから…」

「いや、大丈夫です、この長さであれば…。しかし…スゴイ迫力の刀ですね。高いですよ、これも。」

 陽介は着付けが終わると、その刀を丁寧に月島から受け取った。

(うわ…なんだこれ…)

 ざわっと何かが背筋をのぼって、頭上に抜けていった。

(…髪が…なんか逆さに浮かびあがろうとしてるぞ…)

 柄を開けて銘が見てみたかった。樋口のところで刀は何本もみているが、こんなに迫力のあるものは初めてだ。

 刀を持って一通り舞いのチェックをしてもらった。ほぼ、問題なかった。

 陽介は、ひとまず鞘に刀をおさめようとした。

「…ん?…ほんとだ、なんかちょっと噛み合ってない…。」

「入るは入るんだけどね。抜くとき、気をつけてくれ。」

「はい。」

 そこへ坂下老人がやってきた。

「…頼子ちゃん、なんだか妙な刀が出てきたとか、タケトにきいたんだけど。」

「あ、はい、こちらになります。」

 坂下老人は恰幅のよい元気そうな老人で、慎二と目がよく似ていた。

「…この鞘は見たことあるよ。塗りがきれいだからおぼえとる。ほら、一度居合いの先生が滞在したことがあったろう、なあ、月島くんの友達の。」

「樋口ですか。」

「そうそう、あの雑巾がけの芸術的に上手い男な。あのときに、静が持ち出しているのをみたよ。」

「…そう…ですね、確かに、あのとき見ました。…その前は、ごらんになられたことは…」

「うーむ…どうだったかねえ…」 

 坂下老人もたいして記憶に残ってないようであった。

「…ようちゃん、抜いて。」

 月島が言った。陽介は一礼し、「失礼します」といってから、刀を抜いた。

 坂下老人も唸った。

「こ…これは…なんと…。」

「…御記憶には?」

「な…ない。…きみ、収めて、すぐに収めて。」

 陽介が刀をさやに入れると、坂下老人はため息をついた。

「なんと…わしのような者でも一目でただならぬとわかる、かような名刀が…ここにあったとは…。」

「…」

「…」

「…そんなによいものなら、財政危機のときに、うってしまえばよかったですなあ…」

 おばあちゃんが呑気に言うので、男衆は全員慌てた。

「何を言う!こんなもの、手に入れようとして手に入るものではないぞ頼子ちゃん!」

「さようですか。」

 ケロッとしている。

「…どこから持ってきたんだ、月島。」

「………えー、静の遺品にまざっておりました。」

 …かなり嘘臭かったため、逆に坂下は何事かさとったらしい。多分坂下老人の脳裏には、慌てて逃げてきたタケトの姿も蘇っていたことだろう。

「…まあいい。」

 …うやむやとなった。

 そして坂下老人もそそくさと逃げた。

 陽介はだんだんここの神社の本当の恐ろしさがわかりつつあった。

 地元の古い「身内」でも、ここの怪事に慣れるということはないし、かかわり合いになりたいとも思っていないのだ。

 静は…今や、その怪奇の代名詞のようになってしまっているのだ。

(…なんか田中さんの偉大さがわかってきたぞ…)

 水守の一族は、その能力を買われて、この怪奇の山の番人として、村から雇われている、というのが、多分実情なのだ。月島は、さらにその下請けということになる。

「…ではぼっちゃん、少し向こうを準備してまいります。月島さんとここにいてください。用意ができたら迎えにまいりますので。」

 おばあちゃんは立ち上がって、出ていった。

 陽介と月島は向かい合って座り、別に何を話すということもなく、黙っていた。

 外は相変わらず土砂降りだった。

 断続的に雷も続いている。

 激しい雨が雨戸を叩き、薄暗い部屋の電灯は、時折、瞬いた。

(雨戸こんだけ閉ってると、昼なんだか夜なんだか…)

「…やっぱり男装のほうがいいね。」

 月島が突然言った。

 陽介は顔を上げて、月島に笑いかけた。

「そうですね。動きやすいです。」

「でも重さはたいしてかわらないだろ。」

「カツラがないから、軽いですよ。」

「ああ、そうか。」

 電灯が瞬いた。

「…ここの電気、自家発電ですよね。」

「水素電池だけど、水車も回してるよ。」

「水車ですか?! 発電できるんですか?」

「できるできる。1/3くらいは水車だよ。」  

「…この雨で壊れなきゃいいけど…。」

「…うーん、そうだね。悪いこといわないでくれ。ホントになると困るから。」

「…すみません。」

 月島は電灯を見上げた。

「…いや、こういうとこにいるとね、信心深い…いや、ちがうな、迷信深くなったりするんだよ…。わたしもドームにいるときは、言いたい放題だがな…。山にいるとどうも、自分がちっぽけな気がするんだよ。」

「…うーん、同じかどうかわからないけど、俺も、人間てか弱いなあ、と思いますよ…山にいると…。」

「そうだろ。雨一つ降っただけで、もうこのザマだからな。なすすべもない。」

「そうですね…」

 二人はまた黙り込んだ。

 轟音が地面をゆらして、電灯をしばしばと明滅させた。

 二人とも口にはしなかったが、雨がひどくなってきているような気がしていた。

「ようちゃん、あのね…」

 月島が言った。

 陽介が顔を上げると、月島は少し考えてから、言った。

「…静の写真、あるよ。あとで見る?」

 陽介は少し考えて、うなづいた。

「…じゃあ、終わったらね。」

 月島が言った。

 陽介はもう一度うなづいた。

 それから間もなく、襖の外でどこかの奥さんの声がした。

「…お願いします。」

 今度は月島が陽介を見てうなづいた。

 陽介は刀を持って立ち上がった。

 迎えにきてくれた奥さんは部屋の電気を消し、二人を案内した。

 廊下には、点々と蝋燭が並べられている。

 だんだんどこを歩いているのかわからなくなっていく、長い薄暗い廊下。

 奥さんはどこかの襖の前で座り、声をかけてから、そこを開けた。

 おばあちゃんが鈴を持って立っていた。

「…ではぼっちゃん、よろしくおねがいいたします。」

 深々頭を下げられて、陽介も会釈した。

 顔を上げたすぐよこに鈴があり、あっと思う間すらなく、鈴の轟音が陽介の耳を襲った。


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